Vol.37
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松尾 翼

HUMAN HISTORY

弁護士の仕事は、机上でするものじゃない。現場を重んじ、どんなにリスクがあっても辞さず、逃げないこと。そんなタフな人材がもっと出てきてほしい

松尾綜合法律事務所
弁護士

松尾 翼

戦争ですべてが一変。辛酸を経て培われた〝生き抜く力〞

国際的な刑事事件、民事訴訟事件を処理できる稀少な日本人弁護士として、真っ先に挙がる名、松尾翼(まつお・たすく)。弁護士生活53年、渉外分野の第一人者として現場で〝闘い〞続けてきた。国際的な企業の倒産や再生事件を専門とする一方で、日本赤軍の岡本公三や、ポール・マッカートニーの弁護に代表されるような数々の国際訴訟を扱ってきた松尾の存在は、広く海外にも知られている。貫いてきた流儀は「誰もやらないことに挑む」、この一点だ。83歳になった今も好奇心旺盛で、バイタリティー豊かに職務をこなす。凛とした松尾の背には、道を拓いた弁護士としての矜持が刻まれている。

幼い頃に父母が離別していたので、僕は母方の実家で育ったのですが、祖父が資産家だったから、けっこう裕福な暮らしでした。それが一変したのは、1945年の5月25日。東京が大爆撃を受けたこの日に、僕は、母と姉、弟を一度に亡くした。当時住んでいた原宿は火の海となり、4人で逃げまどうなか……僕だけが生き残ったのです。名状しがたい悲しみとともに、その後の生活はすべてが変わりました。

祖父母は無事だったから孤児にはならずに済んだけれど、高齢な祖父が働くのは無理だし、疎開していて難を逃れた妹も抱えて、日々の暮らしは窮迫。家を売って引っ越し、また家を売るということを繰り返し、その差益で生活していました。第一東京市立中学校(現東京都立九段高等学校)に通っていた僕は、学校を続けるために働き始めたのですが、以降、大学を出るまで、あらゆるバイトをしましたよ。進駐軍の軍人の家での雑役、工事作業員、呉服屋の反物運びなど、数知れず。生きるか死ぬかですからねぇ、もう何でも。

さらに、激変したことがあります。それまで軍国少年として育てられてきたのが、終戦を境に、価値観が根底から覆されたのです。「日本は必ず戦争に勝つ。神風が吹く」と声を上げていた学校の先生が、「アメリカはいい国で、日本がいかに間違っていたか」などと言う。僕はね、この時から権力というものに不信感を抱くようになった。それは今も変わらないし、新聞に書いてあることもすべては信じない。権力に屈せず、正しいと思うことは正しいと言える人間でありたい――ずっと、そう思い続けてきた根源には、この時代の体験があるのです。

苦学しながら新制高校を第一期生として卒業した松尾は、早稲田大学法学部に入学する。学費を稼ぐため、アルバイトに追われる日々は変わらずで、大学には週に一度行ければいいほう。「のどかな頃だから、授業料さえ払っておけば、そんなペースでも何とかなった」と言うが、それだけの学力と、生き抜く逞しさがあったということだ。

最後の4年生の時に、遅れを一気に取り戻して卒業したはいいが、不況で大変な就職難の時代でね。子供の頃から歴史が大好きで、その道の研究者になれればと思っていましたが、そんな自由な選択肢があるわけもなく、就いた職は最高裁判所の事務官。役人になることに抵抗はあったけれど、食うためだから仕方がない。そうしたら、司法研修所に配属されて、白表紙の教材をつくる仕事をすることに。これはよかった。仕事のためにライブラリーが自由に使えたから、ローマ法や、高名な法学者の学術書など、普通ならば手に入らないような原典をたくさん読めたのです。大きな財産となりましたね。

