Vol.96
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HUMAN HISTORY

あらゆる分野にかかわれるのが弁護士という職業の醍醐味。そして、人や社会の役に立てる。これが最大の魅力である

御茶の水ひまわり法律事務所
弁護士

神田 安積

「人のためになりなさい」。両親からの教育方針を受け、自然に弁護士の道を志す

33年間にわたる弁護士キャリアにおいて、神田安積は実に多彩な活動を重ねてきた。通常の仕事では、民事事件や会社法務のほか、特に子供の事件や名誉毀損、プライバシーに関する事件、刑事事件を取り扱うなど、その領域は幅広い。また、早くから人権擁護活動を支柱とする二弁や日弁連の会務に尽力し、さらには弁護士の養成、法曹教育にも携わっている。通じて多忙であり、かつ、すべてに対して全身全霊で臨む姿勢は、周囲をして「神田は3人いる」と言わしめるほどだ。エネルギーの源は、「人や社会の役に立てるというやりがいと喜び」。そう明言する神田の言葉には、弁護士の真価が込められている。

生まれも育ちも静岡県の沼津。田舎だから穏やかなもので、自由に伸び伸びと育ててもらいました。ただ、幼い頃から両親に言われ続けてきたことがあります。「将来は人のため、社会のためになりなさい」と。ちなみに、私の名前「安積(あさか)」は、福島県にある安積疏水から取られたもので、同地出身の父が、水不足に苦しむ多くの農民を救ってくれた疏水のような人間になってほしいと、願いを込めて命名したと聞いています。幼い頃にそんなことを言われてもねぇ(笑)。

「人のために」という思いは、父自身にも宿っていたようで、勤めていた銀行で労働組合をつくって活動していたんですよ。ところが、今じゃ考えられませんが、それを理由に銀行から不当解雇された。父は組合の仲間とともに裁判を起こし、結果、復職できたのですが、その際には東京の高名な労働弁護士にお世話になったようです。私が小学生になる前の話だから、内容は何も理解できなかったけれど、裁判所に連れていかれて傍聴席に座ったことは、おぼろげながら記憶に残っています。

小学校の卒業文集を見返すと、「学校の先生か弁護士になりたい」と書いているから、親の〝刷り込み〟は効いていたわけです(笑)。もともとの性分もあったのでしょう、実際、人の役に立ちたいという気持ちはずっとあったように思います。人から相談されると、何よりも優先して動いてきました。要は、人のことが好きなんですよ。とにかく人付き合いがよかったので、周囲にはいつもたくさんの人がいました。通った沼津東高校でも自分の価値観のままに自由に過ごし、今もつながっている友人を得られたことは大切な財産になっています。

神田の父親は、大学卒業後も一時期、働きながら司法試験の勉強をしていたそうで、家には法律関係の教科書が並んでいた。そうした環境で法律に関心を持つようになっていた神田は、大学進学にあたり法学部を選択。もとより文系だったこともあり、ごく自然な流れで定めた進路だ。第一志望の国立大学は合格が叶わなかったが、慶應義塾大学の法学部に進学した。

学生生活を経て、慶應に行ってよかったと心の底から思っています。というのも、それまで接したことがない人たちと出会えたから。なかでも幼稚舎や附属中高から上がってきた〝慶應ボーイ〟とされる人たちは、地方で育った私からするとみんな魅力的だったし、さらに、1、2年次の日吉キャンパスではいろんな他学部の学生とも交流できたから、自分に広がりを与えてくれたのです。自律的で、かつ多様性豊かな環境に身を置けたことは本当によかった。

早々に法律サークルに入りつつ、並行して続けていたのが友達に誘われて入った中国武術のサークル活動です。ここの先輩たちは強者ぞろいで、練習も厳しかったけれど、とにかく酒を飲まされた(笑)。さらに、私が司法試験を目指していることを知ると、「試練を与える」とか言って、私の下宿に押しかけては勉強の邪魔をするわけです。「遊びの誘惑や試練を乗り越えてこそ、いい弁護士になれる」とワケのわからないことを言われ……私はからまれタイプなんですかね(笑)。でも、司法試験に合格した時は、その先輩たちが「よくぞ受かった!」と一番喜んでくれたものです。

