Vol.79
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弁護士 宮崎 裕子

HUMAN HISTORY

法曹としての強みと自分の情熱を生かせる道は無数にある。法務能力を常に深化させつつ、新たな世界の探索も楽しんでほしい

スリーエム ジャパン株式会社
代表取締役社長
弁護士/ニューヨーク州弁護士

宮崎 裕子

活発なスポーツ女子。早くから備わっていた柔軟なチャレンジ精神

宮崎裕子がスリーエム ジャパンの社長に就任したのは2021年6月、51歳の時である。イノベーティブな社風で知られる同社だが、それにつけても、入社して4年足らず、事業部経験を持たない宮崎がトップに抜擢されたことは、やはり異例の人事に映る。しかし相対してみると、当の本人には傍が想像するような気負いなどなく、いたって自然体だ。渉外法律事務所でキャリアをスタートさせた宮崎は、その後のアメリカ留学・勤務経験を機にインハウスローヤーを志向するようになり、以降、複数の外資系企業において法務のプロフェッショナルとして歩んできた。時には求められ、時には自らが求め、幾度となく環境を変えてきたのは、常に自分自身の価値観に“素直”に向き合ってきたからだ。固定観念に縛られることなく、「柔軟にチャレンジを楽しんできた」からこそ、今日がある。

ごく普通の“昭和の家庭”で育ちました。決して裕福ではなかったけれど、私たち子供には好きなことをさせてくれ、ピアノやそろばんなどの習い事をし、当時としては珍しかったスイミングスクールにも通いました。教育熱心というわけではなく、多少無理をしてでも子供の興味・関心を伸ばしてやりたいという親心だったと思います。

外遊びも好きで、活発な子でした。小学生の頃から男の子より足が速かったので、中学に入学してからは走り一色の生活。陸上競技部に入り、短距離の選手として練習に明け暮れていました。とはいえ、部内ではずば抜けて速かったわけではなく、短距離走は競技人口も多いから、仮に県大会(埼玉県)に進めたとしても天井は見えているなぁと。それで、2年の時に中距離に転向したんですよ。顧問の先生に「持久力を磨いて、選手層が比較的薄い800mで上を目指してみないか」と言われて。

先生のアドバイスは当たり、どんどん記録は伸びていったし、上の大会にも出られるようになりました。自分の成長が嬉しくて、それはもう日々練習、どれだけタイムを縮められるかだけを考えていました。結果としては、中2秋の県大会、翌3年生の春の大会でともに2位。わからないものですよね。私は短距離選手だという思い込みがあって、転向など考えたこともなかったのに、アドバイスを受け入れたことで自分が輝ける新たな領域に出合えた。リスクがあっても、未知の世界であっても、新しい機会を柔軟に捉えて飛躍するという手応え……今思えば、これが私の原体験です。

陸上の名門高校からお誘いもあったんですけど、思春期を迎えて身体的に自分の限界も感じ始めていたので、高校は埼玉県立の浦和第一女子に進学。ここで出合ったのが漕艇競技です。オールを合わせ、声を掛け合いながら水上を進むボートに魅了され、すっかり夢中になりました。日焼けなど気にせず、考えていたのは筋力とボートのスピードを上げることだけ。今度はボート一色です。団体競技の醍醐味を知り、全国大会出場を目指してチャレンジした体験は、得がたいものとなりました。

学び始めた法律学に魅了され、新しい世界が出現したように感じた

寝食を忘れてスポーツに没頭してきたなか、宮崎は大変な読書家でもあった。「練習がない時はほとんど本を読んで過ごしていた」と言い、学業も優秀だったことから、大学は指定校推薦を受けて慶應義塾大学の法学部に進学。この時まで、宮崎は将来の職業として法曹をイメージしたことはなかったという。法曹への入口は、推薦入学がもたらした“偶然”だったのである。

