弁護士の肖像:2016年9月号 Vol.53

弁護士の肖像

アトーニーズマガジン 弁護士の肖像

日本のリーガルサービスを牽引する、著名な弁護士の素顔や仕事観・人生観をご紹介。

Human History

弁護士の肖像

松竹株式会社 代表取締役社長 弁護士 迫本 淳一

腕白でスポーツ万能。 少年の頃からリーダーシップを発揮

迫本淳一は、日本ではまだ数少ない弁護士資格を有する上場企業の社長だ。国際弁護士として道を歩んでいた迫本が、松竹の経営者へと転身を図ったのは45歳の時。同社の前会長、永山武臣氏から熱心な誘いを受けてのことである。しかしそれは、当時厳しい財務状況にあった松竹の立て直しに白羽の矢が立った格好でもあったから、決してラクな道ではなかった。それでも迫本は、得意なスポーツを通じて培ってきた克己心を発揮し、今日に至る強い組織を築き上げた。「弱いものを、みんなの力で強くしていくのが何より好きなのです」。リーダーたる迫本の生き方は、この言葉に集約されている。

幼稚舎から大学まで、僕はずっと慶應義塾で過ごしたんですけど、そもそもは親に推されてのこと。両親とも国立大学の受験に失敗したらしく、「息子には受験の苦労をさせたくない」と考えたようです。いわゆるガキ大将タイプで、遊んでばかりいた僕にすれば、お受験など性に合わなかったのですが……。でも今にすれば、「独立自尊」の精神をベースにした慶應の教育から受けた影響は大きく、生涯にわたる友人や仲間を得ることもできたから、いい学生時代を送れたと感謝しています。スポーツが大好きで、大学生になるまではもろ体育会系。幼稚舎時代からラグビーと水泳を始め、力をつけていったのですが、ラグビーだけは、親から「お前の性格からすると、そのうち大怪我をする」と反対されまして。続けた水泳では、6年生の時に幼稚舎の新記録を出したんですよ。50m自由形で36秒7。いまだに覚えています。普通部に進んでからは、水泳部とスイミングスクールとの両方で練習を重ね、2年生の学年別大会では、競泳100m自由形で、当時の神奈川県学年新記録を更新しました。先生や大学生からもすごく期待されて、中学生ながら水泳の早慶戦にも公式出場させてもらった。慶應始まって以来のことだったし、僕としては本気で「オリンピックに行きたい」と考えるようになっていました。ところが、途中で医者から「心臓肥大かスポーツ心臓のどちらかかもしれない」と言われ、結局は、水泳をやめてしまったんです。それでスッパリ切り替えて、高校に入ってから始めたのがハンドボール。なぜ選んだかというと、慶應ではメジャーじゃなかったから。性分なのか、メジャー感をバリバリ出して肩で風切って歩いているようなヤツには、なぜか反発したくなる(笑)。裏を返せば、弱い人や困っている人をサポートしたいという思いが常にあって、そのほうが僕の性には合っているんですよ。

実際、慶應義塾高校のハンドボール部は「めちゃくちゃ弱かった」らしく、2年の時に臨んだ公式戦では、1引き分け全敗という悪成績。翌年からキャプテンを務めた迫本は、それを強いチームへと牽引し、結果、神奈川県大会での優勝、部として慶應初となったインターハイ出場を果たしている。

途中から、ハンドボールにすごく強い田中明先生に顧問についていただき、先生の指導の下、そりゃもうすさまじい練習をしました。実践も積もうということで、強豪校相手に片っ端から練習試合を申し込みましてね。なかでも印象深いのは、全国レベルの実力を誇る中央大の付属高校。試合に赴いた際、向こうの先生が選手たちを鼓舞するために、頬をパンパン引っぱたいているのを見て、僕らは怖じ気づいたものです。慶應の連中なんて、親にも叩かれたことがないようなヤツばかりだから。案の定、ダブルスコアで圧倒的に負けたのですが、試合後、意外なことにその先生から「けっこういい線いってるじゃないか」と。「東京都で、うちのチームから半分得点を取れるところはないから」と言われたのです。それから度々、練習にも行くようになり、切磋琢磨させてもらったのです。インターハイは、2回戦で惜敗の結果に終わりました。前半リードして折り返したのに、僕がラフなディフェンスで2回退場を食らってしまい……逆転の1点差負け。悔しかったですねぇ。「何で退場になるようなことをしたんだ」と、仲間からずっと言われ続けていますよ(笑)。でも、このある種の成功体験は大きい。弱小チームであっても、あきらめず、懸命に努力し続ければ、何事も乗り越えられるという自信と克己心を得ることができたから。この頃に描いていた将来像は、いずれ海外のビジネススクールに留学して、国際舞台で仕事をすることでした。『五番街の日章旗|ソニーの海外戦略』という本を読んだのをきっかけに、世界的なビジネスに強い興味と憧れを持つようになったのです。それと幼稚舎時代の先生から、いつも「日本人は世界から理解されていない。君たちはどんどん外へ出ていけ」みたいな話を聞かされていたから、その影響もあったのでしょう。ビジネスを通じて、日本人の素晴らしさをアピールしたいという思いが、僕にはずっとあったのです。

