持ち前の集中力を発揮、わずかな勉強期間で司法試験を突破する
渉外弁護士として道を歩んでいた貝沼由久が、実業界に転身したのは32歳の時。ベアリング大手のミネベア「中興の祖」と称され、貝沼にとっては義父にあたる故・高橋高見氏から、猛烈なラブコールを受けてのことだ。異質な環境に戸惑いながらも、実践でビジネスを学び、知見と経験を重ね、そして時に「弁護士的発想を生かしながら」その才覚を発揮してきた。現在、世界各国に製造・販売拠点を設け、グループ全体で6万7000名超の従業員を擁する組織の陣頭指揮を執る。日本では希少な日米の弁護士資格を有する実業家として、貝沼は「弁護士もビジネスマンとして成功できることを証明したい」と、今日もチャレンジしている。
けっこう甘やかされて育ち、まぁ自由奔放というか、勉強も全然せずという子供だったんですよ。それが急に、勉強しだしたのが中学2年の時。成績優秀だけど気に食わない同級生がいて、「こいつにだけは絶対負けたくない」と燃えたわけ(笑)。ひとたび火が点くと、私はグッと集中するタイプで、3年生になった頃には学年トップ層にいました。流れとして、いずれ東大を目指そうと考えていたので、高校は開成と慶應を受験。開成は数学で歯が立たずアウトでしたが、結果的に入学した慶應は性に合ったんでしょうね、その後の大学に至るまで、本当に楽しい学生生活を送ることができました。
慶應高校には、今も続いているプナホウスクール(米・ハワイ州)との交換留学プログラムがあるのですが、私は高校2年の時、4期生として参加したんです。初めての海外。道、車、立ち並ぶ家々などのすべてがあまりに大きく、腰を抜かすほど圧倒されました。漠然とながらも「国際的な活動をしたい」と考えるようになったのは、間違いなくこれがきっかけですね。
翌年には、友人らと再度アメリカに貧乏旅行です。イエローページを頼りに安宿を探しながら、あちこち巡って。その一つがハーバード大学。当時、アイビールックが流行っていたから、本場を見てみたいという多分にミーハーな理由でしたが(笑)。これまた立派なキャンパスで、自校がうんと小さく思えたものです。思春期に受けたインパクトって、ずっと残るものですよね。
アメリカンフットボール部に所属し、激しいスポーツに勤しむ傍ら、貝沼は「男子校ながらちょっと軟派な感じ」の高校生活を存分に楽しんだ。慶應義塾大学への進学に向けて第一志望としたのは、当時文系で一番人気の経済学部。が、「楽しいと緩む性分」ゆえに、成績的にかなわず、貝沼は第二志望だった法学部法律学科に進学した。
まだ将来の職業イメージがなかったし、父が経営していた小さな会社を継ぐ気もまったくなしで、流れに身を任せた進学……こういう話はまったく尊敬に値する話ではないので本当のことをお話しするのはイヤなんだけど(笑)。慶應大学での日々はやっぱり楽しくて、相変わらず私は勉強しないで遊んでばかりでしたね。
卒業を控えた段になって、さあどうするか。私は、どうしても会社勤めをする気にはなれなかったんです。毎日満員電車で通勤するなど、とても自分には無理だと。そこで思い立ったのが司法試験です。先日、ゼミのOB会でその頃の話をしたら、「普通、楽なほうを選ぶなら司法試験じゃなく、満員電車のほうでしょ」と言われちゃったけど、それくらいイヤだったんですよ。実際、合格者500人時代でしたから、ゼミの教授に「司法試験に臨む」と伝えたら、爆笑されまして。「君の場合、まず勉強をする環境に変えるのに2年はかかるよ」。そう言われたのが悔しくて、一気に気合が入ったわけです。
誰とも会わないようにするとか、それまでの生活環境をバッと切り替えました。すでに4年生終盤で、学校の授業には出ていなかったので(笑)、予備校に通って猛勉強です。ありがたかったのは、予備校の先輩受験生の数名にとても可愛がられ、面倒を見てもらえたこと。おかげで効率よく勉強することができ、結果、大学を卒業した翌々年に司法試験に合格したんですよ。思えば昔からそうで、私は短期集中型。今でも「新製品を開発する」とか「この部門を黒字化する」とか、目標が定まって気合が入ると、すごい集中力が出てくる。加えて、要所でいつも人に恵まれるということ、これもまた、私の強みだと思っています。
渉外弁護士として国内外で活動。〝基礎体力〟をつける
