Vol.53
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弁護士 迫本 淳一

HUMAN HISTORY

柔軟な発想に立てば、社会的紛争解決だけでなく、もっと様々なことに挑戦できる。それが、弁護士という職業における最大のメリットである

松竹株式会社 代表取締役社長
弁護士

迫本 淳一

腕白でスポーツ万能。少年の頃からリーダーシップを発揮

迫本淳一は、日本ではまだ数少ない弁護士資格を有する上場企業の社長だ。国際弁護士として道を歩んでいた迫本が、松竹の経営者へと転身を図ったのは45歳の時。同社の前会長、永山武臣氏から熱心な誘いを受けてのことである。しかしそれは、当時厳しい財務状況にあった松竹の立て直しに白羽の矢が立った格好でもあったから、決してラクな道ではなかった。それでも迫本は、得意なスポーツを通じて培ってきた克己心を発揮し、今日に至る強い組織を築き上げた。「弱いものを、みんなの力で強くしていくのが何より好きなのです」。リーダーたる迫本の生き方は、この言葉に集約されている。

幼稚舎から大学まで、僕はずっと慶應義塾で過ごしたんですけど、そもそもは親に推されてのこと。両親とも国立大学の受験に失敗したらしく、「息子には受験の苦労をさせたくない」と考えたようです。いわゆるガキ大将タイプで、遊んでばかりいた僕にすれば、お受験など性に合わなかったのですが……。でも今にすれば、「独立自尊」の精神をベースにした慶應の教育から受けた影響は大きく、生涯にわたる友人や仲間を得ることもできたから、いい学生時代を送れたと感謝しています。

弁護士 迫本 淳一
本取材および撮影は、松竹株式会社が本社を構える東劇ビル、同社が保有・運営するGINZA KABUKIZA(歌舞伎座と歌舞伎座タワーの総称)、木挽町広場、築地松竹ビル(銀座松竹スクエア)で行われた

スポーツが大好きで、大学生になるまではもろ体育会系。幼稚舎時代からラグビーと水泳を始め、力をつけていったのですが、ラグビーだけは、親から「お前の性格からすると、そのうち大怪我をする」と反対されまして。続けた水泳では、6年生の時に幼稚舎の新記録を出したんですよ。50m自由形で36秒7。いまだに覚えています。普通部に進んでからは、水泳部とスイミングスクールとの両方で練習を重ね、2年生の学年別大会では、競泳100m自由形で、当時の神奈川県学年新記録を更新しました。先生や大学生からもすごく期待されて、中学生ながら水泳の早慶戦にも公式出場させてもらった。慶應始まって以来のことだったし、僕としては本気で「オリンピックに行きたい」と考えるようになっていました。ところが、途中で医者から「心臓肥大かスポーツ心臓のどちらかかもしれない」と言われ、結局は、水泳をやめてしまったんです。

それでスッパリ切り替えて、高校に入ってから始めたのがハンドボール。なぜ選んだかというと、慶應ではメジャーじゃなかったから。性分なのか、メジャー感をバリバリ出して肩で風切って歩いているようなヤツには、なぜか反発したくなる(笑)。裏を返せば、弱い人や困っている人をサポートしたいという思いが常にあって、そのほうが僕の性には合っているんですよ。

実際、慶應義塾高校のハンドボール部は「めちゃくちゃ弱かった」らしく、2年の時に臨んだ公式戦では、1引き分け全敗という悪成績。翌年からキャプテンを務めた迫本は、それを強いチームへと牽引し、結果、神奈川県大会での優勝、部として慶應初となったインターハイ出場を果たしている。

途中から、ハンドボールにすごく強い田中明先生に顧問についていただき、先生の指導の下、そりゃもうすさまじい練習をしました。実践も積もうということで、強豪校相手に片っ端から練習試合を申し込みましてね。なかでも印象深いのは、全国レベルの実力を誇る中央大の付属高校。試合に赴いた際、向こうの先生が選手たちを鼓舞するために、頬をパンパン引っぱたいているのを見て、僕らは怖じ気づいたものです。慶應の連中なんて、親にも叩かれたことがないようなヤツばかりだから。案の定、ダブルスコアで圧倒的に負けたのですが、試合後、意外なことにその先生から「けっこういい線いってるじゃないか」と。「東京都で、うちのチームから半分得点を取れるところはないから」と言われたのです。それから度々、練習にも行くようになり、切磋琢磨させてもらったのです。

インターハイは、2回戦で惜敗の結果に終わりました。前半リードして折り返したのに、僕がラフなディフェンスで2回退場を食らってしまい……逆転の1点差負け。悔しかったですねぇ。「何で退場になるようなことをしたんだ」と、仲間からずっと言われ続けていますよ(笑)。でも、このある種の成功体験は大きい。弱小チームであっても、あきらめず、懸命に努力し続ければ、何事も乗り越えられるという自信と克己心を得ることができたから。

