Vol.1
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松本 三加

HUMAN HISTORY

人間そのものに接するときの刺激こそ「在野の弁護士」の醍醐味

公設事務所「相馬ひまわり基金法律事務所」
弁護士

松本 三加

紋別の公設事務所が出発点

「人が好き」で決めた公設事務所への赴任

「ひまわり基金法律事務所」。日弁連が弁護士過疎対策の活動資金として設置した基金を元にして、運営されている公設事務所※1だ。いわゆる弁護士ゼロワン地域に設立された「ひまわり基金法律事務所」は、2001年当初、全国でわずか3カ所(現在、その数は全国88カ所におよぶ)※2。

2001年4月、このうちの1つである、北海道・紋別ひまわり基金法律事務所に所長として派遣されたのが、松本三加弁護士。公設事務所の設立を提唱した桜井光政弁護士が主宰する桜丘法律事務所(東京都)に就職してわずか2年目、赴任には自ら手を挙げた。

「人が好きで、人と接することで人の役に立ちたいと思い、法律家になりました。紋別への赴任を希望したのは、法曹人としてそれを実現できる働き方が弁護士過疎地での仕事だと感じたからです。紋別に行く前は、不安はさまざまありました。仕事があるかもわからないわけですし。しかし地元メディアで取り上げられたこともあってか、開所直後から電話や訪問はどっさりありました。一般民事事件から、過度な住宅ローンに悩む壮年夫婦の債務整理事件や40代の男性によるストーカー行為などの刑事事件まで。気付けば任期2年間で、相談数は約600件。1カ月平均25件以上ですから、これは尋常じゃない。それだけ市民のニーズは高かったのでしょう。弁護士という社会的インフラがなかった紋別では、『議員さんにお願い』『市役所にお願い』が、当たり前。問題が起こればコトを大きくしないよう、当事者間の話し合いで済ませたケースや、泣き寝入りというケースも多かったのではないでしょうか。何しろ『司法による解決』は、ごっそり抜け落ちていた地域でした」

「選べない人たち」を裏切りたくない

縁もゆかりもない土地、紋別。北海道北東部、オホーツク海に面した漁業が盛んな町。しかし人口は3万人を割り込み、世代でいえば20代より50代以降の人口が圧倒的に多いという、典型的な「過疎の町」だ。松本氏は「弁護士過疎の実態」を、そこで目の当たりにすることとなる。任期中に手掛けた印象的な事件の1つが、町立病院での医療事故だ。

「内容は、ごく単純な医師の手術ミス。ある男性患者が鼠径(そけい)ヘルニアを患って手術をした。足の付け根を縫合する際、周辺の臓器を一緒に縫われてしまった。そのため男性は精神的にまいり、歩行もおかしくなってしまった。素人にもわかる医療事故ですから、難しい論点もなく、つまるところはお金に行き着くしかない。結果は、数百万円で和解した事件でした。ただ、証拠保全のために病院に弁護士が立ち入るのは病院史上初で、皆びっくり仰天。しかも町立病院なので、賠償金は税金から出すことになり……。たった1人のために税金から賠償金を出すなんてと、議会は紛糾。新聞報道も、ありました。この事態に『やっぱり』という人もいれば、『この町に来てくれる医者がいなくなる』という人もいて。ですから男性が相談に来るには、相当の覚悟や家族の協力があったでしょう。親戚からは『弁護士に相談なんかしたら、自分たちが病院にかかれなくなる』と反対されたかもしれません。弁護士の介入にいろんな意見もあったでしょうが、とはいえ『何もなかった所に一石を投じられたかも』と思えた事件ではあります」

小さな町では、「弁護士に話した」と言うだけで解決してしまう事件もある。一方で弁護士に相談したために、相談した本人や家族が住み難くなるという場合も確かにあるだろう。それが、良くも悪くも住民同士の結びつきや関係が深い、過疎地の実態だ。

「でもね、私は『許せないものは許せない』という性分。その事件も、普通ならばあり得ないミスですから。なぜそうなったかといえば、行き着くのは『僻地医療』という問題。過疎地であるがゆえに、ウン千万という予算を組み、周辺の医大に頼み込んで医師に来てもらう。もちろん志を高く持って赴任する優秀な医師もいます。しかし、来てもらう医師も通う病院も町民は選べない。これは、公設事務所の弁護士でも同じだなと。私は、過疎地ゆえに『選べない人たち』を、裏切ることだけはしたくない。許せないと感じた事件は、自分なりにやれるだけのことをやる。そう思っています」

「不器用な女子大生」が選んだ弁護士の道

資格があれば何か社会の役に立てる

松本 三加

そもそも松本氏が弁護士の道に進むきっかけとなったのは、高校時代、学校へ講演に来た卒業生(弁護士)の話を聞いたこと。もう、その先生のお名前も詳しい講演内容も覚えていないが、「仕事としてなんか楽しそう」という印象が残った。そこで「将来、何らか仕事に結びつく学部」という視点と、「自宅から近い」という理由もあって、一橋大学法学部を選んだ。2年生までは松本氏いわく「遊びほうけた」という。

