Vol.24
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川村 明

HUMAN HISTORY

今、この時代こそ日本の弁護士はもっと世界に出るべき。そこには、必ずチャンスと仕事が待っている

アンダーソン・毛利・友常法律事務所
国際法曹協会(IBA)会長

川村 明

明敏でおませな少年。早くから社会正義に熱き思いを抱く

「国際的に活動する弁護士を目指す」。司法修習生時代、川村明は進路希望として願書にそう記した。1967年、渉外案件を扱う法律事務所など皆無に近い時代だ。志を通すべく上京し、アンダーソン・毛利・ラビノウィッツ法律事務所(当時)に入所して約45年。企業法務、クロス・ボーダー投資ならびにコーポレート・ガバナンス、エネルギー開発などを主領域に、川村は“根っからの渉外弁護士”として一本道を歩んできた。そして今年1月、「弁護士会の国連」と称される国際法曹協会(以下IBA)の会長に就任。日本人として初めて国際舞台のトップに立った。その弛まぬ志を支えているのは、天賦ともいうべきリベラルな感覚と、公益に対する強い信念だ。

僕が生まれたのは、京都西陣からほど近い千本丸太町。一帯は繊維の街で、実家はもちろん親戚一同、大なり小なり和装関係の仕事に就いていました。父は着物の図案家として名を馳せた人で、家にはお弟子さんや使用人がたくさんいましたから、5男として幼かった僕は、とても可愛がってもらった。苦労のない生活だったし、何より、両親の愛や大人たちの好意を信じて育ったのは幸せなことです。真っすぐというか、楽天的な性格になった(笑)。

よく言われたのは「おしゃべりな子」「おませな子」。口が達者で、大人たちの話にすぐ加わっては弁舌をふるい、面白がられていたようです。年がうんと離れている兄から話を聞いたり、家にたくさんあった本を読みあさっていたことで、自ずと大人っぽくなったのでしょう。小学生の頃から芥川龍之介や幸田露伴などを読み、文学全集なんかも片っ端から。小学校高学年になってからは同人誌を発行して、短編小説を書いたりしていたんですよ。外でわんぱくするより“活字派”で、僕は高校生になるまで、ずっと小説家になりたかった。大人になってからより、小学生の頃のほうがよほど文学に触れていましたね。

中学・高校と、いずれも地元の公立学校に進学。この時代より、川村は学生運動に傾倒するようになる。もとより、京都には左翼政党に支持が集まる土壌があり、学校においても生徒自治会の力が強かったそうだ。特定のグループには属さなかったが、社会正義を求める思いは強く、「権力に抗することに熱中した」。

隣の校区にいた、後年有名な革命運動家になる北小路敏さんのアジテーションも聞きました。とても刺激的だったし、面白かった。朝鮮戦争を背景に国内情勢がとても不安定な時代でね、「日本はどうあるべきなのか」、中学生なりに一生懸命考えていたのです。物思う学生はたくさんいたんですよ。ビラを配ったり、ストを計画したり、そんな活動に精を出していました。

高校に進学してからも学生運動を続け、一方で活字好きは相変わらずでしたから、文学部と新聞部の両方で活動していたんです。要は、学校の勉強を全然していなかったわけ(笑)。

1年生の後半だったか、担任の須川先生に呼び出されて、「そんなに勉強しないでどうするつもり? 大学はどうするの」と問い詰められましてね。当時、フランス文学にはまっていた僕は、「京大に行って仏文をやります」と。すると「やめなさい。仏文なんて、ベレー帽かぶって、喫茶店でたむろしているような人たちの世界なんだから」と一蹴ですよ。言われてみれば、そうかもしれないと思って、「じゃ、弁護士はどうでしょう」。推理小説の『弁護士ペリー・メイスン』が好きだったこともあり、思わず返答してしまったのですが、その時、「それはいい。あなたに向いている」と言われたことが、僕が職業として初めて弁護士を意識したきっかけです。

“政治の季節”を経て、渉外弁護士の道へ。意のままに邁進する

  • 川村 明
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弁護士という職業がインプットされたものの、川村はすぐにその道を目指したわけではない。文学を志す気持ちや学生運動に燃える様に変わりはなく、京都大学に進学してからも、いそしんだのはジャーナリズム活動である。入学早々、学生が主体となって運営・管理する京都大学新聞社に所属し、川村は記者として、その筆をふるった。

