Vol.11
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佐藤 博史

HUMAN HISTORY

最後は真実が勝つ場所、それが刑事法廷である。それを信じて刑事弁護人として戦い抜いてきた

新東京法律会計事務所
弁護士

佐藤 博史

「刑事弁護は弁護士の使命」、刑事弁護人こそが反権力の象徴であり、冤罪(えんざい)からの救済を実現する、弁護士のあるべき姿と考える人も多いだろう。しかし「刑事弁護にこだわり抜く」のは、生半可な覚悟では成し得ない。横浜事件、足利事件などの再審事件で知られる佐藤博史氏は、どんな事件にも全力で取り組んできた。「刑事弁護の鬼」「情熱の刑事弁護人」と評される氏の、その生きざまを見てみよう。

「刑事弁護」に興味を抱いた少年時代

1948年、佐藤氏は島根県出雲市に生まれた。

「45年8月6日、母は広島で原爆に遭いました。3年後に生まれた私は、いわゆる被爆2世です。そのせいか、小さなころは、虚弱体質で病気がちだったそうです。そのため幼稚園には通えず、小学校で初めて、集団生活を体験したんです。今の私からは想像できませんが、集団生活に不慣れなため、人前で声を出して本も読めない、無口な子どもでした」

そんな内気な少年も、次第に人前で話せるようになり、やがて父親の影響で刑事裁判や法医学の本を読みふけるようになった。

「税務署職員だった父は当時、『全国税』という労働組合の活動を熱心にやっていたんです。そのため、当時全国的に盛り上がっていた松川事件や八海事件の裁判闘争をめぐる本、あるいは古畑種基氏の『法医学秘話 今だから話そう』などを子どもながらに読んでいました。そして、今の私につながる決定的な体験が、小学生のとき父に連れられて『真昼の暗黒』という映画を見たことです。正木ひろし弁護士が八海事件を描いた『裁判官 人の命は権力で奪えるのか』を原作に、56年に映画化されたもの。冤罪を訴える主人公が、拘置所の面会室で年老いた母に、『おっかさん、まだ最高裁があるんだ、まだ最高裁がある』と叫ぶラストシーンに衝撃を受けました。いま考えると、それが刑事弁護人にあこがれた最初でした」

映画を通じて佐藤少年の心に刻み込まれたのは、「社会的に無力な人も、『真実』によって、死の淵(ふち)から生還できる。最後に『真実』が勝つ場所が刑事法廷なのだ」という、シンプルな事実。『真昼の暗黒』という映画と出会い、そのシンプルさに心を打たれたことが、刑事弁護人を志すきっかけとなったわけだ。

やがて中学校を経て、広島市内にある男子校・私立修道高校へ入学。

「私は刑事弁護に関心は持っていましたが、高校二年生までは医者になろうと思っていました。子どものころ、病弱だったせいだと思います。ところが、進路相談の際、担任の先生から『君は文系だね』と言われてハタと気付いた。そうか、自分が本当にあこがれたのは刑事弁護人だったんだと。それからは、東大法学部を目指すことしか考えませんでした」

そして、修道高校を首席で卒業。67年春、佐藤氏は現役で東京大学法学部へ入学した。

藤木先生の助手をして得た「弁護士人生における財産」

佐藤 博史

法学部に入学してからは、「自分は将来刑事弁護人になる」と周囲に言い続けた。そして、正木ひろし弁護士の講演を聞き、刑事弁護人への思いを一層強くした。

「正木弁護士が講演したのは、正木弁護士自身が丸正名誉毀損事件(※1)の控訴審で有罪とされて上告中、八海事件は最後となる第3次最高裁判決が下されようとしていた時期でした。正木弁護士は、『刑事弁護人は、ときに自らの職を賭して弁護しなければならないときがある』と学生に説かれました。それは、自らが刑事被告人になっても依頼者の雪冤のために闘うという、ご自身が身をもって示された『刑事弁護の根底にあるもの』を私たちに伝えようとした言葉でした。『“でもしか弁護士”になるなかれ』と言われたのも、鮮明に記憶に残っています」