そんな調子だったから、司法試験に向けて本腰を入れ始めたのは3年の秋頃からでした。4年生の時に、択一試験に運よく合格したのですが、実はここで、私は先行きを悩み始めたのです。択一に受かったとはいえ、出遅れた受験勉強の状態で論文試験に合格できるとは思えなかったし、周囲はどんどん就職が決まっていく。法律サークルの仲間にしても、当時の慶應では司法試験を目指す人はほんの一握りで、ほとんどの人は就職するという環境でした。さて、このまま司法試験の勉強を続けるか、就職するか――ものすごく悩みました。

当時は第二新卒なんてないから、就職するなら「今しかない」。他方、司法試験は後になってからでも挑戦できると考え、結局のところ、金融機関志望で就職活動したんです。で、ここでまた悩みました。複数の銀行から内定をいただいたのですが、第一志望だった銀行は最終面接で落ちてしまったから。これが、自分の胸の内と向き合うきっかけになりました。このままの流れで社会に出ていいのだろうか。本来、自分は人や社会の役に立てる仕事がしたかったはずだと。考え抜いた結果、就職をやめて、司法試験に向かう決心がついたのです。

周りの人から頼られ、力になれる仕事として弁護士を選んだという神田安積氏。通常の弁護士業務に加えて、弁護士会の会務、明治学院大学、早稲田大学など法科大学院での後進の育成、企業の社外取締役など、その貢献範囲は非常に広い

人の役に立ちたいという気持ちは、子供の時分からずっとあった

弁護士としての自分のスタンスを定め、多種多様な経験を重ねる

司法試験受験生としての生活は約3年。「卒業しているから学生じゃない、仕事もないしで、困ったのは生活でした」。この間は、夏期だけ地元・静岡でアルバイトをして軍資金を貯め、勉強を続けるという日々が続いた。しかし、迷いはなく、神田は自分がやりたいこと、選んだことを続けられる環境に感謝しながら勉強に励んだ。そして、1990年に合格を果たす。

受験仲間にも恵まれました。初めて予備校に行った時に縁ができた早稲田大学出身の社会人受験生がいまして、尊敬できる彼とよく一緒に勉強しました。さらには輪を広げて、東大や京大の学生たちとも勉強会を設けたりして、私の場合は、予備校に通うというより仲間とともに勉強するスタイル。それが力になりました。やっぱり、人付き合いが好きなんですよ。私から声をかけたり、動いたりするケースが多いのですが、それだけで人の環境は変わったりする。縁ってつくづく面白いものだし、大切にしなきゃと思いますね。

司法修習に入ってから、最初はなかなかついていけなかったんですよ。なかでも、事実認定についての勉強がうまく自分に入らなくて。でも、実務修習中に様々な人とかかわるうち、事実認定というものがいかに奥深く、興味深いものかがわかってきた。そうしたら後期の成績がグンと上がって、裁判官や検察官にと誘われるまでになったですが、ここは初志どおり。相談があれば、誰に対しても寄り添える仕事がしたかったし、弁護士という職業は、自分の意志で世界を広げられる。その思いに変わりはありませんでした。

弁護士としてスタートを切ったのは銀座東法律事務所から。入所のきっかけは修習時代にあります。民事裁判修習の際、裁判官から「見に行ったほうがいい」と言われた裁判があったんですよ。「面白い裁判の判決があるから」と。これは、弁護士自身が原告となって接見妨害を訴えていたもので、勝訴した裁判でした。代理人としてではなく、自分が原告として国を相手に裁判をして勝っている。私は事件の中身というより、「こんな人がいるんだ」と興味を覚え、話を聞きに行ったのですが、その弁護士が銀座東法律事務所に所属していたというわけです。これも〝ご縁〟ですよね。

