Vol.29
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鳥飼 重和

HUMAN HISTORY

「これが弁護士の仕事」という“鋳型”を外せば、そして社会常識を変えていけば、我々が開拓できる新領域はいくらでもある

鳥飼総合法律事務所
代表弁護士

鳥飼 重和

父親の勧めに従って歩き始めた弁護士への長い道のり

18連敗を経て司法試験に合格したのが39歳の時。遅まきながら、43歳で弁護士人生をスタートさせた鳥飼重和は、従来の弁護士像にははまらないタイプで、むしろ大器晩成の事業家といった印象である。企業法務と税法を事業軸とする鳥飼総合法律事務所は、そこに特化した専門性の高さで、独自の存在感を放つ。なかでも、困難なフィールドだとされる税務訴訟においては、8事件中7件勝訴(2008年)と圧倒的な実績を誇り、鳥飼は、税法の先駆けとして未開の地を拓いてきた。既成や目先にとらわれず、琴線に触れる事柄に対峙した時に、すさまじいエネルギーを発揮する。あらゆる投資を惜しまず、集中突破する。鳥飼の強さはここにあり、その結果が今日を築いた。

勉強とはおよそ縁遠い子供で、とにかく遊び回っていました。親父が東京国税局の統括官だったので、公務員宿舎で暮らしていたのですが、子供がめちゃくちゃ多い時代でしょ。みんなで野球やったりリレー競争したり、外遊びにはことかかない環境でした。

いわゆる反抗期がなかったと思えるほど僕は従順で、わりに親切というか世話焼きタイプだったようです。都立の向丘高校に進学してから、グラウンドに憧れて野球部に入ったのですが、途中からマネジャーになりまして。先輩からすると、僕は性格的に、選手よりマネジャー向きだったんでしょう。実際イヤではなかったし、大会前ともなれば、他校に片っ端から電話をして「練習試合をさせてください」と頼み込み、積極的にセッティングをしていました。それが良かったのか、さほど強くなかった野球部が、最終的には東京都の大会に出られるまでになったので、僕のマネジャー役は正解だったかもしれません。

確たる職業観を持っていなかった僕が、「弁護士になりたい」と口にしたのは高校3年の時です。本当はそんな気などないのに、先生に進路を問われて、とっさに答えちゃった。この頃、親父に「お前は勤め人には向いてない。弁護士になれ」と言われ続けていたものだから……。親父はすでに税理士事務所を構えていて、後継者には、公認会計士になるという兄貴を考えていたらしく、僕には弁護士を目指すようにと。僕は兄貴を尊敬していたので、後を追って、同じ明治大学の商学部に進みたかったんですが、「お前はいい」って。だから、残念ながら志を持って弁護士を目指したわけではなく、親父の言葉に素直に従ったという話です(笑)。

鳥飼 重和

父親の意向で中央大学法学部に進学した鳥飼だが、時はまさに学生運動最盛期。2年生の中盤からは授業がほとんどなくなり、次いで大学は閉鎖となった。「試験は論文出せばすむし、遊ぶ人間にとっては最高の環境だった」と振り返るように、鳥飼は存分に学生生活を楽しんでいたらしい。司法試験に向けてエンジンが本格稼動に入るのは、まだしばらく先の話である。

テニスをしたり、当時花盛りだったボウリングにはまったり、朝から晩まで友だちと喫茶店にいたり。大学は閉鎖されているから、学外で忙しい(笑)。正直、弁護士になる気はなかったので、受験勉強をする団体やゼミにはいっさい入っていなかったんです。でも、学部の学生たちは、みんな当然のごとく司法試験を受けるから、「なら、俺も受けてみるか」と受験を始めたのが3年の時。今にして思えば、信じられないほど甘い感覚ですよね。

卒業後は親父の税理士事務所に就職し、仕事を手伝いながら司法試験を受け続けていたんですけど、28歳になった頃、やっと初めて本気になった。当時付き合っていた女性の影響です。彼女と一緒に論文式試験の合格発表を見に行った時、落ちてもさほど落胆していない僕に対して、彼女が泣きながら言ったんですよ。「あなたは悔しくないの?」。この言葉で目が覚めて、スイッチが入りました。それからは司法試験専門の研究室に入り、本気で勉強に取り組むようになったのです。ところが、彼女のためにも……と決意して始めた勉強生活が裏目に出た。一緒にいる時間が極端に減って、彼女は、僕が距離を置こうとしていると思ったんですね。男の勝手な思い込みで、僕も気持ちを言葉にしなかったし。そのうち、ほかの男性と結婚する話が持ち上がり、「なら、したら?」と勢いで言ったら、本当に結婚しちゃった。大失恋です。

