弁護士の肖像:2016年7月号 Vol.52

弁護士の肖像

アトーニーズマガジン 弁護士の肖像

日本のリーガルサービスを牽引する、著名な弁護士の素顔や仕事観・人生観をご紹介。

Human History

弁護士の肖像

曾我法律事務所 弁護士/ニューヨーク州弁護士 曾我 貴志

母親に刷り込まれた目標 叶え、東大法学部に。
在学中に司法試験合格

渉外事務所所属の弁護士として北京に渡ったのは、中国の「弁護士業界」がまだ草創期にあった1994年暮れのことだった。現地で日本人ビジネスロイヤーのパイオニアの一人として奮闘した曾我貴志は、帰国後そこで得た経験、人脈という強みを生かし、活躍の場を広げていく。2012年には曽我法律事務所を立ち上げ、中国に留まらずアジア、さらには世界を対象にしたビジネスを展開中だ。ただし、現状は「狙ったのではなく結果」だとあえて言う。そこには、どんな〝人生のターニングポイント〞があったのか。

65年、川崎市多摩区の生まれです。川崎といっても海側から離れた丘陵地帯で、山あり川あり。そんな環境で、クワガタやザリガニ取りに夢中になるような子供時代を過ごしました。親父は「出世はいいから、遠隔地への転勤は勘弁」という、〝モーレツ社員〞全盛の当時としては珍しい〝ゆとり〞型の銀行員。対して母親はまさに〝昭和の母〞で、「日本で偉くなるためには、いい大学に行かないとね」と長男を繰り返し諭すわけです。具体的には「東大法学部に行け」と(笑)。そんな話を聞かされているうちにすっかり洗脳され、小学5年になると自分から言い出して、週6日の塾通いもしました。そういう流れで受験して、中高一貫の駒場東邦に進学したのです。中学では野球に打ち込み、高校では麻雀にハマったことも。でも東大受験という目標がありましたから、高1の終わり頃からは相当真剣に勉強したと思います。東大文一の合格発表の日、珍しく親父が「一緒に見に行く」と言うのです。自分の番号を見つけた時は嬉しかった。自分のことよりも、そんな両親に親孝行ができたわけだから。

東大は最初の2年間を教養学部のある駒場キャンパスで過ごす。駒場には、難関を突破した安堵感からか〝浮かれた空気〞も漂う。「法学部に行くのだから司法試験の勉強をしよう」と教科書を揃え、予備校のガイダンスに顔を出したりもした曾我だったのだが……。

なぜ司法試験を考えたか?とにかく「最も難しい資格試験」にトライしてやろうという気持ちですね。法曹資格は持っておいたほうがいいだろうとも思っていました。ところが教科書を眺めてみると、やるべきことがたくさんある。とても片手間で対応できるような挑戦ではないことを認識させられ、気持ちは一気に萎えてしまいました。そうなると、ますます駒場の緩んだ空気に抗いがたく、飲み歩いたりテニスのサークル活動に興じたり。気づけば普通の大学生をしていました(笑)。このままではダメだと危機感を抱いたのは2年の夏のこと。そして思い立ったのが語学留学でした。中学時代から英語好きでしたので、本場で磨きをかけるのも悪くないと考えたのです。初めての海外、行き先はロンドンです。ホームステイして語学学校に通いました。日本の英語教育も捨てたものじゃないと感じたのは、ペーパーテストでは高得点が取れること。その結果、一番レベルの高いクラスに振り分けられ、見回したら全員がヨーロッパ人。おかげで話し、聞くことは苦労しましたけれど、そのうちに友人もできました。そうなると毎日が楽しくて、「自分は国際舞台でやれるのではないか」という自信のようなものが沸き上がってきて。何よりも、「頑張ろう」と前向きな気持ちになれたのが大きかった。帰国すると、ちょうど秋から法学部の授業が始まったところでした。〝やる気モード〞そのままに教科書を読んでみると、不思議なことに、1年生の時にちょっとかじっただけで書架の肥やしとしたはずなのに、これならやれるのではないか、と。ロンドンが私をアグレッシブに変えたのでした。3年生になって本郷キャンパスに移る直前、実家を出て教室から歩いて2分の〝貸間〞に下宿しました。本気で司法試験を目指すための選択です。そこからの約2カ月が、今までの人生で最も勉強した時期と言っていいでしょうね。寝食も惜しんで……というか、貧乏生活で食のほうは黙っていても不自由でしたけど(笑)。勉強は、ひたすら本を読む。眠い目をこすりながら授業に出るよりよほど効率的というのが、私の考えだったのです。ゼミ以外の授業の出席率は、半分くらいでしたね。結果3年生の5月にあった択一試験にパス、翌年首尾よく最終合格することができました。

渉外事務所に入所。 NY、香港、 そして中国へ

 大学在学中に司法試験に合格した曾我は、卒業後に司法修習生となる。判事、検事、弁護士の仕事を実体験しつつ〝職業選択〞を行うわけだが、実は修習前、弁護士になるつもりはなかったのだという。

