多くの冤罪事件に携わってきた佐藤氏だが、最近でいえばやはり足利事件であろう。その詳細は他の文献に譲る(※4)が、概要は次のとおりだ。
足利事件とは、90年5月12日、栃木県足利市内のパチンコ店で、4歳の幼女が行方不明となり、翌13日、近くの河川敷で死体で発見された、いたましいわいせつ目的誘拐・殺人・死体遺棄事件だ。科学警察研究所(科警研)のDNA鑑定が決め手となり、菅家利和氏が事件の1年半後に任意同行される。そして、自白して逮捕・起訴され、無期懲役の判決を受けた。2008年10月16日、「足利事件、DNA再鑑定へ」という報道がなされたことがきっかけで、事態は急展開する。そして09年6月4日、再審開始決定を待たずに無期懲役刑の執行が停止され、菅家氏が突然釈放されるという前例のない事態となったことは周知のとおりだ。
「足利事件とかかわるきっかけは、1993年1月に『DNA鑑定と刑事弁護』という論文を「法律時報」に寄稿したこと。当時DNA鑑定が問題になっていた足利事件を含む事件を取り上げ、DNA鑑定の問題点を指摘した。その論文を読んだ菅家氏の支援者が、控訴審の弁護を依頼に来たことが発端です。一審弁護人に取材して菅家氏は犯人だと聞かされていた私は当初ためらいましたが、控訴審で国選弁護人に選任された女性弁護士に電話をしたところ、控訴趣意書の提出期限が迫っているのに菅家氏に接見すらしていない。DNA鑑定が問題になっている重大な否認事件でおよそ考えられないことです。そこで即座に『私が弁護人になります。先生は結構です』と言ってしまいました。いわば衝動的に弁護人を買って出たのが、足利事件の弁護でした」
こうして、もはや後戻りできない状態で東京拘置所へ接見に向かった佐藤氏。しかし菅家氏と接見してわずか30分で彼の無実を確信した。かつて弁護をした小児性愛者の事件の経験が生き、小児性愛者の世界をそれなりに理解していたこともあって、「菅家氏は絶対に小児性愛者ではない」とすぐに分かったという。
「『私は無実です』という言葉をすぐに信じたのではありません。伊達秋雄先生の教えの一つは『人間は防衛本能から事実に反する否認や間違ったアリバイに固執することがある』です。刑事弁護人の仕事は、精神科医の問診に似ています。精神科医の問診にあたるのが被疑者との接見です。精神科医が問診によって患者の病状を見極めるように、弁護人は接見で、被疑者に対する嫌疑は何で、被疑者はどう答えようとしているのかを見極めなくてはならないのです。事件をやったのか、やらないのか、ダイレクトに聞いてはいけない。『被疑者をまず受容すること』も大切です。そうしないと、被疑者の心は開かれないからです。菅家氏との接見は、私の刑事弁護人としての感性と技量が試された瞬間でした。菅家氏の無実を最初の接見で確信できた感動は、今も鮮明に覚えています」
以来15年10カ月、足利事件の闘いは今も続いている。釈放されてもなお、周知のとおり問題は山積したままだからだ。しかし、96年の東京高裁の「控訴棄却」、2000年の最高裁の「上告棄却」、08年の宇都宮地裁の「再審請求棄却」という3回の「絶望のとき」に比べれば、取り組むべき多くの課題の中にあって、目指すべき希望のともしびは見えている。
しかし昨年2月には、「自分が生きているうちに、菅家さんを救いだせるだろうか」と深刻に悩んだという。
「昨年11月で還暦を迎えました。そのころは、まさか足利事件がこうした展開になろうとは予想もしなかった。そのころ、刑事訴訟法の権威である松尾浩也先生(東大名誉教授)に『とうとう還暦を迎えてしまいました』と嘆いたところ、先生に『60歳からは人生の収穫期です』と励まされましたが、本当にそうなったような気がします。松尾先生の教えに導かれながら、これからも精進していきたいと思います」
ところで、足利事件の誤判が明らかになったのは、くしくも裁判員制度のスタートと重なった時期。1989年ごろから、自費で海外の刑事裁判の市民参加制度を視察して回り、弁護士の中ではほとんど孤軍奮闘で「参審制の導入」を説き続け、裁判員制度へ結実させた佐藤氏にとって、裁判員制度のスタートは祝うべきもののはずだった。
「しかし、まさか自分がかかわった足利事件が、この時期に、検察官や裁判所の信頼を根底から損ねるような問題を提起するとは思わなかった。足利事件の悲劇の原因を検証せずして船出したら、大変なことになると思います。確かな証拠と信じて有罪判決を下したのに、その証拠が何年か後に誤りと分かったというのでは、死刑や無期懲役の有罪判決を下した裁判員はやりきれません。足利事件の教訓を裁判員裁判に生かすためにも、臭いものにふたをせず、誤判原因を明らかにする勇気が必要です」