一貫して企業・金融法務畑を歩んできた島田邦雄は、なかでも企業の経営に深くかかわる“経営法務”を得意とする。日常的なリーガル・サービスを提供する法律顧問として、クライアントが直面する多様な課題の解決に、長年にわたって尽力。その存在は、「知る人ぞ知る一流のプレイヤー」として高い評価を受けている。クライアントは大手企業が多く、表には立たず銀行側の立場で関与した案件も含めると、島田は経済界の大きな話題には概ね関与してきたといっていい。当の本人には、いわゆる商売っ気がまったくないが、何より大切にしてきたクライアントとの長く深い付き合い、その信頼関係が今日のポジションを築いたのである。
生まれ育った岡山の環境と同様、私ものんびりした質で、勉強やスポーツに懸命になって打ち込むといったタイプではなかったですね。競って勝ちたいとか、何かを手に入れたいという欲求があまりなく、どちらかといえば内向的な子供。与えられた勉強はせず、自分の好きな本を読んだり、盆栽や錦鯉の世話をしたり……早くから「ご隠居さん」って呼ばれていました(笑)。一方、ずいぶんと本を読んだせいか、おませでシニカルな面はあったと思います。中学生だったある日、先生に「お前は真面目にやったら、すごくいい成績を取れるはずだ」と言われたことがあったんですけど、私が返した言葉は「でも、それでいい大学に行って一流官庁に入ったところで、死ぬほど働くわけでしょう。何かいいことがありますか?」。そんな調子でしたから、イヤな子供ですよね(笑)。
高校生になってからは政治・経済にも興味を持つようになり、学校帰りに本屋や図書館に寄っては、たくさんの本を読み漁ったものです。一時は、自分にその才能はないと自覚しつつも、物書きになりたいと夢を描いたこともありました。ただ、いずれにしても、都会に出て何か華々しくやろうという野心的な発想はなく、ずっと岡山で暮らしたかったから、地元での職業の選択肢としては医者、あるいは弁護士かなぁと。それ以外だと、企業か役所に就職することになるわけですが、私は言いたいことは言うほうだし、出世のために頑張るとか、勤めは向かないだろうと思っていました。で、選択肢は2つながら、私は幼い頃から、注射と聞くと脱走するほどの医者嫌いなので、弁護士を選択したというわけです。
地元の大学でいいと思っていたが、高校に入った頃は成績優秀だったため、「島田君は当然東大よね?」と声をかけた同級生がいた。「それで背中を押されたのが半分、あとは何となく受かるかもという思いもあって」東大を受験。しかし、まともな準備をしないで臨んだ最初の受験はさすがに叶わず、1年間の浪人を経ての東大入学となった。両親は地元を離れることに反対したが、「弁護士ならば独立できるし、岡山に戻ってくるから」と説得しての上京であった。
お金がなかったから、格安の下宿生活ですよ。安酒飲みながら、仲間とよく話はしたけれど、やっぱり本に浸っていました。生協では買わずに立ち読み。授業はあまり真面目に出なかったですねぇ。ただ、単位を取ったわけではないのですが、興味のあった経済学の授業は覗きに行ったりしていました。例えば、当時も赤字国債を出すのがいいのか、悪いのかという話はあって、教授の議論を自分の見解と照らし合わせるのは、それはそれで面白かった。
大学時代を通じて印象に残っているのは、法学者で東大の総長も務められた加藤一郎先生です。おおらかで、立派な方だという意味で。弁護士になって、のちに私が留学する時、加藤先生に推薦状を頼んだことがあったんですけど、先生のもとには、日頃からたくさんの依頼があるから、大変なわけですよ。一般的に、留学生は自分で文面を用意してサインだけもらうというパターンが多いのですが、先生はそれを認めず、推薦状を全部自分で書かれる。在学中はそこまで知らなかったけれど、やっぱりすごい方だなと思いましたね。
3年になって、専門科目が司法試験の科目とかぶり始めたところで、本格的に受験を意識するようになりました。図書館に行くとベテラン受験生がたくさんいて大変そうだったけれど、受験に該当する科目の成績は悪くなかったし、何とかなるんじゃないかと。ですが、4年の初受験では択一でアウト。ちょうど問題の傾向が変わったタイミングで、予備校に行っていた人は皆知っていたようだけど、私は独学スタイルだったから対応できず……。いずれにしても、コツコツ勉強する習慣が身についていないものだから、できるだけ薄い参考書を買って、問題に出そうな箇所だけをやるという手抜きですよ(笑)。それでも、翌年には何とか合格することができました。