Vol.17
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高木 新二郎

HUMAN HISTORY

日本の司法を内部から改革し、日本の事業再生を世界水準に引き上げ 経済の活性化に貢献できる弁護士になるべく己を必要とする場で身を賭してたたかってきた

弁護士・法学博士・
野村證券株式会社顧問

高木 新二郎

高木新二郎氏は、倒産法・事業再生法の専門家として知られる。近年はJAL再生タスクフォースリーダーとして尽力した。高木氏がこれまでに国内外で発表した著書論文は実に300本以上。倒産法制、とりわけ事業再建法制に関する論文は群を抜いて多い。会社再建モデルを革命的に変える実務経験に裏付けられた提言を行い、日本経済の活性化に貢献してきた。弁護士としてひとかどの人物になるのも並大抵のことではない。しかし高木氏は、企業再建を基軸としてさまざまに「変身・転身」し、そのつど成功を収めてきた人物である。

自らの努力で道は開けると実感した司法試験

高木氏は、1935年生まれ。幼少期は疎開で千葉などを転々とした。

「父は大工で、私が物心つくころには工務店をやっていました。後にタクシー会社、不動産、金融業などの事業を興し、仕事はそれなりだったようですが、家庭は崩壊。両親は離婚し、私は父と暮らしました」

高木氏は中学2年のころから、マルクス主義経済学や弁証法的唯物論の本を乱読。早稲田大学高等学院に入学するころには、端的にいえば「人はみな平等であるべき」という革命思想・共産主義に没頭していった。

「それで父と大げんかをして勘当されました。高校は無断欠席・学費不払いで除籍処分です。町工場に勤めた後、党関係活動に専従しました。やがてスターリンが亡くなり、日本の共産党にも転機が訪れ、それまでの革命路線から180度方向転換して、反主流派だった穏健派がイニシアチブを取りました。しかし党中央の変心に器用に付いていけなかったので、一度頭を冷やして考え直そうと決意し、大学進学を選択。籍は置いていたが出席していなかった夜間高校に戻り、中学時代の教科書までさかのぼって、猛烈に受験勉強をし、なんとか進学できました」

高木氏は、中央大学法学部に入学。「就職難の時代に自分にできるのは自由業、それも弁護士だけだ」と腹は決めていた。既に同学齢の仲間から2年遅れていたので、大学2年の中ごろから司法試験を始めたが、「失恋して1年近く勉強が手に付かなかったこともあった」と笑う。

在学中の司法試験合格の願いはむなしく、受かったのは卒業した年。

「落ちたときは大変ショックでしたが、『受からねば人生は開けない』と思って踏ん張りました。司法試験に没頭したおかげで、それまで抱いていた共産主義への思いや、迷いもふっきれました。努力すれば、はい上がれると分かったからです」

こうして高木氏は、弁護士への第一歩を踏み出した。

「倒産法の高木」の萌芽(ほうが)と開花

修習後は“即独”を決めていた高木氏だが「まあ、うちに来いよ」と誘ってくれた渡部喜十郎氏※1のもとにワラジを脱いだ。

「給料は初めの3カ月だけいただき、4カ月目からは辞退して、自分の事件を受任させてもらいました。まる1年ご奉公のつもりで事務所を手伝い、長年継続していた破産管財事件を、私の代でほぼ終わらせました」

翌年から名実ともに独立。ついた顧客は中小企業、それもオーナー経営者がほとんどだった。

「高度経済成長期で起業も盛んでしたが、倒産もその分多かったのです。当時は、倒産再建には暴力団風の事件屋・整理屋が乗り出すことが普通で、多くの弁護士は倒産事件にかかわりたくないと思っていた時代。しかし新米の私に事件や依頼者を選ぶ余裕はなく、人が嫌がる倒産事件を受け、公正な処理を心掛けました。事件屋の横暴さに腹が立ち、とっくみあいをしたこともあります(笑)」

高木氏が「倒産再建事件の専門弁護士になれるかもしれない」と感じたのは、技研興業の会社更生事件のとき。35歳、弁護士7年目のことだ。

「東証一部上場会社だった技研興業が、別荘地開発などの事業に手を出して失敗。手形の不渡りの前日になって突然相談がありました。私を含む3人の弁護士が呼び出され、3人一致で会社更生の申立てを決定。その準備に取り掛かったものの、最後は私がすべて引き取ることに。昼は債権者や取引業者の応対に追われ、夜中にやっと申立書と添付書類の作成という、会社も私も大混乱の中での作業。10年以上分の勉強を数カ月でやったような事件だったので、会社更生開始決定が出たときはうれし涙が止まりませんでした」