当時、『京都大学新聞』は週刊発行だったから大変でしたよ。企業からの広告収入で、活動費や給料は確保できたので、僕は純粋に記者として活動していました。様々な政治・社会問題に対して評論を書くわけです。大忙しでしたが、この仕事は本当にやりがいがあった。中でも強く記憶に残っているのは、部落差別問題ですね。この問題は人権問題であるとともに、思想問題でもある。これについて、大学の部落研の人たちと幾度となく論陣を張ったものです。まさに政治の季節でした。

具体的に将来を考え始めたのは、3年生になってからです。仲間の多くは、そのまま新聞記者になる道を選んでいましたが、60年安保が終わったあとのジャーナリズムは沈滞ムードで、憧れる気持ちにはなれなかった。本気でくると思っていた革命も、起きそうにない⋯⋯どうするか。この時、正義を追求し続ける道として弁護士が蘇ってきた。司法試験に向けて勉強を始める段になって、京大新聞はすっぱり辞めました。ちなみに慰留はなし。「困ったヤツ」だと周囲は見ていたんだなとわかりましたよ(笑)。

司法試験の勉強を始めてすぐ、4年生で初めて受けた短答式に合格したことで手応えを感じました。論文式は落ちたものの「僕の理解は正しい。これはいける」。そこからスイッチが入った。1年留年することにし、1日10時間、本気になって集中したのです。

勉強スタイルは、自宅と図書館でひたすら基本書を丹念に読むという、最もクラシカルなもの。「グループをつくらず一人で好きにやった」と、川村らしい。基本書を1回読むたびに日付を入れ、それを10回ほど繰り返したところで、すべてを頭にたたき込んだ。64年、2回目の挑戦で司法試験に合格。この頃からすでに、川村の頭には「国際」というキーワードがあった。

道田信一郎さんという京大の教授がいて、日本の法曹界から初めてアメリカに勉強に行った法学者グループの一人です。国際取引法が専門で、その講義がとても面白かった。進路を決める際に、影響を受けました。「国際的な弁護士になろう」と。50年近くも前のことですから、当時としては夢のような話ですよ。でも僕は、何かやろうと思う時、遠くに夢がないとダメで、目前のことだけを追うというのは気分が乗らない。日に10時間勉強し続けるためには夢が必要だから、今でいう国際弁護士像は重要な指針となったのです。

ちなみに専攻は「国際私法」で、先生は溜池良夫教授。私は今でも“京大溜池会”の会長なんです。

大阪で修習に入り、願書には当然のように渉外弁護士になりたいと書いたのですが、受け皿がない。でも、大阪弁護士会も親切で、それを教えられる弁護士が一人だけいると、和田誠一先生を紹介してくれたのです。日本の渉外弁護士の先駆けであり、のちに最高裁判事も務めた先生です。大阪駅前にあった和田先生の事務所に特別に入れていただいて、僕は希望どおり、渉外的な案件に触れることができたのです。「君の時代には、日本の法律事務所はニューヨークに支店を置くようになるよ」。和田先生のそんな言葉が印象的でした。「僕は5男だから、どこへ行こうと親も気にしませんし、ニューヨークでも大丈夫です」なんて答えたりして。まだ、アメリカの占領下にあるような感覚の時代です。先生が先生なら、僕も僕(笑)。まさに夢の会話でした。今でこそ、法律事務所の海外進出は現実になりましたが、この頃、そんなことは誰も考えていませんでしたよ。

大きな転機となった外弁問題との出合い。活躍の場は世界へ

就職先をどうするか。数少ない渉外事務所を求めて、川村は上京する。そこで門を叩いたのが、当時、準会員系であったアンダーソン・毛利・ラビノウィッツ法律事務所(現アンダーソン・毛利・友常法律事務所)である。採用面接ではラビノウィッツ氏のインタビューもあったが、この時の川村は、「ほとんど聞き取ることができなかった」程度の英語力。それでも、あてずっぽうで自信満々に会話して合格というから、これもまた川村らしい。

僕が入った頃は、もっぱらアメリカやイギリスの日本に対する直接投資案件が多かったですね。2年目早々には、ソニーミュージック(当時CBSソニー)、日本テキサス・インスツルメンツなどといった会社の設立に携わっていました。M&Aなどない時代ですから、政府の方針と調整しながら会社をつくっていくわけです。内外を阻む規制の壁を崩し、新しいビジネスの道を開く仕事に成功してきたことは、自信につながりました。