この二つの事件に加えて、映画『首』の原作となった『首なし事件の記録』(※2)など、正木弁護士の弁護活動と生きざまが佐藤氏に与えた影響は多大だ。佐藤氏も自身の著作で「正木弁護士の弁護活動はまねることができない強烈な光そのものである」と著しているほどだ。刑事弁護人へのあこがれは、大学入学後、刑事弁護に関する文献を読みあさり、直接的な知識も得て、次第に「実像」へと肉付けされていった。

「大学三年のときに司法試験を受けたものの、試験問題は半分以上何のことか分からず、当然落ちました。四年になって、刑事弁護人になるためには司法試験に合格するだけですので、大学院へ進学して司法試験の勉強をしようと考えた。専攻科目を司法試験でまったく分からなかった刑法とすることにし、藤木英雄先生(※3)に指導教官をお願いしました。

今にして思えばとんでもない話ですが、『なぜ君は刑法を選んだのか』と先生に聞かれて、『司法試験を受けたが、刑法の問題がよく分からなかったためです』と正直に答えました。すると先生は大笑いし、『大学院を予備校代わりにすることは認められないが、まじめに勉強しなさい』と言って、指導教官になることを引き受けてくださいました。ところが数日後、先生から『君の成績だと助手になれることが分かった。志望を大学院から、助手に変更するつもりはないか』と問い合わせがありました。授業料を払うか、給料をもらうかでは断然違いますし、そもそも助手には誰でもなれるわけではありません。そこで、研究者になろうと考えを変え、助手の願書を出し、無事、内定をもらいました」

東大闘争のあおりで、卒業は71年6月。翌月から藤木教授の助手となったものの、刑事弁護人への夢は捨て難く、すぐに辞職の申し出をした。佐藤氏は、藤木教授の助手第1号。藤木教授の期待も大きかっただろう。藤木教授は「夏休みの間じっくり考えて、それでも考えが変わらなかったら認めよう」と諭した。しかし志は変わらず、4カ月で助手を辞めた。

「藤木先生には、言葉に尽くせないほど感謝しています。大変な不義理をしたにもかかわらず、その後ゼミに呼んでいただき、研究会への出席も許されました。藤木先生に『寄り道』させていただいたことが、今の自分にとって間違いなくプラスになっています。刑事弁護人としての道を歩みながら、日々の実務に埋もれることなく、経験を少しずつでも普遍的なものにすることを考え続けてこられたのは、とりもなおさず、藤木先生のおかげです」

イソ弁時代、「捜査一課型」と「特捜部型」の事件を経験

助手を辞めた年に司法試験に合格し、司法研修所に入所したのは72年4月。弁護士登録して、新橋綜合法律事務所に勤務した。所長は、砂川事件の「伊達判決」で知られる元裁判官の伊達秋雄弁護士だった。

「刑事弁護をやりたいなら、伊達先生のところだろうと。自由に事件を受任することを許され、自分で受任した事件で、入所して3年目くらいまでは毎年無罪を取り続け、『この調子でいくと、いくつ無罪が取れるだろう』と夢想しました(笑)。そうは問屋が卸さなかったのですが。弁護士になったとたんに経験したのが『山谷窃盗事件』と『山谷暴力行為事件』です。山谷の労働者が犯人にでっちあげられた事件でしたが、どちらも一審無罪で確定しました。社会的に無力な人も、法廷で真実を明らかにすれば勝つことができることを、最初に実感した事件でした」

佐藤氏は、いわゆる強行犯などの「捜査一課型事件」だけではなく、「特捜部型事件」にも関与した。『吹原産業事件』の森脇将光氏の控訴審の弁護を担当させられたのだ。事件は、詐欺、脱税、私文書偽造などがさまざまに絡まった複雑な事件だったが、その中心は吹原弘宣氏が三菱銀行から詐取した通知預金を利用して、森脇氏が同行から30億円を恐喝しようとしたという、大胆不敵な事件。政界事情や金融業界の裏事情に詳しかった森脇氏の共謀が疑われ、一審判決で森脇氏は有罪とされた。しかし控訴審判決では、森脇氏の一審有罪判決の一部を破棄・無罪。最高裁でもそれが維持された。当時、自民党総裁選の選挙費用調達の関係もうわさされ、世間を騒がせた。

