Vol.26
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紀藤 正樹

HUMAN HISTORY

ほかの弁護士ができない領域をやる。それが、僕の基本。誰かがやらなければ、社会は変わっていかないから

リンク総合法律事務所
弁護士

紀藤 正樹

管理教育への反骨が、弁護士を目指すきっかけに

紀藤 正樹

悪徳商法やカルト集団による被害者救済で、その名を広く知られる紀藤正樹。統一協会、ホームオブハート、オウム真理教、法の華三法行などといった、社会を騒がせてきた宗教被害のほとんどにおいて、精力的な活動を続けている。なかでも統一協会は、20年以上にわたる取り組みで、紀藤のライフワークとなっている。結審によってひとつの解決を見せる一般の民事事件や刑事事件とは違い、人権救済のための戦いは果てしなく続く。費やす時間と労力は膨大なものとなり、身の危険とも背中合わせだ。それでも紀藤は、いとわず、事象の淵源につめ寄るような仕事をする。心の真ん中にあるのは「人権」だ。その原体験は、生まれ故郷の山口県宇部市で過ごした少年時代にある。

海も山も近くて、宇部は自然に恵まれたところですけど、田舎ですから、とにかく情報が乏しい町なんですよ。子供の頃は、コンサートや絵画展なんかもなくて、文化に触れる機会もなかった。だから「もっと知りたい」と思っても、すぐ限界になってしまう……知識欲が旺盛だった僕にとっては苦痛で、抜け出したい町だったのです。

それと、当時の僕は両親との関係もうまくいかず、家を出たいという思いもありました。実は紀藤家というのは宇部では名家で、苦労を知らずに育った親父は、いわゆる「武士は食わねど高楊枝」。出世欲も金銭欲もない人で、生計を立てていたのは、今も茶道教授をしている母です。分家して、母の収入だけでやっていたから貧乏だったし、ほとんどかまわれずに育ったわけです。だからなのか、自我意識が強かったというか、世間から見れば、僕は変わった子だったんですよ。

例えば、小学校の国語の時間。教科書をみんなで声をそろえて読む時、会話体が出てくると、僕だけは、その話者に合わせて声色を変えて読み上げる。それらしくね。すると、先生から叱られた。「遊び半分でやるな!」って。そんな調子だから成績もよくなかった。小学校は、いわゆるABCの相対評価だったのですが、一定の枠にはまらない僕の評価は悪い。オールAの子はたくさんいたのに。自分はダメなんだと思っていました。

それが、進学してから話が変わった。中学校では絶対評価。実力試験を受けると、成績がいい。むしろオールAだった同級生たちのほうが成績が悪く、そのギャップに本人が驚いた。「宇部から脱出したかった」紀藤は、中学を卒業したら家を出て働くつもりだったが、受験という腕試しをしたくなった。どうせならと、絞った先は地元一の進学校、県立宇部高等学校。結果はもちろん合格だ。だが、ここで紀藤は、息苦しい学生生活を送ることになる。

進学校でしょ。成績のいい学生が集まっているわけですから、僕の成績は見事に中盤まで落ちました。中学の時は井の中の蛙だったんですよ。それで勉強しなきゃと思ったのですが、授業だけでは時間が足りない。勢い、高1の夏からは、あまり学校に行かなくなりました。図書館に行って、自分で勉強していたんです。特に苦手な教科は、授業を1時間聞いているよりも自分でやったほうが早い。遅刻や欠席が増えて、ちゃんと学校に行った日は年間で3分の2ぐらいですよ。面白い授業には出ていましたけど(笑)

そんなわけで校則もイヤで、ある時、規則の学帽を被っていないのを先生に見とがめられて、いきなり思いっきり頭を殴られたのです。実は、中学生の時にも似たような業腹な一件があって、心にずっとあったものだから、この時は「教育委員会に訴えますよ」という言葉が口をついて出た。それ以降、僕に何か言う先生はいなくなりました。図書館に行くために遅刻や欠席をしても注意されなくなり、僕としてはよかったのですが……。

ちょっと、伸び伸びとやりすぎました。僕は、全校生徒が集まる朝礼に出ないようになり、その時間は、校内の先生には見つからない場所で、友だちとおしゃべりですよ。それが段々広まって、3年生になった頃には、そこに大勢の学生が集まるようになっていました。さすがに大問題となって、僕は首謀者扱い。でも「何で出ないんだ」と聞かれても、「出たくないから」としか言いようがなくて。