この頃に描いていた将来像は、いずれ海外のビジネススクールに留学して、国際舞台で仕事をすることでした。『五番街の日章旗|ソニーの海外戦略』という本を読んだのをきっかけに、世界的なビジネスに強い興味と憧れを持つようになったのです。それと幼稚舎時代の先生から、いつも「日本人は世界から理解されていない。君たちはどんどん外へ出ていけ」みたいな話を聞かされていたから、その影響もあったのでしょう。ビジネスを通じて、日本人の素晴らしさをアピールしたいという思いが、僕にはずっとあったのです。

大学時代からは、語学と学業に専念。目指したのは国際舞台

弁護士 迫本 淳一

その将来像に向けて、大学は経済学部に進学。「違う方向に行く」とひとたび決めると、迫本は意志の強さを発揮する。スポーツを完全にやめ、最初の2年間は、英会話スクールに毎晩通いながら徹底的に学んだ。その力量については、「英語が全然できない人が聞けば、流暢な英語だと思える程度」と本人は謙遜するが、学生の多くが一番遊びたい時期に、迫本は語学と学業に専念したのである。

3年からは、当時、最も厳しいとされていた加藤寛教授のゼミに所属しました。社会主義計画経済と、自由主義の市場経済の融合点をどこに求め、どう調和させるべきか――というのがゼミのテーマで、これに触れたことは、現在の経営においても役立っていると感じています。例えば中央集権か分権か、トップダウンかボトムアップかなど、組織運営のあり方を考えるうえで、基盤になっているところがあるので。

海外の名門ビジネススクールで学びたいという気持ちは変わらず、目標にしていたのですが、学部卒でいきなり行くのは難しいでしょ。考えたのは、まずは資格を取ろうと。ここでようやく弁護士という職業が出てくる(笑)。法律に興味があったというより、弁護士資格をステップにして、ビジネスの国際舞台に立ちたいと考えたわけです。それで、経済学部を卒業した後に、法学部3年に学士入学したのです。

司法試験に向けて本格的な勉強を始めたのは、再度卒業して数年経ってから。結婚したばかりで生活のこともあるから、不動産賃貸業を主とする松竹映画劇場という会社に就職し、働きながらの受験勉強です。ところが、この時代が長く続きまして……考えていた踏み台を得るのに、つまり司法試験に合格するまでに10年かかっちゃった。

早々に択一に受かり、なまじ論文試験の成績もよかったものだから、楽勝だと甘く見たのがいけなかった。択一に受かると論文で落ち、またその逆もありという繰り返し。次第に、周囲の視線も「あいつは何やってんだ」という感じになって。それまで負け知らずのように歩んできた人生が、まるで逆転したようで、さすがの僕も苦しかったですね。母親は「せっかく受験のない世界に入れたのに、何で好んで難しい司法試験を」と嘆くし。それでも、父親やかみさんが応援してくれたので、ぐれずに済んだ(笑)。今思えば、途中で撤退する勇気も必要だったかもしれないけど、当時の僕には、それは〝逃げ〟にしか思えなかったのです。やっと合格したのは37歳の時。時間はかかったけれど、乗り越えるという経験をまた一つ、得ることができたのは確かです。

司法修習生としては遅まきながらのスタートだったが、弁護士、検事、いずれの実務修習も成績はよかった。迫本にすれば、すでに10年社会を見てきたから、修習時代は「楽しかったといえば楽しかったけれど、退屈でもあった」と笑う。だが、この時代に迫本は、後に松竹の永山会長から「うちに」と請われる布石になるような活動をしていたのである。

弁護実務修習の担当教官は、あの敏腕の久保利英明弁護士で、先生のカバン持ちをしていたんですよ。とはいえ40歳前でしょう、僕はわりに押し出しの強いタイプに見られることもあって、「総会屋対策用に雇った用心棒」なんて冷やかされたものです(笑)。

スタートが遅かったぶん、何かで取り戻そうと活動を始めたのが、実業家をゲストに呼んで、修習生たちに話をしてもらうという会。「将来、弁護士や検事、裁判官になる人たちに、ぜひ刺激になるようなビジネスの話を」と。“人を知る”ことも、法曹にとっては大切ですから。錚々たる方々に来ていただいたのですが、永山会長もそのお一人でした。