同事務所では民事だけでなく刑事事件、国家賠償事件、あるいは企業法務も取り扱うなど、神田にとっては「その偏りのなさが魅力だった」。加えて、「自分の事件は自由にやっていい」という事務所方針にも惹かれた。実際、神田は自分の判断で弁護士会の委員会活動や弁護団の事件に取り組むなど、多様な経験を積んできた。この6年間の〝修業時代〟を通じて、今日に至る確かな基盤を築いたのである。

事務所の仕事をきちんとやりながら、興味ある事件があれば、「やらせてください」と率先して受任するようにしていました。そのなか、当初から関心を持っていたのが子供の事件で、弁護士登録をした直後から二弁の「子どもの権利に関する委員会」に入り、「子どもの悩みごと相談」という窓口を介して数多くの事件にかかわってきました。親から虐待やネグレクトを受けて、少年事件を起こしてしまった子供のサポートや、いじめの事件や親子間で抱える問題など、それはもう様々に。

相談を受けると、電話でアドバイスを完結させる弁護士も少なくありませんが、私はその場限りにせず、「困ったことがあればいつでも電話してください」と、先方がその先も相談しやすいように接してきました。それでも電話で話すのって顔が見えないから、どうしても距離感があるし、得られる情報量にも限りがある。だから、場合によっては「家に伺いますよ」と私から出向くなど、できる限りアウトリーチするように心がけてきました。勢い、受任する事件数はかなり多かったです。

62歳の今も精力的に全国を行き来する神田氏。取材当日は、午前便で鹿児島から飛行機で帰京し、インタビューと撮影に協力いただいた。「夕食は連日、相談業務を兼ねた外食が中心です。活動を支えてくれる家族には感謝しかありません」(神田氏)

刑事事件も含め、広い意味で人権擁護活動を志向していたのは確かですが、ただ、自分の領域を決めない、狭めないようにはしてきました。弁護士が活動できる領域って限定的なものじゃないでしょう。様々な分野にかかわれるからこそ、仕事の広がりや経験を得て、成長することもできるのです。私自身、振り返れば、一般民事や会社法務をはじめ、あらゆる分野で経験を積んできました。例えば、エンターテインメントの領域ではプロ野球選手の代理人を務めたり、弁護人として薬物事件を扱ったりしたこともあります。

心に留めているのは、幅広いジャンルに対してアンテナを張り巡らせること。そして、常日頃からキャッチアップできるだけの情報収集や勉強を怠らないこと。何か案件が寄せられた時、あるいは「お前、ピンチヒッターで行け」と言われた時に、すぐに動けるよう常に準備をしておくことが重要で、そうでなければ、依頼者の役にも立てません。見えないところで素振りはしておかないとね、という話です。

常にアンテナを張り巡らせ、情報収集や勉強を怠らないことが大切

足場を変えながら公益活動や法曹教育にも全力を尽くす

刑事事件でいえば、神田にとって印象に強いのは「東京電力女性社員殺人事件」である。97年の事件発生から15年半もの歳月を経て、2012年に被告人であるネパール人男性の再審無罪が確定した事件だ。事件発生の年、二弁の委員会派遣で神山啓史弁護士とともに接見に行ったのを機に、神田は弁護団の一員として長きにわたる弁護活動を続けてきた。

第一審での無罪判決、控訴審での逆転有罪判決を経て、最終的に再審で無罪判決を勝ち取るまで約16年。弁護士になって4年目から始めて20年目まで……やっぱり長かったですよね。苦難な状況は多々ありましたが、振り返って特に厳しかったのは、逆転有罪になってから再審開始決定に至るまでの道のりです。

再審開始に必要な新しい証拠の準備を進めるなか、最後は検察官に証拠を開示させたことで、決定的な証拠が隠されていた事実が明らかになりました。その証拠についてDNA型鑑定を実施したことが再審開始の決め手となったわけですが、当時は、弁護人が捜査機関の保管する証拠の開示を請求する権利が保障されていなかったので、プロセスは本当に大変でした。

「なぜ続けられたのか」とよく聞かれるんですけど、正義の実現のために、その社会的な責任を果たすために、最善を尽くすのは当然のこと。当初から無罪を確信できた事件です。至極当然という気持ちでやってきた……それに尽きますね。

