Vol.8
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海渡 雄一

HUMAN HISTORY

不条理を条理あるものにするため、休まず少しずつ良くしていく。そんなメカニズムを作っていきたい

東京共同法律事務所
弁護士

海渡 雄一

「市民の人権かくあるべし」を、問い続ける弁護士

もんじゅ訴訟をはじめとする、「脱原発」「原発の危険性」を唱えた訴訟。受刑者と子どもの面会を禁止した規則の撤廃や、革手錠施用の違法性を認めさせるなどの、監獄内の人権に関する訴訟。盗聴法(通信傍受法)反対活動と、共謀罪・依頼者密告制度反対活動など。弁護士・海渡雄一氏がかかわってきた数多くの訴訟や活動は、「この社会で一市民の人権が保障されるためには、日本の法制度のメカニズムのどこをどう改革・改善しなくてはいけないか」について考え、世に問い続けてきた闘いの歴史にほかならない。

「人権、あるいは自由(自由権)」を確立するための市民の闘いを、法律の専門家としての立場から支えてきた海渡氏。氏を知る弁護士は、その特徴をこう話す。「彼の法廷での主張は非常に強い。闘争的にも映る。勉強熱心だから知識も豊富。例えば原発に関する科学的で専門的な知識も頭にたたき込んでくるので、論にすきもない。しかし彼の語り口は、実に柔らかい。いろいろな主張を柔らかな語り口で繰り出すので、相手方までがつい聞き入る。それが彼の持ち味。彼はどんな世界でも、出ていった先では必ず一目置かれる存在になっている。こんな弁護士は、ほかにあまりいない」と。

海渡氏のかかわってきた訴訟や活動をたどると、「血気盛ん、辣腕無双」といった印象だが、その人物評はむしろ、穏やかさや柔らかさが勝る。「人権派の海渡」として、その名を知られる氏の、これまでを追う。

高校二年生で「公害問題を扱う弁護士になる」と決めた

1955年、兵庫県伊丹市生まれ。小学生時代は、「例えば夏休みなら、セミ捕りばっかりしている子どもだった」という。山を走り回り、空を眺め、自然を愛した海渡少年の将来の夢は、科学者だった。

「灘中学・灘高校では地学部天文班に所属して、天体観測・山歩きなどフィールドワークもたくさんしました。楽しかったですねぇ。ですから高校ニ年生までは、理系に進学しようと思っていました。ところが地学部に度々遊びに来ていた東大理学部の先輩と話すうち、『これはかなわない』と。思い描いた理学部の勉強内容とも違うようだし、こりゃ進路変更だと思いましたね」

灘高といえば国内トップクラスの進学校。一方で自由な校風やユニークな教育でも知られる。

「公害問題に熱心に取り組む先生がいらっしゃって。テーマを生徒自身が決めて、毎週、研究発表をしていました。僕は伊丹市に住んでいたので、伊丹空港付近の飛行機の騒音問題について友達と研究しました。取材に歩き、飛行機の騒音をステレオ録音し、教室でオーディオ装置から音を聞かせて皆を驚かせたり。理科系の授業なのに社会問題を扱う、面白い授業でしたね」

海渡氏はこうした体験を通して、高ニのときに理系から文系に進路を変更。東大文Ⅰを目標に、「公害問題をやる弁護士になる」と決めたという。

「裁判問題研究会」と「自主講座」への参加

海渡 雄一

東京大学入学後、公害問題など社会問題を研究するサークルの活動に没頭した。

「『裁判問題研究会』というサークルでした。労働問題や公害問題の現場に行って、たくさんの方からよく話を聞きました。そのサークルで、福島みずほ(妻)と出会ったんですよ。同期生で、やたら元気な子がいるなあという印象でしたね(笑)」

この学生時代、後の弁護士人生の根幹につながる、大事な出会いがあった。

「司法試験の勉強中や、司法試験に受かってからの数カ月、東大の『自主講座』に通いました。これは公害問題のパイオニアである宇井純氏が開いた講座。荒畑寒村氏の講演を直接聞いたり、久米三四郎氏の原発に関する講義などを聴講しました。武本和幸氏による柏崎刈羽原発施設下にある活断層の話(活断層上に建設される柏崎原発の危険性)なども聞きました。ここでの体験で、僕の人生の方向性は決まった、といっても過言ではありません」

海渡氏が「あらゆる意味での先生」と慕う高木仁三郎氏※1と出会ったのも、このころ。当時、司法試験の勉強に疲れると高木氏の著書をよく読んだという。司法試験合格後、高木氏の「原子力資料情報室」に出入りするようになった。