実は、昔からお付き合いはあったのです。映画プロデューサーとして、松竹映画の黄金期を切り開いた城戸四郎は、僕の母方の祖父で、その関係からのご縁です。そういう会を組織するなかで、永山会長は僕のオーガナイズの仕方とか、人との付き合い方などを見ていらしたのだと思う。弁護士になってすぐ、株式会社歌舞伎座の顧問にしてもらったこともあり、何かと目をかけてくださっていたんですよ。もっとも過去、自分が松竹に入るとは思ってもいなかったし、爺さんが存命だった頃に、それらしい話をされたことは一度もなかったんですけどね。

要請を受けて松竹入り。弁護士から経営者へと転身し、財政改革に挑む

「グローバルなビジネス舞台に立つ」という初心どおり、迫本は渉外法律事務所を狙い、なかでも金融法務に強みを発揮していた「三井安田法律事務所」に入所する。早々に才覚を働かせ、大きな案件やクライアントにも恵まれた。そして、入所4年後にはUCLAロースクールにてLL.M.プログラムを修了し、次いでハーバード・ロースクールの客員研究員に就任。かつて憧れたビジネススクールではなかったが、迫本は、自分が描く将来像に向けて大きな一歩を踏み出したのである。

渉外系の事務所は、早くに司法試験に合格した人を優先的に採用する傾向があるから、僕的には不利だったけど、当時の三井安田は事務所自体がまだ若く、タイミングがよかったのでしょう。僕みたいな異色のタイプでも採ってくれた。入所10人目の弁護士でした。まだ全面解禁前だったストックオプションの案件など、先鋭的な仕事に関与する機会にも恵まれ、アメリカにも勉強に出してもらいましたからね、この事務所には本当に感謝しているんです。

弁護士 迫本 淳一

くだんの永山会長から「松竹に」とお誘いを受けたのは、ハーバードで客員研究員をしていた頃です。僕は学内にオフィスももらって充実した時を過ごしていたし、ネットワークも広がっていい感じでやっていたんですよ。当然、帰国後も弁護士として仕事するつもりでしたから、正直、驚いたというのが最初。経営経験のない僕が入ったところで、何ができるのかと思うじゃないですか。それに、しつこく10年間もかけて弁護士になったのに、まだその半分も仕事をしていない……それを捨て置くのは、さすがに忍びないという思いもあった。

けっこう悩みまして、一度はお断りしたのです。でも、永山会長と親しかったセコムの創業者、飯田亮さんから「経営は面白いぞ」と半ば説得され、永山会長のさらなる後押しもあって、最後は、期待に応えようと決断しました。この時も、学生時代に学んだ克己心が根っこにあり、僕を新しい道に導いたのかもしれません。

この時、迫本は45歳。まずは顧問に就任したが、実質的に用意されたポストは副社長で、異例の大抜擢だった。だが、決して華やかな話ではなく、当時、有利子負債の拡大などで厳しい状況にあった松竹の財務立て直しが急務として迫っており、迫本はあらためて「腹をくくらなければならなかった」。

連結決算で、有利子負債が売り上げの倍くらいあったという状況でした。本当に正確な財務内容を知っていたら、松竹には入らなかった……と思うほどの状態で。とりわけ、かつて運営していた鎌倉シネマワールドが、月に2億円の赤字を出していて、このままいったら早晩倒れるだろうと、大変な危機感を持つところから始まったのです。

まず取り組んだのは不良資産の処理で、1年半で処理した額は800億にのぼりました。なかでも、シネマワールドを含む大船撮影所の閉鎖・売却は断腸の思いではありましたが、社内でも「不良資産を抱えたままの状態はおかしい」と、わかってはいたんですよ。でも、ずっと中にいると思い切った動きはできないものです。財務の改善を力技で進めるのは、けっこう大変でしたけど、最終的には社員たちが理解してくれ、本当に頑張ってもくれた。むしろつらかったのは、マスコミから叩かれたことです。撮影所を閉鎖すれば「松竹映画、さようなら」と書かれ、何をやっても「松竹倒産か?」となる。前を向いてやっていることなのに……と、腹立たしい思いもしました。

次の段階として取り組んだのは、利益体質づくりです。そもそも、演劇も映画もリスクの高い事業で、製作側にどれだけ熱い思いがあっても、マーケットに受け入れられるかどうかは、フタを開けてみないとわからない。それでも継続して、いいものづくりを追求していくには、安定した収益基盤が重要になります。新しい歌舞伎座に、リーシングできるオフィスビルを併設したのも、安定した不動産収益を得るための一つの策なのです。

昔のように、マーケットが映画だけ、歌舞伎だけという時代ならいいんですよ。でも、これだけ多様な社会になり、エンターテインメントも豊富になってきたら、経営は安定収益で稼ぎ、あとは現場が面白いアイデアを考えた時に、ポンポン実現できるような体力ある組織にならなければ、生き残れません。そういうコーポレート意識を浸透させるのが僕の役割だと思って、改善に取り組んできたつもりです。

