Vol.36
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渥美 雅子

HUMAN HISTORY

弁護士の仕事は、厳しくて責任重大だけれど、それらを一つ一つ乗り切って、さらには楽しんでほしい。必ず、最高の景色が見えてくるから

渥美雅子法律事務所
弁護士

渥美 雅子

何事にも懸命に取り組み、早くから自立心旺盛だった少女

弁護士としてのキャリア47年。渥美雅子は、現在もホームグラウンドにしている千葉県の女性弁護士第1号で、文字どおり草分け的な存在として、自ら道を切り拓いてきた。離婚や相続、少年事件など、とりわけ家族の問題に通暁する弁護士として知られ、今も「ぜひ、渥美先生に」と、日本全国から相談が寄せられている。長いキャリアだけではない。法律的な観点を超え、人心にとことん寄り添い続けてきた渥美には、相談者の人生をも包み込む、強さと温かさがある。

1940年、静岡県浜松市で誕生。日本が第二次世界大戦に突入する前年に生まれた渥美の記憶は、戦争体験から始まる。灯火管制で真っ暗闇になった町を、防空壕めがけて懸命に走る様。それが、覚えている最初の自分の姿だ。

浜松市には日本陸軍の高射砲連隊がとどまっていたので、早くから米軍に狙われ、毎晩のように爆撃を受けていました。空襲警報のサイレンが鳴れば、すぐに逃げられるよう、枕元には防空頭巾を置いてね。食うや食わずで、生きるのが精一杯。子供時代に楽しく遊んだという記憶はないですよ。終戦は疎開先で迎えましたが、大人たちが泣いたり騒いだり、何かいつもと様子が違うなぁと感じたのを覚えています。

明治生まれの父は、いわゆる男尊女卑を絵に描いたような人で、「オンナなんて人間じゃない」くらいの感じ。私が生まれても、「跡継ぎにならない」と思ったのでしょう、父は母を入籍していなかったんです。10歳下の弟が誕生した時に大喜びし、ようやく私も嫡出子になったという話。家庭は封建的なムード一色で、誰もが、父には絶対服従です。母は、きつい言葉の暴力をずいぶん受けていましたが、でも、経済力がないから自分で食べていくのは難しい。「もう我慢できない」と毎日のように言いながらも、結局、離婚しませんでした。「女性も手に職をつけなきゃダメよ」――それが母の口癖。私は、「稼げるようになったら母を救出してやろう」と、いつも考えているような子供でした。

今も、女性の多くは、離婚すれば生活水準がドンと落ちるのが現実です。だから迷うし、苦しむ。相談に乗っていると「母親と同じだな」「経済力がないのは弱いことなんだな」と、身に沁みて感じるんです。私は〝元祖離婚弁護士〞と呼ばれることもあるんですが、どこか根っこで、子供の頃の家庭環境が影響しているのかもしれません。

父親は、渥美を〝一人前の人間〞、つまり男の子として育てようとしたらしい。賢く、強く――その期待値は高く、成績も運動も常にトップであることが求められた。ゆえに、何をしても優秀。元来は本を読んだり、詩を書くことが好きなおとなしい少女だったが、中・高校時代は、熱中した演劇を通じて表舞台に立ち、様々な場面において、その利発さを発揮するようになった。

引っ込み思案だった私が変わったのは、中学生の時、JRC(青少年赤十字)の活動に取り組むようになってから。通っていた中学は、学校全体がJRCに加盟していて、外国の子供たちとの交流や、様々なボランティア活動に熱心だったのです。見知らぬ遠い外国に触れるのは刺激的だったし、また、寄付金を集めたり、施設を訪問するなどのボランティア活動は、勉強や読書とは違った手応えがありました。懸命に活動した甲斐があって、東京で開催されたJRCの全国大会に静岡県代表の一人として参加できたのは、大きな思い出です。JRCの活動を通じて、奉仕の精神や正義感みたいなものが培われたのか、私は、自然とリーダーシップを取るようになっていきました。

高校生になってから、2つやらかしたことがあります(笑)。先生を追い出した事件。一人は社会科の先生です。彼の授業は教科書を読むだけで、何の解説もなければ、自分の言葉で何かを教えるわけでもない。同級生たちは皆、問題にしながらも行動に出ないので、看過できないと思った私は、2学期の期末試験で白紙答案を出したんです。抗議の意味を込めて。当然、職員会議で大問題になり、呼び出しですよ。私としては処罰は覚悟のうえ。「教科書読むだけだったら、私にもできます」と訴えたのです。校長がキャパシティの大きな先生でね、結果処罰なし。声を聞き入れてくださった。静岡県立浜松北高校は、当時、男子がほとんどの進学校でしたが、生徒の個性を尊重する、とても自由な校風の学校でした。