「司法試験に合格してから司法研修所に入るまでの間に、スリーマイル島原子力発電所事故※2という大変な事件が起きました。高木先生がこの事故に関して話されたことを僕が原稿にまとめ、講座の仲間が版下を作り、ビラにして配布しました。『原子炉を止めろ』と。今でも、それが僕の活動の原点です。脱原発を訴えて、通産省(当時)へ住民運動の人たちと共に押し掛けたりもしました。そうした毎日を送っていたので、司法研修所の開所式当日は、徹夜明けだった記憶があります」

「公害問題をやる弁護士になる」と決めたかつての海渡少年は大学生となって、さまざまな人々との巡り合いから脱原発というテーマを得た。地震(地質学)やウラン(化学)をはじめとする自然科学や、社会科学的知識も必要となる原発問題。海渡氏は実際、手掛けた訴訟に関する科学的知識の習得には人一倍熱心に取り組んだ。共に闘った弁護士たちも、その知識の多さには舌を巻くほどだ。もちろん現地での「フィールドワーク」も欠かさない。専門分野の証言者が必要なら、人脈を駆使して権威者の才知を頼む。なにしろ、元は科学者志望。「一つのテーマをじっくり追い続ける」という土壌は、大学以前、小学校に始まり、灘中・高で過ごした毎日の中で、既に培われていたものであったろう。

原発訴訟は法廷での勝利以上に、「事実上の勝利」に価値がある

海渡 雄一

多くの仲間と成果が出せているのは弁護士として幸せ。少しは社会を良くできたんじゃないかな

1979年、司法研修所に入所。実務修習は水戸地裁だった。就職の際は、原発問題や、自分のやりたい事件にかかわれそうな事務所を探した。そして入所したのが、現在の東京共同法律事務所だ。入所してすぐ、同事務所に旭化成ウラン濃縮研究所の設置許可取り消し訴訟を起こしたいという依頼が寄せられた。

「誰かやらないかと問われ、手を挙げました。そしたら事務局長です、入ったとたんに(笑)」

同研究所の、設置許可取り消しの裁判はそれから10年ほど続いた。敬愛する恩師・高木仁三郎氏と、地質学者の生越忠氏に証人に立ってもらったこともある。そうこうするうちに、同研究所は事故を起こして閉鎖。いわば「相手方の自滅」という形での勝利だった。

次にかかわったのが、もんじゅ訴訟。高速増殖炉もんじゅ(福井県)の周辺住民が国に対して、原子炉設置許可処分の無効確認を求めた訴訟であり、おそらく、弁護士となった海渡氏の名を世に知らしめるきっかけとなった事件でもある。

「弁護士になって4年目でした。この件は、高木先生のところに相談がきたため、先生が僕を呼んでくださって。『訴訟を提起するから弁護士を集めてくれ』と。この裁判を通して、さまざまな経験をしました。まず提訴から2年後の1987年12月25日、『無効確認訴訟の原告適格なし/行政許可については住民の原告適格なし』という両方の理屈で、却下判決を下された。その門前払いをはねのけ、まともに裁判を開始することができたのが提訴から7年後のこと。時間は掛かりましたが、もんじゅ訴訟を行うことで、『行政訴訟の原告適格を広げた』という点は、非常に画期的でした」

行政訴訟の原告適格を広げたという事実は、後の「行政事件訴訟法の一部改正※3」のきっかけとなる。裁判は、“勝ち負け”以上の価値をもたらすこともある。「動くことで市民が気付き、社会が変わる」ということを、海渡氏は実証して見せたわけだ。

その3年後に、もんじゅ事故が発生。施設は停止状態、事故の究明が行われる過程で訴訟が進んだ。一審判決は、請求棄却。これは、事故を起こして止まっている最中に下された判決だ。

「実際に施設は事故を起こして停止しているのですから、そもそも設計に問題があることは間違いない。しかし判決は、端的にいえば『それでも直さなくていい』というひどいもの。これにはさすがに『裁判所の判断はおかしいのでは?』という非難がマスコミからも起きました。その状況下で高裁が開始。高裁は、名古屋高裁金沢支部。裁判長は、川崎和夫裁判長。2000年12月に高裁の第一回弁論が開かれ、判決が出たのが2003年1月。ごく短い期間でしたが、川崎裁判長は、画期的な進行協議方式を提案し、ものすごく熱心に審理してくれました※4。原告側は一流の学者をそろえ、弁護団も必死に応えた。裁判に勝つための内部資料も探し続けました。ある資料は国会議員を通じて要求し※5、ある資料はなんと偶然にも、東大正門前の古本屋の店先で発見した※6。そのとき、情報は求め続ければ得られるのだと、実感しました。一方、動燃と国側は準備書面一つ出せない状態。これには裁判長も次第にいらだってきたようで、『何かが徐々に変わっていく様』を肌身で感じた時期でした。そして2003年に言い渡された判決がこれです。『主文。1、原判決を取り消す※7』。これが法廷で読まれたときは、鳥肌が立ちました。ほんとにうれしかったですね」