ショックでねぇ、その後数年はブランク状態になってしまった。精神的にも肉体的にも落ち込んで、このままじゃ人生終わりだと。でも、僕を信じて文句ひとつ言わない両親を裏切るわけにはいかない。「あと2年間だけ必死に頑張ろう。それでダメなら別の職業に」と覚悟が決まったのは、30代半ばを過ぎてからです。ずいぶん時間がかかりましたが、この時ばかりは、死ぬ気で勉強しました。そして、自分が決めた期限どおりに合格したのが1986年。嬉しいというより、とにかくほっとした。そんな気持ちでしたね。

税法の分野に着目したイソ弁時代。専門家としての土台を築く

鳥飼 重和

合格後に鳥飼が始めたことは2つ。英語を学ぶために日米会話学院に入学し、並行して、早稲田司法試験セミナーで講師を務めるようになった。つまりは、急いで司法修習生にはならなかったのである。「受験生最後の2年間は“灰色の青春”だったから、少しラクしたいと思って。もう、遅れついで(笑)」。これもまた、鳥飼らしい話だ。

39歳で合格した僕など、最初は期待されていなかったのですが、意外に人気講師となりまして。答案に対しては一枚一枚丁寧に添削し、講義でも熱心に指導していましたから。それに、何たって落ちた受験回数が多いでしょ、テクニックを持っているわけです(笑)。

で、ある程度お金を貯めたところで、僕はバンクーバーにあるブリティッシュ・コロンビア大学に留学。半年の予定でした。ところが2カ月も経たないうちに、司法試験予備校の代表から連絡があって「戻ってきてくれないか」と。聞けば、鳥飼のゼミを開講してほしいという声がたくさん挙がっているという。でも、留学生活を楽しんでいた僕としては帰りたくなかったので、ゼミが成立しないように条件を出したのです。授業料は通常の講義の倍額。受講生の人数は30人以上とする、この2つ。でも目論見は外れ、アッという間に東京戻りです。最初は47人で、半年後の僕のゼミ講座には、100人を超える受講生が集まっていました。

結局、日米会話学院には行けなくなってしまったけれど、人から期待され、人のために一生懸命になるという喜びを得た経験となりました。そして、講師の仕事を通じて身につけたスピーチの基本、度胸、さらには説得力。これらは間違いなく、僕にとって大きな財産となったのです。

1期遅れで、司法修習生となった鳥飼。最年長者だった。現役合格組とは年の差倍近く、なかには鳥飼より若い教官もいた。優秀な同期を前に考えたことは、「彼らを競争相手にするのではなく仲間にしよう」。かつて高校の野球部で、マネジャーをやっていたような感覚である。自分は自分にしかできない役割、専門性を磨き、専門外の仕事は優秀な人間に託す。鳥飼が持つ経営哲学の“芽”は、ここでつかんだ。

優秀な人がたくさんいて、驚きですよ。「こいつら、子供みたいな顔をして何だろう」って(笑)。年の功というべきか、競争しても勝てっこないのはわかっていました。ならば発想を転換して、ライバルを仲間にする。そうすれば事業は成立すると思えたことが、最大の収穫でした。受験生で精神的に苦しんでいた頃、救いを求めて読んだ本のなかにアンドリュー・カーネギーの話があったのですが、それが頭の片隅に残っていたんでしょう。USスチール社を創業したアメリカの実業家、鉄鋼王と称されながらも、実は鉄鋼の専門家ではない。経営の専門家でもない。自分より優秀な人材を集め、配することで大成功したのです。これだと。そう思って、僕は、研修所を出る時につくった文集に「デパートのような法律事務所をつくる」と書いたんです。

それから僕は、独立するまでに2つの法律事務所で計4年間、イソ弁として働くのですが、スタートを切ったのが90年。バブル崩壊期に入ったとされるタイミングです。個人事務所だからもろに影響を受けて、仕事は減少傾向にありました。早く、何か自分の専門性を確立しないと――そう強く感じ始めた頃です、僕が税法に着眼するきっかけとなった事件に出合ったのは。

220億円規模のM&A絡みの案件でしたが、これがなかなか複雑で。ある資産が、土地譲渡益重課制度の対象となる「土地等」にあたるか否か、非常に判断に迷う問題にぶつかったのです。これが土地等に該当しなければ、当時の26%税率ですむけれど、該当した場合は、清算も絡むので、最終的には80%以上の税金を支払わなければならない。依頼者が取得する金額がえらく違ってくるし、M&Aの成立にも影響を及ぼすような状況でした。それを調べるために、あちこち相談して回ったのですが、誰も根拠ある回答を出さない。困って、最後につかまえたのが、国税庁でこの制度に一番詳しいという担当官。「重課にはならない」との即答で、根拠条文も教えてくれたのです。

