本好きで聡明な少年。早くから備え持っていた“公益性”への視点
企業法務全般を幅広く手がける太田洋は、なかでも敵対的買収防衛やアクティビスト・ファンド対応を主戦場としている。日本経済新聞社による「企業が選ぶ2020年に活躍した弁護士ランキング」では、M&A分野で1位を獲得。「モノ言う株主」とも呼ばれるアクティビストが日本に台頭した2000年代初頭から対応に当たり、この分野をリードしてきた有数の専門家だ。近年取り扱った主たるものには、東京ドームや東芝機械(現芝浦機械)のアクティビストからの防衛案件、また、日本企業のM&Aで過去最大となった武田薬品工業によるシャイアー社買収案件などがある。ビジネス・ローヤーとして、クライアントの利益追求に最善を尽くすのはもちろんのこと、太田が大切にしているのは「公共の利益のために」という深甚なる思いだ。そのノブレス・オブリージュの精神は、弁護士人生において貫かれている。
化学メーカーに勤めていた父親の仕事の関係で、短期間転地したこともありますが、基本は東京・目黒区育ち、ずっと都会っ子です。小さい頃は喘息持ちで体が弱かったこともあり、完全なインドア派でした。親が買ってきた学研の図鑑や本を読んで日々を過ごすという、まさに本の虫。なので、けっこう早熟な子供だったと思います。
親が教育熱心だったので、いわゆる中学受験をし、中学・高校は筑駒(筑波大学附属駒場)に通いました。高校2年まで続けたのがバレーボールの部活で、弱かった体を鍛えようと思って始めたんです。当時はオリンピックでもメダルを獲るなど、バレーは日本のお家芸的な感じで親しみもありましたしね。ただ、筑駒のバレー部は進学校ゆえに超弱かった(笑)。世田谷区大会ではいつも1回戦で負けるという……。私自身も下手だったけれど、それでもレギュラーを務めたりして、楽しんでいました。
思い返すと、子供の頃に憧れた職業は二つ。一つは造船技師です。多くの男の子がそうであるように、私も戦争ごっことかが好きで、連合艦隊のプラモデルをつくったり、船の設計図を描いたりするのに熱中した時期がありました。第二次世界大戦当時、日本は「大和」という世界最大の戦艦を建造したわけで、今は凋落しているけれど、造船業に対する憧れがあったんですよ。
もう一つは、今につながる法曹界です。これも大戦つながりなのですが、小学生2、3年の頃に読んだ『連合艦隊の最後』(伊藤正徳著)という本の印象が強烈で。日本海軍の活躍と終焉までを記した有名な本で、要するに、日本は無理な戦争をして焼け野原になってしまったと。そして戦後、大戦の惨禍への深い反省に基づいて、戦争放棄や戦力不保持を明記した平和憲法ができたわけですが、それを子供心に「素晴らしい」と思ったのです。加えて、同じ頃に放送されていたテレビドラマ『白い巨塔』を観ていて、医療過誤訴訟で戦う弁護士の姿に憧れ、法律というのはすごいなぁと胸に刺さった。それからずっと弁護士を目指したわけではありませんが、頭のどこかに残っていたのでしょう。
その意味では、私は濃厚な戦後民主主義の影響を受けた世代で、四大公害病などが社会問題となっていた時代の空気に触れて育ってきたことも、今の自分のベースを形成したように思います。
大学は筑駒の規定路線として東大を受験、現役合格を果たす。「完全なる文系」で、数学だけは苦手だったという太田は法学部に進路を取るが、この段階で司法試験を目指していたわけではない。法律を学び始めてからは、“憲法好き”が高じて憲法学者になりたいと考えた時期もあったそうだ。いずれにしても弁護士が射程に入るのは、まだ少し先の話である。
面白そうだと思って入ったのがESSのサークルで、1,2年の頃はかなり熱心に活動していました。日々、部室にいる時間が一番長かったくらい。中高と男子校だったでしょう、それに当時の文Ⅰも圧倒的に男子が多い世界だったから、有り体に言うと、ほかの女子大などとディスカッションするのが楽しみだったんですよ(笑)。
