Vol.3
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新堂 幸司

HUMAN HISTORY

弁護士ほど創造的な仕事はない。独自のアイデアで社会奉仕をかたちにし、世の中に提供し続けてほしい

森・濱田松本法律事務所
弁護士 東京大学名誉教授

新堂 幸司

「他に行き場所はない」あきらめからそこに居続けた

民事訴訟法で日本を代表する法学者である。研究者になりたての頃、「民事訴訟法理論は誰のためにあるのか」という問題提起をした。また争点効理論など独自の理論を数々提唱。教鞭を執った東京大学では、1988年から90年まで法学部長も務めた。74年に筑摩書房から初版が出た著書『民事訴訟法』は幾度も改訂を行いながら版を重ね、今なお“読者のわかりにくいところをかみ砕いて説明しようとする誠意を感じる”という評がネット上で見られる。

民事訴訟法学会理事長、日弁連法務研究財団理事長、民事紛争処理研究基金理事長など、各種の要職も歴任。だが、新堂氏の口から出てきたのは意外ともいえる言葉だった。

「研究が好きで研究者になったというより、“他に行き場所はない”というあきらめから、この世界に居続けただけですよ(笑)」

31年、愛知県生まれ。54年に東京大学法学部を卒業した新堂氏は、実は一度、就職をしている。後に社名を三菱レイヨンと変える、新光レイヨンへの入社だった。

「私が大学生だった頃は、まだ食糧不足の時代。苦学生でしたから、卒業後は給料のいい会社に入るのが至上命題のように考えていたんです」

就職の厳しい時代であったが、たまたま家庭教師をしていた先が、新光レイヨンの社長宅だった。

「当時は糸偏企業の絶頂期。この会社は給料の高さは上位に属する会社でしてね。今も覚えています。初任給は1万4200円。それはもう自分としては、『まずは、おめでとう』というところだったのです」

ところが、念願かなってようやく入った会社なのに、新堂氏は1週間ほどで退社を決意してしまう。

「社員教育を受けるため、2カ月間、新入社員20名ほどで広島県の工場の寮に寝泊まりして働くことになったのですが、8時の出勤でガシャっとタイムレコーダーを押すことにどうにもなじめませんでした。自分の時間を切り売りしている感覚が嫌だった。ここは違う、と思ったんです。それで、社長に謝りに行きました。会社を辞めてしまい、仕方がないから大学に戻ることにしました」

約1年間、浪人暮らしをし、東大法学部の助手になる。最初の1年間は商法の助手として働いたが、その後、「民事訴訟法の助手になれ」と言われた。

「初任給は9600円とだいぶ落ちましてね(笑)。でも不平や不満を言っている余裕などない。とにかく食っていくには、言われたとおりにやっていくしかないと思いました」

そしてついた先生は、日本の民事訴訟法学の泰斗(たいと)と言われた、兼子一先生だった。

偶然の民事訴訟法との出会い。だが、この偶然の出会いがなければ、後の自分はなかったと新堂氏は語る。

民訴法理論は誰のためにあるのか、当時は異端の問題提起だった

新堂 幸司

民事訴訟法の研究者は当時、まだ数も少なかった。学会も戦後にできてから数年の頃。学会大会といっても出席者は20名たらずだった。

「今では200人は軽く集まります。ずいぶんと様変わりしましたね」

まさにその拡大を牽引してきた一人でもある新堂氏だが、当初は異端の研究者として見られていたという。

「戦後から十数年の日本では、日本の法律制度全般が、外国のものを吸収するスタイルだったのです。制度はすべて外国で作られ、それをそのまま受け入れるのが当たり前だった。制度を自分たちの頭で考えて作る、また改善する、そういう発想はほとんどなかった。法律制度は道具であるという意識がまだまだなかったのですね」

そこに一石を投じたのが、若き研究者だった新堂氏だったのである。

「まるで法律制度が神のようにあがめられている。そんな状況を見て思いました。一体、法律制度、民事訴訟法理論は何のために、誰のためにあるのかと。そういう疑問を提起したのです」

法律制度、民事訴訟法理論は利用者のためにある。新堂氏はそう主張したのだ。

「そんな発想は当時はなかった。だから、“最近の若者は”とか、“天馬、空を行く”なんてひやかされ、批判もずいぶんと受けました(笑)」

とりわけ実務家は、そう簡単に変化を受け容れない。実は研究者以上に実務家は保守的だ。なぜなら、できれば自分が毎日使う道具は変えられたくないから。だが、新堂氏の、実は当たり前ともいえる“庶民感覚”が多くの人の共感を得ることになる。そしてこの問題提起は、昨今の民事訴訟制度の改革にも影響を与えていく。実際、96年の民事訴訟法大改正の基本コンセプトは、“わかりやすい、使いやすい民事訴訟法を作ろう”というものだった。