この間も、特許・知財を専門とする先輩弁護士らとともに法律特許事務所を開設したり、また別の事務所に移籍したりと、フィールドを変えながら自分の幅を広げてきました。「早稲田大学リーガル・クリニック」に移籍したのは09年、本格的にロースクールの教育に携わるようになったのはこの頃からです。尊敬する弁護士から打診された際、クリニック授業を中心とする教育活動でロースクールを変えるという考え方に共鳴し、参画したという経緯です。

私が懸命に取り組んだのは刑事クリニック。現実の刑事事件を教員と学生が共同して受任し、学生が主体的に弁護活動を行うという画期的な授業です。準備もたくさんあるし、個々の学生に向けたフォローアップも必要で大変だけれど、実は、私自身が教わることがとても多かった。学生たちの純粋な疑問や視点に、実務のありようを考えさせられたこともしばしばです。だから教えるというより、学生と一緒に悩み、考えながら一緒に学んできたという感じで、非常に意義のある経験を得ることができました。

〝見えない依頼者〟のためには弁護士からアプローチする必要がある

並行して会務や公益活動にも力を尽くし、2010年度以降は二弁副会長、日弁連事務次長、二弁会長、日弁連副会長などの役職を歴任。人権救済基金の創設、刑事司法改革や法曹人口問題など、様々な課題に意欲的に取り組んできた。そのなか、神田が一つ大きなテーマとして向き合ってきたのが司法ソーシャルワークである。

二弁の会長を務めた頃はコロナ禍にあり、最も顕在化したのは、いわゆる〝見えない依頼者〟の存在でした。例えば、学級閉鎖で学校に行けなくなった子供のために離職せざるを得なくなったシングルマザーなど、それまで見えなかった貧困と格差に苦しむ人たちが改めて可視化されたわけです。弁護士は、困難な状況にある時こそ利用者や社会生活の調整のために活動することが求められるわけで、その期待やニーズに十分応えられているだろうか――。

そうした問いも顕在化し、21年に会長として取り組んだのが「女性による女性のための相談会」です。もとより、社会的、経済的に厳しい状況にある人たち、特に家庭状況に制約を受けることの多い女性は、弁護士へのアクセスが困難であるという指摘があったので、とにかく訪れやすい場づくりをしようと秋葉原の会場を借りました。民間支援団体の専門家と連携して、食料や生活用品も無償で配布し、法律問題に限らないワンストップの〝何でも相談会〟にしたんです。コロナ禍でリアルに会うのが憚られる状況だったのにもかかわらず、訪れた女性は2日間で百数十人。霞が関の弁護士会の法律相談会だったらこんなに来なかっただろう企画となりました。

弁護士の多くは、事務所で依頼者を待つ。また、法律事務所に縁のない人は弁護士会の法律相談に出向く。いわば箱物の相談で対応するのが私たちの常識でした。でも、待っているだけでは権利救済をできない人たちがいるんですよ。法的問題を抱えたまま相談できずに困っている、そういう人たちの権利救済を図るには、弁護士がほかの専門職と連携しながらアプローチしていくべきではないか。こうした考え方が司法ソーシャルワークです。

私がそれを学んだのは、法テラスでした。15年ほど前、法テラス本部の常勤弁護士支援室の室長としてスタッフ弁護士の養成に携わったのですが、彼ら、彼女らがまさに司法ソーシャルワークに取り組んでいた。若い人たちの熱心な活動に胸を打たれ、インスパイアされました。弁護士過疎地けでなく、大都市でも弁護士の力が届いていない人たちはたくさんいる……それが自分の問題意識となり、実践につながっていったのだと思います。

今年(2026年)1月より、新たな環境で弁護士活動をスタートしている。大室俊三弁護士(写真右)からの誘いを受け、御茶の水ひまわり法律事務所に移籍した。写真左は同事務所所長の竹下博徳弁護士

