Vol.9
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飯田 隆

HUMAN HISTORY

「個の存在」「個のウエート」が高い弁護士の仕事。個の創意工夫が、結果に大きく結実する面白い世界

森・濱田松本法律事務所
弁護士

飯田 隆

わずか数人の弁護士に始まった日本有数の大規模法律事務所

森・濱田松本法律事務所。いわゆる「ビッグ4」と呼ばれる日本有数の大規模法律事務所だ。弁護士数約280名(外国法事務弁護士1名)。外国人弁護士(トレーニー)、司法書士有資格者、パラリーガルなど約420名のスタッフを併せると、総勢700名の大所帯。その前身の一つが森綜合法律事務所(以下森綜合)。飯田隆氏は、揺籃期を支えてきた弁護士の1人だ。

「私はね、実務修習が森綜合だった。古曳正夫弁護士の司法修習生、第1号でした。司法修習委員曰く『飯田は柔道部で元気も体力もありそうだから、古曳さんにぴったりだろう』ということで。当時のメンバーはわずか4人。中でも同期同士の古曳さんと本林(徹)さんは、『日本一の事務所を作ろう』と、血気盛んだった。そんな彼らの意気に感じて、修習終了後、そのまま入所しました」

入所は1974年。弁護士6人とスタッフ5人の、丸の内の一角に構えられた18坪の事務所が、飯田氏の「根城」となった。

当時は、福田浩氏が40代、古曳正夫・本林徹両氏が30代半ば、久保利英明氏が20代。飯田氏の司法修習期間中に入所した内田晴康氏が20代。みんな元気で気概があって、「わいわいがやがや、楽しい事務所だった」と振り返る。

「ナマの事実に真正面から取り組んで法律構成していくことの、その面白さ。それは感動的だった。入所してからはもちろん、修習生の頃からあれほどの体験ができたことは、間違いなく私の財産です」

柔道部に捧げた大学生活

飯田氏は姫路市の生まれ。実家は、油卸を営む小さな中小企業だった。

「姫路の田舎で、親戚が近隣にいっぱいいたんですよ。その親戚の家を廻って『お祭りをはしごする』子どもでした。お祭り好きは未だに変わっていませんね。お祭り好きな父の血を引いたのでしょう。受験勉強に集中しなくてはいけない高校3年のときですら、太鼓の音が聞こえてくると勉強を放り出してお祭りに行ってしまったことがありましたよ」と飯田氏。それでも現役で東大法学部に入学。高校の頃から始めた柔道を続けたくて、柔道部へ入部した。

「大学の柔道部では、東京オリンピックでヨーロッパの寝技柔道に日本柔道が完敗した直後で、寝技ばかり練習していました。寝技は非常に物理学の原則に適ったもの。立ち技には天性のひらめきが必要ですが、寝技は努力と練習次第で強くなれる。それが私にはぴったり合った。派手さはないが面白かった。私の現役時代のエピソードを一つお話ししましょうか。山下泰裕さんの師範で、当時中量級の世界チャンピオンであり、寝技は世界一と言われた方と練習試合をした際、彼は私を押さえ込めなかった。遂に彼は『立って来い』と大声で叫んだ。その逸話は柔道部で語り継がれていて、私の自慢。立技中心の講道館では二段でしたが、寝技なら自称四段(笑)」

毎日の練習の外に合宿と遠征が年間100日余りはあった。4年の夏に引退し、そろそろ真剣に勉強しようかと思った矢先、東大紛争が始まった。安田講堂事件があった年だ。

「柔道部のOBの院生や助手が大勢立ち上がりました。みな素晴らしい人ばかりで、それは、ものすごく感じるところがあった。先輩たちの姿を見て、弁護士になろうと。弁護士としての出発点は、やはりそこでしょうね」

飯田氏は弁護士を目指したときの思いを、多くは語らない。しかし東大闘争を間近に見た多くの法学部生が職業として弁護士を選択したのと同様、飯田氏にも同じ思いがあったのではなかったろうか。

色々と考えるところがあって、もう1年間柔道をやり、それから、柔道部で鍛えた体力にモノを言わせ、10カ月間猛勉強をした。面倒見てくれる先輩の助けもあって、無事に司法試験に合格。しかし司法研修所に入るまでの間、姫路に帰郷する。

「実は、司法試験の合格発表直後に結核を患っていることが判り、療養所に入っていたんです。今でこそ結核は治せますが、当時はまだ亡くなる方がたくさんいました。生と死を見つめ、それについて考える時間でした。それは私の人生にとって、意義があったように思います。実は長年、この話は秘密にしていた。私は柔道部出身で元気があり、体力勝負の弁護士だって周りから言われているからね(笑)」