ただ、研修所には早稲田の同級生が修習生としていたりする。待遇が全然違うわけで、悔しいでしょ(笑)。日本の敗戦以降、漠然と、「正しいことを正しいと言いながら食べていける職業は弁護士しかない」と思っていたところでしたから、やはり司法試験を目指そうと決めたのです。

父方に、仙台市長を27年務めた島野武という叔父がいるのですが、彼はもともと弁護士で、戦前、上海の日本租界にも法律事務所を持って活動していました。その叔父が、「必ず合格するから頑張れ。その代わり、一生弁護士だけをやれ」と、背中を押してくれたのも大きかった。働きながら勉強を続け、4回目の挑戦で合格です。「受かったら結婚する」と約束していた、今の妻が発表を見に行って「受かってるよ!」。本当かと、仕事を終えて自分で確かめに行ったら、ちゃんと僕の番号があって、この時はうれしかったなぁ。

弁護士人生の始まり。すべての仕事に自らの理念を貫く

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58年、松尾は司法修習生として新たな道を踏み出す。この修習生時代に、松尾という弁護士の骨格を形成する一つの事件があった。検察実務修習において、松尾が幹事を務める12期4班が、「取り調べ修習は違憲か否か」という疑問を呈示し、そこから大議論が起こったのである。当時、新聞などにも公表されたこの問題に正対したことで、松尾は、弁護士にとって「最も大切な原則は何か」、つまり人生哲学を現実の場で試され、また試すという貴重な経験を得たのである。

この議論は、初めてではないのです。終戦直後に、遵法精神からヤミ米をいっさい買わずに餓死した東京地裁の山口良忠判事が、同様の議論を起こし、検察修習の時に取り調べ拒否をやった。それが一冊の本になっていて、僕らの班では本をもとに、敗戦後の憲法についてどう考えるべきかを、日頃から議論していました。真面目な時代ですよ。

修習生が直接被疑者の取り調べに当たるのは、憲法違反ではないか? 検察庁で2日間、夜中まで議論しましてね、結果、25人中17人が取り調べ修習を拒否。僕は、そのリーダーで、まとめ役でもありました。〝お上〞に抗う考えが少ない時代なのに、指導担当だった検事は本当にいい人たちで、僕らの白熱した議論に最後まで付き合ってくれた。今でも感謝しているし、忘れることができません。この経験で、僕は「法の定めた正当な手続き条項を遵守する」という、弁護士としての原理原則を心に刻むことになったのです。

もうひとつ、忘れられないことがあります。修習生時代、弁護実務は、人権派弁護士として令名が高かった海野晋吉先生のところへ配属になりました。その時、海野先生から、こんな言葉を聞いたのです。「弁護士たる者は、絶対に『お金がほしい』と言ってはならない。誠心誠意、いい仕事をしなさい。そうすれば、依頼者はいつか紅白の水引のかかった袋を持ってきてくれるから」。僕自身が貧乏で苦労してきたでしょ。それに、両親とも侍の系譜だから、お金のことを口にするのは下品だと育てられてきた。だから、海野先生の言葉は耳に焼きついていて、ずいぶん長い間、僕はそうしてきました。事務所の人間は苦労しただろうけど(笑)。今は、報酬契約を結ばないと弁護士倫理規定に引っかかっちゃうからダメだけど、弁護士という職業は金目当てではないという点で、やはり、この教えは正しいように思うんですよ。

松尾は、やはり人権派として高名であった高木右門弁護士のもとで、弁護士人生をスタートさせる。くだんの松尾の叔父、島野武氏が「人を教えることのできる弁護士」だと紹介してくれた先だった。イソ弁ながら、数々の破産関係事件を処理し、他方、当時数百という逮捕者が出た全学連学生の弁護にも当たるなど、昼夜兼行で働いた。