24歳で司法試験に合格した貝沼は、研修所で司法修習に入り、実務修習は横浜だった。聞けば、修習修了を控えた頃に志望していたのは検事だったという。「自分の正義を貫けるし、語弊を恐れず言えば、権力を背負うことが面白そうだったから」。しかし一方、かつての渡米経験で胸に湧いた「国際的な活動をしたい」という思いも、顕在化し始めていたのである。
検察修習で与えられた14件の事件はすべて否認事件だったんですけど、私、全部自白させたんですよ。指導教官からも「検事に向いている」と気に入られ、私自身もそう考えていました。悪いヤツをやっつければいいわけで、非常に単純明快ですからね。でも、ここでまた満員電車の問題があり(笑)、さらには2、3年で転勤を繰り返すことになる。検事になるよう促す教官に、「ずっと東京地検特捜部にいさせてもらえるのなら」と言ったら、「それは無理だ」と。当然です(笑)。
もちろんそれだけではなく、渉外弁護士への憧れもあったのです。大学生の時、実務に就く弁護士が教えてくれる授業があったのですが、そこで、たまたま渉外弁護士の話を聞く機会に恵まれたんですね。実際の仕事の様子や、その方が経験された留学話は、とても刺激的で。高校生の頃の記憶とも相まって、弁護士になるなら渉外の分野でと、明確なイメージは持っていました。
最終的には弁護士への道を選び、国内の渉外系法律事務所でキャリアをスタートさせました。クライアントの半分がアメリカ企業という事務所で、裁判になった案件など、日本法の問題をアメリカ本社に報告する文書作成に四苦八苦していましたねぇ。あるいは、日本の会社がアメリカやヨーロッパ企業と契約する際の契約書作成とか。もう自分の文章がなくなるほどボスに添削される有り様でしたが、おかげで、めちゃくちゃ勉強になりました。海外との仕事で時差もあるから、夜中というより早朝まで働きましたし。この時期の学びと鍛えによって、私の基礎ができたのだと思っています。
「留学したい」という気持ちは、当然あった。狙いは、かつて“見学”に訪れたハーバード。貝沼は同大学ロースクールにてLL.M.プログラムを修了、翌年の1988年にはニューヨーク州弁護士資格を取得している。米国弁護士資格を持つ日本人はまだ少ない時代で、貝沼は先駆けの一人となった。そしてこの間、ニューヨークなどの大手法律事務所で実務を経験したことは、また一回り、貝沼を逞しくした。
M&Aを主とした会社法関係をやり、続いてロビイングにも携わりました。パートナーに付いて、毎日のようにワシントンD.C.の上院議員を訪問し、我々の陳情や働きかけには正当な理由があることを訴えるのです。例えば、「この法律をつくることでどれだけの仕事が創造され、伴って雇用機会が創出されるか」などという視点から。まさに、ジョブ・クリエーションです。すごく勉強になったし、何より、今日に役立っています。私たちが海外進出する際には、相手国の政府トップに会って恩典取得のために説得を図るわけですが、この時の経験がなければ、うまくやってこられなかったでしょうね。
私の義父にあたるミネベアの元高橋会長から、「うちに入らないか」と声が再三かかるようになったのは、このアメリカ滞在中です。そもそも、私は金儲け話が苦手で、無縁の世界だと思っていたし、結婚した頃は、会長もそんな私に何も要求していなかった。でもどこかで、アメリカの経営者には弁護士が多いことを知り、どうもスイッチが入ったらしい(笑)。
並行して、私も帰国しようと考え始めていました。もっと長くアメリカで仕事したい気持ちもあったのですが、やはり白人社会で、ここで成功するにはかなりの労力と運を要するだろうと。日本で渉外弁護士をやるほうが、道が開けると思ったんです。そんなタイミングで、会長から提示されたのが「週3日の午前中、常勤と非常勤の間のようなかたちでいいから、法務担当の役員として入ってくれないか」。予想外の変化球ですよ。でも、それなら弁護士業とも両立可能だし、自分のキャリアにもなると考え、受けることにしたのです。しかし、入ったら毎日カタカナで書かれた指示書が会長からファクスで送られてきて、月水金の午前中では済まなくなりましたが(笑)。
ミネベアに入社。現場で日々研鑽を積み、新たなキャリア形成へ
