Vol.31
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牛島 信

HUMAN HISTORY

既成秩序に守られ、これまで支配してきた爬虫類が滅び、新たな哺乳類の時代へ――。弁護士業界は今、変革の時を迎えている

牛島総合法律事務所
弁護士

牛島 信

無類の読書好き。子供の頃より早々に英明さを発揮する

牛島信(うしじま・しん)には二つの顔がある。一般企業法務、M&A、ガバナンス、国際訴訟などを専門分野に、〝完璧な仕事〞を追求するビジネスロイヤーとしての顔。なかでも、牛島の名を知らしめたのは、携わってきた敵対的買収において、いずれも標的となった企業を守る側に立ち、防衛成功へと導いてきたその手腕である。
他方、文筆家としての顔を持つ牛島は、法律関係の著書はもちろんのこと、企業小説やエッセイも多数発表している。子供の頃から、日々の傍らには必ず本があり、並外れた読書量によって育まれた感性は豊かで鋭い。自らに根源的な問いかけを繰り返し、幾重にも思考を重ねてきたからこそ、牛島は弁護士として、文筆家として、ひとかどの存在感を放っているのである。

牛島 信

生まれは宮崎ですが、住んでいたのは4歳までで、その後、勤め人だった父の転勤に伴って北九州、東京、広島と移り住むノマド(遊牧民)みたいな暮らしでした。だから、私にはいわゆる故郷と呼べる地がなく、しいて言うならば広島になるでしょうか。10歳から18歳までの、最も多感な時期を過ごしましたから。

広島って、わりと教育熱心なところで、小学校で成績のいい子は、当然のように中学受験をするという環境だったんですよ。私もその一人で、受験に向けてずいぶん勉強した記憶があります。入学したのは広島大学附属中学校。この頃からです、「私は東大に入らなければならない」というオブセッションを抱えるようになったのは。今思えば、会社での役職において、父に東大願望があったのでしょう。自分の子供には〝偉い人間〞になってもらいたい。そう思うのは、親のもっともな心情です。それなりに成績がよかった私に、期待をかけていました。

中学に入ってすぐに塾へ通い始めたのですが、けっこう大規模な塾で、入塾試験がありました。入ってからすぐ、塾長が皆の前で「この中に、全4科目100点を取ったやつがいる」と。それが私。最も輝かしい頃の話です(笑)。母なんかには、自慢の息子だったと思いますよ。「牛島君のお母さん」ということで鼻が高かったんじゃないかな。私が子供のうちはね(笑)。

そのまま広島大学附属高校に進学。学業だけでなく、牛島は中・高校時代を通して様々なことに取り組んだ。水泳、柔道、文芸、ブラスバンド……そして「リーダー願望があった」から生徒会長も務めている。ただ、東大受験が重くのしかかっていた牛島にとって、それらは夢中になれる対象ではなかった。元来、人と群れたり、何かを強制されることを好まなかったということもある。

幼い頃から、本を読むのが何より好きでした。話せばキリがないんですけど、例えば、高校生の時には大江健三郎の『全作品』に触れていたし、一貫して読み続けてきたのは加藤周一です。強く印象に残っているのは『羊の歌』ですが、目に入る限りの彼の本はすべて読んでいます。つくづく思うのは、団塊の世代にあたる昭和24年(1949年)生まれというのは、ある種の刻印が押されているということ。〝根なし草の国際主義者〞です。そう育てられ、生きてきたところがある。その過程で最も理想的に見えた姿が、加藤周一でした。明石康の『国際連合』が最初に出たのも私が高校生の時でしたから、当然のように、私は国際公務員になって働くんだろうなぁと。つまり、ずっと日本にとどまっているのは、レベルの低いことだと強く思っていたのです。

そんな調子で、夜は自分の好きな本ばかり読んでいるから、生活は日中逆転。朝起きられないという悪循環に陥って、学校を休むことも度々でした。ある時、担任だった英語の先生に「お前、なんで休むんだ?」と聞かれたので、「わかりきったことを教える授業を受けてもしょうがありません」。そんなイヤなことを言わなくてもいいのに(笑)、行きがかり上。ただ英語は好きだったし、大見得切った手前、ずいぶん勉強しましたよ。独学で。今でも英語は大好きですし、毎日仕事にも使います。結局、私は何にしろ強制されるのが嫌いで、高校生になってからは塾にも行かなかったし、自分で紐解き勉強するスタイルが好きだったんです。それは、今も変わっていません。