3年になってゼミが取れるようになると、変わらず憲法が好きだった私は、迷わず樋口陽一先生のゼミを選びました。リベラル派の先生の下で学ぶとともに、他大学の著名な法哲学の先生方が講義するセミナー合宿にも参加し、この頃は憲法学者になろうと考えていたのです。ですが、樋口先生を見ていると、その教養の深さたるや……とてつもない。該博な知識に圧倒され、私はこんなすごい人にはなれない、憲法学者は無理だと思うようになった。
一方で、租税法の神様とも呼ばれる金子宏教授から「私のゼミに出てみませんか」と声をかけてもらったことがあり、やはりお世話になりました。そのなか、金子先生からは「大学に残って学者になったら」というお誘いもいただいたのですが、先生方の偉大さを肌身に感じるにつけ、ちょっと無理だなぁと。ただ、何か公共の利益のために働きたいという気持ちはあったので、官僚というのも考えた道の一つでした。でも、それまでずっと試験に明け暮れてきたから、役所に入って出世競争を続けるのはもうしんどい、違うなと思い、その先に浮上したのが司法試験だったというわけです。
下世話な話、今思うと弁護士に対する過大な幻想を持っていたんですよ。イメージとしてはマホガニーの大きな机で仕事をして、平日にはゴルフに行って……みたいな(笑)。質素なサラリーマン家庭で育ったので、華やかな世界への憧れもありましたし。実際はハードな仕事で、平日にゴルフだなんてとんでもない話ですけどね。
司法試験をちゃんと意識したのは大学3年の終わり頃からです。基本的には独学で、仲間と一緒に勉強するというスタイル。途中、少しは予備校にも行きましたが、当時の司法試験は合格者が少なく、予備校には10年くらい勉強しているベテラン組がたくさんいて、あまりいい環境ではなかった気がします。私は2回目、5年生の受験でダメだったら就職しようかと思っていましたが、幸い、合格することができました。
子供の頃に憲法の素晴らしさを知り、一時は「憲法学者になりたい」と考えた
ビジネス・ローヤーとしてスタートを切り、早くから大型案件にも携わる
司法修習時代は自身の希望先の一つだった仙台で過ごした。希望したのは、同地出身の樋口教授との縁から過去に訪れたことがあり、「緑が多くて美しい街」という印象を持っていたからだ。同期14名のうち、半数以上は東京から来ていたらしく、「当時の修習はのどかなもので、下宿組の仲間と酒ばっかり飲んでいました(笑)」。
弁護士希望ではあったけれど、修習を通じてはっきりしたのは、私には検事が向いていないということ。検事にと誘われもしたのですが、優秀な検事の基本条件って、昔も今も“自白が取れること”ですよね。私には、どうもこれが……。
よく覚えているのは、取り調べ修習で扱った覚醒剤取締法違反の一件。検挙された男性は尿検査で覚醒剤反応が出ていたから有罪なのは明らかで、ポイントになったのは、同棲していた女性も共犯か否かです。取り調べに対して男性は「彼女を愛しているから、絶対にクスリなんかやらせない」と訴えるものだから、私は、それはいい話だと信じちゃった。そうしたら、調書を書いた翌日に警察から連絡がきて、当の彼女も尿検査で反応が出たという。いい話だと納得している場合じゃなかった(笑)。全然ウソが見抜けないから、やはり向いていないんですよ。それに、検事の“お客さん”って結局は犯罪者だから、社会正義のためにというやりがいはあっても、毎日犯罪者を相手にするのは、私にはつらいなと。
結果、現在の西村あさひ法律事務所に入ったわけですが、背景には、一つ大きな入所動機となった話があります。大学在学中に西村あさひに事務所訪問する機会があり、その時に聞いた話が「小糸・ピケンズ事件」でした。西村あさひの弁護士らが中心となって、アメリカのグリーンメーラーから大手自動車部品メーカーの小糸製作所を防衛した案件で、この話がすごく面白かった。そして何より、やりがいがありそうな仕事だと心に残ったのです。
