ゴーイングマイウェイ。夢多く、自由奔放にすごした青春の日々
40年以上にわたり企業の再建・整理に携わってきた松嶋英機は、その道の第一人者として高名である。日本最大規模の「西村あさひ法律事務所」の代表パートナーであり、他方、事業再生実務家協会をはじめとする数々の公的機関や委員会においても、要職に就く。が、それら肩書が醸し出すイメージに反して、松嶋はいたって気取りがない。「どこか事大主義に思えて、弁護士バッジはほとんどつけない」という具合で、実に直截的だ。人の信頼は絶対に裏切らず、人の期待には必ず応える――信念はこの一点。それが、今日の地位と評価を築いた。熊本県出身の松嶋は、まさに“肥後もっこす”らしく、我が道を突き進んできたのである。
球磨川の河口に近い村で生まれて、大学で東京に出てくるまではずっと熊本です。小・中・高と、違う行政区域の学校に通っていたので、それぞれにたくさんの友人がいるんですよ。よく遊んだし、昔から僕は、好きなことを好きにやってきた。優等生だったのは中学校までで、熊本高校に入ってからは、進学校にもかかわらず、ほとんど学校の勉強はしていませんでした。思い返せば、以降の学生生活はずっとそんな感じで、気ままなもの(笑)。
中学生から始めた剣道は、高校1年の時に県大会で3位になったのを機に辞めて、やりたかった山登りに熱中。突然学校を休んで、阿蘇の原野に出かけていったりしたものです。子供の頃からチベットに魅せられて、もともとは探検家になりたかったぐらいですから。あの神秘の国。これまで何度か旅をしましたが、今でもチベットは、僕にとって最大の“趣味”です。
そんな僕に、強い影響を与えたのが、高校2年の時に下宿していた先で出会った男性。下宿を営むお婆さんの孫で、この頃、仕事で派遣されていたブラジルから帰国したばかりでした。彼と毎晩のようにする貿易の話が面白くてね。世界地図を広げて、ここでは鉄が採れる、石油が採れるなんて教えてもらいながら……。将来は経済学部に進んで、貿易の仕事に就こうと思うほど感化されました。それに、世界を股にかけるような壮大な話をしていると、じっと机に向かうのがバカバカしく思えて、全然勉強しなくなった。ある日、勉強机の電気スタンドにクモの巣が張っているのを見つけた時は、我ながら呆れました(笑)。
一方で、松嶋は多読家でもあり、高校時代にとりわけ凝ったのは太宰治。3年生で下宿先を移って環境が変わったことも加わって、この頃は小説家になろうと考えていた。自ずと、大学は文学部志望へと様変わりするが、ここで、父親と対立。当時、松嶋の父親は八代市で建設会社を経営しており、松嶋に別の道を諭していた。「お前は弁護士になったらどうだ」。
兄貴が2人いて、ともに一級建築士ですから後継ぎの問題ではなく、「三文文士になっても飯は食っていけないぞ」というわけです。そして、もう建築士はいらないからと、親父から出てきた職業が弁護士。それでも僕は文学部に行きたくて、兄貴たちに相談したら、長兄が「金を出すのは親父だろ。ひとまずいうことを聞いておけ」と。まぁもっともな話なので、結局、中央大学の法学部に進学したわけです。
でも心中では、弁護士を目指すつもりは全然なく、あわよくば、在学中に小説家デビューしようと考えていたんですけどね。今度はサルトルに凝り、友人と酒を酌み交わし、マージャンをやり……。いずれにしても、勤勉な学生ではなかった。通学には中央線を使っていたんですけど、朝のラッシュが凄まじいでしょ。田舎では、そんな電車に乗ったこともないから耐えられなくて、少なくとも、1時間目は行かないと決めていました(笑)。
だから、出欠を取る授業は単位ギリギリ。およそ成績優秀とはいえず、僕はほとんど「可」ですよ。で、卒業試験の後、発表を見に行ったら僕の名前がない。なぜ落ちたかというと、必須科目である民事訴訟法の教授の顔を間違えてしまったんです。あまり学校に行ってないから。友達につられて、違う教授の民事訴訟法の試験を受けていたという話(笑)。本来の試験は受けてないんですから、そっちは0点。卒業者名簿に名前がないのは当然です。それでも、ヤマが当たって答案には自信があったので、学務課に頼みに行ったんですよ。「問題は違うけれど、いい答案を書いているから見てください」って(笑)。教授には手紙を出し、結果、追試の機会をもらって、みんなから1カ月遅れの4月末に、僕は卒業証書を手にしたというわけです。