管理教育に窒息しそうでした。なぜ人間にはルールが必要なのか――。そう考えるようになった時、そのルールを形成する背景には法律があると思ったのです。それは、自分にとっての“敵”。ならば、敵をよく知って、逆に武器にして自分の権利を守ろうと。法律を学び弁護士になろうと思ったのは、そんな極めて利己的な理由だったのです。法律やルールは誰にも等しく中立にかかり、自分を守るためにあるものは、同時に人を守るためにもある。そういう考え方になったのは、大学に入ってからでした。

27歳で司法試験合格。新人弁護士時代から、凄まじく働き始める

紀藤 正樹

「絶対に法学部に入りたい」。家の経済状況があったから国立狙いである。確実な合格を考えて大阪大学を選び、早稲田大学と慶應義塾大学にも合格したが、結果、阪大に進んだ。こうして紀藤は新しいフィールドに立つ。当時の司法試験は、今に比べ格段に難しく、合格者は年間500人以下。「合格はくじ引きだ」といわれる時代だった。

お金がなかったので予備校には行かず、基本的に独学です。でも、僕は高校の時から独学をしていたわけですから、性には合っていましたね。大学3年から司法試験を受け始めて、4年の時に短答式を取れたのですが、翌年がダメ。それで、阪大の大学院に進学したのです。最初は奨学金目当てで。月に6万円ほどもらえたので、何とか生活できたんです。アルバイトをしながらでは、勉強が続けられませんから。

大学院時代の勉強はとても面白かったし、有意義でした。それまで憲法、民法、刑法とバラバラに勉強していたのですが、ここで、全部の法律が有機的につながっていることが理解できた。それに、大学院の勉強はやはり高度で、ひとつの事象について深く掘り下げる学び方が、“知識オタク”の僕にはたまらなかった(笑)。とりわけ、今では憲法学の権威となった松井茂記先生との議論が面白かったですね。当時、先生はスタンフォードから戻ってきたばかりで、僕と年齢的にも近かったし、一時期は学者になろうかと思うくらい影響を受けました。ただ、やっぱり現場を見たいという気持ちが先にあったので、実務に進んだんですけど。

僕は本当に知識オタクで、本や新聞が読めない、テレビが見られない状態になるのがすごくつらい。今はネットがあるけれど、昔は海外に行くことさえ苦痛で。受かるはずだったタイミングの司法試験に落ちたのも、これが原因ですよ。だから合格する数年前から、試験の前になると、テレビを押し入れにしまい込んで断絶していました(笑)。

87年、27歳の時に司法試験に合格。大阪で修習していたが、同期生の紹介で、紀藤は東京にある紀尾井町法律事務所を訪れる機会を得る。人権活動をすることが弁護士になった目的だから、ビジネスロー系の事務所に入る気はもとからない。個性的なサムライが集まっていて、基本スタンスが人権派である紀尾井町は、紀藤の感覚に合致した。「ずっと働きたくて仕方がなかった」紀藤は、やっとその一歩を踏み出したのである。

人権活動はもちろんですけど、一般の消費者被害や悪徳商法など、最初のうちは、仕事の好き嫌いを考えず、とにかく来る仕事をすべて引き受けました。1年目で休んだのは2日だけ。以降も、ずっとそんな調子でした。もともと15歳くらいで就職したかった人間が、実際に仕事を始めたのは29歳でしょ。僕としては出遅れ感があったから、普通の弁護士よりは働いた自負があります。家との往復時間がもったいなくて、週の半分は事務所に泊まり込み。当時は強い反権力意識もあったし、働き方からして、僕はエキセントリックに見えていたと思いますよ。

ある弁護団で年に1回、温泉に行って会議をするという場があったんですけど、僕は、大先輩である先生に反対したんです。「東京でできるものを、何でわざわざ熱海まで行ってやるんだ。移動時間がもったいない」と。「お前は懇親的精神がない。社会というのは、そういうものじゃない」って言われたものです。今は、わかりますよ。だいぶ丸くなりましたから(笑)。

新人の頃で強く印象に残っているのは、当時5歳くらいの女の子が崖から落ちた事件です。意識不明の重態で寝たきりになってしまって、ご両親が崖の所有者を訴えた。僕は所有者側です。証人尋問の時に、一緒に遊んでいた子供を尋問したのですが、その子が「危ないから、端まで行くのはやめようよと言った」と証言したことで、結果的に所有者の責任は認められなかった。でも、複雑な気持ちでしたね。これが国家賠償の事案だとしても五分五分。私有物の事件としては過去に例がなかったし、法的にはまず勝てないけれど、それでも訴えたいというご両親の気持ちがわかる⋯⋯そんな事件でした。