そして改革後、判決のスピードは大幅に短縮された。

「言い出してから30年もかかりましたが(笑)」

では、どうして当時としては革新的な本質を新堂氏は突くことができたのか。

これは、少年期に戦中戦後を過ごした経験にあったようである。

「戦争が終わったときは中学2年生で、天地がひっくり返るような体験をしました。昨日まで当たり前だと教えられていたものが、次の日からは間違いと教えられる。間違っていたものが正しいと言われる。豹変する先生を見て、子ども心に思いました。体制やら制度、教育なんてものは、あっという間に移り変わるものなんだ、と」

そして法律家としては、あまり話したくないであろう言葉を、新堂氏は続けてくれた。

「誤解しないように気をつけてほしいのですが、私は、法律を尊重する精神というものを、実はあまり持ってはいない。いや尊重しない、というか、あがめない、とでも表現したほうがいいかもしれない。法律もそうだし、社会体制みたいなものもそう。もちろん法律を遵守はしますよ。でも、永遠に完璧なものがあるなんて考えは、はなから持っていない。常に疑っている。でも、この考え方が、学者には合っていたかも。学者は、何でも疑うことから始めるわけだから」

法律も社会制度も人間が作ったものに過ぎない。そんな意識がベースにあるからこそ、社会の状況や情勢が変わったなら法律や制度も変わっていい、という発想が生まれる。

そして変わっていくのであれば、それはみんなのためになるものになればいい、という認識へとつながっていった。

「体制に対して斜に構えたところがある。最近も、つくづく自分はそうだなぁと思っています(笑)」

常に懸命に取り組んだ授業の準備

学者としてのキャリアを見ても、利用者からの視点にブレがないことがわかる。民訴法の研究者の誰もが留学といえばドイツだった時代に、アメリカのイェール大学に学んだ。

「アメリカの場合、制度は人が動かすもの、使い勝手が悪ければ変えていくという発想が強い。このあたりが性に合っていたということ。それに、ドイツで学ぶ優秀な人はたくさんいたから、僕はちょっと違うところにという思いもあった(笑)」

教育者としても、教わる側に常に目を向けていた。帰国後、新堂氏が最初に行った講義に出たという現役の弁護士は今もその授業内容を覚えていると語った。一生、忘れられないほどの衝撃だった、と。民訴法の講義だから、当然、裁判の話から始まると思いきや、なんと仲裁の話から始まった、しかもケース・メソッドだったからである。

「紛争の解決の仕方というのは、何も裁判だけじゃない。裁判を商売の道具にする側だけの視点で見てはいけないというメッセージでした」

実際、裁判外の紛争処理手続は、後にその推進のための法律までできた。40年も前から、それを予見した授業を行っていたわけだ。

「まぁ、多少は奇をてらったものもやらないとね(笑)。でも、たしかに講義の準備は一生懸命やりました。とても大変だった。110分の授業時間、学生を飽きさせないのは、簡単ではなかった。彼らの興味を喚起するテーマを見つけ、わかりやすく話さないといけない」

毎年、同じような講義をするつもりはまったくなかったという。

「頭のいい連中が座っているわけでしょ。こっちもしっかり勉強しておかないと馬鹿にされると思ってね。でも、それはそれで面白かった。講義の準備から、問題点に気づいて論文のアイデアが浮かんだこともしばしばある。学生から刺激を受けることも多い」

この感覚は今なお失われていない。東大退官後、愛知大学の法科大学院の院長として久々に授業を受け持ったが、授業で学生と議論した結果、兼子先生以来の通説になっていた考え方に挑んでみたのだという。

「“訴訟承継論よ、さようなら”という題名の論文です。粗っぽい主張のほうが学界には刺激になると考え、思い切って発表してみましたが、今はその後始末に困っています(笑)。あちこちで私の教科書を修正しないといけなくなっちゃってね」

事件に関係するもの、すべてが学べるのが新鮮

新堂 幸司

長かった学者生活で最もうれしかったこと。それは、素晴らしい弟子がたくさん育ってくれたことです

東大を定年退官した92年、60歳で弁護士登録をした。いずれは実務を、とずっと考えていたのだという。

「民訴法の研究をやっていながら、実際に使ったことがない。一度使ってみたかったのです。自分で使ってみたら、理論にもプラスになると思っていましたからね。実務と理論の架け橋になるような仕事ができる、と思っていたのです」

東海大学で教えながら弁護士活動が始まる。だが、戸惑いも多かった。

「何しろ、弁護士の基本を知らないんですから(笑)。一度、法廷で原告側と被告側の座る場所を間違えたことがあるほどです(笑)」

時間感覚の差にも慣れるまで時間がかかったという。

「学者の世界では、たとえば原稿の締め切りはあってないようなものでした。でも、弁護士の仕事には、ちゃんとした納期がある。法廷での遅刻は厳罰。また、弁護士の世界では、勝ち負けがはっきりしていることも学者とは大きな違いですね」