担任の先生から推薦入学を勧められた時、私としては秋の国体までボートを続けたかったから、受験勉強に時間を取られることもないし、いいかもしれない、だけど安易かな……と迷いました。隣の席の子に相談したら、「六法全書が似合っている」と言われまして。きっと当時の私は勇ましく、理屈っぽく映っていたんでしょうね(笑)。傍から似合っているように見えるのなら、そう間違った選択ではないと思えて、指定校推薦で慶應義塾大学に進みました。

高校時代に精一杯やったボートに未練はなく、大学に入ってすっぱりやめたから、一転して存分に時間のある生活になりました。新しい何かをやりたいという気持ちが強かったし、大学に入ったからには意味のある時間を送りたかった。余裕があるとはいえないのに、大学に進学させてくれた両親に対しても、何らかのかたちで応えたいという気持ちもありました。

だから、司法試験は1年生の時から意識していました。法曹資格を得ることで将来の可能性が広がるように思えたし、何より法律が、学び始めてみると非常に面白かったんですよ。法律は、憲法であれば個人の尊厳、私法の分野であれば、目指すべき社会の実現に向けてつくられている。ただ定められたルールではなく、そこに目的や理念が反映されていることがわかってくると、法律に対するイメージが大きく変わりました。そして、法律を学ぶことによって、論理的な思考、物事の判断基準、問題解決の方法論の獲得ができてきて、自分の世界がもう一つ出現したような感覚を持ちました。

朝、コンビニでレジ打ちをして、学校に行って、夜はガソリンスタンドで働く。さらに臨時で交通量の調査、スーパーでの試食配付など、いろんなアルバイトをしながら司法試験予備校の学費を稼ぎ、勉強する。バイトはいい経験になったし、目標に向かって日々が充実していたので、全然苦ではなかったですね。幸いにも3年生の時に、司法試験の択一に合格。当時はなかなかの倍率だったから、択一試験に一発合格するのは稀でした。ただ、完璧主義が災いしてか、論文が2年連続で不合格。でも、所属していたゼミの安冨潔先生が「君なら合格するでしょう」と励ましてくださったので、卒業してもチャレンジを続けることにしました。もとよりゼミ生一人ひとりを大事にされる先生なんですけど、私が早くに択一に受かったこともあり、ずっと目を掛けてくれたことに今も感謝しています。

弁護士 宮崎 裕子
3Mのビジネスは鉱石の採掘から始まった。写真は、本社に展示されている「Textured Cube」という岩のようなオブジェ。「フィルムによる表面加飾の可能性を立体的に表現しています」(宮崎氏)

渉外法律事務所で徹底的に鍛えられ、キャリア形成の礎を築く

司法試験に合格したのは大学を卒業した翌年。それまでは、友人が紹介してくれた渉外法律事務所でアルバイトをしながら勉強を続けていた。ここで宮崎は、裁判官を定年退官して弁護士となった先生の補助役を務め、「今思えば、すごく贅沢な環境にあった」と振り返る。弁護士らが携わった訴訟の話を直接聞いたり、判例集を読んだりするなか、実地的な学びを多く得たという。

当時はパソコンが普及していない時代です。秘書の方が英文タイプを打っている様がカッコよくて。英語に関するものが溢れていて、こういう世界もあるんだと、法律事務所のイメージが変わりました。そういえば、私が司法試験に合格した時、事務所の先生がお祝いに『BLACK’S LAW DICTIONARY』をくださったんですよ。「これからは絶対に英語が必要になるから」という言葉とともに。のちに渉外案件を扱う事務所に入所したのは、この時のご縁がつながっているのだと思います。

司法修習に入った当初は、裁判官を志望していたんです。判例集が好きでたくさん読んでいたし、漠然とながらも紛争の解決をリードできればと。でも、弁護修習で出会った先生の姿勢に感銘を受け、また、刑事事件の弁護団で研修をさせてもらった体験から視野が広がりました。弁護士というのは様々な分野で、個性を生かしながら自由闊達に仕事をしている。それを知ると、選択肢が無限に広がっているように思えて、弁護士志望へと変わっていったのです。