海渡氏がかかわる原発訴訟はほかに、六ヶ所村反核燃1万人訴訟、福島MOX(ウラン・プルトニウム混合酸化)差し止め仮処分、JCO臨海事故健康被害裁判、浜岡原発運転差し止め訴訟などがある。もんじゅ訴訟をはじめ、いずれも10年20年という長い歳月のかかる裁判だ。六ヶ所村の案件にいたっては、20年以上探し続けていた活断層の専門家が、つい先ごろ見つかったばかりだ。「情報は求めていれば得られる」とはいえ、口を開けて待っていれば向こうからやってくるというものではない。海渡氏の執念と熱意、生来の探究心旺盛な資質が、もんじゅの内部資料を、六ヶ所村の専門家を引き寄せたに違いない。

マイノリティーでいい。声を上げなければ変わらない

海渡 雄一

海渡氏は、監獄における人権問題にも積極的に取り組んでいる。2006年、刑事被収容者処遇法の成立により、約100年ぶりに監獄法の全面改正が実現。海渡氏は日弁連の刑事拘禁制度改革実現本部の一員として、またNPO法人・監獄人権センターの事務局長として、この改革実現に貢献した。

「僕が弁護士になりたてのころ、拘禁二法案(刑事施設法案、留置施設法案)が出てきたために、弁護士会が大反対運動を展開していました。1984年、海外(北欧など)の刑務所視察に行ったことが、僕にとっての契機。海外の刑務所の人道的なあり方を見たとき、日本のように規則で締め上げ、暴力と脅迫で押さえ込むようなやり方はおかしいのではないだろうかと強く感じたのです」

このテーマにどっぷりと取り組むきっかけとなったのが、子ども面会訴訟である。

「当時は、親族であっても、受刑者が14歳未満の子どもと面会することは禁止されていました。東京拘置所で、めい(養い親の孫)と面会したいと思ったある被告人が、原告となって訴訟を起こした。一審・二審は勝利。これに対して国は、『地裁・高裁の判決は監獄法施行規則の解釈に誤りがある。仮に違法であっても東京拘置所の所長に過失はない』と最高裁へ上告。最高裁で、口頭弁論が開かれるということになりました。最高裁で口頭弁論が開かれるということはつまり、高裁判決が破棄されることを意味します。敗訴を覚悟する一方、こんな恥ずかしい監獄法施行規則を温存するような判決を出したら、僕はその判決を持ってジュネーブへ行き、国連の人権委員会を通して世界に訴えますと、ケンカを売るような弁論をしました。そこで、最高裁はどういう判決を出したか※8。判決主文は予想どおり、地裁・高裁の判決を棄却し、原告請求を棄却したもの。法務省の役人は、それを聞いて勝ったと大喜びです。気落ちして書記官室に判決文をもらいに行った僕を、『ここですぐ、この判決文を読みなさい』と書記官が呼び止めた。そこには、『この監獄法施行規則は無効である。しかし規則が無効であることは東京拘置所の所長では分からなかったので、過失がなく、損害賠償も棄却なのだ』と書いてあったのです。『規則が無効』だと書いてあったことに、僕はオーッとなりました。『こりゃすごい! 記者会見だ』と。この判決は大きな反響を呼びました。何よりもうれしかったのは、判決をもらった翌日から拘置所や刑務所の面会室に打ち付けられていた『14歳未満との面会は禁止されています』という木札が取りはずされ、被拘禁者と幼年者の接見が許されるようになったことです」さらに海渡氏は、こうした訴訟への取り組みをきっかけとして、NPO法人・監獄人権センター※9を結成する。

「2002年の名古屋刑務所事件の発覚、2003年の行刑改革会議、2005年新受刑者処遇法の設立、2006年新刑事被収容者処遇法の成立と、めまぐるしい日々を送りました。新受刑者処遇法により革手錠は廃止、保護房内はビデオ監視されるようになりました。受刑者の面会と手紙の範囲は親族だけから友人にも拡大、刑事施設視察委員会も活動しています。僕自身、八王子医療刑務所の視察委員会の委員長も務めています。監獄内の人権においては、未解決の問題も多々ありますが、僕のライフワークの一つとして取り組んでいきたい」