そしてもう一人は、私が所属していた演劇部の顧問。先生が書きおろした『渦』という芝居を演じて、県のコンクールで優勝したこともあるんですが、その台本がピークだったと、私は勝手に判定。その後の台本は駄作に見えたし、「このままではいけない」と思ったから、体よく交渉して、顧問を下りてもらったのです。生意気もいいところでしょ(笑)。周りからは前代未聞だと言われましたが、でも、ゆるがせにできない問題に対しては口を開く――そういう気質があったんでしょうね。

混沌とした時代を経て、司法試験を目指す。猛勉強の末、22歳で合格

渥美 雅子

数々のヒロイン役を演じる一方で、「書くことが大好き」だった渥美は、脚本も手がけていた。女優になるか、脚本家になるか。いずれにしても、将来は演劇の道に進もうと、渥美は東京の大学を目指す。「親元を離れて自由になりたい」という思いも強かった。ただし、父親から出された条件がある。「法学部に入ること。でなければ学費は出さない」。かつて、司法試験を狙ったことがある父親は、その果たせなかった夢を渥美に託したのである。

私としては文学部志望でしたが、学費のことを考えれば、逆らえませんでした。それで合格した中央大学の法学部に進学したのですが、内心では「絶対に父のいうとおりにはならないぞ」と。息のつまる実家を出て、晴れて一人暮らし。高校の上級生だった恋人、今の夫は先に上京していたので、それはもう、二人して舞い上がりましたよ。変わらず演劇にも熱中し、大学の授業なんて出やしません(笑)。

それが2年の時、60年安保闘争にぶつかって、劇団も大荒れに荒れ、芝居どころじゃなくなった。私は熱心な活動家ではなかったけれど、キャンパス全体には緊張感が漂っていて、演劇にしても勉強にしても、のんびりやれる空気はなかったのです。悶々とした末、結局、演劇とはお別れ。夢中になれるものを失った私は、スッカラカン状態で、しばらく無気力でした。読書にふけるか、山歩きをするぐらいで……。就職を意識する段になって、「私も何かしなきゃ」と思ったものの、勉強はまともにしていないし、そもそも当時は、大学の法学部卒業の女性を採用する企業など、まずありません。私に残された道は、司法試験だけでした。だから、決して前向きな話じゃないんですよ。

ただ一つ、私が珍しく欠かさず受講していた政治学の授業があって、その時の小松春雄先生が、私が提出したレポートをとても褒めてくれたのです。「これだけの論文は、中央大学に奉職してから初めて見た。君のような人は、絶対に法律家になるべきだ」って。それほど頑張ったレポートでもないのに……何かの間違い? 当の私はビックリですよ(笑)。でも、この言葉が、司法試験を受けてみようと思ったきっかけの一つにはなりましたね。

4年生の時、腕試し的に短答式試験を受けたが、さすがに歯が立たず。ここから、渥美の猛スパートが始まった。この頃は予備校などないから、もっぱら図書館やアパートに籠もって独学。日中は近所が騒がしいからと、昼夜逆転の生活にし、食事もろくに摂らないほどの集中勉強。「自立するには、これっきゃない」。そんなせっぱ詰まった気持ちが、渥美を突き動かしていた。

猛勉強の甲斐あって、大学を卒業した年、2回目の短答式は合格です。次の論文式まで42日間だったのですが、読まなきゃいけない基本書を積んでみたら、これまた42㎝(笑)。なら、1日1㎝読もうと心に決めて、あとは追い込みです。そして論文式を受けに行った帰り、無理がたたったのか、私、駅でぶっ倒れちゃった。今考えても、よく頑張ったと思うけれど、とにかくあとがなかったから。崖っぷちに立たされると、人間、やれるものです。

司法修習に入ってからは、それまで棒暗記していた法律の条文が、自分たちの生活を守るために大事なものであると、理解できるようになりました。現役の法律家による講義は、真実味や迫力があって面白かったですね。

一つ、記憶に残る授業があります。刑事裁判の授業で、実際に起きた事件記録に基づき、私たちが判決を出すというものです。修習生たちの多くは、情報交換や討議をして〝無難な判決〞を書くわけ。でも私は、自分で思ったことをパッと書いちゃう。その時、無罪判決を書いたのは私だけでした。周囲からは「落ちるぜ」と言われたけれど、それは教官が実際に担当した事件だったそうで、「僕は無罪判決としました」というのです。またビックリ。それもあって、教官からは裁判官になるよう勧められたのですが、勤務地を転々とするのも……。まあ、役人にはなりたくないという気持ちもあったから、弁護士になろうと。そして、選んだからには「一生、この道でやっていこう」と決めたのです。

