Vol.40
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黒田 健二

HUMAN HISTORY

大事なのはフロンティア精神。そこにリスクがあっても、たとえ突飛な考えだったとしても、チャレンジを重ねていけば、必ず道は拓ける

黒田法律事務所
黒田特許事務所
弁護士

黒田 健二

文武に長けた少年が、独自の価値観と発想で決めた〝自分の進む道〟

黒田健二が司法試験に合格したのは1983年。全国最年少の20歳だった。それも、大学を早々に中退し、独学による突破だったから、世間の耳目を集めたのはいうまでもない。若くして弁護士人生のスタートを切った黒田は、与えられた“人より長い時間”を定型的にではなく、「自分にしかできない仕事」を追求しながら走ると決めた。以来30年余り、そこに変節はない。現在、黒田の事務所は、中国・台湾案件、全世界を対象に扱う知的財産分野において、ほかにはマネのできない上質なリーガルサービスを提供する存在として、異彩を放っている。定めた起点からの、一つの到達点だ。恵まれた才といえばそれまでだが、黒田が持つフロンティア精神と、それをかたちにする勤勉さ、実行力は、誰にとっても学び多いはずである。

父は中学校の数学教師でしたし、もともとうちは理系一家なんですよ。私も地学や生物、科学が大好きで、中学生の頃の夢は、地震予知の研究者になることでした。学校の図書館に、東大の地震研究所の専門書がたくさんあって、片っ端から読んでいたことも影響したんでしょう。関東大震災を予知した一人、大森房吉先生のような地震学者になりたいと思っていました。

そんなサイエンス少年だった私が、打って変わって弁護士になると決めたのは、高校2年生の時。きっかけは、我が家の不動産トラブルでした。親が代々木にマンションを買って引っ越したのですが、当時、導入され始めていたセントラルヒーティングに欠陥があった。しょっちゅう故障です。最初のうちは修理を要求していたものの、保証期間満了とともに、不動産会社は修理を受け付けなくなり、しかも「うちには偉い弁護士さんがついているから、何を言っても無駄だ」と。両親は弁護士など知らないし、交渉事にも慣れていないから、結局泣き寝入りですよ。その時、「弁護士というのはすごい職業なんだな」と思ったのです。

調べてみると、なかなか面白そうな仕事だったし、何より、早く弁護士になって、悪徳不動産屋をやっつけてやろうと考えたわけです。文系に転向し、高校3年の時には政治・経済の科目を自分なりに勉強して、司法試験の予備校にも通うようになっていました。ビリヤード場の地下にある狭い予備校に……高校の制服を着たまま(笑)。

黒田は文武両道で、子供の頃から習っていた柔道、剣道は有段者に。中高一貫で通った巣鴨学園では、常にトップクラスの成績を収め、高校2年生の時には、旺文社模試で全国1位を取っている。勢い、東大受験へと流れそうな話だが、そこが黒田の“定型破り”なところで、東大やほかの国立大学受験は端から眼中になかった。

仮に、東大に入ったとしても、世の中に貢献できる人間になれるとは限らないでしょう。私はむしろ、名力士の北の湖さんや、田中角栄さんのように、高等教育を受けずとも社会に足跡を残した人のほうにより惹かれるというか。自分が生きる道は、有名大学に入ってキャリアを積むことじゃない。自分自身の仕事で、世の中に評価されるようになりたいと思っていたのです。

正直、大学は選んだという感覚はないのですが、入学した先は早稲田大学法学部です。入ってみてすぐに直面した問題は、学生数がすごく多いから、希望する授業は抽選になってほとんど受けられないということ。試験には強いけれど、私はクジ運が悪い(笑)。加えて、高校時代から司法試験予備校に通い、法律の基礎知識はすでにあったから、授業を受けたとしても物足りなかった。結局、「独学でやったほうが早い」と考え、大学は3カ月で通うのをやめて、中退しました。

一般教養過程を終えていないから、まずは第一次試験に向けた勉強から始め、19歳の時に合格。それから第二次試験です。私の勉強法は多くの人とは違って、まず口述から入って論文式、そして短答式へと、つまり試験とは逆順に勉強していくやり方。それこそ、東大にトップで入った人でも受からないほどの難関だと聞いていたので、どうするか……頭に浮かんだのは迷路ゲームでした。あれって、入口から解いていくと何通りもの道があってやっかいだけれど、出口からやると意外に早い。そこから発想したんです。