一方で、学生運動の救援活動や、東大安田講堂事件の弁護などもやっていました。接見に走り回り、膨大な数の逮捕者の保釈申請書を書き⋯。涉外事務所でそんなことをやっている弁護士は、当然いません。ある日、毛利先生がこんなことをおっしゃった。「君が学生弁護をしていることについて、周りがあれこれ言っていることは知っている。だけど、私もラビノウィッツ先生も、イェールのリベラルと呼ばれた人間だから」と。学生弁護をやめろとは言われなかったのです。

事務所には、「英米の大手事務所に負けないクオリティを提供する」という気概があったし、本質的なプロフェッショナリズムを早くに学べたことは幸運でした。生活のために弁護士になったわけじゃない。僕には、時代の流れを見据えて社会に貢献したいという気持ちが常にある。だからこそ、「やるべきだ」と思うことに自由に取り組める環もまた幸運だったのです。

その後、アンダーソン・毛利・友常法律事務所は社会経済国際化のナビゲーターの役割を果たしながら発展しました。今、四大法律事務所の一つに数えてもらっていますが、その中でも国際的なネットワークやリーガル・スキルにおいては、自慢できる名声を築いてきたと思っています。

川村 明

85年、44歳で川村は第二東京弁護士会副会長に就任する。時まさに、日米間の貿易摩擦が深刻化していた頃で、繊維、鉄鋼、自動車などと同様、アメリカは弁護士の市場参入を取り上げ、日本政府に圧力をかけていた。いわゆる「外弁問題」である。川村は、渉外専門の弁護士という立場から、二弁副会長就任と時を同じくして、外弁問題担当の副会長に就く。この巡り合わせはまったくの偶然。だが、ここで外弁問題に深く携わったことが、のちの川村の道筋を定めた。

「弁護士も輸入しろ」。これには我々も驚きました。政府から、規制緩和に関する審議委員会などに呼ばれた際、自動車やリンゴはどの国も同じだけれど、弁護士の中身は国が違えばみな違うと陳弁に務めたものです。翌86年に日弁連の常務理事になった時も、やはり外弁担当に就き、外弁法や関連規則の策定に携わりました。外弁委員会が設置され、外弁法が制定されたのもこの年です。

しかし早々に、USTR(米国通商代表)が外弁法は規制的すぎると、日本政府に5項目の自由化条項を突きつけてきた。外国人弁護士による日本での共同事業の許容や、弁護士雇用禁止の撤廃など、規制緩和が厳しく求められたこの問題は長引き、90年代に入ると、ウルグアイ・ラウンドの多国籍貿易問題にまで格上げされていったのです。ウルグアイ・ラウンド最悪の問題は「日本のコメと弁護士だ」などと責められたものです。

こうなると、日弁連内の妥当な合意でもって問題を解決するレベルではなくなり、日弁連自身がウルグアイ・ラウンド交渉において諸外国を納得させなければならない立場になった。その外交戦術の総仕上げが、93年、スイスのエビアンで行われた三極会議です。日本、アメリカ、EUの弁護士会代表と、各国の外交当局の代表が集まって「弁護士サービス貿易問題」を協議。これが、すごくうまくいった。

日弁連が、外弁法の相互主義原則を取り下げ、WTO加盟国に対しては無差別主義をとるという、外交的には極めて高度な戦術を打ち出したことで、日本のウルグアイ・ラウンド交渉の成功が決まったのです。少なくとも、弁護士が原因でWTO構想が潰れたなんてことは、言われない状況をつくり出した。まさに外交官のような仕事で、非常に面白かったですね。

これは、今だから公言できますが、外弁問題に関わるようになってからずっと、僕の胸には一抹の疑問がありました。「自分たちの言っていることは果たして進歩的と言えるだろうか」と。未熟なマーケットに、巨大な外国ローファームが無秩序に入ってきて、勝手をされるのは防がなければならないが、一定のルールの中で弁護士業の国際化を図るのは悪いことではないのではないか、と。グローバルロイヤーという新しいカテゴリーができてもいいと、当時から思い始めていました。

弁護士国際化に大事なのは、国際弁護士のスキル。それが急速に日本で成長したのは、進出してきた外国のビッグローファームとの競争関係にあります。司法研修所では教えていませんから。外弁問題は紆余曲折ありましたが、日本の弁護士の国際化を進めた点において、産業政策として成功したと、僕は思っています。