31歳で独立。多様な事件に携わりながら、見つけた〝自分の使命〞

渥美 雅子

弁護士生活を振り返れば、幾多の失敗はあったけど、後悔はなし。続けてきてよかった

女性弁護士が、日本全国にわずか百数十名しかいないような時代である。就職先を探すのはひと苦労だったが、くだんの教官が、東京でも名のとおった法律事務所を紹介してくれた。その前年である65年に、渥美は結婚もし、公私共に新しいスタートを切ったのだが……。渥美は、その事務所をわずか3カ月で辞めている。職場で、今でいうセクハラを受けたからだ。

朝、私が事務所に行くと、その時から猥談が始まるの。飲み屋のママと軽口をたたくようなノリだったと思うけれど、それが終日続くんですよ。最初は笑ってやりすごしていましたが、さすがにうんざり。「髪は長いほうがいい」とか「眼鏡をかけるな」とか、服装にまで細かいチェックが入る。意気揚々と働き始めたのに、冷水を浴びせかけられたような思いでした。初めての女性採用だったから、どう扱えばいいのかわからなかったんでしょう。今じゃ考えられない話だけど。結局、朝起きるのも憂鬱になって、3カ月後には辞表を出していました。

そこからが大変。次のアテなんてないから、自分で事務所を開くしかありません。江戸川区にあった自宅前に、「渥美雅子法律事務所」という手書き看板を掲げたのはいいんだけど、当時は、あたり一面田んぼ。「この辺にいるのはカエルだけだよ」という夫の言葉どおり、誰も来やしません(笑)。数カ月間は〝開店休業〞状態でした。

そんな時に、中央大学の大先輩で、千葉県の弁護士会会長をしていた内山誠一先生が、声をかけてくださったのです。「人手が足りなくて困っているから、うちの事務所に来ないか」。もちろん、二つ返事でのりました。さぞ、珍獣が飛び込んできた感じだったと思いますが(笑)、内山先生は実に温厚な方で、私はイソ弁として5年間、存分にお世話になりました。民事事件がほとんどでしたから、離婚や遺産相続問題、会社間の契約トラブルなど、あらゆる類の事件を経験できたことは、間違いなく私の素地となっています。

72年、この時、2児の母親にもなっていた渥美は、内山法律事務所を退職して独立。千葉市の中心街にある雑居ビルの一室に、今度はお手製ではない立派な看板を掲げた。渥美のもとには様々な相談が持ち込まれ、交通事故から殺人犯の弁護まで、民事も刑事も何でもこなした。「弁護士に性別はない」とする渥美だが、女性弁護士は希少な存在だったから、そこは自然、やはり女性からの依頼が増えていった。

お金はいつもなかったけど、人は来ていました(笑)。私は出たとこ勝負なので、独立する時、「こういう事務所にしよう」とか、特に考えていなかったんですよ。気がつくと、家事事件が主になっていたという感じ。79年に、私が書いた本が『弁護士かあさん』というテレビドラマになったことがきっかけで、マスコミづいてきたというか、少し注目されるようになったのかな。

この頃、「私の行く道を決めた」というべき、運命的な事件がありました。嬰児(えいじ)殺人事件。その死体遺棄の疑いで逮捕された二十歳の女の子の弁護をしたのです。手にかけたのは父親のほうですが、若い二人が犯した何ともつらい話です。彼女は自首をして深く悔いていること、非行歴もなかったことで、結果としては執行猶予にもっていくことができました。

最初、私が警察から電話を受けた時、こう言われたのです。「被疑者が女性弁護士を呼んでいます。来てもらえますか」。千葉の弁護士名簿に載っている女性は私一人でしたから、お呼びがかかったというわけ。そして、実際に面会してみると、彼女が私を必要としている思いが痛いほど伝わってきた。「そうか。私の居場所はこういうところにあるんだ!」。はっきり、そう思ったのです。それまで、男性に追いつけ追い越せと肩肘張ってきたけれど、まさに、自分の使命に気づかせてくれた、忘れられない事件です。

後日談があります。3年ほど経ってからでしょうか、郷里に帰った彼女から手紙が届きました。事情をすべて受け入れてくれた男性と結婚し、新たな人生を送っていることが綴られていて、そこには赤ちゃんを抱っこした写真が同封されていました。「先生の名前をいただいて、雅子と名付けました」と。こんなにうれしいこと、ありませんよ。