入所した法律事務所で関与した倒産事件が、行く道を決定づける
松嶋が司法試験に向けて受験勉強を始めたのは、4年生になってからである。友人たちが就職活動に勤しむなか、さすがに「俺も何とかしなきゃ」と腰を上げた。小説家になる夢は断ち、未練が残らないよう、積んであった本は古本屋に引き取ってもらい環境を切り替えた。経営者を親に持つ子供の多くがそうであるように、松嶋もまた、会社勤めをする気はまったくなかったという。この段階では、あくまでも“職に就く”ために臨んだ受験勉強だった。
僕の主義で、小学校以来、塾とか予備校には通ったことがないんです。受験勉強を始めた在学中も研究会などには参加せず、行ったのは答案練習会ぐらい。ただ、卒業した翌年からゼミには入りました。『受験新報』で知った民間の「西戸山ゼミナール」で、ここはものすごく優秀なゼミなんですよ。合格率が高く、僕の時は、受験者12名のうち7名が受かりましたから。
月会費はわずかで、合格した先輩たちが手弁当で徹底的に教えてくれる。当時は恒常的な勉強場がなかったから、お寺や文化会館を借りたりしながらね。ここで、一気に集中して勉強しました。おかげで1968年に合格、うれしいというよりはホッとした感じでした。ちなみに僕も、四十数年間ずっと西戸山ゼミにかかわっていますよ。それが合格した者の義務というか、恩返し。
修習生時代は、地元の熊本に帰っていたのですが、この頃も僕は勤勉じゃなくて、ろくに就職活動もしていませんでした。弁護士としてどんな領域で仕事をしたいとか、確たる考えもなかったし。ある日、マージャンをしていたら、友達から電話がかかってきて、「東京の清水直法律事務所が弁護士を求めているから、お前、行かないか」という。この時、清水先生のことは知らなかったのですが、僕を雇ってくれる事務所があるのなら行くよと。清水先生のところにいたイソ弁が西戸山ゼミの出身で、その先輩が「松嶋はどうか」と推薦してくれたらしいのです。先生が多忙なので、指定を受けた面接場所はドライブイン。簡単な会話だったと記憶していますが、合格者が少ない時代でしたから、雇うほうは選り好みできなかったんじゃないかなぁ(笑)。
当時、倒産弁護士として名を上げ始めていた清水直氏との出会いは、松嶋のその後の弁護士人生を決定づけた。「法律」と「経営」が密接につながっている世界。ただ法律を睨むばかりではない様々な事件を経験するうち、松嶋は「これなら自分に向いている」と確信するようになった。入所当時、事務所に籍を置いていた弁護士は、松嶋を含めて3名。規模が小さいことで、数多くの現場に触れられたことも血肉となった。
倒産事件が多いとはいっても、小さな事務所ですから、いろんな事案に携わっていました。損害保険会社の代理人もやっていたので、交通事故でいえば加害者側の代理人とか、ほかにも日照権紛争の事件とか。僕は施主側として、地域住民との交渉に臨むわけですが、相手の代理人はおおむね共産党の人たちで、深夜にまでおよぶ厳しい交渉でずいぶん鍛えられたものです。僕はね、絶対に逃げない。小手先を使ったり策を弄するのがきらいで、思ったことをバーッと地でやるタイプなので、最後は、相手が誰であっても気が合ってしまうんですよ。
そんな場面を経験したり、一方で、清水先生は決断力も度胸もある人なので、裁判所とケンカすることも辞さない戦い方を見ていて、この仕事を続けたくなったのです。弁護士というのは、訴状や準備書面ばかり書いていて面白くないと思っていたけれど、法律、法律していない仕事もあると。僕の性分に合っていると思うようになりました。
印象に強いのは、照国郵船の会社更生事件です。親会社だった照国海運が倒産して、その申し立てを事務所でやっていたのですが、僕が担当したのは照国郵船のほうの管財人代理。32歳の時でした。鹿児島から沖縄までのフェリー航路を持つ会社で、本拠地を置く鹿児島に、ひっきりなしに足を運んでいました。照国郵船の代理店があちこちの島にあって、未払いになっている港の固定資産税の処理に行くわけです。奄美大島、沖永良部島、与論島⋯⋯どこに行っても、代理店の社長さんたちが一席設けてくれるのですが、それこそ倒れるまで飲みました。そうしないと、腹を割った関係にはなれませんから。この時ばかりは、酒飲みの力が役に立った(笑)。そのおかげで、絶対的な信頼を得ましたが、結局僕は、人と向き合うのが好きなんですよ。
