弁護士の肖像:2016年1月号 Vol.49

弁護士の肖像

アトーニーズマガジン 弁護士の肖像

日本のリーガルサービスを牽引する、著名な弁護士の素顔や仕事観・人生観をご紹介。

Human History

弁護士の肖像

山田・尾﨑法律事務所 弁護士 山田秀雄

一貫して文学に傾倒。司法試験に臨んだのはモラトリアム的発想から

「気軽に相談ができて、人間味あふれる法曹になる」。弁護士となった時、山田秀雄が掲げたモットーである。そして重んじているのは、インタビュー中も幾度となく口にした「中庸でありたい」というスタンスだ。その卓越したバランス感覚は衆目の一致するところで、加えて洒脱な人柄は、業界内外問わず多くの人たちを惹きつけている。企業法務、一般民事事件のほか、セクシャルハラスメントやドメスティックバイオレンスなどの分野では草分け的存在として活躍。並行して弁護士会での会務にも長く尽力し、2014年には第二東京弁護士会会長の任に就いた。周囲に請われるたび、期待されるたび、真摯に全力を傾ける山田の面持ちは、まさしく〝正統派〞の弁護士である。

赤坂に生まれ育ち、今も職住接近でこの地がホームグラウンド。昔からよく、有名な俳優さんや政治家を見かけ、雰囲気も色街っぽいところがあったものです。初等部からずっと12年間通った青山学院には著名人の子供も多く、華やかな環境ではあったけれど、僕は最初馴染めなくて、そんなに外向的ではなかったんですよ。学校がすごく楽しくなったのは、好きだった野球が上手くなり始めた小学校3年の頃でしょうか。自由な校風で、受験もないから、好きなことを伸び伸びとさせてもらった。得た友達も多く、恵まれた環境にあったと思います。とにかく本が好きで、手放したことがありません。高校生の頃は、芥川龍之介や太宰治、ランボーなどにはまり、さらに映画も年間100本くらいは観ていました。部活のサッカーとかスキーとか、スポーツにも打ち込む一方、好きな文芸をやりたくて、廃部同然だった文芸部を復活させたんですよ。活動としては同人誌の発行。自分でものを書き、編集しと、いわば雑誌づくりをしていたわけですが、のちに、二弁で広報誌『NIBEN Frontier』の編集長を務めた時には、この頃の経験がすごく生きました。母方の曾祖父が、かつて大きな新聞社をやっていたので、もしかすると、そういう血が流れているのかもしれません。

文芸志向の強い山田が、作家や映画監督に憧れるのは自然な流れで、大学進学に際しては文学部を考えていた。しかし、不動産業を堅実に営んでいた父親は、先行き不安定な道に首肯せず、弁護士や外交官を想定しての法学部進学を強く勧めたという。早稲田大学文学部、慶應義塾大学法学部、いずれも合格した山田だったが、最終的に選んだのは後者であった。

芝居にも興味を持っていたし、父親は、僕が演劇にでもはまって売れない役者になっておしまい……みたいな話になるのを案じたのでしょう。別に反抗的な子供でもなかったので、妥協したというのが本当のところです。今思えば、僕自身もコンサバティブだったのかもしれません。大学に入ってからも文芸への思いは引きずったままで、本を耽読し、『三田文學』を発行する三田文学会にも出入りしていました。しかし一方で、この道で食べていくことが自分には無理だと悟るようにもなってきた。同い年の村上龍が、大学在学中に『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を受賞し、あんなの僕にはとても書けっこないと。いつまでも親を騙せるものじゃないし、やはり実学でいこうと将来を改めて考えるようになったのです。当時はまだオイルショック前で、成績が優秀じゃなくても大手企業に入れるような優雅な時代です。でも、僕はそれを退屈なものと考えて、「会社員になってどうする」みたいな感覚だった。弁護士か外交官か、あれこれ考えたなか、弁護士は自由業だし、弱い人や困っている人を助ける仕事はいいなと思った。それで司法試験に目を向けたのですが、実際のところは、一種のモラトリアムと消去法の発想で選んだ道なので、あまり威張れませんねぇ(笑)。ただ、ゼミはとても楽しかった。恩師だった宮澤浩一先生の下で、学んだのは主に刑法や犯罪被害者学。少年事件や少年院の問題を取り上げ、ゼミ活動の一環として、日本各地の少年院を見て回れたことは有意義でした。僕が今でも犯罪被害者の問題にかかわっているのは、この経験が起点になっています。しかしながら、皆が就職を意識する段になっても、同人誌づくりやテニスのサークル活動など、糸が切れた凧みたいに好きなことを続けていたのは変わらずで……のちの司法試験受験では、相当苦労するはめになりました。

セクハラ問題に向けた新しい切り口で、社会を動かす

司法試験に向けて勉強を始めたのは、同期生たちが社会人になった頃。存分に羽を伸ばしたあとだけに、単調な受験生活は「かなりつらかった」。卒業後も慶應の研究室に通い、実質一からのスタート。小説やエッセイなら何時間でも読んでいられるが、法律の本は勝手が違う。「特に手形・小切手法などはきらいだったから、全然頭に入らなかった」と山田は苦笑する。