修習が修了した頃は、バブル経済崩壊後の景気が悪い時代。一般的な法律事務所は採用を控え、それなりの規模の事務所でないと新規の採用は難しいという状況でした。私も大手法律事務所で働いてみたいと思っていたし、面接にも呼ばれたから行ったんですけど、結果は「採用しない」と。この時にはもう結婚していたので、じきに出産して仕事ができなくなると思われたのかもしれません。面接の際にまず、結婚しているかどうかを聞かれたのを覚えています。もう25年前の話、今は違うでしょうが、そんな時代でしたね。

先のバイトしていた事務所の影響で海外に興味を持つようになった私は、この頃、日本がリードしていたアジア関係のビジネスをサポートする法務をやりたいと思っていました。尚和法律事務所(現ジョーンズ・デイ法律事務所)に入所したのは、そういう領域に強いと聞いたからです。いわゆる渉外系ですが、当時としては中規模どころの事務所。専門分野の異なる8人のパートナー弁護士が在籍し、アソシエイトは1期上の先輩と私だけという逆ピラミッド型の組織でした。8人全員から仕事をアサインされる体制で、それはもう大変だったけれど、徹底的に鍛えられましたね。

パートナー弁護士の業務分野はそれぞれに違う。金融、M&A、国際訴訟、税務、独占禁止法、倒産、知財など多岐にわたり、そのなか、宮崎はアソシエイトとして全員をサポートしてきた。リサーチ、メモランダムの作成、契約書のドラフト、交渉の戦略策定などといった仕事を通じて、「イロハのイを叩き込んでもらった」。弁護士としての始動段階で、各分野の一流弁護士からマンツーマンで指導を受けたことは、かけがえのない財産となった。

分野も違うけれど、仕事のスタイルも弁護士によって当然違う。どうしたら先生方に、その先にいるクライアントに、真の価値を提供できるかを考え抜き、成果を出そうと悪戦苦闘する日々でした。多くの業務は同時並行でしたが、「今、ほかの先生の仕事をしているのでできません」とは言いたくないですからね。自分でうまく調整するしかありません。いろんなアルバイト経験が生きて、私は要領がよかったのでしょう、きっと、どの先生にも「自分の仕事を1番にやってくれている」ように映っていたはず(笑)。なかでも契約書の翻訳、英文契約書のドラフト作成は千本ノックのようにやりましたし、ベーシックなことはすべてここで学びました。厳しかったけれど、新人弁護士にはとても恵まれた環境でしたね。

案件として印象に残っているのは、外資系企業の商標関係の仕事。今では日本で誰もが知っているお店が日本に進出して間もない頃、模倣した商標を使っていた店舗に使用の差し止めを求めた案件です。日本とアメリカの商標法・不正競争防止法の違いを踏まえたうえで戦略を立て、ブランド価値を棄損させないようにするにはどうしたらいいか、クライアントと考えながら臨んだ仕事です。また、全然色合いの違ったところで、芸能事務所の仕事も手掛けました。タレントの肖像権の問題や、誹謗中傷された場合の対応の仕方であるとか、けっこう多岐にわたって。いろんなジャンルの仕事に携わるなか、自分に合う、面白いなと感じたのは知的財産関係でした。

尚和がジョーンズ・デイ法律事務所とパートナーシップを組むことになったのが2000年。私は、そこには合流せず、この頃一緒に仕事をする機会が多かった知的財産権を専門とするパートナー2名とともに、あさひ・狛法律事務所(現西村あさひ法律事務所)に移ることにしました。その二人が関与する仕事もクライアントもけっこう任されていたので、ごく自然な選択でした。移籍そのものは翌年の01年にしたのですが、ちょうどそのタイミングで出産をしたものですから、半年ほど現場を離れ、一足遅れであさひに入りました。

