Vol.19
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小野寺 利孝

HUMAN HISTORY

一人の被害者救済にとどまらず背後にいる多くの被害者を掘り起こし 政策形成訴訟によって二度と同じ人権侵害を出さない社会構造への転換を図る

小野寺共同法律事務所
弁護士

小野寺 利孝

2002年12月に東京地裁で提訴、その後15地裁で原告約2200人が提訴をした中国「残留孤児」国家賠償請求訴訟※1。2006年12月神戸地裁では勝訴したが、翌年1月東京地裁では敗訴。小野寺利孝氏はその弁護団副団長※2であった。

「(東京地裁)判決直後の報告集会では、悔しくてぼろぼろ涙が出た。泣きながら抗議した集会はあれが初めてだった」と振り返る小野寺氏。ところがその日の夕方、安倍晋三総理が、柳澤伯夫厚生労働大臣(いずれも当時)に対し「法律問題や裁判の結果は別として、中国残留邦人に対する支援のあり方を、誠意をもって対応するように」と指示する。つまり「残留孤児」が人間らしく生きられるようにと政府主導で支援策の策定を指示したのだ。翌日、小野寺氏は、原告団代表の池田澄江氏らと共に首相官邸で総理と会ったが、総理は「日本人として尊厳がもてる措置」を講じるよう約した。その年、中国残留邦人支援法が改正され、政府による新支援策が成立した。まさに政治的解決が図られたのである。この政治的解決による事実上の原告団勝利の背景には、神戸地裁の勝訴判決※3を梃子(てこ)とした政治解決戦略、百万人署名運動など多くの支援運動、各地裁の法廷内外の活動で作り出した世論の後押しもあった。

「僕らの年代にとって孤児問題は他人ごとではなく、“我が事(わがこと)”です。『もしかしたら自分が残留孤児であったかもしれない』という思いを実感する層が、政界を含むさまざまな分野で中核的な立場にいたし、そうした社会的立場や思想信条を超えて孤児たちの人間回復の叫びに共鳴する分厚い素地が日本にはあった。法廷内外での活動で、孤児発生の歴史から政府(国)の冷酷な棄民政策を明らかにし、国民全体が孤児についての歴史認識を共有する。そうすれば世論が動き、政治が動き、超党派での政治的解決ができる。そう考えていました」

小野寺氏ら弁護団の読みどおり、与党(当時)プロジェクトチーム※4が中心となり、超党派議員立法が成立し、貧困からの脱却を実現した。「政策形成訴訟」は、仕掛けが大きい分、失敗に終わったときのリスクもある。「何のために闘ってきたのか」という喪失感が、弁護団・原告団に広がる恐れがあるからだ。しかしあえて小野寺氏は、「政策形成訴訟」に人生をささげる。氏がどのような人生を歩み、何をきっかけとしてここに至っているのか、振り返る。

屈折した思いで過ごした青少年期

小野寺氏は石炭採掘にわく常磐炭鉱・内郷町(現いわき市)で育った。

「僕たち家族は炭鉱長屋住まいでした。映画俳優の佐田啓二ばりのいい男であった炭鉱夫の父と、落語家の柳家金語楼似といわれた僕(笑)。親子なのに似ていないと、子どもながらに思ったものです。父には殴られたこともなければしかられたこともありません。その分、母は厳しかったです。ところが中学に入ったころ父が肺を患って療養を余儀なくされ解雇。生活は苦しくなり、僕が高校1年のときに両親は離婚。母は住み込みで料亭の仲居を始め、僕は知人の家に間借りして自炊をするという生活。しかもそのころ初めて父が養父であったと知らされました。実父は僕が1歳のころ、肺炎で亡くなっていました。父が優しかったのには、実子でないという遠慮があったのかもしれません」

さまざまな悩みを抱える高校生活に置かれた小野寺氏は、自分のような生徒を支える教師になると決めた。「教育大か北大教育学部を目指す」と勉強に打ち込んだが、母から「大学にやる金がない」と告げられる。

「進学をあきらめて就職を選ぶほかありませんでした。今考えると、家族のこと、進学のこと、自分の人生を思うように生きられない憤りや恨みで、ものすごく荒れていました。卒業後は、地元企業に就職しました。しかし『上に逆らわず粛々と』という当時の企業社会での生き方が理解できなかった。しかも上司たちを見れば、学歴による待遇などの格差が明らか。労働組合活動も出世コースの一つで、本来の活動などできない。世の中の仕組みそのものについて、わけがわからず七転八倒する毎日を送り、結局1年で会社を辞めました」