「司法試験に本格的に着手したのは、3年生から。試験に落ちるたび『自分は必要とされていないのかな』と悩んだことも。でも、自分に対する期待感で受け続けた。どんなに辛くても、合格が目標ではなく、仕事をするための最低条件なのだから通らなくちゃと。試験勉強しながら就職活動もしましたが、企業はすべてお見通し。ウソをつくのも立ち回るのも苦手な私は、人事に聞かれれば『はい、司法試験受けてます』と。結局、就職活動をきっぱり諦めたその年に、合格できたのはラッキーでした」

当時、かたくなに司法試験を受け続ける松本氏をご両親は案じていたようだ。

「弁護士になることに、両親は元々不賛成。人様のトラブルに関与するのはカッコいい仕事じゃない、精神的負担も大きい、おまけに自営業でしょうと。父は普通の会社員、母は普通の主婦。今思うと申し訳なく思いますが、『父のように組織の歯車にはなりたくない』、『母のように子供が生きがいの人生は送りたくない』と生意気ばかり言いました。両親はことあるごとに弁護士だけがベストの選択ではないと、暗に諭してくれたのですが。しかし私は不器用で、すんなりと妥協ができない。弁護士になってからの自分を振り返って特にそう思います」

「在野の弁護士」として生きたい

司法試験に合格した翌1998年、司法研究所に入所。弁護・検察・裁判修習を通じ、中でも、自分は弁護士、と再認識した。

「検事は国という組織の代表として罪人と疑われる人を追及する『官僚』。裁判官も日本の場合は『組織の人』。異論はあると思いますが、検事も裁判官も『組織の一員』というのが私のイメージ。特に裁判官のように終日机に座りっぱなし、生の事実と接しないというのは、私にはあり得ない。『当事者(あるいは依頼者)と接してナンボ』、社会問題に直に触れて関わる、そんな視点から法律家になりたいと思ったので。そもそも裁判官は、向こうがおよびでない(笑)。検事のヒキはあったものの、自分の一時の正義感を権力に照らしちゃいそうで怖い。すると選択肢は弁護士。弁護士は私にとっては『在野』。そこが、自分には合っていると思いました」

社会全体を、根本から変えたいという思いはカケラもない。ならば政治家になる方がいい、というのが松本氏の意見。日々の仕事を通じて『社会と関わっているという実感を持っていたい』というのが松本氏の願いだ。

「関わり続けることで、何らか人の助けになれたらそれでいい、というか。社会と大々的に関わるというのではなく、一人ひとりが楽しい、幸せ、と思えるような部分と関わっていたい。ただそれだけなんです」

松本 三加

出産やら育児をしながら仕事をするのは、なかなか大変。でも家族と周囲に助けられています

留学と再びの公設事務所赴任

留学して得た効用

司法修習を終えた松本氏は、桜丘法律事務所の門を叩いた。そこから松本氏の「ひまわり弁護士」は始まった。紋別の公設事務所へ所長として赴任し、任期を終えて東京の桜丘法律事務所へ戻り、2006年にはカリフォルニア大学バークレー校へ客員研究員として留学※3。松本氏の研究テーマは「弁護士過疎」。

「弁護士で、同校ロースクールの教員の方に『ひまわり』について説明したら、公的資金ではなく弁護士がお金を出し合い、弁護士過疎解消に着手し出したなんて画期的だと感嘆されました。弁護士過疎は解消すべきと願う現場の人がたくさんいて、そこでの議論は刺激がありました。イギリスの方も、ロンドンに弁護士が集中するという日本と似た環境で、興味を持って聞いてくれました。台湾や韓国でも、同じ問題を抱えているかも。弁護士過疎は、世界共通の問題かもしれませんね。留学を通じて、会ってみたい人・行ってみたい国・集めてみたい文献が、たくさんできました。この数年は、子育てなどで無理でしょうが、10年、20年と長いスパンでの楽しみができたようなもの。これは、もはや趣味ですね(笑)」

いわば「県境なき弁護士団」

アメリカから帰国した2007年9月、松本氏はもう次の「ひまわり基金法律事務所」に赴任した。今度は福島県・相馬市。紋別に赴任したときとは違い、今度は夫も子供も一緒だ。

「留学で学んだことを活かして、もう一カ所行ってみたいと思ったんです。東京より公設事務所の方が『現場』って感じがして、血が騒ぐ(笑)。『きみが必要だ』と言われると行ってしまいたい!そんな気持ちもありまして。小さい頃、青年海外協力隊や僻地医療に従事する医師、そうした働き方に憧れました。今は、『国境なき医師団』ならぬ、『県境なき弁護士団』ですね」