貝沼がミネベアに入社したのは88年12月。ところが、そのわずか半年後に、高橋氏が病で急逝してしまった。それこそ予想外の事態である。しかし貝沼は、この時を境に、弁護士業を離れて会社人生を歩むことを決意している。いわゆる後ろ楯を失ったのに加え、馴染みのない“会社組織”や仕事に「最初は戸惑いの連続だった」と言う。
会長は、病床にあっても仕事の話ばかりしていました。その時、初めて私を褒めてくれたんですよ。「君はよくできる」って。そんなこと一度もなかったのに。「あとを頼む」という直接的な言葉があったわけじゃないけれど、私はそういう意味だと汲み取ったのです。まだ60歳でしたから、やりたいこともたくさんあっただろうと察して。
この時は、社長になるなどといった意識はまったくなく、「逃げるようなことはしたくない」という一心でした。実質、会社人生が始まったのはここからです。当時の後任の会長から命を受け、「会社を知る」意味で営業からスタートしました。最初は、驚きや苦労の連続ですよ。卑近な例で言うと、当時は、ある顧客企業を訪問する際に、うちのような部品メーカーは正面玄関から入れず裏口を使うとかね。それまで「先生、先生」と呼ばれていたのに(笑)。あるいは、どこの会社でも、会議室での席や歩く順番が決まっていて〝偉い人順〟が常識であるとか。アメリカ企業はまったくフラットでしたから、習慣の違いに馴染めませんでした。右も左もわからず状態で、泳げないのにプールに放り込まれたという感じでした。
10年におよぶ国内外での営業を経て、人事総務、物流・資材といった業務本部の仕事にも就き、貝沼は着実にステップを踏んでいく。総体として「自分が指揮を執ればうまくいくかもしれない」と自信がついたのは、赤字だった関連会社、ミネベア・松下モータを、わずか1年で立て直した時だ。貝沼がいう「ミニ社長業」は、のちの大きな布石となった。
「業績低迷が続く会社の経営を再建しなければ」という話が出た時、自ら手を挙げたのです。だって、赤字を黒字にするのって面白そうじゃないですか。また例のごとく短期集中のスイッチが入り、一気に様々な手立てを講じていきました。
製造業にとって一つ要となるのが、製品の歩留りアップです。例えば、100個のモノをつくる材料を投入して90個の製品しか出てこないのなら、ボトルネックはどこにあるのか、さらには解決策を見いださなければならない。現場に入り込んで製造ラインをずーっと見ていると、そのポイント、つまり理屈に合わない工程が必ず出てくるんですよ。「なぜ、この作業をここでやるの?」というような。私のような門外漢が、なぜ早く黒字化に導けたかというと、「俺は素人だから」ではなく、素人だからできる発想を大切にしたから。加えて、弁護士として訓練されてきた“理屈”を立てる力ですね。ある種の法的三段論法で、「ここをこうしたら、もっとよくなる」という発想と活動の連続で、再建が叶ったのです。
司法試験に憲法、民法などの試験科目があるように、経営者にも学ぶべき必須科目があります。リーダーシップ、戦略立案、財務諸表を読む力など様々あると思いますが、弁護士と決定的に違うのは「サバイバル術」が求められること。為替は激しく変動する、突然どこかの政府で転覆が起きる、また、かつてうちのタイ工場の一部が大洪水で被災したように、天災もある。予期せぬあらゆる事態に、どう戦って切り抜けていくか。その意味で、サバイバルは重要トップ科目です。ミネベアの社長に就くまでの20年間、私は現場を通じてすべての必須科目を学んできたように思いますね。
1兆円企業に向けて。弛まぬチャレンジ精神で躍進を牽引する日々
意識しているのは、常に先を見つめ、人が発想しない方法で戦略を立てるということ
2009年4月、貝沼はミネベアの代表取締役に就任。早々に、従業員のモチベーションアップにつながる「E-Ship(信託型従業員持株インセンティブ・プラン)」を導入し、社長就任時にはわずか8%であった従業員持ち株会の入会者を、最近では60%を超えるまでにした。幻想だと高橋会長が言っていた「労使一体」を現代流に達成したと自負している。追って11年には、カンボジアに海外電子部品会社としては初となる大規模工場を設け、製造業による日本進出の先鞭をつけるなど、あらゆる角度から新施策を打ち続けている。「常に先を見つめ、人が発想しない方法で戦略を立てる」。それが貝沼流だ。