人権派弁護士としての目覚め。青年法律家協会との出会い

小野寺 利孝

小野寺氏は働きながら大学に通うと決め、中央大学法学部に入学した。1~2年生のときは、夕方から新丸ビルでエレベーターボーイと清掃の仕事に就いて、昼間は学校、夜は家庭教師と、忙しい毎日を送った。

「3年になって桜木澄和先生の刑法ゼミに入り、そこで決定的な影響を受けました。弁護士になるという確信、それも人権擁護を軸に活動しようという方向性も、ゼミ活動と桜木先生との対話から得ました。『僕は少年時代に家庭が破たんし、貧困による格差と差別を実感したことで、理不尽な差別におしつぶされそうになっている普通の人の痛みがわかる。その痛みをわからない国家・社会に対して抑えようのない憤りもある。だから労働者・市民に冷酷な国家・社会を変革したい』と本音も打ち明けました。大学4年のときに司法試験に合格しましたが、それは桜木先生との出会い、その叱咤(しった)激励があったからこそだと思います」

大学卒業後、晴れて司法修習生となった小野寺氏は、研修所で青年法律家協会(以下青法協)※5と出会い、迷わず入会した。

「当時の青法協活動は現場主義。事件現場に足を運び、事件の当事者から学び、法律家としてどう生きるべきかを皆で学ぶ場でした。僕はクラス委員にもなり、研修所の修了式で修習生代表として答辞を読みました」

小野寺氏が起案し、クラス委員会で練り上げた答辞はこうだ。

「私たちは修習の過程で、現在の司法制度の運営が必ずしも憲法を最高規範とする種々の法律の理念、原則通りに行われていない実態を体験し(略)」「司法研修所における起案中心のカリキュラム、実務修習における弁護修習の内容の不足及び貧困、(中略)数多い諸問題を修習している私たち自身の問題として受けとめてまいりました」(一部を抜粋)

いわゆる司法反動の時代、小野寺氏ら19期生は当時の司法のあり方、司法修習の教育内容への意見・批判を、答辞で示したわけだ。

「壇上で原稿を読み終えて顔をあげたら、目の前にいた所長が顔を真っ赤にして『この答辞についての良い悪いの評価は留保するっ!』と言い残して、ばーっと退場してしまった。仕方ないので原稿用紙をたたみ、無人の講演台に最敬礼して、答辞を終えたという思い出があります」

新人時代の「ドブ川」「安中公害」闘争

人権活動を担う、若い法律家をはぐくむための活動を続けたかった小野寺氏は、青法協議長を務めた鳥生忠佑氏の事務所(北区王子)に入所。ここでかかわった、ドブ川闘争※6と安中公害闘争が原点となる。

「ドブ川闘争では、埋もれた構造的な人権侵害の典型を経験しました。北区の住宅地の真ん中にある安全対策の施されていないドブ川で、3人の子どもが亡くなったことが発端。3人目の犠牲者となってしまった子の親(万田正己さん)が訪ねてきて、『区は危険を放置したうえ、事故の責任を親に転嫁した』と言う。彼と共に闘い始め、北区以外へ調査を広げると、都内のドブ川で累計何百人もの子どもたちが亡くなっていると知った。万田さんも私も『もはや一人だけの問題ではなく、これは子どもたちの命をドブ川から守るための闘いだ』という思いを抱きました」

小野寺氏は、若手弁護士による「ドブ川弁護団」を組織。「万田事件」での勝利判決をきっかけに、江戸川区・葛飾区など都内各区の被害者による裁判闘争へと発展させた。裁判に勝利し、世論を喚起し、都政に働きかけて全都下のドブ川に安全対策支援のための特別予算を組ませ、区に対して安全対策を指導させた。区議や都議を引き入れ、超党派で「死のドブ川」放置政策を変えさせ、ドブ川で生命を失う事故をなくした。小野寺氏いわく、「この闘いは初歩的だが、政策形成訴訟の実践であった」ということだ。