実は当時、やるなら企業法務の分野がいいかなとは思いつつ、先述したように、一方で世のため、人のために働きたい気持ちが強かったから、私はちょっと悩ましい状態だったんですね。企業の私益追求に奉仕するだけというのも……と若干の抵抗感があった。でも、小糸・ピケンズの話を聞いて納得したのです。いわゆるハゲタカ投資家から、真面目にものづくりをしている会社と従業員を守るという仕事は、まさに法律の最先端にあるし、ひいては社会貢献につながると。この点が入所動機として大きいですし、加えて、伝統的な法律業務にとらわれないイノベーティブな雰囲気に惹かれ、西村あさひを選んだというわけです。
とりわけ緊張感の高い買収防衛は、大きな意義と醍醐味を与えてくれる
今でいう危機管理やアクティビスト対策は、西村あさひが開拓してきた分野である。その土壌において、太田は早くからM&A案件に携わり、希望に沿ったかたちで弁護士人生をスタートさせた。他方、太田は「好きな税務分野の案件も手がけたい」と声を上げており、アソシエイト時代に、旧日本興業銀行の貸出金償却を巡る巨額税務訴訟を取り扱っている。社会から大きな注目を集めた本事件は、太田自身にとっても“画期を成す”ものとなった。
入所当時は、西村あさひが渉外事務所と呼ばれていた時代で、外国のクライアントがすごく多かった。私も1年目から外資系企業を担当し、ジェネラル・コーポレイトと並行してM&Aの案件にも携わっていました。最初の案件は20億円ほどの事業買収案件だったと記憶しています。今から見れば小さなM&Aですが、この頃はまだ大型M&Aだと興奮するような時代でした。
いわゆる「興銀税務訴訟」を手がけたのは1996年、私が“3年生”の時。概要としては、興銀が住専の日本ハウジングローンに貸し付けていた3760億円の母体行債権を債権放棄し、その債権全額を貸倒損失として損金算入した申告を税務当局が認めなかったという話です。当時の住専問題においては、母体行が率先して債権放棄をすることが政治的命題で、つまりは自ら血を流せと。興銀はそれを受けて率先的に債権放棄をしたのに、後ろから国税に刺された格好になったから、怒って「絶対に争う」となったわけです。
外資系企業の仕事ばかりやっていた私は、やはりどこかで日本の上場会社の仕事をしたいという気持ちがあったのですが、いきなり興銀とは……言うまでもなく当時の大銀行ですからね、奮い立ったものです。
実は、この仕事がきた経緯には、大学時代にお世話になった金子先生が関係しています。先生は興銀の副頭取と大学同期だったらしく、この一件で相談を受けた際、「こういう問題は若くてイキのいい弁護士に頼んだほうがいい」と、岩倉正和弁護士(当時在籍)と私の名を挙げ、推薦してくださったのです。当時、私は20代のアソシエイト、岩倉先生はパートナーになった直後くらいでしょうか。興銀としては、金子先生のお墨付きながら、想定外に若いのが出てきたわけだから、驚くとともに相当戸惑っていました。銀行の存亡がかかっているような大きな訴訟に「大丈夫か?」と思うのは、まぁもっともな話です。
一審の段階では、準備書面の7割方は自分で書いたし、学者の先生方の意見書をまとめるなど、まさに全身全霊を傾けて臨んだ仕事です。流れとしては一審で勝ち、高裁で負け、そして04年に最高裁で勝訴。最高裁が興銀の主張を認めて、追徴課税を取り消す判決を出しました。巨額税務紛争で最高裁が企業勝訴の判断を示したのは異例で、かなり注目された事件です。私自身にとっても大きな転機になったのは間違いなく、何より税務分野の仕事を切り開くことができた。弁護士業を通じて、興銀(最後はみずほFG)にも大きな利益をもたらすことができた経験は、貴重でしたね。