ちゃんと調べればわかることなのに。そう思う一方で、税法に通暁した専門家がほとんどいないことに気づいたのです。これは狙える。僕が勉強して究めて、第一人者になろうと決めたんですよ。弁護士1年生の時でした。

専門分野を確立して独立。次いで、企業法務への参入

鳥飼 重和

税法に通暁した専門家がほとんどいない。それなら僕が勉強して、第一人者になろうと

鳥飼の行動は早かった。事務所に頼んで4カ月間の休みをもらい、金融財政事情研究会が主催するFP養成講座に参加。研修を受けるのは金融機関の職員が大半である。「弁護士の参加は前例がない」と、最初は断られたそうだ。が、だからこそチャンス。より強く税法を学びたいと考えた。ここから鳥飼は、積極的に自分への投資を始めたのである。

研修費用は185万円。休ませてもらう期間は無給ですし、すべて借金でまかないました。この頃には女房子供もいたので、もう必死でしたけどね。研修の講師は著名な専門家ばかりで、税金知識を深めたのはもちろんのこと、人脈も大きく広がった。先のことを考えて「税法事件を手がけるには、どうしたらいいでしょう」と、いろんな方に相談していたら、まずは税理士の近くにいることだと。「釣り糸は魚のいるところに垂らさなきゃ」。今でも覚えている印象的な言葉です。

それで紹介を受け、大勢の税理士が加盟する日本事業承継協会に入会したんです。入会条件は、1000万円弱のコンピュータ購入。反対する女房を説得して、また借金ですよ。最初は、ここでも「何で弁護士が」という拒絶ムードはあったのですが、付き合っていくうちに仲間ができましてね。税理士の顧問先のトラブルを相談されるようになった。加えて、バブル崩壊の表面化に伴って、税金関連の事件が多発したんですよ。税務訴訟、税理士賠償責任訴訟が一手に回ってきました。協会には、僕しか弁護士がいないので(笑)。当時は訴状作成の要領もわからないし、税務訴訟の判例も本当に少なかったから、負けっぱなし。でも、すごく勉強になった。数多くの事件を通じて、腕を磨けたことは確かです。

年を追うごとに信頼関係が広がり、税理士から相談される仕事は累増した。司法研修所での気づきを実践し、鳥飼は、専門の税務関連事件は自分で手がけ、ほかの事件は弁護士仲間に託すスタイルを取るようになる。イソ弁4年目になった頃には、個人として受ける事件だけで年商3000万円を挙げた。そして94年4月、鳥飼経営法律事務所(当時)を開設したのである。

独立したことで応援してくれる人がさらに増え、僕はとにかく誠意を尽くして仕事に取り組みました。好循環が生まれると、数字もついてくるもので、3年目には年商1億の大台に乗り、その後も大きく伸びていきました。税務訴訟は連敗中でしたから、財政基盤を支えていたのは、税理士さんたちのクライアント、中小企業が抱える様々な訴訟案件です。それが、現在の事業柱である大手企業の企業法務にシフトしていったのは、久保利英明先生との出会いがあったからなんです。

お客さんに誘われて、久保利先生の経営者・法務担当者向けセミナーを聞きに行ったのがきっかけです。初めてだったんですけど、すごく話が刺激的で。定型じゃなく、判例を題材にした内容の濃い話に、「弁護士にはこんな面白い世界があるのか!」と気づいてしまった。それからというもの、久保利先生のセミナーを探しまくって、全国どこへでも追いかけるようになりました。毎回のように出席し、同業である僕はノウハウを盗んでいるようなものですから、仁義を切る意味で、セミナー後は必ず挨拶に伺って。その過程で、もう一人の師・中村直人先生とも出会えて、これをご縁に、僕は新しいチャンスを手にすることができたのです。

数年後、株主総会セミナーの主催者から、久保利、中村両先生と一緒に、僕もセミナー講師として立つ機会をいただきました。光栄なことに、末席に入れてもらえたわけです。09年には、『日経ビジネス』の「人気弁護士ランキング」に初めてランクインして、名前だけは有名になった(笑)。このあたりを境に企業法務が多くなり、大手の顧問先拡大につながっていったのです。ただそのぶん、従来の顧客であった中小企業は激減してしまいました。大手に合わせた価格メニューのままでやったものだから、当然です。市場としては中小企業のほうが大きいのに、この時は気づかず、僕は仕事の面白さやカッコよさに憧れてしまったというか。ちょっとやりすぎましたね(笑)。