貫いてきた人権擁護活動を柱に据えて、さらに道を走り続ける

二弁会長の任期を終え、神田は都市型公設事務所「東京フロンティア基金法律事務所」の所長に就任。同事務所は「誰もが弁護士にアクセスできる社会を目指す」という理念の下、二弁によって設立されたもので、公益事件の受任や弁護士過疎地に派遣する弁護士の育成を担っている。ここでも神田は、見えない依頼者に積極的にアウトリーチする体制づくりに取り組んだ。

一つには子ども食堂とのつながり強化を図ったこと。食堂に来ている子供や親御さんは、いろんな問題を抱えています。多重債務、離婚、DV、養育費の未払いなど、法的問題を抱えたまま、どこに、誰に相談すればいいのかわからないまま困っている人たち。あるいは、それが法的問題だということすらわかっていない人たち。子ども食堂や地域とつながっていれば、そうした状況を知ることができ、弁護士の力を届けることもできる。活動を通じて再認識したのは、やはりアウトリーチの重要性でした。

ほかに、各都市型公設事務所の皆さんと連携して全国横断のサマーインターンシップを実施したり、事務所内部では、勉強会の積極的な外部開放とメソッドの改革を図ったり。2年あまりの期間でしたが、様々なやりがいと成果に恵まれ、充実した日々を送ることができました。

この所長就任もそうですが、担った役割の大半はお声がかりによるものです。正直、公務が重なって少し休みたいと考えたこともあるのですが、ある一件で弁護士の真価というものを学び、すべて引き受けるように努めてきました。「弁護士は、正当な理由なく、法令により官公署から委嘱された事項を行うことを拒絶してはならない」。この条文が弁護士職務基本規定の第80条として定められていることを知ったのは、二弁の副会長を務めていた頃です。当時、陸山会事件と呼ばれた政治資金規制法違反事件が強制起訴となり、指定弁護士を選任しなければならなくなったのですが、強制起訴制度が導入されたばかりの時期で、経験を持つ弁護士はほぼ皆無の状態。しかも、大変な負担に比して報酬はとても低い。指定弁護士を探すのは至難でしたが、そのなか、前述の第80条に沿って迷いなく引き受けてくださったのが大室俊三弁護士でした。

この時、大室さんから弁護士のコアバリューを見せつけられた思いがしたのです。核心的な意義というものをね。それを学んだものだから、私は、官公署であるか否かを問わず、委嘱があれば拒絶しないよう努めることを心に誓ったというわけです。

現在の神田は、活動拠点を「御茶の水ひまわり法律事務所」に置いている。ほかでもない、くだんの大室弁護士から誘われてのことで、神田は〝原点に帰る〟つもりで移籍を決めたという。日弁連の人権擁護委員会委員長としての任期も残しながら、その日々は変わらず多忙だ。

今後の仕事をどうしていくか。それを考えるにあたっては、改めて弁護士のコアバリューを見いだし、向き合う必要があると思っています。昨今はどんどん技術革新が進み、生成AIでいえば、単に文章がつくれたり、人とのやりとりもできちゃったりする。そういう時代になっていますよね。生成AIの利活用については、業務の効率化に役立つから一概に否定はできません。ただ、それによって考える力が衰えるとか、ひいては弁護士のあり方まで変わってしまう可能性もあるわけで、これは業界としても、本質的なコアバリューが奪われないよう考える必要があると思うんですよ。

関連してSNSの問題も。アルゴリズムによって、知らず知らずのうちに自分の好む情報ばかりが与えられる時代になっています。これって、自由な意思決定ができることで成り立ってきた民主主義の前提が崩されかねない事態で、広義ではやはり人権問題なんですよ。民主主義を前提とした個人の尊厳とか、知る権利とか、こうした問題についても私なりにかかわっていきたいと考えているところです。

こうした技術の進展や時代性についても私たちは無関係ではなく、あらゆる角度からかかわれるのが弁護士という仕事の魅力です。そして人や社会の役に立てる――これが最大の魅力。仕事に限りがないから、何を選択して何を捨てるのか、難しい局面に直面したり、人の悩みや問題を抱えてしんどい時があったりするけれど、それでも確かなやりがいがある。だからこそ、私はこの仕事に夢中になって走り続けてきたように思います。