Vol.48
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板井 優

HUMAN HISTORY

人権は「私をあなたと同じに扱いなさい」ということ。法廷に籠ることなく世の中の〝仕組み〟を変えてこそ、それは実現できる

熊本中央法律事務所
弁護士

板井 優

終戦間もない沖縄で誕生。祖国復帰運動に傾注する中で弁護士を志す

弁護士 板井優
脱原発弁護団全国連絡会共同代表の河合弘之弁護士と。九州玄海原発訴訟に注力する板井氏の同志でもある

水俣病国家賠償訴訟、ハンセン病国家賠償訴訟などにかかわり、現在は「原発なくそう!九州玄海訴訟」の弁護団代表を務める板井優は、終戦間もない沖縄・那覇市で生を受ける。太平洋戦争で想像を絶する辛苦を味わった沖縄だったが、少年の目には戦い終わってなお“悲劇”が繰り返される、アメリカ統治下の姿が映っていた。

僕が生まれたのは、終戦から4年後の1949年8月です。那覇といっても、育った真和志は絵に描いたような田舎で、そのへんにハブがうようよしてた。ベビーブームの最後の年で、入学した小学校は1クラス60人の21クラスという大所帯ですよ。今でも目に焼き付いているのが、小学校2年生の時に見た光景です。うちの学校が超マンモスだから、分校をつくろうということになって、米軍が作業を始めた。見たことのないでっかい重機がやってきて、近くの山をどんどん崩し、1カ月もせずに校舎が完成。びっくりしたねえ。彼我の力の差を見せつけられたような気がしたものです。

その米軍は、政治の世界でも力を振りかざしました。例えば、民間の法廷で米軍が裁判に負けると、ただちに軍事法廷を開いて、それを否定してしまう。まさに、やりたい放題です。

そんな中で起きたのが、63年2月の「国場君事件」でした。当時中学1年生だった僕らと同学年の男子生徒が、米軍の軍用トラックにはねられて亡くなった。横断歩道の信号は青だったにもかかわらず、3カ月後の軍事法廷で下った判決は無罪でした。「夕日で信号が見えなかった」という米兵の主張を全面的に認めたのです。沖縄人は、轢き殺されても、文句も言えない存在なのか――。それはもう、みんな怒りましたよ。若き日の僕に、社会に目を開かせるには、十分な出来事でした。

自治権が極度に制限された当時の沖縄では、米国の統治に反発する祖国復帰運動が広がりをみせていた。首里高校に進んだ板井も、2年生の時に自ら手を挙げて生徒会長になるや、他の高校にこの運動での“共闘”を呼びかける。ところが……。

「祖国復帰生徒会連絡協議会」というのをつくりたいと思い、他校の生徒会長に集まってもらって、提案したんですよ。すると、全員「賛成だ」と。「よし、次回集まる時には正式に旗揚げだ」って別れたんだけど……どこの世の中にも、バカはおってさ(笑)。その中の一人が、学校の朝礼で勝手に壇上に登って、「こういうのをつくることになった」ってやっちゃったわけ。悪いことに、そこの校長先生は、校長会の会長だった。それで、「今度、会合に行ったら退学」というお達しが各校に回り、構想はあえなくパーです。あれが初めての挫折かなあ。

ただ、復帰運動自体は大きな盛り上がりを見せていて、その先頭に立っていたのが、実は弁護士たちだったんですよ。とにかくかっこよかった。

憧れた人の中に、知念朝功さんという弁護士がいました。後に琉球政府の副主席を務めた立派な方でしたが、ある時話を聞く機会があって、「弁護士なら、自分の考えを実現するために働ける」と話すわけです。信念を貫いて、しかも稼いで暮らしていける。素晴らしいじゃないか――。知念さんに会って、「弁護士になりたい」という思いが、大きく膨らんだんですよ。

その夢を実現するため、高校卒業後は日本本土の大学で学ぶことを決意しました。本土に渡るのには、パスポートが必要な時代でしたから、“留学”です。選んだのは、学費免除で、生活費が支給される国費留学。試験に合格して、文部省の係官に希望を聞かれたので、第1志望は法学のゼミコースがあった一橋大学にしました。僕より前の2人の“国費法学”は東大と一橋に行きましたから、まあ順当かな、と。

夢を抱いて本土へ留学。出会いに導かれやがて水俣の地へ

弁護士 板井優

“配属先”が通知されたのは、本土行きの留学船が出発する3日前のこと。あにはからんや、「あなたは熊本大学に決まりました」という知らせだった。戸惑う板井は、それが後の彼の人生を決定づけることになるとは、もちろん知る由もない。