まずは、口述試験で試される条文や定義の趣旨を徹底的に勉強し、その後は過去問からどういう問題が出るかを予想し、その回答を導き出すために必要となる最小限の知識を集中的に。人間の能力には限界があります。床から天井まで本を積み上げて勉強しても、時間が経つと忘れるじゃないですか。本当に必要な部分を確定したうえで勉強すれば、合格率は高まる。そう思い、私はあえて絞り込んだのです。

明確に定めた仕事領域。先取的な職場で、力を蓄えていく

  • 黒田 健二
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実際、独創的な勉強方法は的を射た。新聞には「高卒20歳、司法試験最年少合格」と見出しが立ち、テレビ番組にも呼ばれるなど、黒田は時の人として注目された。だが、それは最初の通過点。当の本人は淡々としたもので、やはり最年少としてスタートした修習生時代に、黒田は「どういう弁護士になるか」をしっかり考えている。

なかには偏見を持つ法曹もいて、一緒に飲みに行った時、「21歳で修習生なんて生意気だ。ろくな弁護士にはならん」と絡まれたこともあります。「大学を出てこそ人格は陶冶される」的な風潮は、まぁありましたから。でも一方で、“弟みたいな奴”ということで可愛がってくださる人も多かったし、修習生生活は楽しいものでした。

心に残る出会いや言葉もあります。仲のいい同期が実務修習していた縁で、大先輩である松尾翼先生の事務所旅行にくっついていったのですが、そこで国際取引や海外企業との紛争事件を扱う先生方の話を聞いて、面白いなぁと。弁護士には、いろんな仕事領域があることを知りました。そして松尾先生からは、「君は若いんだから、ほかの人ができないことをやったほうがいいよ」と言葉をかけていただいた。弁護教官からも「高い山を築くには裾野を広げないといけない。効率性ばかり重視せず、無駄に感じることもやってみなさい」と教えられ、私は、自分の弁護士像を深く考えるようになったのです。

もとは、悪徳不動産屋をやっつけるために弁護士になろうと考えていたわけですが、この先50年以上、そういう伝統的な法律業務をやり続けるのは何か違うと思うようになり、道を探し始めた。それで選び出した分野が5つ。改革開放路線が出てきていた中国と、ソフトウエア、バイオ、環境、宗教法人です。当時は、これらの分野に専門家がほとんどいなかったけれど、将来は“伸びる”という確信があった。だから、今すぐに活躍はできなくても、20年、30年後に必要とされる弁護士になろう。この5分野の中から、さらに絞り込んで仕事をしていこうと、修習生を終える頃には決めていました。

86年、23歳3カ月で弁護士登録。これもまた、当時の最年少記録である。くだんの松尾弁護士を通じて、国際業務を経験したいと考えた黒田は、海事関係に強い法律事務所に入所。そして半年間ほど在籍したのち、本格的な就職活動に臨む。「商売にはならない」とされていた中国に着眼する“個性派”の黒田が、居場所を見つけるまでには少々時間がかかった。

就職先を探している間は、自宅を事務所にして、国選弁護の仕事をしていました。この頃、思い知ったんですよ。最年少で司法試験に合格しようが弁護士になろうが、経歴で依頼者はやって来ないことを。当たり前なんですけど、そういう現実を突きつけられた。やはり仕事の評判があってこそ、依頼者は獲得できる――それを再認識できたことは、とても有意義でした。

四大事務所も含め、いろいろな事務所を訪問しました。「私は中国語ができるし、将来、この分野は伸びるから、必ず貢献できます」とアピールするんですが、ほとんど相手にしてもらえません。中国法務は金にならないと思われていた時代ですから。「どんな訴訟でもやります」と言えば、採用になったかもしれませんが、個性が強すぎて嫌われたんでしょう(笑)。

そんななか、同期を通じて出会ったのが「升永永島橋本法律事務所」です。聞けば、升永・永島両先生とも中国に興味をお持ちで、コンピュータソフトウェア協会の顧問弁護士もやっていらした。まさに、自分が興味を持つ分野。事務所の激務ぶりは承知のうえで、売り込みに行ったわけです。そうしたら「お前、面白い」と採用してくださった。思いどおり、ソフトウエア関係や国際取引の紛争処理、知財事件に多く携わることができ、日々充実でしたね。

