弁護士の肖像:2014年11月号 Vol.42

弁護士の肖像

アトーニーズマガジン 弁護士の肖像

日本のリーガルサービスを牽引する、著名な弁護士の素顔や仕事観・人生観をご紹介。

Human History

弁護士の肖像

青山綜合法律事務所
 弁護士
 内藤 篤

サブカルチャーに惹かれた青年時代。映画の世界に没頭する

映画、音楽、演劇などのエンタテインメント分野において、契約交渉や紛争処理、係わる様々な法的アドバイスを専門に扱う内藤篤は、この道の第一人者だ。他方、映画好きが高じて、名画座「シネマヴェーラ渋谷」を開館、館主としてその経営にもあたっている。弁護士というより文化人的な雰囲気をまとう内藤は、少年の頃からずっと好きだったエンタメの世界に身を置き、真っ直ぐに歩んできた。終始穏やかな口調ながら、内藤には、一貫して変わらぬ職業観がある。「自分のしたい仕事をして生きる。そのためにはまず『クライアントをクリエイトする力』が必要だし、究極的には『仕事自体をクリエイトする力』が不可欠なのだ」。数ある自著の一冊に綴られている言葉だが、内藤の生き方は、まさにそれを体現しているように映る。
どちらかといえばインドア系で、本とか映画が好きなおとなしい子供でした。幼稚園に入った頃、コナン・ドイルの『失われた世界』の児童向け本を読んで、「物語ってすごい」と強烈に感じたのを覚えています。あと、祖母が住んでいた渋谷に遊びに行き、街で映画を観るのが楽しみで、何となく文化的な世界が肌に合ったのでしょう。漠然とながらも、いつか物書きになれたらいいなと思っていたんですよ。
母が教育熱心で、僕としては理由がわからないけれど、「勉強しろ」と言われるからやっていたという主体性のない子供でね(笑)。その流れで麻布中学、高校に進学し、一応、陸上部に入って短距離走をやったりもしていましたが、変わらずの本好き、映画好き。古本屋歩きが趣味で、澁澤龍彦や植草甚一の本に耽溺し、また、当時渋谷にあった「全線座」という名画座には、試験が終わるたび繰り出したものです。二本立てを安く観られる名画座は、学生にとって大助かりでした。
今はほとんど残っていませんが、この頃の渋谷には、古本屋とかジャズ喫茶とか、いわゆるサブカルチャーのはしりがいろいろとあって、そのある種の猥雑さが僕の欲望を満たしてくれた。まさか自分が、この街で映画館をつくるとは思ってもいなかったけれど、僕にとって、渋谷界隈はずっと馴染み深い場所なんですよ。
東大を受験したのは「周りがそうだから、何となく」。職業についても格段の意識はなく、法学部を選んだのは、先行き、潰しがきくと考えたからだという。大学生になった内藤は、さらに映画に魅了され、年間約360本を観賞するという生活。そのたびノートに感想を書き記し、「映画評論家になりたい」という気持ちが頭をもたげてきた時期である。
東大に入って最も大きかったのは、フランス文学者で映画評論家でもある蓮實重彦先生と出会ったこと。先生の評論を、それこそむさぼるように読んだし、その斬新な物言い、独特な文体に、僕ら映画青年たちは皆、絡め取られた。誰もが、「蓮實エピゴーネン」と呼ばれるほどに影響を受けたのです。優れた評論というのは、「こんなにすごい映画なら観に行かなければならない。観ないのは悪である」というくらいにドライブする力があって、僕もそれまでに増して、爆発的に映画を観るようになりました。
かといって、自分で映画を撮りたいかといえば、そう思ったことは一度もないんですよ。もともと物書きに憧れていたから、評論家になりたかった。3年生の頃は、法学部のある本郷から、週に一度、蓮實ゼミに〝もぐり込む〞ために、駒場に通ったものです。あの頃は、池袋の文芸座の地下にあった日本映画専門館に一番通ったかな。行くとゼミの連中がいて、僕にとっては部活のようなものでもありました。
当時の映画雑誌に、素人が投稿する評論コンテストみたいなのがあって、応募してみたら佳作入選。雑誌に自分の評論文が掲載されたものだから、一時は「頑張れば、俺、映画評論家になれるかも」と考えた時期もあったんです。でも一方で、己のごとき非才では、これで飯を食うのは難しいだろうと見ている冷静な自分もいた。 それで、司法試験に舵を切ったのが4年生になる頃でしょうか。初めての受験は短答式でアウト。あと2年挑戦してだめなら、一般企業に就職しようと思い留年していたので、〝6年生〞で合格したというわけです。司法試験に向けて勉強している間も、映画は絶っていませんよ。必死でやらなきゃいけないものがある時に観る映画って、これまた蜜の味でして(笑)。