熊本市にある沖縄学生寮に着いた日のことは、今でもはっきり覚えています。夜、近くの熊本城内を散歩していたら、道端に座ってご飯を食べている人たちがいる。びっくりして、寮母さんに「ここには、道で食事をする悲惨な人がいるんですか」と言うと、「あれは花見をしている裕福な人たちだ」と怒られてねえ。“そば”といえば沖縄ソバのことだと思っていたし、雪は本でしか知らなかったし……とにかく驚かされることばかりでしたよ。

勉強するために入った大学も、当時は全国的に学園紛争の真っ盛りで、授業があったり、なかったり。それに、よくよく話を聞いてみると、昭和30年以降、熊大から司法試験に合格した人は一人もいないと(笑)。これでは弁護士にはなれないと思った僕は、地元の弁護士さんのアドバイスもあって、卒業したら東京に出ることを考えるようになっていました。

具体的にその道筋をつけてくれたのは、当時つき合っていた医学部生の板井八重子、今の家内です。彼女は僕より2つ年上で、当時の女性には珍しく、はっきり自らの考えを口にする人でした。その八重子のところに、「研修医として東京に来ませんか」と誘いにやってきた医師に、彼女が「結婚しようと思っている人が、司法試験の勉強をしたいと言っている」と話すと、「そちらも探してみましょう」と。そうやって見つけてくれたのが、東大の学生がつくる勉強会でした。

八重子とは、大学を卒業した73年の4月に結婚し、翌日上京。結婚しても婚姻届は出さず、姓も別々のまま。「夫婦別姓」など考えられなかった時代ですけど、彼女は一人娘だし、私も妻の姓にしたら親が黙ってはいないでしょうから、まあそうするしかなかった、というのが本当のところです。

東大の勉強会には、いろんな大学から司法試験の受験生が集まっていました。1年で合格することを目標にしていただけあって中身も濃く、5人くらいのグループに分かれて、試験に出そうな問題を片端からすべて潰していくというものでした。ただ、僕は1年では無理だった。1年目は、持病の椎間板ヘルニアの痛さに、3時間の択一試験を2時間でリタイアするありさま。2年目は、最後の口述試験で落っこちた。そして3年目。この年は、まさに口述試験のさ中に、長男が誕生。落ちるわけにいかんでしょ。

76年10月、念願叶って司法試験に合格することができました。ようやく少年時代の憧れを現実にしたのですが、一つはっきりさせなければならない問題があったんですよ。

合格後、その報告のために沖縄に帰りました。本来なら、両親は「よくやった!」と迎えてくれるはず。ところが、合格証書を一瞥した親父は、「喜び半分、悲しみ半分だな」と言って、それを突き返すのです。

実は、74年11月、八重子の仕事上の問題もあって、私たちは入籍していました。姓は「板井」。合格証書にも、そう記載されていたんですね。彼女はすでにバリバリの医師、こちらは受験生の身の上でしたから、「具志堅」という姓を変えることについて、僕の中ではまったく違和感はなかった。しかし、末端とはいえ琉球王朝の士族の血を引く誇り高き父親がどう感じるかは、また別の話です。司法試験合格との“合わせ技”にすれば、少しは怒りが抑えられるのではと考えたのだけど、甘かった。残念ながら、許してもらえないままになっています。

受験勉強中には、さらに重大な人生の選択も迫られた。妻が、熊本県水俣市の診療所から、「不足している内科医として、来てほしい」と強い要請を受けたのだ。「弁護士になったら沖縄で開業する」と心に決めていた板井にとって、まことに悩ましい状況だった。

チッソ水俣工場が排水として垂れ流した有機水銀が原因で、多くの人が神経系疾患に苦しんだ水俣病のことは学生時代から知っていて、第一次訴訟の裁判を傍聴に行ったりもしていました。水俣で苦しむ患者さんを助けたい、という八重子の思いは痛いほどわかる。悩みに悩んだ末、ここはその“思い”を邪魔すべきではない、と決断。沖縄に戻るのは10年延ばしても、今は水俣の力になることが求められているのだろうと考えたのです。

水俣に行く以上、僕自身も真正面から水俣病訴訟に取り組もうと決意を固めました。モチベーションの高まるタイミングでもあったんですよ。

水俣病第二次訴訟で原告側が勝利し、チッソの責任が再び認められたのが、79年3月。ところが当時の環境庁は、「司法判断と行政判断は別」、要するに「裁判に負けたからといって、国に法的責任はない」との姿勢を崩しませんでした。僕が司法修習を終えて正式に弁護士になったのは、その判決があった翌月のことです。役所がそういう態度に終始するのなら、今度は国を相手に裁判を起こそうか、という議論が起こり始めていました。