「ドロドロしたお金にまつわる事件でした。貧しい人の刑事事件と違って、事務所から命じられて森脇氏の弁護人の一人になったものの、どうにもやる気が起きなかった。ところが高裁で、主犯は吹原、森脇は従犯にすぎないとして、検察側の主張の屋台骨を折る判決が下されました。特捜部型事件が崩壊することを経験した最初です。そして、弁護士になって3年目にロッキード事件が起き、事務所から命じられてシグ・片山という人物の弁護をしましたが、このときは本気で弁護にあたりました。取り調べの担当は、若き河上和雄検事でしたが、不起訴で終わり、弁護は成功しました。シグ・片山氏は、2007年に亡くなるまで、私の依頼者でした」

「特捜部型事件も、それなりに面白い」と思うようになったのは、この二つの事件の弁護活動の経験によるところが大きい。こうして伊達弁護士のもとで6年間イソ弁をしたのち、大学時代の同級生二人と共に事務所を開設したのが80年のことだ。

足利事件が提示する裁判員制度導入の意義

佐藤 博史

刑事法廷は、1回限りの舞台。法廷での立ち居振る舞いが被告人の運命を決める

多くの冤罪事件に携わってきた佐藤氏だが、最近でいえばやはり足利事件であろう。その詳細は他の文献に譲る(※4)が、概要は次のとおりだ。

足利事件とは、90年5月12日、栃木県足利市内のパチンコ店で、4歳の幼女が行方不明となり、翌13日、近くの河川敷で死体で発見された、いたましいわいせつ目的誘拐・殺人・死体遺棄事件だ。科学警察研究所(科警研)のDNA鑑定が決め手となり、菅家利和氏が事件の1年半後に任意同行される。そして、自白して逮捕・起訴され、無期懲役の判決を受けた。2008年10月16日、「足利事件、DNA再鑑定へ」という報道がなされたことがきっかけで、事態は急展開する。そして09年6月4日、再審開始決定を待たずに無期懲役刑の執行が停止され、菅家氏が突然釈放されるという前例のない事態となったことは周知のとおりだ。

「足利事件とかかわるきっかけは、1993年1月に『DNA鑑定と刑事弁護』という論文を「法律時報」に寄稿したこと。当時DNA鑑定が問題になっていた足利事件を含む事件を取り上げ、DNA鑑定の問題点を指摘した。その論文を読んだ菅家氏の支援者が、控訴審の弁護を依頼に来たことが発端です。一審弁護人に取材して菅家氏は犯人だと聞かされていた私は当初ためらいましたが、控訴審で国選弁護人に選任された女性弁護士に電話をしたところ、控訴趣意書の提出期限が迫っているのに菅家氏に接見すらしていない。DNA鑑定が問題になっている重大な否認事件でおよそ考えられないことです。そこで即座に『私が弁護人になります。先生は結構です』と言ってしまいました。いわば衝動的に弁護人を買って出たのが、足利事件の弁護でした」

こうして、もはや後戻りできない状態で東京拘置所へ接見に向かった佐藤氏。しかし菅家氏と接見してわずか30分で彼の無実を確信した。かつて弁護をした小児性愛者の事件の経験が生き、小児性愛者の世界をそれなりに理解していたこともあって、「菅家氏は絶対に小児性愛者ではない」とすぐに分かったという。

「『私は無実です』という言葉をすぐに信じたのではありません。伊達秋雄先生の教えの一つは『人間は防衛本能から事実に反する否認や間違ったアリバイに固執することがある』です。刑事弁護人の仕事は、精神科医の問診に似ています。精神科医の問診にあたるのが被疑者との接見です。精神科医が問診によって患者の病状を見極めるように、弁護人は接見で、被疑者に対する嫌疑は何で、被疑者はどう答えようとしているのかを見極めなくてはならないのです。事件をやったのか、やらないのか、ダイレクトに聞いてはいけない。『被疑者をまず受容すること』も大切です。そうしないと、被疑者の心は開かれないからです。菅家氏との接見は、私の刑事弁護人としての感性と技量が試された瞬間でした。菅家氏の無実を最初の接見で確信できた感動は、今も鮮明に覚えています」

以来15年10カ月、足利事件の闘いは今も続いている。釈放されてもなお、周知のとおり問題は山積したままだからだ。しかし、96年の東京高裁の「控訴棄却」、2000年の最高裁の「上告棄却」、08年の宇都宮地裁の「再審請求棄却」という3回の「絶望のとき」に比べれば、取り組むべき多くの課題の中にあって、目指すべき希望のともしびは見えている。

