司法試験に合格し、弁護士になったら自動的に食えると思い、24歳で法律事務所に入った。
「ところが、この考えが大間違いのもとでしてね。私には顧客獲得能力というものが、完全に欠けていたんです。考えてみれば、田舎で育って、ストレートに生きてきましたから、人生経験が少ない。都会の社会もほとんど見ていない。企業のこともよくわからない。社会性がなかった」
今の宇都宮氏からは予想もできないような姿に思えるが、当時は本当にそうだったらしい。独立するのに必要な顧客基盤も作れなかった。同期は一人、また一人と独立していくのに、自分のスケジュール帳は真っ白。仕事がない。そしてとうとう7年目、31歳で引導を渡される。
「そろそろどうですか、と。要するに、肩たたきです(笑)。これはもうショックでね。落ち込みましたよ。ただ、すぐ放り出されても困る。『1年だけ待ってください』と、必死でお願いしました」
やがて給料まで減らされた。大原簿記学校で商法を教えるアルバイトをしていたのが、このころ。そして、とうとうあきらめて次の事務所を探しに向かった弁護士会で、転機のきっかけをつかむことになる。
「募集している事務所はないですか、と訪ねていくと、けっこう若づくりでしたから、司法修習生と勘違いされたんですよ。『いや、もう8年もお世話になっているんですけど』と(笑)」
運良く事務所が決まったと同時に、弁護士会とつながりができた。時は1979年。折しもサラ金問題が社会問題になり始めた時期だった。弁護士会にはサラ金債務者が押しかけていたが、当時は貸金業規制法もなく一般法律相談扱い。受任義務もないため、たらい回しされていた。これではトラブルも起きる。
「それで困った弁護士会の職員が、私のことを思い出したわけです。『暇そうな若い弁護士がいたなぁ、やってくれるんじゃないかなぁ』と」
ほかの弁護士にとっては面倒な事案も、宇都宮氏にはありがたかった。
「どんな事案でも、ゼロより1件でもあったほうがいいですから。それでいろんなところに電話をして、サラ金の問題はどう処理をしているのか聞いていったんですが、驚きました。ほとんどの弁護士がやっていないし、やり方すら、みんなわかっていなかった」
相談に来る多重債務者は疲れ果てていた。目は充血、顔色は青白い。弁護士報酬は5000円、1万円程度。それでもゼロよりはいい、と考えた。しかも、やりがいを感じた。困っている人を助け、喜ばれるのだ。
「多い人は50社くらいから借りていたんですが、一軒一軒一緒に乗り込んでいきました。『私が代理人だ、取り立てはしないでくれ、取引経過を見せてくれ。今後は一切を私に連絡してくれ』と。貸金業者も驚いていましたね。こんなことまでやる弁護士がいるのかと。なかには、業者から、顧問になってくれないか、という申し出が後で来たりしまして(笑)。もちろん断りましたけど」
だが、すべての業者を一人で回っていたのでは身が持たない。そこで弁護士会に呼びかけ、特別相談窓口を作ってもらうようお願いした。
「実はそれまで弁護士会には、私は近づかなかったんです。というのも、先に独立した連中がたくさんいるわけですよ。お前、まだイソ弁やってんのか、なんて言われるのが嫌で(笑)。でも、一人ではとてもできない。手伝ってもらうしかなかった」
1980年2月、相談窓口開設。最初の事務所を辞めた翌年だった。