現場復帰してから成果を出すよう務めたのですが、やはり育児があり、全力投球できないもどかしさはありました。実はアメリカで学びたいという気持ちはずっとあって、尚和の頃にも海外留学の話は出ていたんです。いずれにせよ育児で100%の仕事ができないのなら、これを機に留学するのはどうだろうと。息子との時間にしても、勉強時間にしても、自分でコントロールできると考えたのです。あさひに入って間もないタイミングですが、先のパートナー二人が後押ししてくださった。思いが叶ったのはありがたく、ラッキーでしたね。

多様な文化や価値観に触れたアメリカ生活で手にしたものは大きい

海外留学・勤務を通じて視野を広げ、多くを学ぶ。次なるステージへ

留学先はワシントン大学ロースクール。かつて同大学に在籍していた大学時代の先輩を訪ね、キャンパス巡りをした時から「ここで学んでみたい」と思っていたそうだ。合格通知を受けてすぐ、各種手続きや住居探し、子供のプリスクールへの入園手配など準備を進め、宮崎は家族とともに渡米。なかには「子連れで留学なんて無理」とアドバイスしてくれる人もいたが、宮崎は実行力を発揮、家族の協力も得て留学生活を実りあるものにした。

知財コースで竹中俊子教授に師事し、主に日本とアメリカの特許の比較を学びました。学問としての特許法はとても面白かったです。例えば判例にしても、書き出しがエッセイのようになっていたり、あるいは、ほかの判例を批判する内容がメインだったりと、アメリカの自由な発想を感じました。

ただ、特許の世界は難しいですね。同じように日本から学びに来ていた人たちの特許に関する技術的知識には、しばしば圧倒されたものです。私は法律だけやってきたけれど、彼らには化学や物理、薬学などの専門とするバックグラウンドがある。当然詳しいし、専門分野に対する情熱もすごい。それを知って、知財を専門にすることの難しさを認識しました。「特許弁護士になるのだ!」と意気込んで留学しましたが、いわゆる“井の中の蛙”だったと。組織から出て外の世界を見るのは、やはり有効です。自分を客観視することができますから。

ロースクールを修了して、シアトルの法律事務所で仕事に就いたのは04年、もう20年近く前……ですか。実は、最初の数カ月は、自分が役に立てていないという自責の念にかられ、事務所に通うことが苦だったんですよ。この頃は自分を英語ネイティブの弁護士と比較して、自分のなかに壁をつくっていたのだと思います。でも、その後、日本の法曹実務に通じている点を生かし、日本からワシントン州に進出してくる企業の法務全般を扱うようになってからは、やりがいが出て楽しくなりました。分野にかかわらず、広く法務の面から企業をサポートする、いわばインハウスのようなかたち。私がインハウスローヤーを志向するようになったのは、ここでの経験が大きいです。

留学や仕事を通じて多様な文化や価値観に触れ、様々な影響を受けました。最たるものは「仕事は人生の一部である」という考え方。今は時代が変わりましたが、当時の日本の組織は、起きている時間のすべてを仕事に費やすのがよし、とされる風潮で、“徹夜した自慢”とかもありましたし(笑)。仕事は大事だけれど、家族と過ごしたり、自分のための時間を取ったりすることを大切にし、人生を楽しむ人たちを見て、考え方が変わりました。ほかにも、子供連れだったからこそ知り得た新しい世界もあり、3年に満たないアメリカ生活でしたが、手にしたものは大きかったです。

弁護士 宮崎 裕子
グローバルで5万5000を超える製品、年間平均4000の特許取得数を誇る3M。そんなサイエンスカンパニーとしての底力を一人ひとりの社員が支えている

あさひ・狛法律事務所に戻ったのは06年。留学後は“お礼奉公”が慣例的ではあるが、同年に西村ときわ法律事務所(当時)との統合が決まったことで、宮崎は新たな道に踏み出す。シアトルの法律事務所での経験から、会社のビジネスをいわばパートナーとして支えるインハウスローヤーを志向するようになった宮崎は、パソコン大手メーカー・デルに移籍。その日本法人で法務チームを率いることになった。