カンボジア進出にあたっては、当然、政府要人へのロビー活動を行ったわけですが、こういう時は、かつてアメリカで経験したロビイングが役立ちます。まさに「雇用を創出する」という話なのですが、でも、当初の向こうの反応は芳しくなかったんですよ。「日本企業はアプローチしてきても、結局は何もしない」というリアクションでした。
しかし、うちは交渉に訪れた翌年には、カンボジアに長さ400メートルの大工場をバンと建てた。「工場を全部埋める生産オーダーはあるのか?」「いえ、まだありません」。政府は驚いていましたね。セールスしてから工場を建てるのではなく、器をつくってからオーダーを取ればいいという発想です。私が自らトップセールスに出れば、みんなも頑張る。結果、1年ほどで工場はフル稼働になりました。カンボジアでのワーカーは7000名ほど。人口が少ない国なので、実際は現地採用って難しいのですが、今、一番人が来てくれるのはうちじゃないでしょうか。本気でやってきたことが、従業員を通じて伝わっているからだと思います。
それと、一定の製造品目において、我々はカンボジアで5年間の排他的独占権を得ています。これまで海外進出において、ミネベアは先陣切って各国で環境を整えてきたものの、2番手、3番手にその環境を取られてきた経緯があるので、カンボジア進出では、戦略の一つに組み込んでいたものです。こういうのも、多分に弁護士的発想ですよね。
来年からは、首都プノンペンを中心とした未来都市づくり「スマートシティー」事業が始まりますし、社内では、約20の新規プロジェクトを進めています。私が重んじているのは戦略の柔軟性。先を見つめ、時代とともに我々も変わり続けなければ、成長は望めませんから。
周知のように、古くからミネベアは既存事業にとらわれず、小型ベアリングを中心に多角化経営を突き進んできた。変わらぬ活力、強さの源泉はそこにある。「私にも多角化のDNAが刷り込まれている」という貝沼もまた、ミネベアが持つ製品群や技術を生かしての業容拡大に挑む日々だ。前述のような海外戦略、LEDバックライトなどの電子機器事業や複合製品の強化を柱にしながら、当面の目標である売上高1兆円、営業利益1000億円達成に向けて、走り続けている。
かつては、輸入家具販売や信販事業などという本業とは別の分野も多く手がけてきましたが、今は「うちの製品のなかで多角化しようよ」と。「ベアリングだけをつくると誰が決めたのか」という、根本にあるチャレンジ精神は貫きつつ、不確実な時代にあっても生き抜く術として、多角化を積極的に進めたいと考えているところです。
経営も人生も、自分で道を切り開いていくのは間違いないんだけれど、「こうだ」と決めてしまった瞬間に、リスクが生じるんですよ。ほかで得られるであろう機会や経験を失うというリスク。弁護士でいえば、「ロースクールに行き、弁護士資格を取りました」、だから「弁護士の道しかない」という決めつけは、広い意味で人生の損失につながるかもしれません。昨今、とんでもなく弁護士数が増えているわけでしょ。だから、もっと選択の幅や視野を広げるべきだと思いますね。弁護士業を究めるにしても、ロースクールや司法試験で培った知識をもとに、違う分野に踏み出してみるのは有意義で、成功のチャンスは十分にあるはずです。
日本の弁護士のよくないところは、大手法律事務所にいても弁護士キャリアしかないということ。つまりはビジネス経験がなく、だから、重要な場面であっても教科書にあるようなアドバイスしか出てこないのです。アメリカと違って純潔主義というか、ずっと弁護士の世界にいることがよしとされているうちは、世の中の実際を知ることはできません。ここは変えていかないとダメだと思うのです。今、日本には私のほかに日本の弁護士資格を持つ社員が2名、アメリカの弁護士資格保有者が2名いますが、かつての自分に照らし合わせ、法務ではなく他部署で経験を積んでもらっている人もいます。知識の幅がうんと広がり、得た経験は必ず生きてくることを、誰より私自身が知っていますから。思いがけず走り出した道ですが、弁護士がもっと実業界に増えることを願って、私は、今回の取材をお受けしました。これからも一つのお手本となるようなキャリアを示せればと思っています。
※本文中敬称略