様々な事件や人権活動に取り組むうちに、人間の悩みや苦しみの深さを知るようになりました。そして、弁護士自身も苦しまなければ、溺れている人を助けられないということも。

社会を動かし、変えていくことが人権活動を成就させる

紀藤 正樹

様々な人権活動に取り組むうち、人間の苦悩の深さを知るようになった

弁護士登録をしてすぐ、初めて霊感商法問題に取り組んだ時、「世の中には、極悪非道の人間が本当にいる」ということに驚かされた。あまりのひどさに正義感にかられた紀藤は、その被害者の救済に奔走するようになる。活動を続けるなか、統一協会を脱会した信者たちと交流を持つようになるのだが、これが、のちのスタンスを決定づける最大の転機となった。

元信者の話を聞いているうちに、彼らが驚くほど純粋で善良であることがわかってきました。そんな人々が統一協会に入って、“大悪人”みたいなことをするようになる。平気で嘘をつき、家族を捨て、市民から財産を奪う。ところが彼らは、それは相手のため、幸せにつながることだと思い込まされている。決して、利己的な理由で霊感商法をしているわけではないのです。悪徳商法のように、簡単に「正対悪」の図式で割り切れない複雑さ。信者たちは加害者であると同時に、マインドコントロールの被害者でもある。そして、本当に悪い人間はその上にいる――。ここから、こうした巨悪と戦うことが、僕のライフワークとなったのです。

91年、東京で初めて伝道の違法性を問う裁判で記者会見を開いた時、「これは、マインドコントロールの違法性を問うもの」という僕の言葉に、記者たちの反応は、「この弁護士、何言ってるの?」でした。ひどく白々しい空気だったのを覚えています。当時はSFの世界だったんですよ。日本には判例も文献もなく、本当に大変でした。93年の4月、元新体操オリンピック選手の山崎浩子さんが統一協会からの脱会記者会見を開き、マインドコントロールという言葉を使ったことで、ようやく「現実にあり得るかもしれない」という認識になり、流行語にもなった。

そして、95年のオウム真理教事件で、単なる流行語から、カルトの悲劇を繰り返さないための重要なキーワードになったのです。松本智津夫が地下鉄サリン事件で起訴された際、当時の東京地検の次席検事、のちに最高裁判事となった甲斐中辰夫弁護士が、「マインドコントロールされた信者たちから自白を得るのは大変だった」と述懷したことは、象徴的な出来事でした。司法関係者がこの言葉を使い始め、やっと法律用語レベルになったというわけです。

マインドコントロールの考え方が日本で定着するのには時間を要したが、この手法に違法性があることは、2000年以降、数々の裁判所で認められてきた。すでに最高裁の判例も出ている。裁判だけでなく、水面下においても膨大な時間と精神的エネルギーを注いできた、紀藤ら弁護士の功績は大きい。紀藤は、こう表現する。「僕は、弁護士業に出家したようなもの」だと。

霊感商法に限らず人権活動の多くは、裁判で勝つだけですべてを網羅できるわけではありません。被害者のケア、政治家との折衝、社会への働きかけ、そういった周辺の仕事はとても重要で、一貫して取り組んできたことです。

例えばマスコミ取材において、被害者を紹介するとか、テレビに出てもらうよう説得しますよね。説得するためには、当然、相当な信頼関係がないと無理です。マスコミが1時間取材するとしたら、事前に100時間の打ち合わせが必要になるような感覚ですよ。あるいは、事実の聞き取り作業に1年かけることだってある。表に出ないこういう裏方仕事は、お金になりませんが⋯⋯。でも、こういった活動が国民世論を形成していくのです。僕が始めた頃より、カルトが確実に小粒になってきたのは、国家的規制ではなく、社会的規制が強くなってきたからです。多くの人が問題を認識し、社会の目が厳しくなることが重要なのです。

根絶はできません。できないことは必ずあるわけで、それを「できる」と思うこと自体がおかしい。根絶する、あるいは殺人犯や犯罪者をなくす、そういう発想を持った瞬間から、それは頭がカルト化しているということ。すべては程度問題でしかありません。ただ、被害者を少なくすることはできるし、被害者が出たとしても、制度設計さえよければ、心のケアや財産的なものの回復もできるんです。