新規事業の開拓に注力。今なお続く、未開の地への挑戦

「通常の民事事件の数倍努力をしないと対等にすら戦えない」――税務訴訟は今も困難なフィールドであり、その勝訴率は、全体からみれば10%内外だという。今でこそ最高で7、8割の勝訴率を誇る鳥飼たちだが、始めてから10年近くは連戦連敗。それでも挑み続けてきたのは、文字どおりの正義感だ。「法曹人らしい志を、初めて持つきっかけを与えてくれたのは、税務訴訟での連続的敗訴」だと、鳥飼は振り返る。

当初は相続税の問題が多かったのですが、「これは勝たなきゃおかしい」と思える事件ばかりでした。しかし、不幸な結果になる。特に90年以降は、株価や土地価がすごく下がったのに、政策として路線価を上げていった時期で、そうなると相続税額は高いですから、何十億円という相続資産を持ちながら破産に追い込まれるという悲惨なケースが多かったのです。当時は、物納の条件が非常にきつかったので、そこはまず通らない。あるいは、評価額を低くして納税できるようにしてくれと嘆願しても、法律がダメ。本来ならば、国が救済措置を法的にとるべきなのに、欠陥のある制度によって生じる不利益を納税者に押しつけているわけですよ。そりゃないだろうと。

税務訴訟については、三十数連敗したと思いますよ。でも、負ければ負けるほど闘志がわいてきて、それが、僕の絶対的な正義感になった。敗訴になるのは、国や裁判官が社会を知らないからだ。そんな気持ちがあったから、いろんなところに露骨な批判文を出したりもしました。そうしたら、その論文を読んだ裁判官出身の弁護士が、アドバイスをくれたのです。「裁判官批判をして勝てると思いますか? 裁判官だって人情はある。理屈だけでなく実態を示し、心証を取りなさい」という内容です。それまでは納税者の立場にだけ立ち、裁判所側の視点を持っていなかったことに気づかされました。

それで、事務所内に「勝訴研究会」を立ち上げたのです。ほかの弁護士が勝訴した事件を集め、その勝因を研究する会。若手が担当を持ち、判例だけでなく、生きている事件の裁判資料を閲覧しに行って、レポートにまとめ、発表するのです。みんなの頭が変わりましたよね。成果はありました。テクニックだけでなく、裁判官の目線に立って証拠を用意し、弁論するようになると、次第に勝訴する事件が多くなってきました。連敗続きだったでしょ、国相手に勝つようになると、何ともいえない快感が生まれるんですよ(笑)。

鳥飼 重和

今年で19年目に入った鳥飼総合法律事務所のスタッフ数は、約70名。陣容とともに、取り扱い分野も確実な成長を遂げてきたが、現在も失速することなく、新しいビジネス領域の開拓に注力している。「弁護士が参入できる未着手の分野はいくらでもある」――数々の失敗や負けを乗り越えてきた鳥飼には、常にスタートラインに立っているような気概がある。

“鋳型”にはまってしまっている。それが、弁護士業界全体に対して僕が感じていることです。いわゆる鳥の目を持ち、もっと自由な発想をすべきだと思うのです。「サンキュッパ」ってご存じですか?最近、業界に出てきたのですが、主に零細企業を対象に、月額3980円で顧問契約を結ぶという新しいビジネス。ずいぶん顧客が集まっていると聞きます。もちろん、これだけではペイできませんが、一定数、顧客から事件を引っ張ることができれば、成算は見込める。このビジネスがいい、悪いの話ではなく、注目すべきは、従来、弁護士が自分たちの職業領域としてとらえてこなかった部分に、アプローチしたということです。

よほどの専門家は別として、今、平準化した市場では価格競争が起きています。「これが弁護士の仕事」という鋳型を外せば、そして社会意識を変えていけば、開拓できる新領域はいくらでもあると思うんですよ。予防的な分野も、そのひとつ。クライアントが相談に来るのは、紛争になってからの事案が多いですが、その前段階でも弁護士は必要なのです。様々なリスク管理の面で。事前に弁護士が入っていれば、どれほど紛争にならずにすむか⋯⋯。それに、こういう変動期には迅速な処理が求められ、5年先どうなるかわからない紛争など続けていられるか、という話です。ビジネスモデルが合わなくなっているんですね。

うちでは今、15名ほどの専任を置き、こういった新規事業を積極的に模索しています。新しい市場を拓き、後進に道筋をつけていく。伴って、弁護士の就業機会の拡大を図る。それが、僕ら先輩弁護士の役割、というより義務だと思っています。まだまだ立ち止まっていられませんね。

※本文中敬称略