それ以降、多くの会社更生事件に携わり※2、「30歳代で会社更生事件の申立準備から開始、計画立案認可を経て、終結するまで」を経験した。東京地裁商事部(民事8部)から小規模の土木建設会社の会社整理の検査役に選任され、その会社の再建にあたったこと※3で、自信と度胸はさらに増した。

ここで当時の「会社整理※4」の状況について高木氏の説明を借りる。

「和議事件を担当する東京地裁の破産部(民事20部)では『和議は濫用されること』を前提に運用、倒産直後の混乱を鎮静化させるための弁済禁止など、いわゆる一般保全処分はなかなか出してくれない状況でした。私に言わせれば、まるで『和議事件の虐待』。ですから当時は、裁判所を頼りにしない私的整理でやるしかありませんでした。しかし私的整理には暴力団とつながりのある事件屋・整理屋が絡み、何かと面倒です。一方、会社整理は会社更生を扱う商事部(民事8部)の担当。当時、会社整理はまれにしか使われなかったものの、商事部は会社更生と同じ感覚で弁済禁止の保全処分を出してくれました。それを盾に、事件屋らにわずらわされず、再建を手早く進められます。光明が差したようでした」

再建はスピードが肝心。滞りなく中小企業に再建の道を歩ませられる方法を、高木氏は見つけた。

心筋梗塞(こうそく)からの“生還”で、訪れた転機

高木 新二郎

この事件をきっかけに倒産法を勉強し始めた高木氏。商事部(民事8部)がミニ会社更生法的に運用した「会社整理」を中小企業再建のための最も有用な制度と考え、それを世に広めるべく『商法上の会社整理手続※5』を書き上げた。精力的に実務をこなし、弁護士として最も脂が乗った時期だった。「帰宅後に徹夜で原稿を書き、そのまま仕事に出て2晩寝てまた徹夜という生活を1年半続けました。それで43歳の時に心筋梗塞の発作を起こし、病院に運ばれて3カ月入院するはめに。心筋梗塞は当時、助からない病気といわれましたから、復帰したときには依頼者も顧問先の方々も、見事にいなくなっておりました」

大病を患ったことを知らなかった友人の滝井繁男弁護士(元最高裁判事)が、あるとき大阪のゼネコンA社の事件を紹介してくれた。

「A社は筋の良くない施主と関係していたので、『高木なら断るまい』と持ってきてくれたのでした。その事件解決後、グアム島で開発事業を始めたA社は土地をめぐるトラブルで訴額が数十億円の民事裁判の被告になっていた。現地のアメリカ人弁護士が負けるかも知れないと言い出したとのことでした。そこで引き受けた私は、英語の分厚い訴訟記録を辞書と首っ引きで読み、裁判に立ち向かいました。A社の件は何とか和解で解決。その後、海外の事件がもう一つ続きました。おかげで、片言ながらも米国の弁護士と英語でやり合えるようになりました。病気をしなければ忙しくて英語どころではありませんでしたが、病気のおかげで英語の勉強が再開できました。何でもムダになる経験はないのです」

海外での事件が片付き、「せっかく身に付けた英語力がもったいない」と思っていたころ、園尾隆司氏※6が書いた「アメリカ新倒産法」の紹介論文を目にした。

「園尾さんの論文を読み、アメリカ新倒産法とチャプター・イレブンのすばらしさに驚きました※7。債務弁済の自動停止やDIPの制度(管財人を選任しないで経営者を続投させる)は、倒産直後の混乱鎮静のため裁判所の保全処分をとるのに四苦八苦していた私には、夢のような法律でした」

そこで高木氏は米国倒産法を学ぶために、50回以上渡米した。文献を集め、学者、弁護士、裁判官、連邦管財官などを訪ね歩いた。そして「日本の倒産法を使いやすいものにしたい」という思いを、『米国新倒産法概説』という1冊の本にまとめた。

「アメリカ倒産法の勉強のおかげで世界中に友人ができ、考え方も変わりました。例えばアメリカの弁護士や企業家は思いきり働いた後、早めにリタイヤし、プロボノ活動※8にいそしんでいることなどを聞きました。そんな生き方もあるのだと視野が広がりました。また大きなことをいえば『日本の裁判所、司法を良くしたい』と考え始めたのもそのころ。アメリカ倒産法が私の人生を変えたといっても過言ではないのです」

弁護士任官第1号。そして学者への転身

1988年正月、当時の最高裁長官・矢口洪一氏(故人)が年頭所感で司法制度改革についての提案を述べた。陪審員制度の採用の検討や、弁護士からの裁判官任官を歓迎するという提言であった。それは長年、弁護士会が提唱してきた、法曹一元化実現への兆しだった。