M&A分野のフロントランナーとして、多様な実績を重ねていく
先の興銀税務訴訟中に、太田はハーバード大学ロースクールに留学。帰国後2年間、法務省民事局にて商法改正に携わり、事務所に戻ったのは02年だが、日本でアクティビスト・ファンドが台頭したのは、まさにこの頃だ。はしりは村上ファンドで、追って米系ファンドのスティール・パートナーズが現れ、いずれも日本企業を脅かすようになった。その強圧的な投資手法は、世論や経済界から受け入れられず、“ハゲタカ”と呼ばれていたのは周知のとおりである。太田の戦いはこの時から始まっていた。
日本国内では、2000年に村上ファンドが不動産会社である昭栄に敵対的TOBを仕掛けたのが始まりです。私がアクティビストからの防衛に携わるようになったのは、その少し後あたりから。現在も社外取締役を務めている電気興業がスティール・パートナーズに株式を買い占められ、その対応に当たった件などが最初だと思います。そして、ほぼ同時期に、村上ファンドが当時の大阪証券取引所の株式を買い占めていたなか、米田道生社長(当時)と一緒に村上氏との面談の場にも出たりしていました。
アメリカ留学中にM&Aの歴史を勉強して、明らかだったのは、日本はアメリカの20年遅れを走っているということ。アメリカで敵対的買収が流行ったのは80年代後半だから、日本でもそろそろ隆盛するだろうと予想はしていたのです。なので、事務所に戻ってきた頃に、いずれ敵対的買収やアクティビストが問題になると考え、企業買収防衛に関する論文や書籍を執筆していたのですが、実際には、思っていたより早く問題が顕在化した感があります。
この時期、手がけた案件としてはTBS事件が印象に強いですね。村上ファンドに株式を買い集められていたTBSから依頼を受けたのは05年前後だったでしょうか。当初は“対村上”で動き、次に楽天が出てきたわけですが、この時には、私は参謀的に携わりました。
楽天の場合はいわゆる経営統合提案で、彼らの提案としては、TBSと共同持株会社をつくり、放送と通信事業を展開させるというもの。その少し前に、ニッポン放送株を巡るライブドアとフジテレビの騒動があり、ライブドアが批判を受けた記憶がまだ新しい中での買収劇でした。構図としては同じでしたから、結果として楽天は敵対的買収の強行で社会的イメージや株価を落とし、買収計画は失敗に終わったのです。TBS対楽天の株式買取請求権訴訟においても勝訴で、TBSはさほど多額のキャッシュを使わず株式を引き取れたので、非常にいいかたちで決着できたと思っています。
以降、太田はM&A分野のフロントランナーとして立て続けに案件を手がけてきた。事業買収、統合、資本業務提携案件など、その実績は実に豊富だ。当然のことながら、案件にはそれぞれに難しさがあり、限られた期間内で大量の業務を遂行しなければならないM&A業務はハードだが、太田はやはり、とりわけ緊張感の高い敵対的買収防衛やアクティビスト対応に「醍醐味を感じる」と言う。
私はよく、アメリカの人気ドラマシリーズ『24-TWENTY FOUR』を例に出して話をするのですが、買収防衛はあの世界と似ているんです。主人公のジャック・バウワーって、あと3秒遅かったら死んでいるという事態の連続じゃないですか。ドラマだとわかっていてもハラハラする(笑)。でも、何事も3秒先んじて手を打っているから、彼はすんでのところで命を救われているわけです。
買収防衛も基本的には同じで、防衛の成否を分けるポイントは「いかに時間を稼ぐか」に尽きます。買収側も当然勝算があって敵対的買収に乗り出すわけですから、会社を絶対的に防衛できる方法など、ないことのほうが多いんですよ。でも、手を打ちながらうまく時間を稼いでいると、風が変わってくるのです。まさにTBS対楽天の件もそう。時間を稼いでいれば、筋の通らないことをやっている側は、そのうち自滅していくという話です。もちろん、その間は打ち手が遅いと先にやられてしまうので、瞬間、瞬間の判断は非常に難しいし、通常のM&Aとは違った特有の緊張感があります。会社にとっては浮沈がかかっているわけですから。でも、だからこそ、防衛に成功した時は大きな達成感や醍醐味を得られるように思うのです。