あさひと西村との統合が決まった時、あさひからは「自分の好きな道を選んでください」と。法律事務所を辞したのは、先に述べたように、24時間体制で働くことや成果を時間で評価される感覚が、私には合わなくなっていたというのもあります。
エージェントから「インハウスローヤーを募集している」と紹介されたのは4社で、トントン拍子に話が進んだのがデルでした。インタビューでも緊張することなく話ができ、デルの幹部から「一緒に成長していこう」と言われたことが決め手になりました。

当初は契約管理部門が別にあり、また、入社後すぐに日本で上司であった人が他社へ移籍してしまったので、純粋な法務は私一人。複数の複雑な訴訟をリードするとともに、数多寄せられる相談、問題にすべて対応しなければなりませんでした。内部統制的なことや個人情報のこと、労務問題や税務問題、それはもう様々です。まずはそれらを取捨選択し、法律問題に置き換えて特定する。そして、自分がやるべきところ、外部弁護士に依頼するところという具合に整理して、実際のオペレーションに落とし込み、関連部署が実行するところまで見届ける。当然、リスクの大小や緊急性も鑑みる必要がありました。私が一番学んだのは、このような「全体像を捉えた優先順位付けを法務が積極的に提案する」ということ。

それを教えてくれたのは、デボラ・リーというアジアパシフィックの法務部門を統括していた上司です。以降も含め、私は多くの女性上司に恵まれてきましたが、こと彼女との出会いは大きかった。国際電話で毎日のように私の相談を聞いてくれ、有益なアドバイスを受けたものです。

法律事務所時代の私は、どのクライアントも優先順位1番のつもりで仕事をしてきましたが、会社全体となると、そうはいきません。リーガルリスクに応じて優先順位の高低を明確にし、関係者にも納得してもらう必要がある。ただ、そうはいっても相談してくる相手を無碍にはできないなぁと、そんな気持ちをデボラに話したことがあったんですね。そうしたら答えはいたって明快。「簡単なことよ。法務ではなく自分の頭を使え(Use your brain)って言いなさい」と。ものすごくパワフルな人ではあるんですけど、強烈でしたね(笑)。社員のリーガルマインドを育て、自ら問題解決やリスクヘッジを図る組織をつくる、それが法務部門の真髄であることを教わりました。

柔軟にチャレンジしてきたことは、間違いなく財産になっている

新たな分野に挑戦。すべての経験と知見を統合し、企業のトップに立つ

数年間携わっていた複雑な訴訟がすべて解決したところで、宮崎はデルを後にし、医療機器メーカーである日本アルコンへと足場を移す。リクルーターから声がかかっての移籍で、法務コンプライアンス本部部長に就任。同社における宮崎のミッションは、日本のビジネスに対応する法務部を立て直すことであった。

訴訟が解決し、オペレーションの基盤構築もできて、「デルでの役割は終えたかな」と思い始めたタイミングで話をいただき、アルコンに移ることにしました。ジェネラリストとしての立場から、今度は「この分野の法務」という何かしらの専門分野を得たいと考えていたし、医療系にも興味があったので。加えて、アメリカ本社のジェネラルカウンセルに直接レポートできるポジションであることも、視座を高く持つのにいい経験になるだろうと。日本アルコンには法務部が存在していたものの、当時は本社から見るとうまく機能しておらず、私の役目は、本質的なリスクマネジメントをする組織をつくることでした。法務の真髄を学んだデルでの経験が生きたのは、間違いありません。

実は、この時も私は2人の女性上司に恵まれています。親会社であるノバルティスグループの取締役をしていた三村まり子弁護士と、ともに組織変革に臨んだアルコンのクリスティーナ。当時、ノバルティスはマスコミにも報道された不祥事で未曾有の危機に襲われていましたが、その危機管理において、三村先生は周囲の信頼を一身に集めてリードされていて、法曹として威厳ある姿勢に学ぶ点が多かった。そしてクリスティーナからは、変革のなかで人をどう説得していくか、本物のリーダーシップとは何かを学びました。先のデボラもそうですが、私は先駆者ともいえる3人の素晴らしい女性に導かれてきたわけです。彼女たちに恩返しをする意味でも、ビジネスの道を歩む女性たちに私なりのエールを送りたいと強く思っています。