そして安中公害闘争だ。これは群馬県安中市の東邦亜鉛安中精錬所(以下、東邦)と周辺農民らがカドミウムなどによる土壌汚染を原因とした農業被害を巡り争ったもの※7。

「まず青法協群馬支部に協力を仰ぎ、安中公害調査団を作って現場を調査しました。すると工場周辺一帯の田んぼは工場から排出される汚染物質のため、真っ赤に荒れ果てていた。しかし東邦も誘致した安中町(当時)も、公害が発生しうる操業実態を農民たちに隠していた。私たちが行ったときは、工場の拡大も決定済み。青法協による現地調査をきっかけに新たな公害反対運動が始まりました。当時、会社は新たに電解工場を拡張し、その操業のため、高崎から送電線を引くための鉄塔を既に建設していました。農民たちは、反対期成同盟を作り、代表の藤巻卓次氏らはその鉄塔に自分の体を縛り付けて阻止。自分たちのためだけでなく公害に苦しむ住民すべてのためにと闘ったわけです。私たちが調査を続けるうち、東邦が通産大臣(当時)の認可を受けずに操業していることを確認。闘う老農・藤巻氏らと相談し、鉱山保安法違反で前橋地検に東邦亜鉛を告発。他方、藤巻氏を団長とする被害農民が請求人となり、通産大臣に違法工場の認可取り消しを求めて審査請求。結果、新工場は操業を停止し、従来の工場にも通産省より改善命令が出された。被害を受けた農民たちが団結し、弁護団・広範な労働者・市民の支援と協同して闘えば、根本的な要求である公害発生源の拡大阻止を実現できることを証明しました」

やがて小野寺氏は鳥生氏の元を離れ、独立。「司法修習生たちの青法協活動を支える法律事務所に」と、文京区本郷に自ら事務所を立ち上げた。

相談者の痛みや苦悩に共鳴する

弁護士10年目のとき、青法協主催の第1回人権研究交流集会※8で、じん肺患者と出会った。

「炭鉱夫じん肺というものをそのとき初めて知りました。それで、オヤジも肺結核ではなく、じん肺だったのだと気付いたのです。『僕が育った常磐地区には多くのじん肺患者がいるのだろう。故郷でじん肺裁判をやらなきゃならなくなったら大変だ。じん肺の相談が来なければいいが』と葛藤(かっとう)しました」

小野寺 利孝

小野寺氏は、この集会を契機に青法協を中心として「じん肺弁護団」を東京で立ち上げた。かくして、じん肺患者の裁判闘争が全国的に始まったのだ。あるとき、じん肺患者で元常磐炭鉱夫の井田春雄さんから、同弁護団に相談があった※9。

「僕は常磐興産という会社が、地元いわき市で有する力の強さを知っています。いわき市で闘うことになれば、数百人の患者を原告とする大型集団訴訟に発展する可能性があります。これに手をつけたら、いろんな意味で自分の身が持たないと思いました。僕ははじめ、自分の立場を明かさずに重症の井田さんとお会いしました。ところが彼と話すと、話す内容も雰囲気も、まるで自分のオヤジそのものなんです。もう黙っていられず、常磐炭鉱出身だと明かしました。すると井田さんはものすごく喜んでくれまして。こうなると後には引けず、この闘いは弁護士生命を懸けてやると腹をくくりました」

井田じん肺訴訟提訴を機に、弁護団は、いわきのじん肺患者を人づてに訪ね歩き、その掘り起こしに着手。

「被害者は多数いたが、会社相手に裁判を起こす勇気ある人は出なかった。しかし長崎北松じん肺裁判で勝訴判決を取った原告の炭鉱夫じん肺患者たちに、いわきへ来て呼びかけてもらったところ、少しずつ患者が立ち上がり始めた。そして地元いわき市で、集団じん肺訴訟提起となり、最終的に350人を超える大原告団が形成された。井田さんの訴えで始まった常磐じん肺闘争は、最終的に常磐興産が全原告患者と遺族に謝罪、賠償を行い、じん肺根絶を誓約。未提訴の元炭鉱夫には裁判なしで補償を行うと表明し、終結しました」

小野寺氏は、青法協を軸に全国じん肺弁護団連絡会議を組織している。全国各地の青法協支部に声を掛けて地元の埋もれたじん肺問題を調査し、裁判を闘う弁護団を組織し、このネットワークを生かして闘うという方法だ。これは後に、ほかの裁判でも大いに活用された※10。ほかにトンネルじん肺根絶闘争※11、中国人戦後補償裁判※12、首都圏建設アスベスト訴訟、冒頭に挙げた中国「残留孤児」国家賠償請求訴訟などの政策形成訴訟でも知られる小野寺氏。「トンネル」では国の責任を問い、安倍総理と原告団代表者らの面談を実現、政策合意から法改正(省令改正)にまで持っていった。「戦後補償」は日本のアジア外交の基本路線を変えようというもので、いまだ闘いは継続中だ。いずれの大きな闘争であっても、小野寺氏にとっては「最初のたった一人の相談者」の存在が大きい。