会社更生、会社整理、特別清算など全部合わせても、日本中で、年間約200件しか倒産がなかった時代に、私一人で、20件やっていたんですよ。その頃の倒産事件は、「所有権留保条項のある売買契約にもとづいて、債務者の同意と名の下に自力救済を図らねばならない」時代でした。特に関西の倒産事件はひどかった。夜中に電話がかかってきて、手配されたトラックに乗り込んで現場まで飛んでいく。まだ鉄材などが転がっていると、それを車に積んで……みたいな激しい倒産事件をやっていました。そういう多くの事件を経験するうちに、僕は日本の中での国際破産をやりたいと思うようになったのです。60年代初めでしょ、わずかに東京大学の故加藤正治先生の国際倒産に関する研究論文がある程度で、実務でそれを扱える弁護士なんていなかった。「誰もやっていないのなら、僕がやる」。そういう志向は、早くからありましたね。

「何とかしてほしい」と頼まれ、全学連学生の弁護を引き受けたのも、この時期です。60年安保の折、最初の頃は、学生の弁護をしていた弁護士たちが、政党から圧力を受け、みんな手を引いちゃったんですよ。残ったのは、わずか12人程度。元来、政治的立場の違いを理由に弁護を拒否するなどという姿勢は、弁護士としての在り方に反するわけでしょ。すべての人が、法の正当な手続き条項の人権を享受できるはずなのだから。高木先生も、「松尾君が決めること。学生の思想の自由は憲法が保障するもの」と言ってくださったので、昼は大型商事事件を、夜は警察署で学生の接見をやりと、走り回っていました。僕らが弁護に当たった学生の中には優秀な人材も多く、のちに、大学の教授や政治家になった人たちもいる。周囲からは大反対されたけれど、振り返れば、あの弁護活動にも意味はあったと思います。

海外で学び、知遇を得、「稀少な渉外弁護士」として活躍する

松尾 翼

僕の覚悟は、たとえ最後の一人になっても、被告人に寄り添うということ。変わらない理念でもある

戦前に渡航経験を持つような国際人の祖父や叔父を持ち、リベラルな家庭環境で育った松尾が、「海外に出て勉強したい」と考えるのは、自然なことだった。67年、松尾は米国(ダラス)サウス・ウエスタン法律センターで、夏期講座に参加。その間に、フォード財団のスカラシップを獲得し、ワシントン大学ロースクールへと進学する。日本人弁護士が、独力で留学するなど至難の業という時代だった。

ワシントン大学ロースクールに「アジア法研究所」が新設され、大学が初めて、アジア系の法律家を留学生として取るタイミングでした。行ってみると皆20代ばかりで、僕のようにさんざん現場を踏んできた36歳なんて珍しいから(笑)、面白いということで運よく試験に通った。フォード財団からも2年間の奨学金を得ることができて、やっと、働かず勉強だけに集中できる環境になった。うれしかったですねぇ。

高木先生の事務所は、「海外に出たい」ということで、すでに辞めて、僕は独立していました。構えていた事務所には若い弁護士もいたのですが、高木先生が「面倒を見てやろう」と言ってくださって。留学中、事務所が維持できたのは、先生のおかげ。それと、大切なアドバイスもいただいた。僕は最初、単身アメリカに渡って、死に物狂いで勉強してくるつもりだったのですが、高木先生は「家族と別居して留学するなど、人倫に反する。人倫に反するような生活では、真の法律の勉強はできない」と。それで、妻や子供を伴うことにしたのですが、だからこそ、価値ある留学生活が送れたと強く思っています。

アジア法研究所の2年目で、やっと重点的に勉強できたのは、日米比較破産法。指導担当のシャタック教授から、最初は、「日本にとってこれから3カ国貿易が面白くなる。なぜ、国際破産をやりたいのか」と言われました。私の答えは、「誰もやっていないからです」。すると、教授に「ならば、公刊本として通用するような卒業論文を書け」と言われ、1年間丁寧に教えてもらいながら書いたのが『U.S. & JAPAN BANKRUPTCY LAW』。日本で出版された初の比較破産法の本となりました。