人生をどう歩むか――。大いに悩み、考えを巡らせた青年時代

牛島 信

苦手な数学がハンデとなって、最初の東大受験は失敗。翌69年は、東大紛争によって入試そのものが中止となったため、牛島はいったん早稲田大学に入学、1年在籍しながら〝浪人〞し、再び受験に備えた。それほどまでに、東大合格は〝絶対〞だったのである。法学部を選択したのは、「役人になろうかと、漠然と考えていたから」だ。

今は違うけれど、あの頃、東大法学部を選ぶ人は、大蔵省や通産省(当時)に入って官僚になることをよしとする傾向がありました。その上は、官僚を経て政治家になるという像です。そういうヒエラルキーがあった。その一歩目が、東大法学部だったんでしょうね。実際、そういう道を歩んだ友人は何人もいますが、彼らって本当に真面目なんですよ(笑)。私は相変わらず本に浸る生活で、自慢じゃないけど大学にはほとんど行かなかった。特に行政法の授業なんて朝早かったから、私には到底無理。行政法が取れなきゃ、役人にはなれないという単純な話です。

司法試験を意識したのは2年からです。法律家への強い憧れがあったというより、将来に保険をかける意味で受かっておきたかった、それが正直なところです。「東京大学法律相談所」というサークルに出入りするようになり、ここで先輩たちに指導してもらいながらも、基本はやはり独学。司法試験に合格したのは74年、2回目の挑戦でした。一度落ちているので偉そうなことは言えませんが、私、司法試験は簡単だろうと思っていたのです。だって、苦手な数学がないんだから。東大入試のほうが、よほど重圧感がありました。

まだ青年でしょう、自分の人生をどう生きていこうかと、頭の中ではいろんな考えが巡っていました。男子に生まれた以上は、大手企業に入ってビジネスをするべきか、いや、やっぱり偉い人間になって国のために働くべきか……。それに、当時から作家願望があったので、文学で身が立つものなら、森鷗外のように二足のわらじで生きてみたいとも思っていました。実際に小説を書いてみたこともあるのですが、その時は褒められなかったから、結局のところ、法律家として食べていくしかないと。そんな思いでしたね。

積極的とはいえないスタートだったが、修習生時代、牛島には渉外弁護士になりたいという思いがあった。「くだんの〝根なし草的国際主義〞のなかの新しい職業と感じた」からだ。事実、いくつかの渉外法律事務所を訪問し、行く先が決まっていたのだが……検察教官からの強烈な誘いを受け、急遽転進、牛島は検事として法曹の第一歩を踏み出したのである。

検察教官に「君が検事にならなくてどうするんだ! 幹部候補生として期待している」と言われたのです。で、「そうか」と。当時の私には、エリート感はそこそこ大切でしたから、その弱いところをくすぐられて、簡単に転んでしまった(笑)。

それで東京地検の検事に任官し、仕事を始めたのですが、半年もしないうちに、私は「辞めたい」と言いだしていました。暴力団の覚醒剤とか、毎日そんな事件ばかりだったのです。「自分の人生は、こういう日々で暮れていくのか」と思うと……エリート感どころじゃなかった。もっとも、経験を積んでいけば、例えば特捜部にでも配属になって、当時でいう田中角栄のような大物政治家を取り調べる場面があったかもしれない。でも、私は現状を辛抱する気になれなかったし、何より〝捕まえる〞という後ろ向きなことに興味が持てなかったのです。「巨悪を暴くより、巨善をつくる」ほうがいい。結局のところ、検事というものが、精神的に向いていなかったんでしょうね。

新任検事が早々にわがまま言っているんですから、大問題だったと思います。あちこちにご迷惑かけて。それでも強く慰留され、身勝手にも私は両親がいた広島への転勤を希望し、広島地検に異動となりました。なのに、その後1年足らずで辞めてしまったのだから、検察庁からすれば「なんてヤツだ」という話ですよ。まったくもって、私の不徳の致すところです。

渉外弁護士として仕事にのめり込み、作家としてもデビュー

牛島 信

闇雲に人を減らし、金儲けだけを追求する敵対的買収は、許されるべきではない

少し回り道にはなったが、牛島はもともとなりたかった渉外弁護士として、再スタートを切る。79年、友人の口利きで「アンダーソン・毛利・ラビノウィッツ法律事務所(当時)」に入所。国際金融や会社更生事件、さらには、当時としては珍しかった国際的な訴訟事件に携わるうち、牛島は仕事の面白さに魅了されていった。