「25年間、民事商事の弁護士として多くの訴訟事件の当事者代理人になりました。そんな中で私の力不足からでしょうが、“俗世間の経験”が乏しい裁判官に真実を分かってもらうことの難しさを、身をもって体験したこともありました。これまた力量不足のせいでしょう、会社再建のために苦闘している最中に、裁判所の難しい注文に悩まされたこともありました。いっそ自分自身が裁判官になって中から改革するのが早道と思いました。半年間迷いに迷った末※9、人事局長に『いつまで迷ってる。今日中に決断してくれ』と言われ、やっと思い切ったわけです」

そして同年10月、高木氏は弁護士任官第1号として東京高裁民事通常部に配属となった。6カ月間陪席裁判官を務め※10、東京地裁破産部※11に部長代行として異動。バブル景気に沸く日本で破産・和議事件は少なかったが、部内の裁判官や書記官と協議し、以前から考えていた実務の変更に着手。それが「和議開始前保全処分発令要件の緩和」と「破産管財業務の早期終結」だ。

「破産部に行って驚いたのは、20年以上係属する破産管財事件が数件あったこと。私の経験からすれば倒産会社の資産処分は半年以内に終わらせて当たり前、さもなくば資産価値が下がります。破産管財人全員にファックスを送り、実質的な最後配当である中間配当を1年以内に終わらせることを原則としました。和議の保全処分の発令については、事前に債権者の同意書の提出は不要として、長年の悲願を達成しました」

そうして高木氏は、通常部※12、民事執行部、地裁調停部、山形地家裁所長、新潟地裁の所長を経て、東京高裁民事部の部総括裁判長となり、つごう11年半、裁判所に務めた。

「後々、『高木は裁判所に行っても3カ月はおろか3日も務まらないだろうとウワサをしていた』と仲間から聞いて、一緒に大笑いしました」

定年まで半年を残して依願退官した高木氏は、獨協大学法学部の教授に就任した。弁護士から裁判官、そして大学教授と、3回目の転身だ。

「以前のような弁護士活動に戻るつもりはなかったので、ロースクールの実務家特任教授ではなく大学院法学研究科も担当する研究者教員として獨協大学に参りました。なぜ獨協だったかといえば、弁護士業務をしても良いし、裁判所から管財人などに選任されたらやっても良いという条件を提示いただいたためです」

獨協大学に籍を置きながら、リーマンが倒産するまでは負債規模世界最大といわれた協栄生命保険の更生管財人を引き受けた。

「学者に転身したが、事業再生の現場に引き戻されて“現場復帰”をしました」と高木氏。以来、高木氏の活動は「倒産・再建」という大きな幹から、四方へと枝葉を伸ばした。

早期事業再生のための文化の普及

高木 新二郎

会社再建、事業再生は、そこに生きる人々を助け、活性化させることだ

「弁護士時代は、既存の倒産再建法制の枠内で、実務の運用をできるだけ改善しながら再建法制を使いやすいものにするべく、東京弁護士会倒産法部※13を作りましたし、加えて立法提言などのために、学者も巻き込んで東西倒産実務研究会を作りました。アメリカをはじめとする諸外国の倒産再建法制を学び、さまざまな著作や論文を通じて私なりの提言をしました。裁判官のころも『アメリカ連邦倒産法』を出版し、多くの国際会議に出席して世界の潮流から目を離さないようにしてきました。退官後、大学の専任教授のかたわら弁護士実務を再開したところ、外国発のファンドが活躍するなど、世の中が様変わりしていることに気付きました。そこでさっそく渡米し、ファンド、コンサルタント、ターンアラウンド・マネージャーなど再生ビジネスの専門家に話を聞き歩き、その結果を論文で発表しました。協栄生命保険の更生管財人をしたことから、官庁や金融機関の方々の信用を得ることができ、経済産業省関係の研究会の座長もいくつか務めさせていただきました。そこでの提言のうち、企業法制研究会で行った『会社更生法改正の方向』は、法制審議会での新会社更生法立法作業の参考にしていただきました。『私的整理に関するガイドライン研究会』の座長になり、不良債権処理と事業再生のためのワークアウト(任意整理)のルールを作って多くの大企業を再生させ、それに続いて準公的機関である産業再生機構を創設。ワークアウトの方法により、たくさんの大企業などを活性化することを通じて、日本に“早期事業再生の文化”を普及させる役に立ったと自負しています」

加えて、全国倒産処理弁護士ネットワーク、事業再生研究機構、事業再生実務家協会なども作り、人材育成にも尽力している高木氏。

特筆すべきは、66歳にして法学博士の学位を取得したことだ。その際の学位論文『新倒産法制の課題と将来』により東洋大学から博士(法学)の学位を授与された高木氏も「この肩書きは、一生誇りを持って付けられる、人生での自慢です」という。