飯田氏は1年遅れて「退院見込み」で司法研修所に採用される。その後の実務修習をきっかけに、森綜合の先輩や仲間と協働していくようになる。

入所2年目の大失敗。仲間のありがたさを痛感

飯田 隆

飯田氏には入所2年目、忘れられない「大失敗」がある。柔道部の先輩の紹介で、ある大手企業の新規事業の保証業務に起用された。

「そこで大チョンボをやらかしまして。詳しくは語れませんが、建設機械抵当法の対象となる物件があることに気付かずに担保にとってしまった。債務者が倒産して大きな事故となり、2億4000万円のロスが出そうになった。当時、僕の年俸が300万円。それはもう、千尋の谷底を見た思いでした。これは、確実にクビだと。そのとき古曳さんはただ一言、『合議してやればよかったな』と。明らかに失態でしたが、彼は怒らなかった。ネバー・ギブアップ、必死に債務者の資産を調べ上げたところ、7000坪の埋立地で、時価にして5億の未登記の土地があるとわかった。即、仮差押えを敢行。結果的に信頼を取り戻すことができました。その件とは別に、ほぼ同時期に同じ会社の保証業務で、大きな事件が続発。そのときは事務所の全員が全国に飛び散り、バックアップしてくれた。今でもとても感謝しています。みんなにああした気持ちがあったから、その後、事務所も発展していけたのだろうと思う」

この失敗は、飯田氏にとってスプリングボードになった。そこからの約10年、事務所への感謝の気持もあり「その間の記憶がない」くらい働いた。

「年間5000時間働きました。事務所が軌道に乗って拡大していった時期でもありました。しかし今、この時期のことを反省しています。記憶が残っていないということは、それだけ感動がなく飛躍していなかったということですからね」

10年目に生じた「迷い」から始まった弁護士会活動

森綜合の創業期メンバーは、それぞれ専門分野が明確だった。

「古曳さんが倒産法、本林さんが国際取引、久保利さんが会社法、内田さんが知財・独禁法。みんな『一緒にやろう』と言ってくれましたが、私は二番手になるのが嫌だった。それで自らの専門分野を訴訟・紛争解決としました。裁判には血わき肉おどるものがある。特に反対尋問ほどすごいものはない。あれは一種の知的暴力です。あの凄みを、ぜひ若い人たちにも知って欲しい。そして、柔道部での体験から学んだことですが、勝敗は一点に集中するエネルギーの多寡で決まる。正義に反しない限り、相手の3倍のエネルギーを使えば必ず勝てる。その思いが私の中にあり、訴訟・紛争を専門分野としてきたわけです。また、『鶏肉を断つに牛刀を持ってすれば百戦あやふからず』。これは裁判でも真理だと思う。ファインプレーは、大ポカと紙一重なのだ。

「がむしゃらに働いて記憶がない10年」が過ぎようとした頃、知人の紹介で担当した兵庫県の福崎町長と姫路市の設計業者間の収賄事件がある※。

「私は、被告人である元町長の弁護を行いました。この裁判に携わるまで、経験した刑事公判弁護は、わずか数件。まったくの民事弁護士でした。しかしこの裁判で連続22日間のアリバイの立証に成功し、『事実の立証に関する限り、民事的立証は刑事弁護としても十分通用する』という実感を得た。この裁判は、1988年に神戸地裁で元町長は金を受けとっていないことが解明できて無罪判決が1審で確定。しかしその2年後に、元町長は全身ガンで亡くなりました。4年におよぶ裁判のストレスに体が耐えられなかったのでしょう。だから、私はこう思うんです。『裁判で無罪を勝ちとっても、名誉は回復するが人生は帰ってこない』と。冤罪は絶対に許せない。それを痛感させられた事件でした」

そうして日々忙殺されていた飯田氏。10年ほど経ったある日、ふと「このままでいいのか」という迷いが生じ始める。

「年間5000時間も、がむしゃらに働き続けるだけで本当にいいのだろうか?弁護士になろうと思ったときの、出発点の気持ちはどうだったろう?そんな心の揺らぎに、ある先輩が気づいてくれて『日比谷倶楽部(第二東京弁護士会の会派の1つ)の事務局長をやらないか』と声を掛けてくれた。それが弁護士会との関わりを深めていく始まりでした」