しかし昨年2月には、「自分が生きているうちに、菅家さんを救いだせるだろうか」と深刻に悩んだという。

「昨年11月で還暦を迎えました。そのころは、まさか足利事件がこうした展開になろうとは予想もしなかった。そのころ、刑事訴訟法の権威である松尾浩也先生(東大名誉教授)に『とうとう還暦を迎えてしまいました』と嘆いたところ、先生に『60歳からは人生の収穫期です』と励まされましたが、本当にそうなったような気がします。松尾先生の教えに導かれながら、これからも精進していきたいと思います」

ところで、足利事件の誤判が明らかになったのは、くしくも裁判員制度のスタートと重なった時期。1989年ごろから、自費で海外の刑事裁判の市民参加制度を視察して回り、弁護士の中ではほとんど孤軍奮闘で「参審制の導入」を説き続け、裁判員制度へ結実させた佐藤氏にとって、裁判員制度のスタートは祝うべきもののはずだった。

「しかし、まさか自分がかかわった足利事件が、この時期に、検察官や裁判所の信頼を根底から損ねるような問題を提起するとは思わなかった。足利事件の悲劇の原因を検証せずして船出したら、大変なことになると思います。確かな証拠と信じて有罪判決を下したのに、その証拠が何年か後に誤りと分かったというのでは、死刑や無期懲役の有罪判決を下した裁判員はやりきれません。足利事件の教訓を裁判員裁判に生かすためにも、臭いものにふたをせず、誤判原因を明らかにする勇気が必要です」

刑事弁護人で在り続けられる条件

佐藤 博史

「最後に真実が勝つのが刑事法廷」を体現してきた佐藤氏。小学生のころあこがれた刑事弁護への情熱は、いまだに衰えることがない。なぜここまで一心に身を投じられるのか。

「『そこに山があるから』、なのでしょうね。目の前に無実の人がいて、刑事弁護人である自分がその人を救えないとしたら、私は何のために弁護士の資格を与えられているのかと思います。どんなに高い証拠の壁があっても、無実と確信できる場合には、証拠の方が間違っているのです。

足利事件も『菅家さんは無実だから、DNA鑑定が間違っている』であって、『DNA鑑定に問題があるから、菅家さんは無罪だ』ではありませんでした。性分でもあるのでしょう。なにくそ!と挑み続けて還暦を迎えたという感じです(笑)」

現在、早稲田大学法科大学院の教壇に立つ佐藤氏だが、刑事弁護人で在り続けるために必要なのは何か、これからの若い弁護士に伝えたいことは何かを尋ねた。

「『司法試験に受かるための勉強で、刑事弁護人にとって必要なものはなきに等しい』『法律の本に書いていないことで、誰にも負けないと胸を張れるものを見つけ、伸ばすことが大切だ』と、常々学生に話しています。私の場合は、その一つが法医学やDNA鑑定でした。その手の書物や鑑定書を読むことは苦ではなかったし、DNA鑑定という当時法律家のほとんどが知らなかった最新科学を勉強して論文を発表したことが、足利事件の弁護で役立ったのです」

今後、裁判員制度の施行で、刑事弁護人が市民から評価される機会は格段に増えるだろう。かつては刑事弁護離れが嘆かれた時代もあったが、刑事弁護人を志す若手も最近増えてきているという。「裁判員制度が始まり、刑事裁判は一歩理想に近づいた。しかし、それが本当に理想となるかどうかはそれを動かしてゆく人に掛かっている。そのことに最初からかかわることができる若い人たちがうらやましい」と佐藤氏は言う。初志貫徹、一貫して刑事弁護人であり続ける佐藤氏が、多くの優れた刑事弁護人に学んで自らの道を開いてきたように、これからは、佐藤氏の背中を見て歩み始める刑事弁護人が増えるに違いない。

※1/正木ひろし(1896年~1975年)は、1955年に発生した静岡県三島市の丸正運送店の女主人殺人事件(丸正事件)に関連して「真犯人は兄夫婦である」と名指しする著作を刊行し、そのために名誉毀損事件で起訴された。正木弁護士の主任弁護人がのちに佐藤氏が所属する事務所の所長・伊達秋雄弁護士だった。