弁護士の国際化を生涯のテーマに、さらなる道を切り開く

川村 明

時代の流れを見据えて社会に貢献したい。僕の胸中には、常にその思いがある

エビアン三極会議での働きで、川村は各国法曹界のリーダーたちに広く知られる存在となった。そして次なる大舞台が、98年11月に開会されたパリ・フォーラムである。OECD(経済協力開発機構)全加盟国25の弁護士会と主要国際法律家団体などが集結したこのフォーラムは、「世界の弁護士史に残る会議」となった。この時、川村は共同議長を務めたが、本フォーラムの成功が今日のIBA会長職へと導く起点となったのである。

「今後の国境を超えた弁護士活動はどうあるべきか」。2日間に渡って、非常に有意義な議論ができました。WTOにおけるリーガル・サービス貿易交渉においては、各国の弁護士会の意見が尊重されなければならないという趣旨の共同宣言を発表できたことは、大変な成果でした。

パリ・フォーラムの成功は、次いで、IBAに組織改革をもたらすという副産物を生み出しました。それまで、英米の大ローファーム寄りだったIBAが、会議を境に変わり始めたのです。ヨーロッパの弁護士会の多くは、僕らと同様、当時のIBAに危惧を抱いていたのです。それで圧力のかかったIBAは定款を改定し、「世界弁護士会問題評議会」というのを別途設置したのです。今度はそっちに呼ばれて、初代の議長に選ばれました。僕も嫌いじゃないから(笑)、IBAを弁護士会中心の組織に再編するべく、様々な国の弁護士に持論を説いて回った。それが評価されたようです。そして、ドイツやヨーロッパの弁護士会から推薦を受け、2007年に事務総長の世界選挙に出馬することになったのです。

強力なライバルがいましてね。オーストラリア人弁護士で、彼はコモンロー系弁護士会連合組織が選んだ統一候補でした。この時点でコモンロー系および英語圏の加盟国は全部敵に回ったわけですが、選挙結果は、全投票数の4分の3を集めた僕の圧勝でした。英米ではなく、今まで出てきたことのない「日本人」。そこに、期待と支持をしてくれた各国の弁護士会が数多くあったということです。その後のIBA副会長、会長選挙では対抗馬なしで選任されました。よもや自分が、世界の弁護士のリーダーになるとは思ってもいませんでしたが、これも運命でしょうね。まさしく、僕の生涯テーマとなったのですから。

例えば、世界各地の紛争地域での戦犯裁判への弁護士派遣、司法制度の再建に向けた支援、途上国弁護士会の支援など、IBAの活動は広域に及ぶ。会長任期残り1年、川村は「平和と安定した生活を保障するために、IBAの公益的な役割をさらに押し進める」と語る。加えて胸中にあるのは、日本弁護士の一層の国際化だ。若き日より抱いてきた社会貢献への信念、そして国際的に活動するという夢。それらは今なお、川村の中で強く息づいている。

ここ数年、日本企業の海外進出が本格化しています。昔の海外進出はアメリカでビルを買ったり、オーストラリアでゴルフ場を買うといったバブリーな話でしたが、今はうんと多角化し、実務化して本格的なグローバリゼーションの時代になっています。進出先も、BRICsを超えて、中近東やアフリカなど、「何をどうすればいいのか全然わからない」と思うような国々に、進出しなければならない。このような時代には、多国間、異なる法制度間のインターフェイスのカウンセルができる国際弁護士が必要です。日本の弁護士業界には、古い考えが依然としてあるようだけど、もはやグローバルロイヤーが実際に求められるようになっているのです。そこで必要とされるインターフェイスの技術を、“ローヤリング”と呼んでいますが、それは法律と現実問題を結び付ける能力。そして、国際的な問題を日本の言葉に解きほぐして分析できる国際センス。この力があれば、日本の弁護士の職域は世界に広がるはずです。

僕は、このようなグローバリゼーションの時代が目に見えるようになる前から、アンダーソン・毛利・友常法律事務所の仲間とともに国際弁護士の道を進んできました。大きさはさておき、事務所が国際的に見て遜色ない有力ローファームとして発展してきたことに誇りを感じています。

若い弁護士たちには、もっと海外に出て、仕事をしてほしい。今、サウジアラビアのリヤドとメッカの間で新幹線建設計画が進んでいますが、そうなると、やはり日本の新幹線が一番でしょ。日本企業の技術を導入しようと動いているのに、そこに企業の代理人として立つ日本の弁護士が一人もいない。情けないじゃないですか。外向きの日本経済においては、ちゃんと助言ができれば、世界中に需要があるのです。“Go Global!”そこに必ずチャンスはあると、これからの人たちには提言したいですね。

※本文中敬称略