弁護士の肖像:2016年11月号 Vol.54

弁護士の肖像

アトーニーズマガジン 弁護士の肖像

日本のリーガルサービスを牽引する、著名な弁護士の素顔や仕事観・人生観をご紹介。

Human History

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新千代田総合法律事務所 前日本弁護士連合会会長 弁護士 村越 進

社会派テレビドラマで 弁護士に憧れ、東大へ。 司法試験は一発合格

「被疑者取り調べの可視化」の推進、最高裁との協議で実現させた労働審判実施裁判所支部の拡大、すべての児童相談所に原則として弁護士を配置する児童福祉法一部改正の後押し――。今年3月まで日本弁護士連合会(日弁連)会長を2年務めた村越進が、リーダーシップをいかんなく発揮した仕事は数多い。歴任した日弁連人権擁護委員会委員長、第一東京弁護士会会長なども含め、携わった〝会務〞で残した成果をみれば、それらがある意味〝天職〞だったことがわかる。その芽は、多感な少年時代にすでに顔を出していた。

生まれは信州・上田、そう『真田丸』の地元です。実家はいわゆる紙器製造業をやっていて、機械部品用、お菓子用などのいろんな箱をつくっていたんですよ。小さな頃から工場に入り込んでは、手伝っているのか邪魔になっているのか。そんな環境で育ちました。今でも鮮明に覚えているのが、中学生の頃に放映されていた『判決』というテレビドラマ。7人の弁護士が、協力して弱い立場の人の権利を守るために奮闘するというストーリーでしたが、そこで扱われるのは部落差別や生活保護など、ビビッドな社会問題でした。何よりも、社会の矛盾に苦しむ人たちのために献身的に戦う弁護士がカッコよかった。私が漠然とではあるけれど、「将来は弁護士になりたい」と意識したのは、それがきっかけだったのです。高校に進むと、生徒会活動に没頭しました。今から考えれば、「担ぎ出される」性分はこの頃からのものらしく、2年生になると生徒会長に。忘れられないのが「応援団の民主化」です。旧制中学の流れをくむ長野県上田高校にはバンカラの気風が色濃く残っており、応援団長は生徒会長よりもずっと権力を持っていて怖かったんですよ。それはおかしいということで、応援団を生徒会の委員会の一つにするという改革を断行したのです。普通は生徒会活動からは退く3年生の応援団長が「けしからん」と会長選に立候補して大接戦になるなど、〝切った張った〞もけっこう……。まあ昔からそんなことをやっていたというわけです(笑)。

一方で弁護士になりたいという夢は、その頃には明確な目標になっていた。東大法学部を目指そうという思いも定まっていたが、思わぬ事態に回り道を余儀なくされてしまう。村越が受験生となった1969年、激しさを増していた東大紛争のあおりで、入試自体が中止になってしまったのだ。急遽京大法学部にターゲットを変更するも、受験はあえなく不合格に。浪人生活の末、当初の目標を果たしたのは翌年だった。

東大に入学しても学園紛争の余波が完全に収まってはおらず、学生のストライキで半年ほどは授業がないような状況でしたね。麻雀ぐらいしかやることがないわけです。そんなこんなで、駒場(教養学部)の2年間は、ほとんど勉強した記憶がないんですよ。だから司法試験に向けた準備を始めたのは、3年生になってから。ただし、そこからは本気です。「Ⅰ類談話会」という勉強会に参加して演習問題を解いて発表し、お互いに批評し合うといったことをやりながら、1週間に100時間は机に向かいました。そんな生活を送っていると、自分でも頭が「おかしく」なっているのを自覚するんです。ついには耳鳴りもしてきて、東大病院で診てもらったら、「司法試験の勉強をやめればすぐ治る」と。東大の医者はなんと役に立たないのだ、と憤然としたのを覚えています(笑)。それだけやっても出題範囲のすべてをカバーできたわけではなかったので、4年次に初めて受けた司法試験で合格したのは、ラッキーというしかなかったですね。周りの人たちも「え、お前が受かったの!?」という感じでしたが、正直、一番驚いたのは自分自身でした。ともあれ、晴れて夢をかなえる入り口には立てた。修習を終えて選んだのは、ボス弁のほかに弁護士が2名という、こぢんまりした法律事務所です。一番の決め手は「定刻に帰れる」こと。実は学生時代から付き合っていた女性と結婚し、共働きすることを決めていました。後々の子育てなども考えると、それが魅力的で。最初から、あまり志の高い弁護士とはいえないですよね。ちなみに、子供は3人できました。妻は朝が早いので、保育園に連れて行くのは私の役目でしたが、保育環境は今より悪く、1カ所に子供たち全員は入れられないのです。あっちこっちと連れて行くと、10時の法廷に遅刻したり。そんな〝イソ弁〞を大目にみてくれたボスには、今でも感謝しています。

独立してから 人権擁護委員会の一員に。 会務の醍醐味を知る

信用金庫の顧問だったその事務所の仕事は、金融絡みの事件が半分以上を占めていた。「厳しい事件に直面することも少ないが、大きな達成感を味わえるわけでもない」居心地のよい職場には、結局8年間在籍する。独立し、個人事務所を立ち上げたのは、子育ても一息ついた84年のことだ。その後88年には、2名の弁護士とともに「新千代田総合法律事務所」を開設する。ところで、この独立を機に、村越は弁護士会の会務に〝のめりこむ〞ことになる。きっかけは何だったのか?