高木氏は現在、野村證券に籍を置き、事業再生ビジネスはじめ「よろず相談役」を引き受けている。

「今後は事業再生の世界で、東アジアの存在感を高める活動に力を入れたい。そのためには東アジアが一つになる必要があるでしょう。私は20年近く前から中国倒産法の改正に助力し、韓国の学者や実務家と協力関係にありますので、こうした人脈を生かして、事業再生の法や実務の改善向上のための東アジア倒産再建研究会を立ち上げる準備をしております。EUとアメリカに遅れをとっているかに見える倒産再建の世界で、日本をはじめとする東アジアの実力や取り組みの成果を世界に発信していきたいと思っております」

グローバルな視点で己を見つめ直す

高木 新二郎

さまざまな職務を経験した高木氏だからこそ、今後の法曹界を担う世代に伝えたい思いがある。

「弁護士は実力がものをいう仕事。実力をつけるために一生懸命仕事に取り組んでください。一生懸命取り組めば、おのずと勉強をしなければなりません。法律のことだけでなく、経済・金融・経営・英語とあらゆる勉強が必要になります。そしてその勉強は、グローバルな視野で行ってください。日本はまだ、弁護士は一生弁護士と決めつけてしまうところがある。しかし海外に目を向ければ、例えば経済学や経営学の分野で活躍する元弁護士がたくさん見つかります。勉強せずに弁護士の可能性を狭めてしまうのは、もったいないことです。人生に、ムダな経験というものは一切ありません。私自身、病気を患ったことさえムダにはなりませんでした。おかげでアメリカ倒産法を学び、裁判官の道に進むことができたからです。

私が若いころは、依頼者のために注力しました。裁判官になったときは、日本の裁判所を、司法制度を、体を張って良くしたいと心血を注ぎました。そしてこの10年間は、日本の事業再生を世界水準にし、さらには日本の経済活性化のために尽力してきました。世の中は今も、急速に変化しています。絶えず勉強し、新しい知識を吸収し、視野をグローバルに拡大し、自分自身も変身させる努力を続けていただきたい。一生勉強を続けられるのは、専門家である弁護士の特権です。その特権を生かして、まい進してください」

※1/日本弁護士連合会会長(1971年)。高木氏が司法修習生であった当時の東京弁護士会司法修習委員長。

※2/当時、弁護士は更生管財人ではなく、法律顧問としてかかわった。

※3/商事部では検査役を会社更生の調査委員または保全管理人、管理人を更生管財人のように運用していた。高木氏はこのとき、検査役・管理人として選任された。

※4/1938年の商法改正により成立し、2005年の新会社法成立により廃止された制度。私的整理に法的枠をはめて規律し、その成立を助長するための制度。

※5/商事法務研究会刊。1983年に改訂版を出し、1997年『会社整理』と改題して3訂版を出した。

※6/東京高裁部総括判事。園尾氏が判事補で米国留学中の1978年に、新アメリカ連邦倒産法が成立施行された。

※7/「債務者が申立てをすれば裁判所の開始決定なしに自動的にチャプター・イレブンの手続が開始され、しかも債務者が財産処分権や経営権を失わずに事業を継続でき、手続開始後の融資債権が手厚く保護されて、場合によっては既存担保権に優先する担保権が設定でき、超優先性が認められる」。会社再建のためのツールがすべてそろった画期的な法律だった。なおチャプター・イレブンは、アメリカ合衆国連邦倒産法第11章の呼称であるとともに、当該条項に基づいて行われる倒産処理手続も指す。高木氏が予想したとおり、世界各国が1980年代の半ばから1990年代にかけて、チャプター・イレブンを参考にして倒産法を改正した。

※8/弁護士などの専門家が、職業上持ち得た知識やスキルを生かして無報酬で行う公益事業・公益活動。

※9/高木氏が悩み続けた間、何度も相談していたのが、元最高裁判事の泉徳治氏。高木氏と同期の裁判官で、当時、最高裁民事局長を務めていた。

※10/法曹教育のベテランとして名高い武藤春光裁判長のもと、高木氏は陪席裁判官を6カ月間務めた。

※11/現在の破産再生部。

※12/高木氏は裁判官になる前、倒産事件部担当を希望。「その分野ならキャリア裁判官にも負けないだろうし、裏を返せば、それ以外の部門ではキャリア裁判官たちと肩を並べることなどとてもできないだろうと思っていた」という高木氏。「通常部を経験しなければ一人前ではない」と異動を命じられたときは、迷った末に承諾したという。

※13/大きな倒産再建事件の際に、倒産法部に集まった若手の弁護士たちを動員して活躍。「若手の現場教育にも役立つ」といわれ、「高木方式」として定着。