「器ではなく業を残す」。事業再生の実務で経験と功績を積む
事業再建型の仕事は、救急患者を救うようなものだから、やりがいがあって面白い
入所して5年経った76年。松嶋は事務所から独立し、松嶋法律事務所を開設。実は、この独立は短兵急な話で、松嶋自らが望んで準備したものではない。清水直法律事務所が、照国海運、照国郵船双方の更生事件に関与するなか、両社の利害が対立する案件が出てきたのを受けて、倫理問題に抵触するのを避けるために、松嶋が事務所を出ることになったのである。
「松嶋くん、独立しなさい」と。蓄えなんてないから、借金はするわ、物を売るわで、慌てて資金を工面して事務所を構えたのです。弁護士はもちろん僕一人。あとは事務員一人だけというスタートでした。
引き続き、照国郵船の仕事をしていましたが、相変わらず鹿児島や沖縄を飛び回っていたので、それはもう忙しいわけです。照国郵船の専属状態で、ほかの事件には全然手が回りません。更生事件なので、月30万円くらいの給料はもらっていましたが、それだけで事務所の経費や維持費をまかなうのは無理。すぐに赤字になって、独立後、年が明けたら、いきなり倒産の危機ですよ。先輩を頼って金を借りようか、仕事を紹介してもらおうかと考えていた矢先、運よく、知り合いの弁護士が仕事を斡旋してくれたのです。これで、何とかつなぐことができた。余談ですが、女房はこの頃を知っているから、いつまた苦しくなるかと、いまだにトラウマになってますよ(笑)。
照国郵船の更生手続きが終結したのは90年。手続き開始から15年、時間はかかりましたが、マリックスラインという社名になって再生しました。親会社だった照国海運のほうは、結果的に清算。複数の大手銀行から管財人が入ってやったけれど、いわゆる大企業のサラリーマン気質だから、度胸がなくて設備投資をしきれなかった。船会社は、新船をつくるとなれば、何十億という金額になりますからね。それを、管財人がいつまでも決断できない。しかし、更生会社というのは、投資していかなければ継続も発展もありません。結局「弁済に回せ」と引っ張っているうちに、ジリ貧になっていったのです。
その点において、清水先生は銀行側の管財人とよくケンカしていました。事業家と弁護士、立場があべこべです。でも僕は、清水先生からそういう事業家的なセンスを学びました。設備投資、資本を投下しないと事業は伸びないということ。もともと僕自身が経営者の息子だから、そういう感覚には敏感なのかもしれません。
松嶋がこれまで関与してきた事件は、枚挙にいとまがない。国民銀行(金融整理管財人)、山一證券(破産管財人)、そごうグループ(監督委員、破産管財人)、ハウステンボス(会社更生申立代理人)等々。社会的にも注目を浴びた名に負う事件には、必ずといっていいほど松嶋の存在がある。様々な倒産劇を内側から目の当たりにしてきた経験において、松嶋が重んじているのは「器ではなく業を残す」再建だ。
山一證券は確かにスケールは大きかったけれど、破産事件というのは、例えるなら死体解剖のようなものです。それに対し、再建型の事件は救急患者を助けるわけですから、正直、仕事としては後者のほうが面白い。企業倒産が常態化してから久しく、昨今では、かつてないほどの規模や深刻さを持っています。でも、そうしたなかからも再び躍進の芽を吹かせ、再生の道をまっしぐらに進む倒産企業もある。僕はそういうケースを数多く見てきました。
倒産という事態を、負の観点ではなく積極的な観点から見直せば、それは企業がよくなるチャンスだということ。会社更生の申し立てをして、新しい管財人のもとで再建を図る。旧経営陣や不良事業部門を整理し、新しい人材や資金を投入し、そして、事業のいいところだけを残して再生していく。器や意識が変わることによって、生き生きと活躍し始める従業員だって少なくないのです。個別企業を残すという従来型の再建ではなく、“業を再生する”時代だと思います。だから、事業譲渡方式が重要なのです。
強固な基盤を得て、大きく躍進。新たな時代を切り拓く
「松嶋の名前が立ちすぎると、ほかの人がやりずらいでしょ」。皆が誇りを持って仕事ができるようにと、「ときわ総合法律事務所」に名称変更したのが2003年。そして翌年、大手の西村総合法律事務所と統合を果たし、松嶋は「西村ときわ法律事務所」のパートナーに就任する。この話は西村サイドから寄せられたものだが、これは、双方にとって相利共生を見込める、実に時宜を得た合併であった。