その意味で、最も“きれいなかたち”で終えられた買収防衛案件は、最近の東芝機械ですね。昨年4月に社名を変更し、芝浦機械として新たなスタートを切る直前に、旧村上ファンド系の投資会社にTOBを仕掛けられ、その防衛に入った案件です。
この時は、買収防衛策を発動したことによって、村上氏側から数百億円分の自社株買いを要求されたのですが、結果は作戦勝ちで、株を引き取るということはまったくなし。最後は村上氏がTOBを断念して、それまで買い集めていた15%ほどの株式は市場で売却、撤収していきました。会社の財務はいっさいダメージを受けなかったから、無傷の勝利です。いわば完全勝利で、このケースのように、クライアントに負担をかけないで防衛を果たすというのが、理想的なかたちですね。事業の拡大であるとか、従業員や一般株主への還元であるとか、会社が本来使うべきところのお金に手を付けずに勝つ。それが一番きれいな勝ち方だと考えています。
先述した税務訴訟もそうですが、クライアントの利益に直接貢献できる、それが目に見えるというのは、これもまたやりがいの一つです。通常のM&Aでも、一朝一夕にはいかない道を進む難しさ、面白さはあるけれど、契約書や規程類を作成したからといって、それが会社の利益に直結するという話ではないですからね。自分の仕事が何かしら直接的に貢献したという手応えを得て、そして、会社の皆さんに感謝されると、やはり弁護士冥利に尽きるものです。
常に持ち続けてきたのは、公共の利益のために働きたいという思い
ノブレス・オブリージュの精神を胸に、前線を走り続ける
実績を重ねてきたなか、太田にも苦い経験となった事件はある。時期は遡るが、05年に手がけた「ニレコ事件」だ。計測機器などを製造するニレコが、敵対的買収に対する防衛策の一つ、ポイズン・ピルの本格導入を発表したのは同年3月。ポイズン・ピルはアメリカで発明され、80年代に多くのアメリカ企業が採用した買収防衛策だが、日本ではこのニレコが“第1号”である。結果的には訴訟となり、導入差し止めとなったが、我が国における防衛策の法的設計の在り方を問うた点で、大きな意味を持つ案件となった。
ご存じのように、ポイズン・ピルは、新株予約権の無償割当を実施することで相手企業からの買収を阻止する防衛策の一つです。日本で採用される以前から、私は、アメリカにおけるポイズン・ピルの進化や実務の動向に関する論文を書いたりしていたので、それもあり、日本で初めて導入した本件に携わることになりました。
ニレコの場合は、1株に対して2個の新株予約権を発行し、持株比率20%以上の株主が現れた際に権利を発動できるようにするものでした。ところが、その導入発表に対して、ニレコの大株主である投資ファンドが株式の希薄化を恐れて、新株予約権の発行差止の訴えを起こしてきた。日本では第1号案件ですから、裁判所がどういう判断をするのか皆目わからない状態での戦いです。新株予約権発行差止仮処分の申し立てを受けてから、準備書面を2日に1回出すようなハードな戦いでけっこう頑張ったんですけど、結局、勝てず。ポイズン・ピルは撤回することになりました。
ニレコの皆さま方からは「会社が有名になってよかった」とは言っていただいたものの、それなりにコストもかかりましたし、今でも本当に申し訳ない結果だったと思っています。当時としては、「日本でもポイズン・ピルができる」「米国の実務を日本に置き換えるとこうなる」を示したかったのですが……裁判に負けたのは私の大きな挫折です。ただ、この件を通じて、日本の裁判所の買収防衛策への考え方、取締役会に対する信頼の度合いなど、基本的な発想がわかりました。日本とアメリカの会社法は構造的には同じだけれど、買収防衛策については見方が違う。それがわかれば次に生かせますから、こういった視点は大事にするようにしています。