とりわけ、入ってすぐに始めたシルバー精工事件は印象が強いです。同社が、特許権者であるアメリカのキューム社に支払った源泉徴収を、日本ですべきかどうかを巡る租税事件。シルバー精工側の代理人として私も入り、当時の日米租税条約の解釈のもと、アメリカの特許対価であれば、日本での源泉徴収義務はないという主張で、課税庁と争った事件です。最終的には最高裁までいって勝ちましたが、約10年かかった長い案件なので、様々な面で勉強と経験を積めた仕事です。

留学を経て独立。懸命な働きと工夫で、高い評価を得るように

黒田 健二

自分ならではの発想と工夫で成果を挙げ、クライアントの役に立つ。それが一番の喜び

いずれ留学したいとは考えていた。仕事として中国を意識するようになってからは、独学で中国語も身につけている。加えて、事務所で外国人弁護士らと仕事をするうちに、〝外〟に対する意欲は高くなっていた。88年、中国とデンマークに短期留学し、その後、デューク大学(米国)、復旦大学(中国)に留学。事務所はいったん辞めるかたちで、黒田は2年間、海外でキャリアアップを図った。

ご存じのように、本来なら、大学を卒業していなければアメリカのロースクールには入れません。入学の審査すら受けられない。私、それをわかっていながら、全米25校に入学願いを出したんですよ。大学の卒業証書はないけれど、私の経歴や、取り上げられた新聞記事を添えて自分の考えをまとめ、修習生時代の教官にも推薦状を書いていただいて。ほとんどは却下されましたが、4校から「特例として認める」と返事がきたのです。その一つが、デューク大学のロースクールでした。

ここで、私は成績トップを取った唯一の外国人留学生となり、ニューヨーク州の司法試験にも合格することができた。デュークの学長や先生たちは、今も私のことを覚えていてくれて、記念講演を頼まれたりと、お付き合いが続いています。何事も「ダメだ」と決めつけず、考え抜いて実行すれば、道は拓けるということを体得しましたね。

升永永島橋本法律事務所に戻らせてもらって、都合10年が経った頃、「そろそろ出たほうがいい。健二ならどうやっても成功するから心配するな」と言われまして。私は純然と仕事に没頭したいプレイヤータイプで、事務所経営なんて考えたこともなかった。弁護士1年目で出会ったすごい先生方のよきパートナーになることを目標に頑張ってきたので、正直、ショックだったんですよ(笑)。でもまあ、そう言われると出なきゃいけないのかなと、流れ的に独立することになったのです。

95年、黒田一人でのスタート。「独立には勇気が要った」そうだが、実績は十分だったから、経済的な不安はなかった。事務所開設当初は、中国は今ほど成長しておらず、仕事領域としては中国3割、残りが知財を含む一般企業法務という割合。その知財において黒田は、「日本史上最大の知財裁判」と称された青色発光ダイオードの特許事件に関与、その手腕を存分に発揮した。

豊田合成と日亜化学の特許を巡る係争は、96年に始まって以降、特許抵触やそれぞれの特許の無効を訴える激しいものでした。私が豊田合成から受任したのは2000年でしたが、その頃は、豊田合成が10連敗状態で大変だったんです。それを逆転にもっていき、連勝するようになって、2年後には、非常に有利なかたちで和解を勝ち取ることができたのです。

特許の数がものすごくて、多い時はお互いに50件ほどぶつけ合っていたでしょうか。まさに総力戦。私自身も必死になって勉強し、毎日のように100ページを超える準備書面を裁判所に出していました。徹夜なんて茶飯事。とにかく心がけたのは「わかりやすい書面」。忙しい裁判官に、難しい技術を理解してもらうため、1ページに最低一つは図表を入れるとか、色も多用するとか工夫をして。アメリカでは、陪審員向けに技術説明をする際、ビデオをつくったりするのですが、私もこの特許訴訟ではビデオを10本以上制作しました。ちゃんとプロのディレクターや声優さんを起用してね。

特許事件では、ほかの弁護士がまず取らない手法です。こういう自分ならではのアイデアを出し、実行に移していくのは面白いし、それで成果を挙げてクライアントに喜んでいただく。やっぱり、それが一番の喜びなのです。

私は、98年からFIFAの日本における代理人を務めていますが、同様にアイデア勝利という点で、成功を収めた案件があります。偽物対策です。実は98年のフランス大会の時、国内で200件の訴訟が起きたという背景があったものだから、FIFAからは「200件の訴訟に対応できる体制を整えてくれ」と要請されたのです。