だが、戸惑いの一方で、弁護士ならではの醍醐味も実感した。

「いろんな事件に関わりますから。医療過誤、税金、独禁法、契約、縁組取消、金融など、どんな事件がくるか、依頼されるまでわからない。常に目先が新しい。これはとても刺激的です。新しい経験もできるし、新しい知識も驚くほど得られる。学者の世界は、縦割りの世界。民事訴訟法の研究者は、民事訴訟法をいつも勉強していなければいけません。隣の民法の本なんか読んでいると、『ありゃ、真の学者じゃないよ』と見られるわけです。専門へのこだわりはいい面もあるけれど、知識の広がり、掘り下げを邪魔する。弁護士の場合は事件に関係するものはすべて学べる、いや学ばないと勝てない。これは本当に新鮮です」

インタビューを続ける中で感じたのは、高名な学者でありながら、それをまるで感じさせない謙虚さ。そして新しいものを楽しむ姿勢だ。だが、だからこそ新堂氏は高名な学者たりえたのかもしれない。

「私自身はチャランポランで、無計画で、出たとこ勝負の人生を送ってきたと思っています(笑)。何度、学者を辞めようと思ったことか。それこそ毎日、くらいに(笑)。勉強することが板につかないこともしょっちゅうでしてね。だから、他に行き場所がなかったから、というわけです。私にとって学者は天職なんてものでもない。出世について? そんなことは考えたこともなかった。何かの代表者や長になると、いつも挨拶はしなくちゃいけないし、大変なことばかりなんだからね(笑)」

唯一、長い時間をかけた学者生活でうれしかったこと。それは、気がついたら、いい弟子がたくさん育っていたことだという。「僕が育てたわけではないけれど」と謙遜するが、たしかに教え子には、名だたる名前が並ぶ。高橋宏志・東京大学理事・副学長。高田裕成・東京大学法学部教授。山本和彦・一橋大学大学院法学研究科教授、太田勝造・東京大学大学院法学政治学研究科教授……。

「これは本当にうれしい。まぁ、できない師匠を持つと弟子はよく育つと言われるとおりです」

弁護士の数はもっともっと多くなっていい

新堂 幸司

現在は大学を離れ、弁護士としての活動が中心となっている新堂氏の仕事への原動力とは何だろうか。

「多くの人たちの悩み事を解決してあげたいという思いでしょうね。紛争はどんな社会にもある。紛争の種類に応じて、当事者が納得する解決を目指す。何より、これが求められているわけでしょう。そんな社会の要請に応えるためにこそ、弁護士が存在するわけですから」

司法制度改革に直接関わることはなかったというが、法曹人口が足りないという思いは学者時代から持っていたという。

「全国レベルで見てみると、司法へのアクセスは満足いくものとはいえません。弁護士が、ある限られた人たちの道具になってはいないか。このままでは裁判を受ける権利を保障したことにはならないと思っていました。だから、法曹人口を増やすという改革は大きな意味がある。日本の経済規模を考えれば、毎年3000人増やしたとしても、先進諸国に比較すればまだ少ないですから。もっと多くてもいいくらいです」

新堂氏が研究し始めた頃から考えれば、特に企業を中心に、今や訴訟の数は想像もできないほどの規模になっている。だが、それは日本が経済発展したから、という一言では片付けられないと新堂氏は語る。

「たしかにかつて日本の企業は訴訟をあまりしませんでした。日本人には訴訟はなじまない、なんて議論もあった。でも、ビジネス環境がだんだんと変わり、外国との付き合いも増え、訴訟に巻き込まれる機会が増えた。ビジネスで勝ち抜くために、訴訟が必要になった。訴訟を避けて通ることができなくなってきた。周りに公害訴訟も薬害訴訟も増加した。ところが、日本の民事訴訟というのは、使い勝手が悪かったのです。だから、変わったのですよ。要するに、企業やそれを取り巻く人々から『もっと使い勝手のいいものを』という要望があった。だから変われたのです。これが、司法制度改革、制度発展の原動力になったのです」

実はすべての原点に、やはり利用者がある。そう考えれば、まだまだ課題は山積しているのだ、と。

「たとえば、医療過誤訴訟がある。原告からすれば、賠償金を得ることだけが目的ではない。被害者としては、医者が誠心誠意謝り、二度と同じ過ちを犯さないよう、医学の発展に尽くすと言ってもらいたい。それが聞きたい。ところが訴訟になると医者に過失があるかどうかに焦点が絞られていく。患者の気持ちや本当の要求は訴訟から落とされていく。その違和感を思いやり、それを癒す方法も考えなければなりません。それも弁護士の仕事のうちなのです」

弁護士ほど創造的な仕事はない、と新堂氏は強調する。

「法律を使って、どんな人でも助けられる立場にある。だからこそ、自分なりのアイデアでもって、社会奉仕をしないといけない。そういう意識を持っていてほしいのです。会社や役所に入り込んでいくのもいい。地方に行くのもいい。ハンディを持った人を助けることに身を捧げるのも、町おこしを支援するのもいい。政治家を目指すのも結構。自分はこんなやり方で弁護士として生きていくんだと、新しいチャレンジをしてほしい。弁護士にはそれができる。それが弁護士の仕事ですから」