「ドブ川のときは悲しみと怒りをあらわにした万田さん。安中では反骨の“老農闘士”藤巻さん。死の床で、闘う弁護士を求めた炭鉱夫じん肺の井田さん。中国人戦後補償では『なぜ日本の人権派弁護士は、日本が加害者となった国際的人権侵害に取り組まないのか』と詰問した、共同通信北京支局の記者。中国“残留孤児”のときは、ハンセン病裁判のように闘いたいと弁護士探しをしていた孤児たちの代表(池田澄江氏)。ここに挙げた方々はじめ、すべては“出会い”なのです。人権侵害に苦悩する人と出会い、話し、気付けば“我が事”として受けとめている。僕は社会運動家でも思想家でもないごく普通の人間です。人間というのは、生い立ちあるいは青春時代の苦悩や葛藤、そんな過程で形成された“心の共鳴板”を誰でも持っていると思います。僕自身は、貧しさや差別への憤りという体験、さらに多様な弁護士活動の中で出会った人たちとの交流や協同の実践で形成された己の心の共鳴板があります。相談者の痛みや苦悩が心に響くと、理屈ではなくこれを受けとめてしまう。そこから『事件』をどう考え、どのような目標を設定し、どういう闘いを構築するか、弁護士としての苦闘が始まるんですよ」

弁護士は被害者と共に自ら成長できる得難い仕事

小野寺 利孝

相談者は闘い始めたときから人間の尊厳を回復し始める。勝利までの「自己変革」を間近で見て自分も学び、成長できるのがこの仕事のすばらしさだ

弁護士生活43年、気宇壮大に人権裁判闘争に取り組んできた小野寺氏。青法協の仲間たちと協同し、多様な弁護団を組織し、眼前の相談者のみならず、背後にいるであろう多くの被害者を掘り起こし、救済してきた。

「当たり前ですが、政策形成訴訟を担う弁護団を作るのは、青法協でなくてもいいのです。人権を侵害されているにもかかわらず泣き寝入りを強いられ苦悩する人たちと出会ったとき、心に響くものがあれば、一人ではなく、いく人かの友人・仲間と協同し、社会的原因を事実に基づき根源まで追及して、法的責任を明らかにする努力が大事です。二度と同じ被害者や人権侵害を出さない社会構造に転換していくための弁護士の活動が、これからますます求められると思います。私の場合、トンネルじん肺根絶裁判は最終局面を迎え、トンネルじん肺被害救済法制定は、これからがヤマ場。首都圏建設アスベスト訴訟は結審を見据えて闘うとともに全国化を目指し、取り組んでいます。中国残留孤児問題も未解決のテーマがあり、再度法改正運動に着手しています。ハードルが最も高いのが中国人戦後補償問題で、これも体が続く限り、やり抜きたい」

その時代ごとに新たな人権侵害が生まれる。だからこそ法科大学院の学生をはじめとする若手弁護士に、小野寺氏は期待すると言う。

「人権を侵害されて苦しみ悩みながらも立ち上がれず、社会的に逼塞(ひっそく)している人との出会いがあるとする。自分がその人の痛みや苦悩をわずかでも受けとめ、“法的な武器”を活用して、その要求を実現する道筋を調査検討し、これをその人に提示する。相手はこれを受けとめることによって逼塞状態から解放され、自身が闘いの主体となって歩み始める。人間の尊厳を回復する闘いの中で、その人は実に魅力的に変わっていく。そのように、“自己変革の過程”に立ち会うだけでなく、そのために何らかの役割を果たせるのは、弁護士という仕事以外にない。弁護士は、その人の自己変革を共有することで、自分も成長できるという得難い仕事でもある。それだけに、人との出会いと友人仲間との協同を、ぜひ大切にしてほしいと思います」

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※1/いわゆる中国「残留孤児」について、国による「帰国政策」の遅れと帰国後の自立支援政策が不十分であったことを違法として、国家賠償を求めた訴訟。国の法的責任を明確化し謝罪をさせ、孤児に対する政策転換および老後の生活を保障する新たな支援策を国に策定させることを目的にした。「改正中国在留邦人支援法」成立を受けて、原告が訴訟取り下げという形で終結。