ここでも母親の言葉に引っ張られるわけですね。「年金もないような不安定な弁護士に最初からなる必要はないのでは」と(笑)。それもそうかなあ、という感じ。でも最初の実務修習でお世話になった柳田幸男先生の事務所で意識変革させられました。英語を使いたかったので渉外法律事務所での研修を希望し、東京弁護士会から柳田先生の事務所での修習の機会を与えていただいたのです。この機会が私の運命を大きく変えました。柳田先生の仕事ぶりに触れるたび「企業のために戦っているのだ」という気迫みたいなものが、ビンビン伝わってくる。それでいて、働き方の自由度が高い。得意の語学力が武器になることもわかりました。それに比べると、裁判所の厳かな雰囲気は、どうも自分には合わない(笑)。検察も組織が大きすぎて自分には上手くやれないのではないかといった印象でした。結果的に、司法修習を通じて「目指すべきは弁護士」「就職先は英語力を生かせる渉外弁護士事務所」という進路に定まっていったわけです。もし柳田先生の下で研修させていただけなかったら、今頃粛々と判決を書いていたかもしれず、それはそれでいい人生であったかもと思うこともありますが。修習を終えた90年に入所したのは、アンダーソン・毛利・ラビノウィッツ法律事務所です。外国人が多くいて英語を使う環境に最も恵まれていそうだということと、早めに留学させてくれるのではないかという期待があったから。ロンドンの思い出もあって、早く留学したかったのです。当時のアンダーソンは、いい意味でバラバラ。いろんなタイプのパートナーが群雄割拠している感じ。仕事の中身も、若手には、外債発行、東証上場、リースといったファイナンスはもとより、外国の顧客向けの日本法のオピニオン、ジェネラルコーポレート、さらには訴訟、それも破産申立から民事執行、通常訴訟も全部やらせる、という感じでした。当時は弁護士40人くらいの規模ですから、丁稚の私にも無秩序にアサインメントがくるわけですよ。睡眠時間を削ればいくらでも仕事はできるというノリで、片端から受けました。奉公に入ったその日から、野菜の皮むきだけではなく、皿洗いもやればモップがけや下ごしらえも、場合によっては仕上げや接客も。そうやって、知らず知らず幅広い仕事のノウハウを蓄積できたという意味で得難い経験でした。パートナーの流儀も様々で、「後は任せたよ」と放任型の先生もいれば、苦労して書いた訴状を読めないくらい真っ赤に手直しする先生も。だから、ある程度主体性を持った仕事から完全な下働きまで、仕事の性質という点でも多様な体験をさせてもらった気がします。

 念願の留学を認められるのは、そんな〝丁稚奉公〞を2年あまり務めた92年のことだった。米国ミシガン大学ロースクールに学び、ニューヨークのローファームで研修、同州弁護士資格も取得した。と、ここまでは、渉外事務所の弁護士ならば一般的な道のりといってもいい。ところが曾我は、「プラスαのつもりで」別の研修希望を申し出ていた。それが、彼曰く「人生の第2ステージ」の幕を上げることになるなどとはつゆ知らず、である。

私は少し早めに外に出してもらったのだし、ニューヨークだけではなくて、アジアの金融マーケット、具体的には香港も見てみたいと思ったのです。そこで上司に相談したら、当時アンダーソンにいた香港弁護士のつてで、現地の事務所を紹介してもらえることに。ところが、本当の〝プラスα〞はその先でした。上司は、「どうせ香港に行くのだったら、中国本土に渡って中国語を習得してこい」と言う。後先考えず、「はい」と即答していました。外国語をもう一つものにするチャンス到来、くらいの気持ちです。それにしても、なぜ上司がそんなことを言ったのか? 当時、アジア企業の東証への上場が始まっていました。実際にマレーシアや香港の不動産会社などが上場を果たしたのですが、アンダーソンはそれらの企業の顧問になっていたのです。で、次は間違いなく中国だろう、と。そうすると、必然的に中国語が話せて現地の事情にも詳しい弁護士が必要になる。そんなタイミングで、突然「香港に行きたい」と手を挙げた奴がいた、というわけ(笑)。結局、アメリカには2年、その後渡った香港には4カ月いて、94年の暮れも押し詰まった頃、私は極寒の北京の地を踏んだのです。(以下略)
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■プロフィール

  • 曾我法律事務所
  • 弁護士/ニューヨーク州弁護士
  • 曾我 貴志
  • 1965年6月8日川崎市多摩区生まれ
    1987年10月司法試験合格
    1988年3月東京大学法学部卒業
    1990年4月司法修習修了
    弁護士登録(東京弁護士会・42期)
    アンダーソン・毛利・ラビノウィッツ法律事務所入所
    1993年6月ミシガン大学ロースクール修了(LL.M.)
    1993年9月米国スカデン・アープス・スレート・マー&フロム法律
    事務所にて研修
    1994年6月米国ニューヨーク州弁護士資格取得
    1994年8月香港の諸立力(ビクター・チュー)法律事務所にて研修
    1995年8月北京市中倫律師事務所にて研修
    1998年4月アンダーソン・毛利法律事務所パートナー、
    北京事務所所長就任
    2000年9月糸賀法律事務所(後に糸賀・曾我法律事務所と改称)パートナー
    2005年1月弁護士法人キャスト糸賀 代表弁護士
    2008年8月弁護士法人曾我・瓜生・糸賀法律事務所代表弁護士
    2012年1月曾我法律事務所パートナー
  • 家族構成=妻、娘2人