書くのは得意なので、論文式試験ではすぐにいい成績が取れたものの、暗記力にモノをいわせる○×がダメ。実際、短答式試験に受かるまで何回もかかりました。落ちると気持ちは切ないし、親の顔を見るのもつらいから、行き先も決めず、しばらく寅さんみたいに旅に出るという……(笑)。勉強のためにずっと通っていた三田界隈では、すっかり有名になってしまって、蕎麦屋の親父や喫茶店のママさんたちも「今年はどうだった?」という調子。応援団みたいになってくれて、最後はもう必死、映画のロッキーのような気分でした(笑)。合格したのは29歳の時、慶應には2回分行ったようなものです。いわゆる司法試験エリートとはわけが違うけれど、でも、豊かな人間関係や法律以外の様々な世界に触れてきたことは、間違いなく僕の滋養になっていると思います。司法修習生の時の指導弁護士は、あのパワフルな久保利英明さん。まだ森綜合法律事務所の時代で10人くらいの規模でしたが、まさに野武士集団という感じで、その活気に圧倒されたものです。なかでも、久保利さんの新しい分野を切り開く才とエネルギーは凄まじかった。「寝るな。死んだらずっと眠れるんだから」とか、記憶に残る言葉は数々あるのですが、忘れられないのは、最初にお会いした時に久保利さんから言われたこと。「君は背が高くて、睫毛が長いから、弁護士として大成するのは難しいよ」って。つまり、交渉事に向く雰囲気を持っていないと。僕にすればトラウマですよ(笑)。でもその後、事務所は違ってもチャンスをくださったり、弁護士会で活動をご一緒したりで、今も久保利さんとは深いお付き合いをさせてもらっています。まぁ、くだんの言葉は、事あるごとにネタとして使ってますけどね。

野田純生法律事務所(現野田総合法律事務所)で3年間基礎を学び、その後、先輩である麻生利勝弁護士との共同事務所を経て、山田が自分の事務所を構えたのは92年、ちょうど40歳の時である。当初より一貫して企業法務や一般民事事件を中心に活動しており、広い人脈と真摯なスタンスを持つ山田のもとには、多くの仕事が舞い込んだ。

僕はいわゆる人権派でもないし、ビジネス一辺倒でもない。その中庸をいく弁護士でありたいとの思いは最初からありました。法律というのは、人が不幸せな状況にある時、それを解消するための道具の一つであって万能ではありません。だから法律万能主義に陥らず、法律以外のことも全部含めて、人の苦しさや大変さを救うべきだという考えを大切にしてきました。こと離婚や相続などの家事事件では理屈が通用しない場面も多く、解決するのに、ある時は時間だったり、弁護士としては説得力や包容力が求められる。知識やスキルを磨くことも必要ですが、人間としての〝総合力〞がより重要です。そういう意味では、たくさんの本や映画に触れてきたことは、やっぱり滋養になっている。期せずしてセクハラ問題に取り組むようになったのは、事務所開設と相前後しての話です。弁護士会に「両性の平等に関する委員会」が設置され、セクハラ担当の副委員長に指名されたのがきっかけ。正直、これは苦役だと思いました。委員の大半は女性で、しかもかなりフェミニズムの傾向が強い人たちが多い。当時の僕は、スケープゴートになったような気分でした。 でも、セクハラ問題に真剣に向き合ううち、見えてきたことがあります。「女性が不愉快に感じたらセクハラだ」という運動論だけでは、社会に広く浸透しないだろうと。過激な論はかえって周囲の腰を引かせてしまう。思いついたのは、セクハラはリスクマネジメントの問題であるという切り口です。セクハラが起これば労働環境は悪化する。関係者の生産性が落ちることは会社にとって損失だし、訴訟が起きれば会社全体の信頼をも失う。セクハラをなくすことは、被害者である女性を救済するだけでなく、企業自体を救う――その視点で書いたのが『企業人のためのセクハラ講座』という本です。今でこそ、この問題は企業法務の一分野になっていますが、当時としては新規性のある切り口でした。危機管理から捉えたこの観点は、多くの企業人を動かしたと思っています。(以下略)
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■プロフィール

  • 山田・尾﨑法律事務所
  • 弁護士
  • 山田秀雄
  • 1952年1月23日東京都港区生まれ
    1974年3月慶應義塾大学法学部
    法律学科卒業
    1981年11月司法試験合格
    1984年4月司法修習修了
    弁護士登録
    (第二東京弁護士会・36期)
    野田総合法律事務所入所
    1987年4月麻生・山田法律事務所開設
    1992年4月山田秀雄法律事務所開設
    1995年3月筑波大学大学院経営政策学部
    企業法学専攻科修了
    2005年1月山田・尾﨑法律事務所に名称変更
    2014年4月第二東京弁護士会会長、
    日本弁護士連合会副会長
  • 家族構成=妻、娘2人