もうひとつは、中国法です。これは、単位をたくさん取るために選択したんだけど、英語が下手でも、漢字の原典を読めるのは僕ぐらいだから、成績はバツグン(笑)。この時に書いた論文が見込まれ、のちの71年、ロンドンで開かれた中国貿易に関する国際会議に、日本代表として呼んでもらったのです。留学時やその後の活動で、僕は、世界一流の学者たちと親交を得ることができた。本当に運がよかったし、ありがたいと思っているんですよ。

2年間の留学を終えて帰国した松尾は、ほどなくして多忙を極めるようになった。73年、第一次オイルショックが起こり、倒産事件が続発。日本に国際破産事件を扱える弁護士はおらず、松尾のもとには次々と仕事が舞い込んだ。70年代でいえば、システック、ペトリカメラ、東名水産などといった大手企業の倒産、再生事件に奔走。「先を見とおしていたわけじゃない」が、誰もやらないことに挑んできた気骨が、〝松尾の時代〞を拓いたのである。

猛烈に仕事をしました。例えば、取引先であるアメリカの会社が潰れたら、どういう手続きを取るか。逆に、日本の会社が潰れた時に、アメリカ側に対してどういう処理をするか。時に、様々な国の法が絡み、現地の弁護士ともタフな交渉をしなければなりません。反社会的勢力と渡り合う場面だってある。国際弁護士というとスマートなイメージがあるかもしれませんが、少なくとも僕は、「きつい、汚い、危険」の3Kでやってきた。特に、その頃は、事業管財人と法律管財人を分ける習慣はなかったから、とにかく現場へ行って、一人で仕事を見、経理を見、仕入れから営業販売まで責任を背負うという毎日。裁判所から声がかかれば、そのまま自宅に帰らず、泊まり込みで従業員や債権者と仕事に当たる。それが、僕のやり方。泣くも、笑うも、従業員と債権者委員会の委員と一緒でした。今はもう、そんな時代じゃないから、仕事としては面白くなくなったね。

この頃に扱った刑事事件で印象深いのは、日本赤軍の岡本公三の弁護です。テルアビブ(イスラエル)の空港で、岡本ら3人が起こした乱射事件。事件直後、新左翼の弁護士が現地に飛んだそうですが、「要注意人物」だと日本に返されてしまった。で、その弁護士と岡本公三の家族が、東京弁護士会の人権擁護委員会に泣きついたのです。

白羽の矢が立ったのが僕。「行けば殺される」と、妻に泣いて止められたのはつらかったけれど、それでも行くのが弁護士。岡本が人を殺したことは絶対に弁護しませんが、どんな悪人であろうと、法の正当な手続きは保障されなければならない。弁護士が、弁護する人間を分け隔ててはいけない。リスクがあっても、逃げない覚悟を持つべき。僕の覚悟は、たとえ最後の一人になっても、被告人に寄り添うということ。変わらない理念でもあります。

豊かな経験をもとに、明日の司法を担う若手の育成に注力

企業間訴訟において、時には前例のない革新的な手法で成果を収めてきた松尾だが、最たる案件として挙げられるのは、イ・アイ・イ インターナショナル(以下EIE)の日米国際訴訟だ。最終的には日本のADRを介し、新生銀行が218億円の和解金をEIEに支払うかたちで終結した本事件。その手腕もさることながら、交渉のさなか、相手方である米国最大手の法律事務所、シャーマン・アンド・スターリングから朝日新聞と読売新聞の社会面に謝罪広告を出させたことは、法曹界に大きなインパクトを与えた。