地道な努力で「国に勝つなど不可能」という常識を覆す

弁護士 板井優

「最も困難なところに最もよい仕事がある」辛い時代を支えた言葉が今も座右の銘

晴れて弁護士バッジを付けた板井は、79年4月、水俣病解決のために全国から集まった弁護士が在籍する熊本共同法律事務所に入所した。そこで、“一番の若手”として一般の民事、刑事事件もこなしつつ、現地水俣に、さらには県庁に環境庁に、と文字どおり東奔西走する日々が続いた。

79年の夏、大阪で公害訴訟が専門の立命館大学の沢井裕先生に会ってお話を聞きました。それまでも、東京や大阪に出かけては、名だたる専門家の意見をうかがっていましたが、ほとんどが「公害裁判で国に勝てるわけがない」という見解で一致していたんですね。でも、先生は違った。「現にたくさんの被害者がいるのだから、これを救済する法理論を考えるのが、学者の責任だ」とおっしゃったんですよ。

そういう見識にも勇気づけられ、弁護団で様々な議論を重ねた末に、チッソに加え国と熊本県を被告にした第三次訴訟が提起されたのは、80年5月。出訴期限のある行政訴訟ではなく、あえて民事訴訟に多くの患者さんに加わってもらうことで、ハードルの高すぎる患者認定制度の誤りを明らかにする、という方針でいくことにしたわけです。むろん、揺るぎない勝算があったわけではありませんよ。精力的に動き回る中で、裁判に勝利して、本当に水俣病を解決するためには、足りないものも感じていた。僕が気になったのは“世論”。特に被害の地元である水俣で、「絶対に患者を救わなければ」「国の責任を明確にすべき」という機運を高めないと、実際に事態を動かすのは難しいのではないか――。86年3月、単身で水俣法律事務所を開くことにしたのは、そんな理由からです。

とはいえ、水俣では苦労しました。裁判に関する世論を広げるうえで重要なキーマンになるのは、実は地元の議員さんたちなんですよ。だから、彼らがかかわる事件なんかには近づけない。敵に回すわけにいかないでしょう。弁護士業としては、けっこう辛いものがありましたね。

体力的にも厳しかった。水俣には簡易裁判所しかありませんから、どうということのない事件でも、資料の詰まった重い鞄を抱えて、遠くにある地裁支部まで出向かなければなりません。裁判への支持を訴えに回る時も、同じです。もう、腰が痛くて痛くて。

今考えても、自分にとって一番大変な時期でしたけど、僕には励みになった言葉がありました。ある先輩弁護士の「最も困難なところに最もよい仕事がある」という激励のひとこと。これは今でも僕の座右の銘なんですよ。

結局、水俣には8年と6カ月。もちろん、僕だけの力ではないけれども、その間、目標だった世論を大きく変えることができました。水俣病解決に貢献できたのは、無上の喜びです。

87年3月、熊本地裁は初めて国と県の責任を認め、原告全員を水俣病と認定する判決を下した。被告が控訴した福岡高裁は90年、和解を勧告。その後も、和解勧告を連発する。そしてついに95年、政府の「最終解決策」に基づく和解が成立、国などへの提訴は取り下げられた。時の村山首相は、水俣病の原因確認、企業への対応の遅れなどについて、首相として初めて陳謝したのだった。

国は最後まで、その責任自体を認めようとはしませんでした。そうした不満は残るものの、大多数の専門家が「勝てるはずがない」と指摘していた国相手の裁判に勝ち、裁判所による和解という現実的な救済策を引き出し、実現させたのです。意義ある勝利でした。僕自身、この裁判を通じて、「戦い方さえ間違わなければ、人権を守ることができるんだ」ということを、改めて学んだ気がするのです。「世論を広める」ために水俣に行ったことを、「普通の弁護士と違うね」と評されることがあります。僕の考えはいたってシンプルで、勝つためにはそれしかない、と思ったから。例えば、地方の議員さんたちに本気になってもらい、中央を動かす。そんなムーブメントを起こすことが、絶対に必要だろう、と。

弁護団は「国の理不尽な対応を許さず、患者を救う」という一点で団結し、論議を重ね、方針を定め、それに基づいて行動しました。まさに、みんなが知恵を出し合い、実行した末の成果です。不当な患者認定制度という「人権侵害の仕組み」そのものを変えようと奔走する彼らの姿は、僕には、時に祖国復帰運動の先頭に立った沖縄の弁護士たちの姿に重なって見えました。