大学時代からは、語学と学業に専念。目指したのは国際舞台

その将来像に向けて、大学は経済学部に進学。「違う方向に行く」とひとたび決めると、迫本は意志の強さを発揮する。スポーツを完全にやめ、最初の2年間は、英会話スクールに毎晩通いながら徹底的に学んだ。その力量については、「英語が全然できない人が聞けば、流暢な英語だと思える程度」と本人は謙遜するが、学生の多くが一番遊びたい時期に、迫本は語学と学業に専念したのである。

3年からは、当時、最も厳しいとされていた加藤寛教授のゼミに所属しました。社会主義計画経済と、自由主義の市場経済の融合点をどこに求め、どう調和させるべきか――というのがゼミのテーマで、これに触れたことは、現在の経営においても役立っていると感じています。例えば中央集権か分権か、トップダウンかボトムアップかなど、組織運営のあり方を考えるうえで、基盤になっているところがあるので。海外の名門ビジネススクールで学びたいという気持ちは変わらず、目標にしていたのですが、学部卒でいきなり行くのは難しいでしょ。考えたのは、まずは資格を取ろうと。ここでようやく弁護士という職業が出てくる(笑)。法律に興味があったというより、弁護士資格をステップにして、ビジネスの国際舞台に立ちたいと考えたわけです。それで、経済学部を卒業した後に、法学部3年に学士入学したのです。司法試験に向けて本格的な勉強を始めたのは、再度卒業して数年経ってから。結婚したばかりで生活のこともあるから、不動産賃貸業を主とする松竹映画劇場という会社に就職し、働きながらの受験勉強です。ところが、この時代が長く続きまして……考えていた踏み台を得るのに、つまり司法試験に合格するまでに10年かかっちゃった。早々に択一に受かり、なまじ論文試験の成績もよかったものだから、楽勝だと甘く見たのがいけなかった。択一に受かると論文で落ち、またその逆もありという繰り返し。次第に、周囲の視線も「あいつは何やってんだ」という感じになって。それまで負け知らずのように歩んできた人生が、まるで逆転したようで、さすがの僕も苦しかったですね。母親は「せっかく受験のない世界に入れたのに、何で好んで難しい司法試験を」と嘆くし。それでも、父親やかみさんが応援してくれたので、ぐれずに済んだ(笑)。今思えば、途中で撤退する勇気も必要だったかもしれないけど、当時の僕には、それは〝逃げ〞にしか思えなかったのです。やっと合格したのは37歳の時。時間はかかったけれど、乗り越えるという経験をまた一つ、得ることができたのは確かです。

司法修習生としては遅まきながらのスタートだったが、弁護士、検事、いずれの実務修習も成績はよかった。迫本にすれば、すでに10年社会を見てきたから、修習時代は「楽しかったといえば楽しかったけれど、退屈でもあった」と笑う。だが、この時代に迫本は、後に松竹の永山会長から「うちに」と請われる布石になるような活動をしていたのである。

弁護実務修習の担当教官は、あの敏腕の久保利英明弁護士で、先生のカバン持ちをしていたんですよ。とはいえ40歳前でしょう、僕はわりに押し出しの強いタイプに見られることもあって、「総会屋対策用に雇った用心棒」なんて冷やかされたものです(笑)。スタートが遅かったぶん、何かで取り戻そうと活動を始めたのが、実業家をゲストに呼んで、修習生たちに話をしてもらうという会。「将来、弁護士や検事、裁判官になる人たちに、ぜひ刺激になるようなビジネスの話を」と。〝人を知る〞ことも、法曹にとっては大切ですから。錚々たる方々に来ていただいたのですが、永山会長もそのお一人でした。実は、昔からお付き合いはあったのです。映画プロデューサーとして、松竹映画の黄金期を切り開いた城戸四郎は、僕の母方の祖父で、その関係からのご縁です。そういう会を組織するなかで、永山会長は僕のオーガナイズの仕方とか、人との付き合い方などを見ていらしたのだと思う。弁護士になってすぐ、株式会社歌舞伎座の顧問にしてもらったこともあり、何かと目をかけてくださっていたんですよ。もっとも過去、自分が松竹に入るとは思ってもいなかったし、爺さんが存命だった頃に、それらしい話をされたことは一度もなかったんですけどね。(以下略)
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■プロフィール

  • 松竹株式会社 代表取締役社長
  • 弁護士
  • 迫本 淳一
  • 1953年4月2日東京都文京区生まれ
    1976年3月 慶應義塾大学経済学部卒業
    1978年3月 慶應義塾大学法学部卒業
     4月 松竹映画劇場株式会社入社
    1990年10月 司法試験合格
    1993年4月 司法修習修了
    弁護士登録
    (第二東京弁護士会・45期)
    三井安田法律事務所入所
    1997年5月 カリフォルニア大学
    ロサンゼルス校ロースクール修了
    1997年9月 ハーバード大学ロースクール
    客員研究員
    1998年4月 松竹株式会社顧問就任
     5月 同社代表取締役副社長就任
    2004年5月 同社代表取締役社長就任
  • 家族構成=妻、息子3人