弁護士の肖像:2016年3月号 Vol.50

弁護士の肖像

アトーニーズマガジン 弁護士の肖像

日本のリーガルサービスを牽引する、著名な弁護士の素顔や仕事観・人生観をご紹介。

Human History

弁護士の肖像

番法律事務所 弁護士 番 敦子

早くに養われた自立心。 フランス思想に傾倒し、 研究者への道を志す

幼い頃より利発だった番敦子は、勢い、早くから自立心にも目覚めていた。大学時代には、女性の権利等の問題に関心を寄せ、「男性も女性も自由に生きられる社会のかたち」を模索し始めており、以降、弁護士になってからも、これは番のライフワークとなっている。彼女が発起し、司法試験に臨むようになったのは出産を経てからである。子育てをしながらの猛勉強生活は、時に苦悩も伴ったが、〝天職〞を得てからは、自分の信じる道を真っ直ぐに歩いてきた。DV、セクハラ、性被害などといった女性の被害者事件を扱う女性弁護士として高名な番は、広く犯罪被害者支援にも尽力する。文字どおり、「女性や弱い者の味方」なのである。

小学校から高校までの12年間、ずっと女子校なんですよ。私が一人娘ということもあり、ちゃんとした教育を受けさせたいという母の強い意向で、地元、千葉県市川市にある国府台女子学院に通っていました。自分で言うのも何ですが、学業も運動もかなり達者なほうで、いわゆる活発な子供でしたね。当時はけっこう自由だったし、のちの自分を考えても、この学院生活で培われた素地は大きいと思います。お嬢さん学校とされながら、運動会では騎馬戦や組体操もやったし、学院祭などで大工仕事が必要となれば、女子生徒たちが自分で作業する。それこそノコギリを引いたり、トンカチ叩いたり。なので、もとより男性、女性の役割分担ウンヌンという話はなく、「得意な人が得意なことをする」、極めてシンプルというか本質的な環境にあったわけです。高等部は受験校としての色合いも強かったけれど、そういう土壌があるから、生徒の多くは「自分が何をしたいか」を持っていました。女子校だから、逆に、女性だからという発想はあまりなかったんですよ。家庭環境も、当時としてはちょっと珍しかったかもしれません。本当は男の子を望んでいたという母は、私を跡取り感覚で男の子的に育てたし、一方、父は名家の出で、幼い頃から英語の特別教育を受けてきたから欧米的な人で。私にはレディーファーストで接してくれ、名前を呼び捨てにされたことも、いわんや怒鳴られたこともありません。開明的というか、変わっているというか……でも、今となってはいい環境にあったと思いますね。

番は、高校生の頃から思想関係の本を多読していたというから、その聡明ぶりが十分に窺える。好んだのはルソーやデカルト、パスカルといったフランスの哲学者たちだ。フランス思想を勉強し、いずれは研究者になりたいと考えるようになった番は、東京外国語大学フランス語学科に進学する。まだ司法試験の〝し〞の字も頭になかった頃だが、この大学時代に、番は単身で男女同権運動を起こしている。

思春期ですからね、いろいろ悩んだり考たりするでしょう。ルソーの『社会契約論』とか、様々な本を読んでいるうちに、思想関係に進みたいと思うようになったのです。背伸びしていたんでしょうね、高校生の頃は下級生たちから怖がられていたみたい(笑)。でもそこは女子校。卒業式の日には、「憧れていました」と花束を持ってきてくれた下級生たちもいて、素直にうれしかったものです。東京外大のフランス語学科は女性が多いほうでしたが、それでも男性の数が圧倒的に多い時代です。女性は皆優秀なのに、常に一歩引いている感じがあって、例えば、何かを企画するにも全部男性が主体になる。それはそれで楽チンなんだけど、共学を初めて経験した私にすれば何か違うなぁと。そして、当時の東京外大には女性教員がほとんどいなくて、常勤の教授は他学科に一人だけ。「やっぱりおかしい」と目覚めてしまった私は、フェミニズム的な運動を始めたわけです。パンフレットを自作して配ったり、卒業生の追跡調査をしてアンケートをまとめたり。この頃、朝日新聞の記者として活躍されていた松井やよりさんも東京外大の卒業生なので、講演にお呼びするとか、そういう活動をしていました。私は群れるのが好きじゃないので、基本は一人運動でしたが、男女問わず、共鳴してくれる友人たちが手伝ってくれた。その時に感じたのは、女性と同様、男性も役割分担という名の下、〝べき論〞に縛られていて生きにくいだろうな……ということ。男性も女性も自由に生きられる社会。そのかたちを探したいと考えるようになりました。大学生時代にやったことは、ある意味自己満足でしたけど、その考えはずっと持ち続けてきました。だから弁護士になった時、すぐに弁護士会の「両性の平等に関する委員会」に参加し、今日に至るまで活動を続けています。もっとも大学生の頃は、自分が弁護士になるなんて思ってもいませんでしたが。