「政策形成訴訟」で次々に勝利。今また〝脱原発〟に挑む

弁護士 板井優
熊本中央法律事務所のスタッフと(2015年1月に撮影)。

行政を相手取った水俣病第三次訴訟は、国に新たな政策を提起する「政策形成訴訟」の典型だった。板井はその後も、「南九州税理士会政治献金事件」(96年3月、最高裁で勝訴判決)、「ハンセン病国家賠償訴訟」(2001年5月、熊本地裁で勝訴判決)、「川辺川利水事業事件」(03年5月、福岡高裁で勝訴判決)など、世間の注目を集めた同種の事件を担当し、原告の権利を守り抜くのである。

「ハンセン病訴訟」は、らい予防法による国の患者隔離政策の誤りを認めさせる裁判でした。弁護団では、当初福岡地裁での提訴が検討されていたんですよ。でも、僕は「隔離施設である国立ハンセン病療養所が実際にある熊本か鹿児島でやるべきだ」と、それに反対しました。結局、熊本地裁に提訴したのですが、そう主張したのには、理由があります。

これは水俣病裁判の教訓でもあるのですが、裁判は被害に近いところでやらないとダメなんですよ。熊本や鹿児島では、地方紙や地元テレビ局などで療養所の話、患者の実態などが頻繁に伝えられます。当然、裁判官もそれを見る。被害の実像を、わりと肌身で感じているわけです。しかし、隔離施設のない福岡では、雰囲気はガラリと変わってしまいます。この“温度差”が、裁判で大きく影響するんですね。

裁判官も人間なんですよ。水俣の頃から、僕は彼らとよく話をしました。熊本に来る裁判官は、たいてい単身赴任で、さびしい生活をしながら、早く東京に戻りたいなんて考えてる(笑)。国に“楯突く”ような判決文を書いたら、その道が遠ざかるかもしれません。でも、我々はそんな彼らに、人権を守るための判断を下してもらわなくてはならないのです。「人生をかけてもいい」という気持ちになってもらうためには、少なくともその人となりを知っておかないと。法廷で“切った張った”をやるのは、弁護士の仕事のごく一部。僕はそう思うんです。

94年10月には、熊本市に弁護士活動の拠点を移し、熊本中央法律事務所に戻る。現在は、父と同じ道を選んだ長男・俊介もその一員だ。ちなみに次男の陽平は母親同様、医師として活躍しているという。そんな板井が「なんとしてもやり遂げたい」と話すのが、「脱原発社会」の実現である。

12年1月に、「原発なくそう!九州玄海訴訟」を佐賀地裁に提訴しました。僕は弁護団の共同代表に名を連ねています。福島の事故が起こって痛感したのは、水俣と同じことが繰り返されるのではないか、ということ。チッソは当初、「被害は大したことがない」と言いつつ生産を続け、それがより深刻な事態を生んだ。原発でその轍を踏むわけにはいきません。

現在、国も電力会社も、原発の立地自治体と県の2つの同意を得て稼働させるという方針ですよね。しかし、実際に事故が起こったら、被害はほかの自治体にも及ぶのです。そうした“被害自治体”にも、当然、稼働に向けた同意権があるだろうというのが、我々の基本的な考え方。そうした視点も含めて今力を入れているのが、原告団の拡大です。おかげさまで順調に伸びていて、次回の提訴までには、1万人の大台を確保できそうです。

日本から原発をなくすために大切なことは、スリーマイル、チェルノブイリ、福島で起こった原発被害を風化させないこと。これを前提に、再生可能エネルギーによる発電政策への転換を目指す。そして、我が国の財界、政界の多くのリーダーが一歩ずつ歩む姿を国民の前に明らかにする。その中で、いわゆる立地自治体を大きく取り囲む圧倒的多数の被害自治体が原発の稼働について同意権を持つ社会を実現し、裁判官が司法判断を安心して自らのものとして下せる世論をつくっていくことが重要。そのうえで、日本のすべての原発差し止め裁判と、すべての損害賠償の裁判が団結することが勝利の条件です。

35年間弁護士をやってきて思うのだけど、“人権”というのは、煎じ詰めると「あなたと同じに扱いなさい」ということなんですね。明らかに神経症状が出ているのに患者と認められない人、病気への偏見から何十年も隔離されて暮らさねばならなかった人。みんな「あなたと同じに扱われなかった」人たちなのです。

ただし、そういう人権を回復するためには、声高に叫んだり、法廷の中で手練手管を弄したりしているだけではダメ。あらゆる手を使って、世の中の“仕組み”そのものを変えないといけません。弁護士は、そこにチャレンジすることができる。困難だけど、これほどやりがいのある仕事って、ないじゃないですか。

※本文中敬称略