「相馬ひまわり基金法律事務所」では、夫の渡辺淑彦氏が所長を勤める。渡辺氏が司法試験に合格したのは1999年だから、松本氏がかつて紋別に赴任したときは、まだ司法修習生だったことになる。そして2人が結婚したのは2000年。松本氏は紋別、渡辺氏は東京と、新婚なのにいきなり離れ離れの生活だった。離れてはいても、松本氏は書類作成などの実務を「勉強になるから」と、さんざん渡辺氏に手伝ってもらった。だから松本氏にとっては、渡辺氏は紋別での最大の功労者。しかもその足跡をつぶさに見てきた渡辺氏が、いつも傍にいてくれることは心強いだろう。一昨年誕生した第一子の子育てと、今は第二子出産予定で、松本氏自身の弁護士活動は、まだこれからが本番というところ。

「紋別時代は地域コミュニティと、ある程度距離を持って接していました。異分子である自分がどう地域と接していくべきか、その答えは未だ見つかりませんし、ここ相馬で再び模索していく問題。例えば高齢者の成年後見問題、児童虐待問題、消費者被害問題など地域性に密着した訴訟以前の問題を、法律家の目で見てどう解決するか。アメリカの『コミュニティ・ローヤリング※4』という考え方は、日本でも今後必要になってきますしね」

弁護士過疎地で事件になる問題は氷山の一角だが、受けた相談や事件を一つずつ解決することで、ひまわりの存在は地域に浸透していく。その結果として「地域に密着した問題を法律家の目で見て解決する」など、ひまわりの存在意義を拡大させる「大きなうねり」が起こっていくものなのだろう。

公設事務所の弁護士に必要なもの

松本 三加

公設事務所を活動基盤とする松本氏が、手にしてきた「財産」は何だろうか。

「なんでしょうね。やはり『困難に立ち向かってこそ充実感もある』ということを知ったことでしょうか。『それって、普通におかしい』『私は、絶対おかしいと思う』……そう感じた一つひとつに手をつけていくのは想像以上に大変だけど、やり遂げてこそ集中感、爽快感、達成感が得られるんですよね」

では、弁護士として、大事にしていることは。

「相談を受けたら常に『事件をやる』のが弁護士。事件あるいは『おかしいと思うこと』に、立ち向かう姿勢は忘れたくない。事件にしっかり向き合っていたいんですよ」

松本氏は「これって、普通におかしいよね」、あるいは「許せないことは許せないですよ」と、よく語る。とかく多数派の意見に同調したり、自分の中の「悪・善」に自信が持てない人の方が世間には多いのではないか。松本氏には「ブレない・揺るがない」、何らかの基準があるのだろうか。

「わからない。直感なんです、それは。職務上、皆に共通する正義、社会正義があると思いたいのですが……。でもやっぱり『素朴におかしいと思うこと』、それに尽きますよ。当たり前に『おかしいでしょ』という感覚は、大事にしています。今の世の中、いわれのない謗りを受ける、懸命に働いても賃金が低い・待遇が悪い、生保の不払い、年金の消失……、そんな当たり前におかしなことが溢れてますよ」

自分なりの直感、世の中に照らして素朴におかしいと思うこと、それがブレたり、なかったりする人は弁護士には向かないということだろうか。

「それだけで向くとか向かないとか、断言できませんよ。依頼者も弁護士も十人十色で、相性もありますしね。最近は弁護士としての働き方もいろいろですから。でも例えば会社などの組織にいて『自分は承服できなくても皆が推すからのむ方がいいだろう』と思う人は、弁護士には向かないと、私は思っているんです。なぜなら、弁護士は少数者を守ることが職務だから。たった1人であってもその人の意見を守るというのは、憲法の理念であり弁護士の仕事。『多数決だからそっち』という感覚で弁護士をやっている人がいないことを、願います。ただ、こうした見方は『組織人』からすれば、何か欠落しているのかもしれませんけど(笑)。私自身、『自分はそこに嵌っていない』と、いつも感じてきましたし。でも、それでやっていける仕事なんですよ、弁護士は」

組織力に頼らない。素朴におかしいと思う直感を持てる。妥協ができない不器用さで突き進む。これが「在野の弁護士」の条件なのだろう。

※1 1999年の基金設置に先駆けた1997年、「日本型公設弁護人事務所の設置」を弁護士・桜井光政氏が提起(国選弁護シンポジウム・於札幌)。この構想は「ひまわり基金公設事務所」の設置、2004年に成立した総合法律支援法の公布、その法律に基づいて2006年に設立された「日本司法支援センター(法テラス)」にも活かされている。

※2 2001年、沖縄県石垣市・島根県浜田市・北海道紋別市で開所。2007年11月現在は、全国で88カ所に「ひまわり基金法律事務所」ができた。稼動中の事務所は、そのうち70数カ所となる。

※3 日弁連がニューヨーク大学とカリフォルニア大学バークレー校へ、1年に各1名ずつ、公益活動に携わってきた弁護士を、客員研究員として推薦し、研究環境を提供する制度。

※4 地域に密着した問題の解決を、法律家が図っていくという考え方。