結婚、出産を経て 司法試験にチャレンジ。 新たな道を踏み出す

大学の4年間で語学と基礎学問を身につけ、その後は、東京大学大学院に進学して倫理学を学ぶ。番はそう〝予定〞していた。しかし、お目当てだった東大の大学院合格は叶わず、そのまま東京外大の大学院へと歩を進める。変わらず研究職を志向してのことだったが、このあたりから番の心境、そして環境に変化が起き始めた。

外語大だから当然ですけど、大学院に行っても、本当に語学一色で。例えば、俗ラテン語とかを必修でやるんですよ。これ、ローマ帝国内で話されていた口語ラテン語なんですが、つまらないったらありゃしない(笑)。一般科目のテキストも英語が多くて、もう飽き飽きしちゃって。先を考えても、通常としては、2年ほどの海外留学を経験し、戻ってからどこかの大学で研究職に就くというルートです。当時は、一般の就職と同様、女性研究者の就職先も門戸が狭かったし、私が本当にやりたいことはこれだっけ?と、何だか意欲が低下してしまったのです。弁護士を意識したのには、伏線があります。大学院に入った頃、父が経営していた貿易会社が倒産してしまい、その会社整理を弁護士に依頼しました。私も貿易書類の翻訳など、債務処理をする弁護士を手伝ったりしていたのですが、そういう事態になると自分は何の役にも立っていない。どこかでエリート意識もあったんでしょうね、その無力感は大きかった。債権者への対応など、弁護士の仕事を見ていて、影響を受けたのは確かです。もともと文章を書いたりするのが得意で、日本語なら負けないという思いもあり、それだったら弁護士資格を取って違う道に進もうと考えたのです。ただ、大学院在学中に結婚したので、実際に動くまでには時がかかっています。法律なんて勉強したことがないし、司法試験に向けて何から手をつければいいのか……弁護士になっていた高校時代の先輩を訪ねたりもしましたが、一方で主婦の立場もありで、なんかグズグズしていましたねぇ。「自分の道が決まらないから、エクスキューズで結婚したのか」と思ってみたり、ちょっと悶々とした時期ではあります。

大学院を修了した後は、しばらく家庭に収まった。娘を出産し、母にもなった番だが「ずっとうちにいるのは面白くないし、性に合わないことがよくわかった」。考えていたとおり、司法試験を目指そうと奮起したのは1986年頃である。家族の協力の下、時間を縫い、受験予備校や図書館に通いながら集中勉強する日々。司法試験に合格し、「新たな人生が開けた」のは約5年後のことだった。

例えば、娘を幼稚園に連れて行ってから、そのまま自転車で図書館に回って勉強し、また迎えに行ってという生活です。母がいたからやれたようなもの。母も社会的な活動を積極的にする人で、選挙管理委員とか婦人会活動とか、いろいろやっていたんですけど、「私が社会に出るほうが役に立つから、あなたは孫の面倒を」と、勉強するために外堀は埋めたんですけどね(笑)。両親も夫も応援してくれたのは、ありがたかったです。択一試験は早くに合格したものの、論文はよかったり、悪かったりと波があって、後半はもう暗黒時代という感じ。最後の1年は、予備校で優秀賞を取って特待生になったので、それでもダメだったらやめようかとも思っていました。キリキリするから家族にも当たって、今思えば、何とも申し訳ない話。それだけに合格した時は、暗いトンネルを抜けてパーッと人生が開けたような喜びがありました。人生において、一番勉強した期間です。幼い娘は「ママ=勉強している人」だと思っていたようで、幼稚園に行くようになってから、どうやらほかの家とは様子が違うらしいと(笑)。「よそのママはお菓子もつくるんだって」なんて言われたものです。かわいそうな思いもさせましたが、でも、何かを志すには懸命に勉強しなきゃいけないという姿は見せられたので、それだけはよかったかなと思っています。駆け出し弁護士として、基礎を学ばせてもらったのは山田法律事務所です。千葉での修習時代にお世話になった、子供の権利で有名な山田由紀子先生が「夫の事務所で人を探しているから」とつないでくれた先です。一般民事が中心でしたけど、刑事事件もけっこうあって、多種多様、何でもやりました。これは視野を広めるうえで、ものすごくいい経験になりましたね。子供のことも配慮してくださり、時間的に長く拘束されなかったのも、私にとってはありがたい環境でした。(以下略)
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■プロフィール

  • 番法律事務所
  • 弁護士
  • 番 敦子
  • 1956年7月29日千葉県市川市生まれ
    1979年3月東京外国語大学
    フランス語学科卒業
    1982年3月同大大学院
    外国語学研究科修了
    1991年10月司法試験合格
    1994年4月司法修習修了
    弁護士登録(第二東京弁護士会・46期)
    山田法律事務所入所
    1998年2月番法律事務所開設
  • 家族構成=夫、娘1人
  • ■委員など

  • 第二東京弁護士会犯罪被害者支援委員会委員長、法制審議会(犯罪被害者関係)部会委員、日本弁護士連合会犯罪被害者支援委員会委員長、内閣府再就職等監視委員会委員、第二東京弁護士会副会長を歴任