コンテンツを機軸に世界展開を狙う。新たなステージへ

弁護士 迫本 淳一

弱いものをチームの力で強くしていくことが、僕は何より好きだし、力を発揮できる

昨年、松竹は“足下好調”な状態で創業120周年を迎えた。安定した財務基盤に立ち、「ようやく、つくったコンテンツを生かして、水平的かつグローバルな展開を狙う段階にきた」と迫本は語る。大きなマーケットの獲得を目指して、今後はコンテンツの生産力を強化し、ITやファッションなどといった異分野との連携も視野に入れながら“攻め”の体制に転じていく。

我々には、大きく2つのミッションがあります。歌舞伎に象徴される日本の伝統文化を継承し、発展させること。そして、あらゆる世代のニーズに応えて多様なコンテンツを提供することです。ここに立脚し、今後は水平展開を含めた事業拡大を考えていきます。

水平展開の筆頭例を挙げるなら、何といってもディズニーのミッキーマウスですよ。あの強いキャラクターが、ものをつくり続ける基盤を構築した。その基盤から、世界中を席巻したディズニーランドが生まれ、最近でいえば映画の『アナと雪の女王』とか、LINEのディズニーゲーム「ツムツム」とかが出てきて、いい循環を生み続けているわけでしょう。ミッキーマウスでどれだけ食っているんだという話(笑)。水平展開というのはそういう意味で使っている言葉で、強いコンテンツ生産力があれば、いろんな出口を考えられるということです。

昨年は、松竹歌舞伎がユニクロとコラボ商品を出しましたが、今後さらに、ほかのエンタメや業態とも組みながら新しいことに挑戦していけば、世界のマーケットで勝負できるチャンスも十分にあると思っています。そのためにも肝になるのは、未知の領域に対してもリスクや失敗を恐れずにチャレンジしていくような人材です。そして、その人材を生かすチームビルディング。先述したように、面白いアイデアや新しい挑戦がどんどん出てきた時に、それを体力的にもマインド的にも受け止められる組織になれれば、本当に素晴らしいと思う。

アメリカを見れば、かつてのワーナーにしてもピクサーにしても、製作会社は皆買収されていったでしょう。僕はね、松竹のアイデンティティを崩さずに生き抜いて、そういったエンタメのメジャーに対して「どうだ!」と言ってやりたいんですよ。昔ながらのメジャーに対する反発心は、今もまったく変わっていませんねぇ(笑)。

少年の頃から胸にあった「国際的なビジネスシーンで活躍する」という夢。かたちは多少変わったが、それは、弁護士であり経営者でもある迫本が今も追い求めているものだ。そして、自身のキャリアがそうであるように、実業界にもっと弁護士が増えることを願い、新しいタイプの弁護士が出てくることを期待しているという。

僕らの時代に比べれば、昨今、司法試験の合格者がすごく増えていますよね。今だったら、僕も1年か2年で受かっていたかも……という感じだから、となると、なかには出来の悪い弁護士も出てくるでしょう。でも逆にいえば、今までいなかったようなタイプの、あるいは能力を持つ人が出てくる可能性もあるということです。これはある意味、すごいチャンスなんです。弁護士にとっても、日本社会にとっても。

ステレオタイプの弁護士をただ増やせばいいという話ではないですよ。日本には、弁護士費用に金をかけなくても社会的紛争を解決する力があって、僕はそれをいい点だと思っているので、単純増加はよしとしません。先般もフェアユース(著作権の再利用)導入に関する議論において、僕は「アメリカ型のフェアユースは取り入れるな」と主張したのですが、これを導入すれば、一挙に革新的なビジネスが進むと考える弁護士がいるとすれば、それは大間違いですよ。これによって、どれだけ社会の紛争解決コストが莫大なものになるか。それを弁護士のエゴで進めてはいけないと思うのです。

今までの社会的紛争解決だけではなく、もっと柔軟な発想に立てばいろんなことができるというのが、弁護士にとっての最大のメリットではないでしょうか。僕が弁護士業をやっていた頃は、通常のリーガル分析だけでなく、従前にないディールメイクをやって、自分でリスクを取れるような弁護士になりたいと考えていました。今なら、僕より素晴らしい夢を描く弁護士がもっと出てくると思うし、期待もしているのです。また、そういう弁護士を許容する社会にもなってほしいと。

ふとね、あのまま弁護士を続けていたら、どうなっていたかなと考える時はありますけど、後悔したことは一度もありません。子供の頃から、僕は常にそう。むしろ苦しい道を選択してきたからこそ、人生は楽しいものになった。苦しいということは前に進んでいることの証。その前進が、必ず人生を豊かなものにしてくれるんですよ。

※本文中敬称略