〝居候〞を卒業するとすぐに、所属する一弁(第一東京弁護士会)の先輩から、「独立しても、最初はろくな仕事もなくて暇だろう。会務を手伝ってくれよ」と声をかけられたんですね。その時やっていた仕事にやや物足りなさを覚えていたことや、会員である以上少しはお役に立たないと、という責務も感じて承諾しました。ただ、この時たまたま一弁の人権擁護委員会に〝配属〞されたことが、その後の私の進路を決定づけたと言っても過言ではないでしょう。そこで手がけた案件には、ずいぶん後、委員長になってからのことですが、筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者さんの代理投票制度がありました。意識は健常者と変わらないのに、病が進行すると、まばたきぐらいしかできなくなってしまう難病の彼らは、投票所に出かけることは困難だし、自書しか認められない郵便投票もダメ。要するに選挙権が行使できない状態にあったのです。患者団体からの人権救済の申し立てを受けて我々が最終的に選択したのは、国家賠償請求訴訟の提起でした。内部に「弁護士会の一委員会が国賠訴訟というのは、やりすぎではないか」といった強い反対論もあるなか、侃々諤々の議論を何度も続けた末の結論です。私は弁護団長を務めたのですが、提訴の結果、一審で請求自体は棄却されたものの、現状は違憲状態だという画期的な判決を引き出すことができました。ほどなく代筆による郵便投票が認められた。ALS患者以外も含め、何十万人もの人が投票できるようになるという成果を勝ち取ったのです。そうした取り組みを通じて確信したのは、みんなで協力すれば、現実に世の中を動かせるのだ、ということです。法律を変えるなんて、弁護士個人がどんなに頑張ったところで至難の業でしょう。しかし、弁護士会が本気になれば、そこまでやれる。人権擁護委員会の活動で、あらためてこの仕事のやりがいに目覚めた感じがしました。弁護士になってよかったな、と。

その思いは、どこまでも弱者に手を差し伸べようとする『判決』の弁護士たちと通底するものだったのだろう。〝水を得た〞村越はその後、2001年から日弁連の人権擁護委員会の委員長を2年務めた後、第一東京弁護士会の副会長に就任する。そしてそのタイミングで、今度は弁護士会内部に鋭い意見対立のある案件のまとめ役を任された。そこでは一転、厳しい現実を体感することになる。

理不尽な犯罪で家族を奪われた遺族など、犯罪被害者の権利を広く認めるべきという世論が高まるなかで、国政の場などでは彼らを刑事訴訟に参加させようという動きが活発化していました。日弁連としてもこの問題に対する意思表示が必要だということになったのですが、内部にはそれを推進しようとする弁護士と、刑事弁護の立場から絶対に認められないという圧倒的多数派の刑事系弁護士の対立がありました。そこで協議会をつくって議論しようということになり、ついては人権擁護委員会の委員長もやった〝ニュートラルな〞立場のお前が座長をやれ、ということになったのですが……。これはもう、死ぬ思いでしたよ。とにかく両者は水と油。あまりに険悪なので、「たまには一杯やりましょうか」と言ったら、「いやビール瓶のあるところで話をするのは危険だ」と(笑)。そんなことを1年も続けて、何とか双方の意見を取り入れた報告をまとめたのです。ところが、日弁連の理事会で決議されたのは、結局多数派の主張そのままの、「被害者参加制度は導入すべきではない」という意見書でした。徒労というのは、ああいうのをいうんでしょうね。だからというわけではないのですが、目を向けるべきは、その後、被害者参加制度が日弁連の反対にもかかわらず〝予定どおり〞施行されたという事実だと思うのです。そもそも世の中全体からすれば多くのテーマで、日弁連自体、少数派に過ぎない。制度に問題があると考えるのなら、少しでも改善するために、原理原則を言うだけではなく、場合によっては妥協点を探ることもしていかないと世間に理解してもらうのは難しい。また、物事をよくすることもできない。そんなことをつくづく考えさせられた一件でした。(以下略)
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■プロフィール

  • 新千代田総合法律事務所
  • 前日本弁護士連合会会長
  • 弁護士 村越 進
  • 1950年 9月 1日 長野県上田市生まれ
    1973年 10月 司法試験合格
    1974年 3月 東京大学法学部卒業
    1976年 4月 司法修習修了
    弁護士登録
    (第一東京弁護士会・28期)
    萩原法律経理事務所入所
    1984年 4月 村越法律事務所開設
    1988年 3月 新千代田総合法律事務所開設
    2001年 5月 日本弁護士連合会
    人権擁護委員会委員長
    2008年 4月 第一東京弁護士会会長、
    日本弁護士連合会副会長
    2014年 4月 日本弁護士連合会会長
  • 家族構成=妻、娘2人、息子1人