クライアントの本来の要望に最もフィットするのは何かを考え、それを実現すべく法的な観点から最善を尽くす。この時、場合によっては勝負に出たほうがいいケースもあるわけで、極論すれば「負けを恐れない」ことも大事だと思います。例えば裁判全勝だとか、弁護士としての成績やイメージにこだわっていると、決してクライアントのためにはなりません。それに、負けを恐れていたら、日本の法律実務は前に進まない。より進歩・高度化させて、長期的に見ると国民全体の利益にかなっている状態に近づけていく――私はその一助となりたいと願い、ここまでやってきたつもりです。
M&Aに関するニュースは日常的となり、近年、日本企業がかかわったM&Aの件数は過去最多を更新中だ。企業に積極的に提案する「モノ言う株主」も、主要国の金融緩和政策による金余りを背景に投資先への攻勢を一段と強めており、太田の日々は多忙を極めている。そのなかにあって、太田が変わらず持ち続けているのはノブレス・オブリージュの精神であり、それが活動の源泉となっている。
なかには企業の価値向上や株主にとっての利益に大きな役割を果たすケースもあるので、すべての敵対的買収、アクティビスト活動が悪いとは思っていませんが、昨今は明らかなバブルというか、金余りでマネーゲームの様相を呈しています。行き場を失った資金がアクティビスト・ファンドに流れ込み、これから一層動きが活発になるでしょう。
企業の買収防衛をずっとやってきて、違和感があるのは「会社は株主のもの」という論です。その点で、濫用的買収者などは、乱暴な表現をすれば「あんたの会社のお金は俺のもの」と言うわけですが、その点は疑問です。株主ファーストだから、そういう発想になる。もちろん株主は重要な利害関係者ですが、ステークホルダーの一人にすぎません。会社には働く人がいるし、もとより、会社は社会的な存在なのですから、今でいうSDGsに反したことをすれば永続できません。
「お金がすべて」的な拝金主義が、広い意味で格差社会につながっているのではないでしょうか。事実、GAFAだけが富み栄え、現在世界中で貧富の差が広がっています。私自身が高度経済成長期の申し子のような世代で、“一億総中流”といわれた時代に育ってきましたから、今の格差で分断された社会は健全でないと感じるのです。このまま競争を煽るだけでいいのかと。資本主義は放っておくと暴走するので、うまく「皆がほどほどに」となるのがいい。超お金持ちもいないけれど、超貧しい人もいない、そして多くの人々が夢を持てた一億総中流というのは、戦後の一時期に達成できた輝かしい社会です。あのようになるのが一番いいんじゃないかと思いますね。
世界平和まで語る気はないけれど、私はずっと、自分の役割は日本の社会がよくなる方向に進むよう貢献することだと考えてきました。ノブレス・オブリージュというと上から目線に聞こえるかもしれませんが、けっこう本気なんですよ。というのも、私は一貫して公立、国立の学校で学び、司法修習期間も含め、多額な国費に助けられてきた。教育のおかげでそれなりに活躍できる場があるのだから、それを自分のためだけに使うわけにはいきません。その点で、25年以上やってきた弁護士は、社会の役に立ちたいという私の志に合っている職業だと確信しています。もちろん、志は人それぞれでいい。大切なのは、目先の流行にとらわれて右往左往するのではなく、志を高く持ち続けること。自分は何をしたいか――自己実現についてもサステナブルの概念はあると思うので、若い方には揺らがない志を大切にしてほしいですね。
※取材に際しては撮影時のみマスクを外していただきました。