所属する弁護士がまだ少なかったから、仕事はすぐ佳境に入りました。文字どおりOJTで、もちろん私自身も努力しましたが、給料をもらいながら勉強させてもらった感じです。入所早々から携わったのは、マレーシアの実業家の代理人として、三井物産を合弁契約違反で訴える案件。これは20億円の事件で、私が独立した85年を超えて続きました。検事で遠回りしたという思いがあったので、機会をいただいた仕事はとにかく懸命にやりました。札幌トヨペットの会社更生事件や、木材商社である新旭川の破産事件などにもかかわるようになり、仕事も人も、一気に世界が広がっていきましたね。

外資系の依頼者がほとんどなので、英語を駆使しながら仕事をする日々は、私にとって非常に魅力的でした。ほかの弁護士や従業員たちが帰ったあと、夜静かになったオフィスで、ひとしきり働く。私はいつも深夜近くまで一人で仕事をしていたのですが、それほど面白かったということです。依頼者がとても私を頼ってくれたこと、そして、クリエイティブなアメリカ人たちと仕事をするなかで、「弁護士というのは、こんなに意義ある大きなことができるのか」という経験をいくつも得られたこと。それは、間違いなく私の大きな財産となっています。

6年在籍したのち、牛島は独立して「牛島法律事務所(現牛島総合法律事務所)」を開設する。35歳の時だった。〝完璧な仕事をする〞――掲げた理念に基づいた高度なリーガル・サービスによって、業績や陣容は順当に伸びていった。とりわけ注目されたのは、2000年代半ば、日本で次々と発生した敵対的買収における働きだ。事例としては、ドン・キホーテによるオリジン東秀、王子製紙による北越製紙、ダヴィンチ・アドバイザーズによるテーオーシーの敵対的買収など。いずれも劣勢だった状況を跳ね返し、防衛成功へと導いたのは牛島らである。

強く印象に残っているのは、王子製紙が北越製紙を買収しようとした事案ですね。結果としては、王子製紙が、第三者割当増資に対して差し止め請求をせず、裁判所での紛争にならなかったことがポイントです。換言すれば、そうなるように仕組んだということ。決して裁判事件にさせないために、先を見越してあちこちに〝杭を打つ〞。どこに、誰に対して打つか。作戦立案は、会社を取り巻くあらゆる法律に精通していなければできないし、かつ、変化する状況に応じた瞬時の判断力が求められる。同事案は、ある程度それがうまくいったケースで、この敵対的買収は成功すべきだという逆風の論調のなか、私たちがお手伝いして防衛に成功したことは、大きな達成感を与えてくれました。

「会社は何のためにあるのか」――。この事案をきっかけに、私が考え抜いたことです。現経営者側から依頼されているわけですから、私は防衛にベストを尽くさなければならない。裁判官や、あるいはジャーナリストを説得する時に、敵対的買収の必要性を乗り越える、防衛の正当理由を自ら考え出したかったのです。

行き着いたのは〝雇用〞でした。雇用があるから、人々は生活の糧を得て幸せに暮らせる。そのためにこそ会社は存在するのだと。しかし、他方で雇用ほど難しいものはなく、大事にしすぎて、その必要があるにもかかわらず従業員を減らさないと、今度は会社が死んでしまう。緊張感のある資本主義のもとで、しかし雇用を大切にする。少なくとも、闇雲に人を減らして、金儲けだけを追求する買収は許されるべきではない。この王子製紙と北越製紙の事件は、私に様々なことを考えさせ、今、私なりに「地に足のついた考え方をしているつもり」と言える自信を与えてくれました。

時期は少し遡りますが、私が最初の小説を発表したのは97年。夢中に働いてきて40代半ばになった頃、「やっぱり物を書きたい」という気持ちが頭をもたげてきたのです。事務所を開いて10年以上経ち、少し落ち着いたのもあったのでしょう。