それなりに成果を挙げてきたことで、外国からも金融機関からも、より難しい事件を依頼される機会が増えてきました。合併前の事務所の弁護士は15人体制でしたが、パワー的にはすでに限界で⋯⋯。弁護士法人にして、税理士なども補充しつつ組織拡大を図ろうと考えていた矢先、西村総合法律事務所から合併の打診があったのです。企業法務や国際法務に豊富な実績を持つ相手ですから、シナジー効果は歴然でした。西村にとっても、倒産や事業再生に強い僕らと組めば、ほかの大手事務所と差別化を図れる。加えて「いっさいの条件をのむ」というありがたい話だったので、断る理由はまったくありませんでした。実際、相乗効果はてきめんで、今、事業再生部隊は50人規模になっています。どんな案件に対しても、様々な領域のプロを集めて、すぐにチームがつくれる。ワンストップで、全部まかなえる体制がとれるようになったのです。
合併してすぐの頃、かなりハードな事案がありました。ムービーテレビジョンの民事再生です。アメリカの大手映画会社から、映画やテレビドラマなどの映像放映権を独占的に輸入できる契約をしていた会社ですが、財務体質の悪化が進むなか、04年の2月に、決定的に資金繰りの目途がつかなくなってしまった。これは、銀行側の理由によって引き起こったことだけど、いずれにせよ、即座に民事再生の申し立てをする必要がありました。アメリカ側が放映を禁止する事態にでもなったら、日本のテレビ会社は大変なことになってしまいますから。
急遽チームを組み、わずか2日で申立書を作成しました。それから、1カ月でスポンサー探しですよ。あまりにハードだから、夜遅くに「酒、飲むぞ」と焼鳥屋に行って、ガンガン飲んだりもする。で、僕は、生まれて初めて過労で入院してしまった。2週間。それでも途中、病院から抜け出して仕事していましたけどね。結果的に、スポンサーはソフトバンク・ブロードメディアに決まり、新しい経営方針のもとで事業再建が進んでいます。どんなに峻烈な状況であっても、決してあきらめることができないのです。それは、従業員の生活を守るため。そして、社会経済に深刻な影響が及ぶような事態は、何としてでも避けなければならないからです。
ごく最近のものとしては、バイオメーカー・林原の会社更生事件がある。3月26日、東京地裁から終結決定を受けたが、手続き開始決定からわずか1年という早さだった。加えて、更生債権の弁済率は93%という異例の高さ。親会社となった長瀬産業の支援を受け、林原は経営再建への道を歩み始めている。この事件においても力強い仕事を担った松嶋は、今後、倒産法処理のスピード化はますます重要になると語る。
経済が右肩上がりの時代ならば、企業再建は、債務を適正な額まで減らせば可能でした。しかし、今のようなデフレでは、借金を圧縮したところで、事業そのものが収益を挙げない限り再生の道はありません。何より金融機関自体が、5年も10年もダラダラと弁済を受けるような時代じゃない。日本の倒産法の処理は、間違いなくスピードを重んじる流れになっています。林原の事件もね、土日ぶっ続けの徹夜状態で仕事したんですよ。この時は、裁判官が倒れてしまって、「お宅がそういう体制なのは知っているけれど、裁判所はそうなっていない」と叱られましたけどね(笑)。
事業再生は、これからも増えるでしょう。日本経済の活力へとつなげていくためにも、一層重要になります。伴って、この世界を目指したいという人材も増えてきましたが、お利口さんが多いような気がしますね。人間が小さいというか。重箱の隅をつついて法律のことばかり睨んでいては、この仕事はできません。僕らがやっているのは、法律の仕事というより、コンサルティングのようなものなので。
心身が健康であることを第一に、陽性で柔軟な発想ができること。決断力と誠実さがあること。求められる資質は、いえば多々ありますが、要は“人間の度量”が問われるということです。だから利害ばかりを考えず、大樹にも寄らず、どんな仕事でも一生懸命やって、経験や思考の幅を広げてほしい。そうすれば実力がつくし、人は必ず、それを見ています。ろくに学校に行かず、弁護士になりたいと思っていなかった僕が、こうやって今日までこられたんですから。
※本文中敬称略