※2/中国「残留孤児」国家賠償訴訟関東弁護団 副団長を2002年6月から現在まで、同訴訟全国弁護団連絡会議 代表幹事を2004年7月から現在まで務める。

※3/2006年12月。

※4/2005年8月に自民党・公明党の議員の賛同を得て与党(当時)PT結成。原告団・弁護団は同PTとの連携を重視し新政策づくりを進めた。

※5/1954年、憲法を擁護し平和と民主主義および基本的人権を守ることを目的に若手の法律研究者や弁護士、裁判官などによって設立された団体。現在、弁護士と研究者によって構成される弁護士学者合同部会と、司法修習生の部会がある。イタイイタイ病や水俣病などの公害裁判、環境問題、医療過誤、消費者問題、報道被害、外国人の人権、じん肺、最近では情報公開や戦後補償問題、薬害エイズ(HIV)訴訟など、多くの人権侵害事件に対し、会員がその中心となって救済活動に取り組んでいる(同会ホームページより)。

※6/ドブ川事件(万田事件)・ドブ川闘争:万田事件は1971年5月28日東京地裁で勝訴。損害賠償の支払いや、犠牲者合同慰霊祭を北区が主催。また、その判決がメディアに大きく報道されたことからドブ川安全対策に関する世論が高まり、江戸川区・葛飾区などを相手としたドブ川闘争へと拡大。これをきっかけに、東京都各区による用水路へのフタ掛けや、ネットフェンスガードの設置が行われた。

※7/1970年5月、鉱山保安法依願で前橋地検に告発した本件は、刑事事件として前橋地裁で起訴、東邦亜鉛および精錬所責任者に有罪判決。安中公害発覚は、富山イタイイタイ病の原因物質がカドミウムであると知られるようになったころ。闘争に発展する過程で、安中でも同様の原因物質が長年にわたり垂れ流されていることが判明した。その後長期に及んだ安中公害裁判は、『安中-大地のいのちをいつくしんできた人々』(安中公害裁判原告団・弁護団発行)に詳しい。

※8/「四大公害訴訟」を契機に1969年から青法協が毎年公害研究集会を8回実施。1978年からは「人権研究交流集会」へと発展した。今日まで14回開催。その人権研究交流集会の第1回目(小野寺氏が事務局長の時代)。

※9/元常磐炭鉱夫のじん肺患者、井田氏は当時、川崎労災病院に入院中。井田氏の遺志を継いだ遺族が「井田じん肺訴訟」を東京地裁で起こし、弁護団はその当日、訴訟提起の記者会見を本拠地いわき市で行い、いわき市民、とりわけ元常磐炭鉱夫たちに支援を呼びかけた。

※10/「じん肺弁護団全国連絡会議」によって、各弁護団が経験交流しながら協同で理論研究・構築し、いずれかの弁護団が勝てばそれを橋頭堡(きょうとうほ)としてさらに判例・解決例を高めていくという闘い方が確立された。中国「残留孤児」国家賠償請求訴訟でも、同様の手法が生かされた。

※11/じん肺は、多量の粉じんを吸収することにより肺機能が破壊される職業病。労働組合(全日本建設交運一般労働組合・建交労)がトンネル建設労働者の労災職業病認定に取り組み始め、四国(徳島・松山・高知)、函館など各地裁にトンネルじん肺訴訟を提訴。1996年10月以降「あやまれ、つぐなえ、なくせじん肺」というスローガンを掲げ、主要元請け企業と国に対して全面解決を求める運動が全国に拡大。2001年2月以降全国23の地裁・支部で順次すべて和解成立。2002年11月東京地裁提訴から全国11地裁で「根絶訴訟」として国の責任追及もなされ、5地裁で国の賠償責任が認められた。2007年6月には原告団と政府がトンネルじん肺根絶のため合意。『いのちの絆』(全国トンネルじん肺闘争本部発行)に詳しい。

※12/1995年8月に「中国人戦争被害賠償請求事件弁護団」創設(当時幹事長小野寺氏、現団長代行)。731・南京虐殺・無差別爆撃事件訴訟、山西省戦時性暴力被害訴訟、海南島戦時性暴力被害訴訟、平頂山事件訴訟、中国人強制連行・強制労働事件における全国10地裁での訴訟、旧日本軍遺棄毒ガス・砲弾被害訴訟、8・4チチハル遺棄毒ガス弾被害訴訟などを指す。