エンタメ・ロイヤーとしての目覚め。そしてNYへ

エンタテインメント・プラクティスが、日本で明確に確立されていた時代ではない。内藤も最初から狙っていたわけではなく、大学在学中にゼミで学んだ知財、国際取引法を生かせるような事務所に入りたいと考えていた。その時に仲間を通じて知ったのが、かつての西村眞田法律事務所である。当時、大手渉外法律事務所としていくつかの専門分野を抱えるなか、ファッション・ブランドなどの商標やライセンス契約関係を扱う部門が存在する同事務所と出合えたことは、幸運だった。 当時いらした知財の田中克郎先生に話を伺いに行った際、ちょうど〝某怪盗〞を主人公にした日本のアニメをフランスにライセンスする契約書を見せられた。「これって、フランスの怪盗の名前だろ。いろいろと問題があってさ」などと言っている。「あ、こういうのをやりたかったんだよね」と、僕は食いついたわけです。 入所してから、西村利郎先生のコーポレート部門、田中先生の部門の両方に所属しつつ、僕は、規模のでかい案件では下っ端として走り回る一方、エンタメっぽい知財の案件にもかかわらせてもらった。上司たちは若手に仕事を任せるタイプだったので、責任は重かったけれど、様々な経験を積むことができましたね。なかでも、翻訳をすごくやらされたので、英語はオン・ザ・ジョブで身につけました。 印象に強いのは、1986年、広告代理店をクライアントに、ニューヨークで開催したイベントに携わったこと。シンセサイザー奏者の冨田勲氏を中心に、バッテリー・パークで行う音と色彩の一大ページェント。そこで起きる法律問題のサポートに入ったのですが、これが困難続きで。スポンサーとの問題、現地プロデューサーとの契約交渉、さらには、このイベントはのちにレコード化やビデオ化が予定されていたので、それら関係会社との交渉……山道を蛇行して進むような大変さでした。 それだけに、イベントが幕開けした時は、何とも形容しがたい心持ちでした。目に映る部分で何かを直接つくったわけじゃないけれど、それでも契約書作成や交渉など、自分の仕事が確実に反映されているという確信。僕らがいたことで、このイベントがスムーズに進行し、クライアントの利益が最大限に守られたという自負心。半人前ながら、エンタテインメント・ロイヤーとしての喜びが初めて湧いたのです。 「あの喧騒、繁栄、猥雑さ、そういうすべてが好き」。イベントの仕事や幾度かの出張を通じて、内藤はニューヨークに強い憧れを抱くようになった。事務所内には、若手を必ず留学させるという不文律があり、内藤がその時、留学先として同地を選んだのはしごく当然のことである。弁護士になって4年目の88年、内藤はニューヨーク大学ロースクールに留学した。 とにかくロケーションとしては最高。大学はヴィレッジのど真ん中にあって、ここは、どこの街にも比肩できない独特の雰囲気がある。あの頃は名画座的な映画館もたくさんあり、ジャズクラブやデカい古本屋もあって、つまり僕の好きなものが全部揃ってた。最初にニューヨークに着いた夜は、興奮で一睡もできなかったのを今も覚えてます。 ロースクールの受講生活はハードでした。著作権法、独禁法、商標法など、判例から成る英語ぎっしりの教科書を毎日何十ページも読んどけ、という世界ですから。でも、とおりいっぺんの課目ではなく、細分化されたプログラムがあることが素晴らしく、エンタテインメント法なんかは、事案演習的なものが多くて刺激的でした。久しぶりの学生生活でしょ。映画とジャズに狂いまくりながら(笑)、この頃は、自分でも本当に一所懸命勉強したと思う。 ニューヨーク州弁護士資格を取ったあとは、現地に残り、エンタメ部門がある典型的な大手、ポール・ワイス法律事務所に勤務しました。ただ、どうも〝お客さま扱い〞で、仕事らしい仕事がない。だから僕は、勝手にプロジェクトを始動させ、ロースクール時代に使っていた著作権法の分厚い本を、日本語に翻訳することに。日本にいる時、翻訳はさんざんやったけれど、自分の成果としては残らない仕事ばかりだったから、何か本として残したいという思いがあったのです。 それはそれで有意義でしたが、このまま誰もがやるような海外研修をして日本に帰るのでは、大した未来がない。そんな焦りもあった。そこで、ニューヨークのインディーズ映画を主に扱うブティック・ファームに、「安い給料でいいから」と頼み込んで入れてもらったのです。実務は面白かったですね。アメリカの映画は、その製作資金を銀行から借りるのが一般的です。当然、担保が必要で、それはできた映画の著作権であり、スタッフやキャストと結んでいる契約上の利益でありと、融資実行日までに弁護士が携わる仕事は、契約交渉、書面づくりなど多々ある。わずか3カ月の勤務でしたが、僕はここで、エンタテインメント・プラクティスを肌感覚で学ぶことができました。(以下略) 続きをご覧になりたい方は、バックナンバーをお取り寄せ下さい。すでに在庫がない号もありますので、予めご了承下さい。

■プロフィール

  • 青山綜合法律事務所
  • 弁護士
  • 内藤 篤
  • 1958年9月26日 東京都渋谷区生まれ
  • 1982年9月 司法試験合格
  • 1983年3月 東京大学法学部卒業
  • 1985年4月 司法修習修了 弁護士登録(東京第一弁護士会・37期)
  • 西村眞田法律事務所入所
  • 1989年5月 ニューヨーク大学ロースクール(LL.M.)修了
  • ポール・ワイス法律事務所、 フランクファート・ガーバス 法律事務所に勤務
  • 1989年10月 ニューヨーク州弁護士登録
  • 1990年12月 西村眞田法律事務所に復帰
  • 1993年6月 同事務所パートナーに就任
  • 1994年4月 内藤・清水法律事務所開設
  • 2002年6月 青山綜合法律事務所に改称
  • 2006年1月 名画座「シネマヴェーラ渋谷」開館