法科大学院の設立準備に奔走

1991年には、第二東京弁護士会の副会長に就任。事務所内では若手も育ってきて、彼らに仕事を預けることもできるようになった時期だった。

「年4000時間+αを働き、3分の1を業務に、3分の2を副会長の活動に充てて1年間を乗り切りました。弁護士会の活動の割合が著しく増え始めたのは、1998年の二弁の法曹養成センターの委員長になった頃。弁護士会で初めて、ロースクールの検討を始めました。新規法曹年2000人時代の到来が不可避と見据えて、東京の司法試験合格者数上位10校と京大に行って、ロースクールの必要性について議論を重ねました。二弁の執行部からは、『あの委員会には予算を使わせるな』と言われましたよ(笑)。ところが、そのたった2年後に『新規法曹年3000人』と法科大学院創設が国の政策になった。私たちは、異端視されながらも最先端を走っていたつもりだったが、時代の方が頭上を駆け抜けていったように感じました」

2002年には、日弁連の法科大学院設立・運営協力センターの委員長となり、2004年まで法科大学院の関連立法・制度整備・開校準備に走り回った。

「その頃には、弁護士会の活動が私の全エネルギーの3割、年間1000時間を超えるようになっていた。もちろん仕事も手は抜けないし、これでは体が持たない。窮余の一策で、事務所のそばにワンルームマンションを借りました。週末に荻窪の自宅へ寝に帰る以外は、事務所とマンションの往復です。結局、通勤と家庭の団欒の時間を削っちゃって、年間で500時間を生み出したんです。仕事と弁護士会活動、ギリギリの両立を図った日々でした」

法科大学院センターの委員長の任期終了後は日弁連法務研究財団の常務理事として、法科大学院の第三者評価機関の立ち上げにも奔走した飯田氏だ。

飯田 隆

勝敗は一点に集中するエネルギーの多寡で決まる、「裁判」の面白さをぜひ若い人に体験して欲しい

弁護士業務の推進の「旗振り役」を務める

2006年、飯田氏は第二東京弁護士会会長に就任。日弁連の副会長職も兼任。2008年には日弁連法的サービス企画推進センター副本部長兼、採用・就業問題対策会議座長に就任。国の施策に対して弁護士の立場から、弁護士の就職問題や業務拡大に取り組んだ。

「私の日弁連の副会長の仕事には、柱が2本あった。1つは当時は飛ぶ鳥を落とす勢いの『規制改革会議』との対決、もう1つは『弁護士の業務推進』。弁護士の業務推進の、いわば『旗振り役』。私の年齢なら、自分の属する事務所のことだけではなく、もっと弁護士全体の活躍の場を見据えた活動に取り組むべきだと考えています。しかしながら、弁護士の業務推進と声高にさけんでも、容易には拡大しないことも、ここ数年で痛感。まだまだ弁護士の需要はあるが、時間がかかる問題で、はたして何人が適正な法曹人口か、これは私にもわからない。司法アクセスの拡充と弁護士業務の拡充とは盾の両面で、それにより法の支配が確立される。この三位一体構造をみんなが十分理解する必要がある。そして、その為の人的基盤を支えるのが法曹養成制度なのです」

また飯田氏は二弁の会長時代に、弁護士会で初めて二弁の「男女共同参画基本計画」を策定。まもなく女性弁護士が3割を占める時代となることから、女性弁護士の活躍を願う思いからである。弁護士会の活動を通して、少しでも後進の弁護士たちがいい人生を送れるようにと力を尽くしてきた歴史が、「空白の10年」以降の飯田氏自身の歴史でもある。

森綜合法律事務所から統合して大規模法律事務所へ

こうした弁護士会活動の一方、2002年の濱田・松本法律事務所との統合を挟み、森綜合法律事務所(現/森・濱田松本法律事務所)の成長も、35年に渡り支えてきた。

「18坪の丸の内の小さなオフィスから、40坪の銀座のオフィスに引っ越し、それから10数年を経て事務所も更に拡張し、弁護士の数は20人ほどになりました。教育体制も敷けるようになったので、42期以降は毎年4~5人ずつ採用してきた。90年代、弁護士が20人から30人位の頃が、『胸突き八丁』の一番苦しい時代でした。先行投資のために経費率は非常に高く、まさに『じっと手を見る』という心境(笑)。しかしあの頃、歯を食いしばって先行投資を続け、国際部門を拡充したのが、事務所が今日まで発展する基礎になったと思います」