弁護士 宮崎 裕子
社長室にて、秘書と打ち合わせ。「社員の誰もが自分の意志を周囲に対して表現できる環境づくりを心がけています」(宮崎氏)

スリーエム ジャパンに入社したのは17年。デルから3Mに移っていたかつての同僚(3Mのアジアの法務リーダー)から誘われたことがきっかけだ。同社は不朽の名著『ビジョナリー・カンパニー』に取り上げられた企業で、グローバルのなかでも日本法人の存在感は大きい。宮崎は次なるチャレンジに踏み出すことにした。宮崎のキャリア選択は「いつも自然に、前向きに」だ。

デルやアルコンとはまた違って、3Mは日本に開発・製造部門を持ち、実に幅広い事業を行っています。日本に根ざした会社であることに魅力を感じ、何より「15%カルチャー」に見られるような、個々の自主性を尊重し、本業だけではなく新たな領域へのチャレンジを奨励する文化が肌に合うと思ったのです。実際、私自身、ジェネラルカウンセルとして入社しましたが、法務を軸足に、時にはその枠を超えて、スリーエム ジャパングループの運営全般にかかわってきました。

前社長は闘病していた期間があり、その間、私は社長の代行を務めていました。代行を務めていた間に、社内外を横断した調整力や事業部とは異なる視点で変革をリードする力がありそうだと、私が社長候補の一人になりました。社長に期待される役割は多岐にわたります。特にリスクマネジメント、社員のモチベーションをより高める組織づくり、政府機関や各種関係機関との折衝、そして、マメジメントチームを率いること。候補者面接のなかでは、このような役割を私のスタイルで果たしていけばよく、また、法務として第三者的な視点を持つ強み、3Mをまだ新鮮な目で見ることができるところを生かしてほしいという話をいただきました。3Mには、「Growth Mindset(成長への心持ち)」を持つことを奨励する文化があります。社長業も最初は完璧にできなくとも、成長していけばよいと。社員に「成長しましょう」と言うのであれば、まずはトップからということです。おかげさまで日々成長していると実感できています。幸い、他のリーダーシップチームのメンバーが進んで協働してくれていることが大きいですね。

現在、特に注力しているテーマは、自主性をもってイノベーションを起こす組織と文化をいかにして築いていくかです。もとより自他共栄やイノベーションの精神が根付く組織ではあるけれど、これらは、非常に壊れやすいこともまた事実です。新型コロナ禍もあって、人のつながりが希薄になっているなか、どうしたらポジティブなほうに引っ張れるか、社員一人ひとりがもっと魅力を感じる職場にするか――様々な施策に取り組んでいるところ。グローバルのなかでのスリーエム ジャパンの存在感をもっと強め、発信していきたいです。

法務の世界で経験を積んできてつくづく感じるのは、法務としての資質と経営とは非常に親和性があるということ。物事を多角的に、かつ第三者的に見る力、一つの価値観を基軸にして社内外の人々を調整する力は有用ですし、そして、私が最初に叩き込まれた優先順位を付ける力は、時機に応じた決断の速さにつながっています。弁護士、法務として深化すると同時に、新たな分野を探索してチャレンジし続けてきたことも、間違いなく生きていると思います。弁護士は素晴らしい仕事です。ただ、「弁護士だからこうあるべき」というような固定観念に縛られて、自分の可能性を広げないのはもったいない。法曹として培った強みと自分の情熱を生かせる道は無数にある。法務としての能力を深化させながら、無限に広がる世界を探索することを楽しむ、いわば両利きのキャリアを築くことも一つの道です。私自身もまだ、キャリアのゴールに辿り着いたとは思っていなくて、これからも楽しんで探索を続けるつもりです。そんな生き方が一つのエールとして、若い人たちに届くと嬉しいですね。

※取材に際しては撮影時のみマスクを外していただきました。