海渡氏は、原発問題、監獄内の人権問題、盗聴法・共謀罪の問題など、市民と共に闘って、世の中に「ムーブメント」を起こすような活動も多い。そうした、市民と共に闘う中での、弁護士の役割とは何かを尋ねた。

「僕はこう思っています。例えば市民運動に弁護士がかかわるということは、『法律制度のここを変えれば今の状態がもっと良く変えられるのではないか?』、そんな着眼点やアイデアを引き出してくる能力が加わるということ。これは弁護士でなければできないと思うんですよ。市民の人たちが日々感じている疑問点を法律制度の上に翻訳し、政策提言していくような活動を、確かにたくさんやってきましたね」

誰もが見過ごしていたこと、しかし誰かが声を上げねばならないことに目を向けて、私たちに問題を提起し、社会に提言し続けるのが、海渡氏だ。

「娘がね、僕の取り組みについて『お父さんはいつもマイノリティー』と褒めてくれるんですよ(笑)。国家権力の不条理や、スジに合わないことがどんどん勝手に突き進んで少数者が顧みられない状態は許せないという思想信条を持っているんです。それにこれまで手掛けてきた案件は、僕一人ではなく、共にたたかってくれた多くの同僚弁護士たちがいてこそ成し遂げられたことだと感じています」

そして近年、特に刑務所改革の問題にかかわって以降、「自分自身が少しずつ変わってきているな」と感じるという。

「名古屋刑務所事件をきっかけに、わーっと闘ってさまざまな制度を改革させたわけですが、その『改革された制度をハンドリングしていくのは僕ら自身だ』と痛感します。特に刑務所問題には弁護士会としてかかわっているので、法務省とのパートナーシップをつくっていかなくてはならない。単純に『不条理と闘うぞ!』というのではなく、不条理を条理のあるものにし、休まず少しずつ良くしていく。日本の法制度におけるメカニズムの、どこをどう変えなくてはいけないか、それを考えられる弁護士になりたいし、そういうメカニズムをつくっていくのが僕らの仕事だという風に、僕自身の考え方も変わってきているように思います」

※1/「原子力資料情報室」代表。生涯にわたり、市民として科学者としての立場から、原子力発電やプルトニウム利用に鋭い批判を投げかけた人物。

※2/1979年、アメリカ・ペンシルベニア州にて炉心溶融事故により発生した原子力発電所事故。

※3/2004年、行政事件訴訟に対して、国民の権利利益のより実効的な救済手続きの整備を図るために行われた法律の一部改正。もんじゅ第一次最高裁判決は、最近でも司法試験の際、判例として用いられる。

※4/川崎和夫裁判長が「裁判所としては書面だけ読んでいても分からん。毎月1日、朝から晩まで時間をとるから、その時間を原告側と被告側半分ずつ使ってプレゼンをしてくれ。専門家を連れてきて分かりやすく説明してくれ」と話したことから実現した。その内容は「質問は裁判所が行う。原告・被告側の弁護士は口を挟んでもよいが、裁判所が主体で質問する。裁判所が質問する場なので、マスコミはオフリミット。しかし原告・被告側の傍聴人は居てもよい」という内容だった。

※5/海渡氏らが、「蒸気発生器における大量の伝熱管破損事故が発生する可能性があった」ことを証明するために必要とした資料。イギリスで伝熱管破損事故が発生した直後、日本でも同様の実験を行ったところ、大規模な事故となる可能性がわかっていた。その隠匿された事実を明らかにしたのが「海外出張報告 AGT8/日本ナトリウム-水反応専門家会議」という報告書であった。

※6/「炉心の暴走事故が起きる可能性があり、原子炉の格納容器が破壊される恐れがあること」を証明するために必要とした資料。「高速増殖原型炉「もんじゅ」HCDA解析」という開示制限書類。※5も、国や動燃側の内部資料であった。

※7/2003年1月27日名古屋高裁金沢支部判決(判例タイムズ1117号89ページ)主文>1、原判決を取り消す。2、被控訴人が動力炉・核燃料開発事業団に対して1983年5月27日付けでした高速増殖炉「もんじゅ」にかかわる原子炉設置許可処分は、無効であることを確認する。3、訴訟費用は、差し戻しの前後を問わず、すべて被控訴人の負担とする。

※8/最高裁第三小法廷(園部逸夫裁判長)1991年7月9日判決(判例タイムズ769号84ページ)

※9/刑事拘禁施設の人権状況を国際水準に合致するよう改善していくこと、死刑制度を廃止することなどを目的として1995年3月に結成された