名実共に女性弁護士の第一人者として、多彩な活動を続ける

  • 渥美 雅子
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渥美がかかわった事件のなかで、最も長い年月を要したのは、千葉県で起きた野村病院訴訟である。女性の体を営利の対象とし、〝第二の富士見病院事件〞といわれたこの事件は、14年間の係争を経て、渥美らの全面勝訴で終結した。「初めて乱診乱療が認められた画期的な判決」として、社会的にも大きな反響を呼んだが、その背景で奔走したのは、渥美を団長とする7人の女性弁護士たちだった。

新聞社のスクープがきっかけでした。軽い病気なのに入院させたり、子宮や卵巣の摘出など、必要のない手術を強制した疑いがあると、耳を疑うような話が続々と出てきたのです。これは女性全体の、ひいては医療全体の問題で、放っておけないでしょう。こういう時こそ、女性弁護士の出番だと乗り出したのです。知り合いに声をかけ、医師の乱診乱療に対する損害賠償請求を起こしたのが81年。医療裁判は長期化するし、被害者の大半は主婦なので費用の捻出も難しい。それでも「黙っていられない」と立ち上がった、女性弁護士たちによるボランティア訴訟でした。

被害者の数は100人を超え、その事情聴取だけでも大仕事。カルテの翻訳や手術記録のチェックなど、医師ら専門家の協力も仰ぎ、闘いに闘いましたよ。自分たちの勝利を確信はしていましたが、勝つのが難しいとされる医療訴訟で、全面勝訴できたのは本当にうれしかった。今日では広く知られている「インフォームド・コンセント」の先駆けにもなったし、私にとっても、記憶に強く残る事件となりました。

どんな事件にも〝人間の生のドラマ〞があります。私がポリシーにしているのは、とにかく話を聞くこと。事件の当事者って、あった事実をうまく整理して話せるわけじゃないでしょ。弁護士としては、例えば離婚訴訟を起こすのなら、「理由は? ダンナが何をしたの?」と必要なことだけ聞ければいいんだけど、そこは焦らず、相手の話をとことん聞く。時には「私、カウンセラーじゃないんだけど」って思うこともあるけれど、でもね、ずっと耳を傾けていると、ふっと法律家にはない発想が出てきて、見えるものがあるんです。それで立てた作戦が図に当たると、そりゃ面白い(笑)。弁護士の仕事は、やめられませんよ。

仕事はいつも多忙を極め、子育てにきりきり舞いした日々もある。それでも渥美は、千葉家庭裁判所の調停委員を38年間務めたほか、「高齢社会をよくする女性の会」「DV被害者支援活動促進のための基金」など、今も数多くの公共団体の要職に就きながら、講演に執筆にと、エキルギッシュな活動を続けている。

お声がかかれば、日本全国どこにでも講演に出向きますよ。それと、97年に夫と始めた「渥美講談塾」は、今やライフワークの一つで、塾生たちと共に、外国まで発表会をしに行っています。世界中で恥をかいているの(笑)。私たちの講談は、古典をそのまま演じるのではなく、現代版にアレンジしたり、法律をわかりやすく話すために創作した「法律談義」もあります。かつて演劇をやっていたように、結局、私はこういう表現活動が好きなんでしょうね。これまで現場で学んできたことを広く社会にお返しするためにも、体が動く限り、続けたいと思っています。

長い弁護士生活を振り返れば、幾多の失敗はあったけれど、後悔はなし。続けてきてよかった。弁護士の仕事は厳しいし、責任重大ですから、時にやめたくなることもあるでしょう。特に若い女性弁護士は、悔しい思いをしているかもしれません。でも、投げ出さないでほしい。「10年経つと景色が変わるから」と、声を大にして言いたい。新人の頃、職場のセクハラで苦しんだ私でしたが、実際、年月が経てば、ガラリと力関係は変わっていたんです。そもそも、困った問題って、本質的には時間が解決するということですよ。

10年後の日本は、景色が大きく変わっているはずです。ヨーロッパでは、様々な局面において女性が重要なポストに就いているでしょ。日本はまだまだ遅れているけれど、これからは、大車輪で追いついていくでしょうから、出番は必ず増えると思っています。何より、この仕事は素晴らしい。うちの女性たちにも、いつも言っているんです。「弁護士というのは、なったら一生続けなさい」って。つらいこと、厳しいことを一つ一つ乗り切って、そして楽しむことができれば、ちゃんと最高の景色が見えてきますから。

※本文中敬称略