これは、EIEの破産管財人が、海外訴訟事件を承継しなかったので、商事部が私を清算人に任命して海外訴訟事件を承継させたことがきっかけでした。海外訴訟が存在した背景には、複雑な事情がありますが、実は訴訟途中、裁判所の命令でサンフランシスコのADRに手続きが移された時、向こうが和解を申し出てきたのです。「いくらだったら和解する?」。僕は、アメリカの調停員(元高名な裁判官)に即答しました。「東洋には、『渇しても盗泉の水を飲まず』の精神がある。金は一銭もいらない。日本の新聞に謝罪広告を出してくれ」と。それは、日米の弁護士が、実は銀行の弁護士なのに、EIEに内緒で、長銀のために優先回収をしていたというルール違反を犯していたから。法律事務所が詫び状を出すなど、ありえない話ですよ。まぁ私の提言は、ADRの手続きの中では大博打だったし、大騒ぎにもなりましたが、結果はこれをテコにして、次に日本国内のADRとして和解金を得たのです。これは、僕がEIEの代理人ではなく、日本の裁判所から任命された公の清算人としての立場があったからできた訴訟。誰もが考えもしなかっただろうし、だからこそ、このような巨額回収の成果を挙げることもできたのです。

また別件で、国際的な相続事件もありました。認知症を患った高齢の女性が行き倒れになり、区役所に保護されたのですが、どうも財産家であるらしいことがわかった。僕は、家庭裁判所から成年後見人に任命され、彼女の財産をめぐってアメリカの銀行と闘った。銀行側は、彼女の預金を隠すために細工をしていたんだけど、僕は2通の残高報告書を入手し、それをもとにニューヨークにお金が隠れていることを突き止めて、訴訟を起こした。ニューヨーク州の最高裁で、「後見人としてふさわしいかどうか」の直接尋問を受けてね、手続きは大変でしたが、最終的には1億6000万円を取り戻しました。

結果、国際私法の身分法の分野で先例をつくることができたわけですが、いずれにしても、裁判所が挑戦する機会を与えてくれたから。僕だって過去には失敗もあるし、100戦100勝じゃあない。でも、先述した3Kをいとわずに走ってきた数々の経験が、僕を育ててくれた。だから思うんですよ。若い弁護士たちには、もっとこういう難しい事件に取り組んでほしいって。

今も、一本の電話で請われれば、すぐさま海外に飛ぶ。「明日のことなど全然わからない」と、松尾の日々は変わらず多忙だ。加えて、後進の育成にも心血を注いでいる。国内はもちろん、かつて学んだコロンビア大学ロースクール、ベルギーのルーバン・カソリック大学などでも教鞭を執るが、ここでもまた、松尾の流儀が光る。

現実にあった訴訟事件を題材にして、ソクラテス方式で学生と直接議論しながら講義をしています。学理的なものは優秀な学者に任せればいいけれど、〝現場〞を教えることができる弁護士は少ないからね。一方で、国際弁護士を目指すコロンビア大学の学生の受け入れも、35年間、毎夏続けています。留学時代にお世話になった教授の言葉が、強く印象に残っていて。「学生を日本の法律事務所に出しても、日本人の下手な英語を書き直すばかりで、ちっとも実務を教えない」。だからうちでは、依頼者にも会わせるし、法廷にも連れていくし、歌舞伎も観させるしと、日本人とまったく同様の教え方をしているのです。

最近のエリート弁護士は、スーツを着てパソコンをやっていれば、それで事済むような風潮があるでしょ。でも、弁護士の仕事は机上でするものじゃない。現場も裁判も生き物なんです。日本の裁判もおとなしくなっちゃったけど、アメリカやイギリスのように、裁判官と当事者がハラハラするぐらいの議論をもっとするべき。典型なのは医療事故の裁判で、日本は鑑定書で判断するけれど、海外ではほぼ鑑定尋問。原告も被告も超一流の医学者を出してきて、徹底的に闘う。日本も、こういう場面で活躍できるだけの能力のある実務家が、もっと出てこないといけないと感じています。これからは、僕が掲げて走り続けてきた理念を、若い人たちに伝えていきたい。明日の司法のために「死ぬまで現役」。生涯、弁護士として生き抜くと決めているから。

※本文中敬称略