でも、そういうことより、偽物対策をするなら、まずは中国の税関で輸出の差し止めをするべきだと。全世界の偽物の半分は中国製だと言われているんですから、元を断たないと意味がない。そして、日本の税関では輸入を差し止めるという水際作戦。徹底的な対策を取った結果、02年の日韓ワールドカップの時は、日本国内で私が起こした訴訟事件はわずか1件のみ。訴訟数激減ですから、クライアントからはとても感謝されました。ちょっとした発想の転換ですけど、こういう成果を出せると、本当に嬉しい。

グローバルな組織へ。変節なき開拓精神で走り続ける

黒田 健二

黒田が確信していたように、中国関連業務は格段に広がった。特に、中国のWTO加盟以降、中国への投資は拡大し、事務所が取り組む関連業務も累増。04年、上海に事務所を開設したのを皮切りに、広州、北京にも拠点を構え、そして09年には、唯一の日系弁護士事務所として台湾に進出した。

かつては、中国を“生産工場”として位置づけたプロジェクトが主流でしたが、今は販売市場としてですから、様相は明らかに変化しています。

うちで扱った案件に、日系自動車メーカーと中国系自動車メーカーによる合弁プロジェクトがあります。これは数千億円という超大型の投資案件。戦略としては、つくる合弁会社は一つとし、その代わり、相手の中国メーカーの傘下にある部品メーカーなど、子会社群数十社をすべて取り込むというもの。私たちと、現地の中国人弁護士約40人がチームを組んで、数カ月間ぶっ通しのデューデリジェンスを実行し、子会社群に対する株式の持ち分を現物出資させるというスキームで、新形態の合弁会社実現にこぎ着けました。中国政府の特別な許可を要した案件ですが、従前の中国法務に捉われない新しい手法にチャレンジしたのです。結果、中国進出においては後発だった日本の自動車メーカーが、今、現地でトップシェアを取っています。

台湾への進出を決めたのは、中国案件に取り組むなか、日台の企業間の紛争案件に対応する機会が増えてきたからです。最初は、台湾に事務所を開くにしても、日本の法律事務所はどこも進出していないから、どうやって開設するのか、そもそも仕事になるのか、もちろん不安材料はありました。でも、これまで開拓に挑んだ様々な経験や、クライアントがそれを可能にしてくれた。現在、台湾案件は全体の2割を占めていますが、ここまで多くを扱う日本の法律事務所はないと思いますよ。

業容は拡大しても、組織を大きくしようとは考えていない。「ほかの事務所ができないサービスを提供する」――それが、黒田の揺るがぬ信念だからだ。外国人弁護士を含めても二十数名という陣容で、純粋な実力主義を貫き、スピーディかつ高度なリーガルサービスを提供し続けている。

大きくではなく、どこまで“強く”していけるか。私には、それが重要なのです。優秀な人材ならば、どこの国の弁護士であれ、いっさい分け隔てはしませんし、日本人をメインにするという発想ももとよりありません。例えば中国人弁護士の場合、ほかの事務所だと一定の経験を積んで本国に帰るという人が多いけれど、うちは20年近く同じチームを維持しています。この絆が、一つの強さ。組織力でいえば、もちろん大手事務所は意識していますが、彼らにはできない業務を先んじてやっているという自負はあります。

マネジャーとプレイヤー、それぞれに役割があるわけだけど、私はやはりいちプレイヤーであり続けたい。60歳になろうと、70歳になろうと。「ミスター黒田じゃないとできない」と言われるような仕事。ここに欣快があるし、個人的にはもっと増やしていくつもりです。最年少でこの世界に入ったこと、私は運がよかったと思っているんですよ。「ほかの弁護士と違うことをやるべきだ」という意識付けができたから。普通ならば、まだ法律の勉強をしていなきゃいけない時期に、私は早くからいろんな経験をさせてもらった。与えられた長い時間は、単に「ラクをする」ために使うのではなく、自分にしかできないことを探し続けなければいけない。そんな使命感のようなものが、ずっとあるのです。

昨今は弁護士過剰時代で、就職先や仕事がないなどと言われていますが、まずはできることを考え抜いて、実行してみる。かつての留学経験にしても、中国ビジネスにしても、突飛な考えではあったけれど、チャレンジを重ねれば、私のようにうまくいくことだってあるし、道は拓けるものです。より多くの人たちに、このフロンティア精神を大切にしてほしいと願っています。

※本文中敬称略