僕は、弁護士の世界に出家したようなものだと思っています。被害者にとことんコミットしていくというのは、苦しい仕事ですよ。「もともとお金にならない仕事なのに」と、僕に言う人もいます。でも全力を尽くすと、依頼者は「申し訳ない」くらいに思ってくれる。考えてみれば、ボランティアがお金になっているのです。市民ならそうはいきませんが、弁護士がボランティアをすると、「せめて経費だけでも」と言ってくれますから(笑)。ほかの弁護士ができない領域をやるというのが、僕の基本。できないということは、誰かがやらなければならない。だって、それをしなければ、社会は変わっていかないじゃないですか。

次なる領域へ。新しい組織づくりに向けて、さらなる挑戦は続く

紀藤 正樹

紀藤が独立し、リンク総合法律事務所を開設したのは2001年9月。一人で始めた事務所は、現在、弁護士と事務員がそれぞれ10名在籍する。紀藤が少しずつ集めてきた、共に戦っていける同志たちだ。常時動いている案件数はざっと400。弁護団活動も含めた被害者数でいえば優に万を超え、その救済活動は多忙を極めている。人権活動だけでなく、あらゆるタイプの消費者被害、一般の事件、企業事件も幅広く扱っているが、その基軸にあるのは、市民側に立つということ。ここに、濁りはない。

大量な被害者が出るような一人では手に負えない事件を、人海戦術で戦っていくために、同じ意識を持った弁護士をそろえたいと思ったのです。同じ意識とはどういうことか。それは「金銭的ではないつながり」で、一緒にやらないと溺れている人の救済はできないという感覚です。それに、我々が扱うような事件は、常に身の危険がつきまとう。実際、いやがらせ、業務妨害、懲戒や賠償請求、すべて受けているんですから。利益ではないところに信義がなければ、戦えません。

ビジネスローの場合、ベクトルが逆で、事務所の看板力とか、組んでいないと大きな案件がこないとか、そういう発想だと思います。つまりは、利益で結び付いている。だから、弁護士が100人を超えるような事務所ができるわけです。他方、人権派の事務所は多くても20人程度までだし、そもそも一匹狼的な弁護士が多い。それぞれ役割ですから、いい悪いの話ではありません。ただ、僕らのような人権側、市民側の領域にも、そういう大型の事務所があってもおかしくないと思っているので、どこまでいけるか、挑戦と努力をしているところなんです。人数が増えると、強くなる面と弱くなる面があって、そのせめぎ合いではあるのですが、自分基準ではなく、依頼者基準に立ち続ければ分裂はしないでしょう。これは、僕自身にとっても興味深い実験なのです。

紀藤 正樹

10年の2月、ホームオブハート側を裁判で訴えてきた被害者5名の事件が勝訴的和解をした。今後も救済活動は続くが、紀藤にとって、ひとつの区切りとなった。そして、同年4月、第二東京弁護士会の消費者問題対策委員会の委員長に就任。追って6月には、同委員会の消費者行政部会の担当副委員長にも就き、仕事内容が変わってきた。伴って、やりたいことをすべて抑えてきた“出家生活”にも変化が訪れた。

ホームオブハート事件に一定の決着がついた頃から、自分のための時間も取るようになって、最近は映画も観るようになったんです。DVDはいいですよ。英語のシャワーを浴びるのに、すごくいい。毎年、国際会議に出ているので、英語理解力を高めるために様々な方法を試したんですけど、どれも長続きしないんですよ。でも、映画なら台本が練られていて面白いし、犯罪の場面だとか、日常では遭遇しないような現場の英語に触れることもできる。リラックスと勉強を兼ねているわけです。結局、僕のベースは、情報や知識の収集にあるんですね。

でも、事務所の若い先生たちにいつも言っているのは、どんな知識でも、弁護士にとって役に立たない知識はないということ。リアルな体験でなくても疑似体験でいい。その点で、弁護士は事件をやればあらゆる疑似体験ができるでしょ。殺人犯から上場企業の社長まで、その心情を疑似体験できる。こんな特異な職業はないですよ。かつ、人として向き合えるということ。裁判官や検事のように、相手との間に上下関係がないから純粋に向き合える。社会を知るうえで“特等席”に就いたようなものです。だから仕事をすればするほど、体験が増えていく。とりわけ若い弁護士にとっては重要なことです。それが、あとになって必ず生きてきますから。

※本文中敬称略