※2/『首なし事件の記録 挑戦する弁護士』(1973年・講談社):1944年、茨城県の大宮警察署に逮捕された炭鉱の現場主任が取り調べ中に死亡したことに端を発する事件。正木氏は、死因を明らかにするために墓地でその首を切断し、古畑種基教授のもとへ運び、殴打による硬脳膜下出血の鑑定結果を得て、取り調べ警察官を告発した。検察官は、これを受けて(正木弁護士の死体損壊は不問に付し)、警察官を特別公務員暴行陵虐致死罪で起訴したという前代未聞の事件である。

※3/藤木英雄(1932年~1977年):東大法学部教授在職中、45歳の若さで逝去。

※4/足利事件に関する文献は、枚挙にいとまがない。佐藤氏自身によるものとして『足利事件 DNA鑑定神話と闘う』(世界2009年8月号 岩波書店)がある。

PROFILE

佐藤 博史

新東京法律会計事務所
弁護士

さとう・ひろし

第二東京弁護士会(1974年登録)

1948年/島根県出雲市生まれ
1967年/広島県私立修道高等学校卒業
1971年6月/東京大学法学部卒業、 東京大学法学部助手(刑法)に採用される
1971年10月/法務省訴訟部第一課事務職に採用される
1972年/最高裁判所司法研修所入所(26期)
1974年/弁護士登録(第二東京弁護士会)、新橋綜合法律事務所勤務
1980年/2名の弁護士と共に神谷町総合法律事務所開設
1988年/銀座に移転、東京総合法律会計事務所開設
1994年/赤坂に移転、新東京法律会計事務所と名称変更

●これまでに、横浜国立大学経済学部非常勤講師(刑事訴訟法)、法政大学法学部非常勤講師(刑事法)、東京都立大学法学部非常勤講師(刑事訴訟法)、司法試験考査委員(刑法)、東京簡易裁判所調停委員、同司法委員、東京大学法科大学院客員教授を歴任し、現在、千葉工業大学理事・同評議員、早稲田大学法科大学院教授(任期付き)、東京大学法科大学院非常勤講師(刑事実務基礎)。
●刑法学会、DNA多型学会、法と心理学会に所属。

関与した主な刑事裁判
1.山谷窃盗事件(無罪)2.山谷暴力行為事件(無罪)3.大井川町贈賄事件(無罪)4.RG爆発物取締罰則違反事件(無罪)5.エッソ石油労働争議事件(暴行傷害、全面無罪)6.島田事件(幼女誘拐殺人死体遺棄、再審無罪)7.横浜病妻殺人事件(無罪)8.榎井村事件(強盗殺人、再審無罪)9.電車内痴漢事件(少年、非行事実なし)10.横浜事件(第4次請求)(治安維持法違反、再審開始、免訴、刑事補償請求中)11.足利事件(幼女誘拐殺人死体遺棄、再審開始)12.吹原産業事件(恐喝、法人税法違反、1審判決破棄)13.日建設計土木保険金殺人事件(最高裁で死刑破棄・無期懲役)14.四畳半襖の下張り事件(わいせつ物頒布、有罪)15.山本老事件(尊属殺人、再審請求棄却)16.平和相銀事件(特別背任、有罪)17.旭川電話傍受事件(覚せい罪取締法違反、上告棄却)18.福井女子中学生殺人事件(殺人、再審請求中)
ほかに控訴審で破棄された無罪事件として19.大井町内ゲバ事件(殺人、1審無罪)20.医師虚偽診断書作成事件(虚偽診断書作成、1審無罪)

主な著書
『刑事弁護の技術と倫理-刑事弁護の心・技・体』(有斐閣)
『目で見る刑事訴訟法教材(第2版)』(有斐閣 田口守一、白取祐司との共編著)ほか

論文
「DNA鑑定と新しい冤罪」(自由と正義47巻9号)
「なぜ『日本に参審制を』か」(自由と正義48巻4号)
「再審請求における証拠構造分析と証拠の明白性判断-名張事件最高裁決定の意義-」
(『松尾浩也先生古稀祝賀論文集下巻』有斐閣)ほか

新東京法律会計事務所
〒107-0052
東京都港区赤坂3丁目20番6号
パシフィックマークス赤坂見附3階
電話 03-3584-2211

佐藤 博史

※掲載記事の内容は取材当時(2009年9月号 Vol.11)のものです。