デビュー作は、幻冬舎から出していただいた『株主総会』です。ちょうど株主総会の仕事もしていたので、私が疑問に感じていたことを重ね、フィクション仕立てにすることができました。原稿を抱えて、見城徹社長に会いに行ったんですけど、後日聞いたら、私の印象がよかったそうです。「立派な弁護士さんだと聞いていたけれど、『この小説が出せなかったら自分は死んじゃう』みたいな感じで、少年のようだった」。そういう意味で(笑)。おかげさまで30万部のベストセラーになり、今も小説を書き続けています。かつて憧れていた文筆業との二足のわらじ……小説家のほうが面白いかなぁ。エッセイも書きます。書くこと自体が楽しいんですよ。弁護士業は責任感、義務感が先に立ちますから。でも、だからこそ、プライオリティは常に弁護士業にあるんですけどね。

モットーは「圧倒的に日本一の事務所になる」。より強い組織に向けて

牛島総合法律事務所の陣容は、弁護士53名、スタッフ42名(2013年1月現在)。「クライアントが弁護士であれば、何を実現したいか」。そこに立って提供する完璧なサービス、ノウハウは、中規模ながら巨大法律事務所をも凌ぐ力を持つ。「本当に命運がかかったような事案なら、うちに来るしかない」という牛島の言葉には、確かな自信が込められている。

牛島 信

ほかと同じサービスをするのであれば、うちの事務所が存在する必要はありません。いつも、私が言っていることです。私と価値観を同じくする同朋たち、そのチーム力は明らかに独自のもので、どこにも真似ができないと思っています。クライアントからいつ電話がかかってきても対応しますし、どんな依頼事項でも期限内に解決する。サービスは完璧です。ニューヨークの超一流の弁護士が、「こういう事務所を探していたんだ」と言ってくれるのですから。

さらに調子に乗って言わせてもらうと、うちのモットーは日本一になることじゃないんです。〝by far the best in Japan〞――圧倒的に日本で一番の法律事務所になることです。だって、すでに日本一なんだから(笑)。

私は完璧を求めるから、よほどの意欲がないと、若い弁護士はつらいと思うこともあるでしょう。パートナーも含め、怒る時は本気で怒る。「なんでそんなにダメなんだ。恥ずかしいと思え!」って大きな声を出しますからね。人が育つには〝ヤケド〞が必要だと思っているので、屈辱感を与えることから敢えて逃げないようにしています。本人のためです。私のような個性で、この組織をどこまで大きくしていけるか、それは賭け。リーダーシップが強烈なほど、それが不在になれば部隊は雲散霧消するという議論もありますが、核を共有できていれば、それぞれに個性がある新たなリーダーは必ず生まれる。いや、もう出てきています。私は、あと5年もすれば、「ここの事務所があるから日本はいいよね」と言ってもらえる存在になれると期待しているんですよ。

法曹人口が急激に増えることによる業界環境の変化。それに伴って弁護士の質の低下を懸念する声が多く聞かれるなか、この点においても、牛島は明確なメッセージを持つ。「言うなれば〝最後の爬虫類〞なのか〝最初の哺乳類〞なのか」。牛島らしい例えと見解は、とても興味深い。

司法試験の年間合格者が現状2000人になっているわけですが、私は増員を否定的には考えていません。人数が増えたから質が悪くなるというのは、言わば、爬虫類としての質が悪くなるのであって、弁護士そのものの質には関係ない。むしろ、弁護士が初めて集団で仕事できる時代になったのだし、もうひとつ、真にコンペティションが始まったという意味では、いいことですよ。そもそも、弁護士であるというだけで、高い報酬を得られることのほうがおかしい。

既成の秩序に守られ、これまで支配してきた爬虫類が滅び、新たに哺乳類の時代がやってきたということです。明治維新のようなことが、これから日本の弁護士業界で起きるんじゃないでしょうか。もちろん、我々は最初の哺乳類でありたいと思っていますけどね。

最近、よく考え、書いてもいることは吉田松陰のことです。好みの問題ですが、私は、世の中が動き始めてから大活躍をした坂本龍馬より、黒船が来た時に、何のあてもなく暗い海に漕ぎ出した松陰のほうが、本当にすごいと思うのです。今の日本に、最も必要な男だと思えてならないんですよ。

その松陰の語録に、「何か腹のいえる様な事を遣(や)って死なねば成仏は出来ぬぞ」というのがあります。人は、何かしっかり生きた証を残さなくては満足して死ぬことができないという意味です。わずか29歳で死んだ男の言葉に、ものすごい目標感みたいなものを感じますね。私は63歳になったので、あまり偉そうには言えないけれど、「弁護士たるもの、〝何か腹のいえる様な事〞をしなければ、意味のない人生になりはしませんか?」――皆さんには、そうメッセージしておきます。

※本文中敬称略