その後、更に拡充するために20年暮らした銀座から大手町に引っ越す。

「事務所を大きくするのは、ある意味で簡単なことですよ。それはね、『他の事務所にいくよりも、ここの方が楽しくて収入になる』と所員が思える環境を整えればいい。では、どうしたらいいか。それは『(若者に)惜しみなく与える』『その人生にエールを送る』『仕事を一生懸命やること以外は、何も求めない』。多分、この3つがあれば、その事務所で働くほうが他の事務所よりもきっと楽しい。また、『仕事を一生懸命やる』は、『いい仕事をする』と同義。いい仕事をするには、徹底した合議をすること。合議ほど弁護士を鍛える最良の方法はありません。そうして、強い闘う知的集団をみんなで目指す。各々の顔が見える70~80人までの集団なら、それだけあれば原始共産制でも自ずと事務所は大きくなります。濱田松本法律事務所との統合以降は120人を超えましたから、その後は、当然、戦略性や組織論といった観点も必要になってきます」

森・濱田松本では、プロボノ活動も重視しており、ひまわり基金公設事務所や法テラスのスタッフ弁護士の養成協力事務所でもある。これまでに、5人が巣立って赴任しており、今年も2人を養成中。来年は3人を養成予定とのことである。

柔道で培われた後進育成の気風

飯田 隆

昨年の「リーマンショック」や世界的不況期にあって、影響を受ける法律事務所も少なからずあるはずだ。「弁護士業界全体で見れば、確かに厳しい方向に向かっているかもしれないが、うちの事務所は幸い、取り扱い分野が広いので、ショックを吸収できる余地は大きい。うちは病院でいえば大学病院。『高度総合医療機関』を目指しています」と飯田氏。今後も、どのような環境下でも、若手の採用に穴を開けることはないだろうという。飯田氏が、かくも後進の育成に力を入れ、エネルギーを発せられるのは、なぜだろうか。

「多分、柔道部出身だからだね(笑)。先輩にお世話になったご恩や愛情を後輩に返していくという、体育会系特有の気質でしょう。そういえばうちの事務所は、古曳さんが軟式野球、本林さんがサッカー、久保利さんはラグビー、内田さんがスキー山岳部と、体育会系が多かったね。私はね、柔道を通じて、さまざまな財産を得ましたよ。人の付き合いもそうですし、『強制力を持たない組織の組織化』について学んだのも、そう。他人には心からのエールを送り、自らには最大の負荷を課す。これは法律事務所にも弁護士会にも通じることです。また、『勝つということはどういうことか』を学んだのも柔道。勝敗は、一点に集中するエネルギーの多寡で決まる。これは弁護士業務にも通じる」

飯田氏は、「事務所で多くの弁護士の成長していく姿を見られたことがハッピーだった」と語る。

「弁護士の成長過程には、3つの節目がある。七五三の逆。まず3年目までは自分の基礎を固めるとともに勝負する分野、専門性を決めるときだ。「離陸」のときである。次に5年目。自分が決めた勝負する分野あるいは専門分野で、ひとかどの弁護士として認められる存在となる時期。事務所内でいえば、誰とチームを組もうかというときに、真っ先に顔が浮かぶ存在になることだ。「飛躍」のときである。そして7年目。対外的には、クライアントの心を掴む力を持つ時期。対内的には、チームを率いる力を身につける時期。「勝負」のときである。勿論、個人差はあるが、こういう節目があるということを知っておくだけでも、弁護士としての生き方に違いがでてくると思う。弁護士業務ほど、エキサイティングなものはない。『個の存在』『個のウエイト』が高い仕事。個の創意工夫が、結果に大きく結実できるという面白い世界です。また、法の支配を、直接・間接に支える役割がある。公益活動にストレイトに取り組めるという良さもある。自分の時間あるいは自分の人生をどう設計するかを決めるにおいて、自由度が高い職業だという魅力もある。ですから、どんどん若い人に、弁護士の世界へ入ってきて欲しいと心から願います」

いわば柔道を機軸に、「弁護士という人生」を歩んできた飯田氏。後進を育成する飯田氏の活動は、柔道の理念である「自他共栄(自分と他人が共に栄えていこうというもの)」に支えられているのかもしれない。

※昭和59年、姫路市の設計業者による多数の地方自治体の首長に対する贈賄が発覚し、兵庫県の中・西部(播州地域)を揺るがせた汚職事件。詳細は、『収賄元町長に無罪ー「民事的立証」で勝ち得る』(自由と正義 Vol.39 No.8)に記載。