Vol.12
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長島 安治

HUMAN HISTORY

「永続的なインスティテューションとしての組織を作り上げる」。それは、弁護士が知識と経験を集積し、専門化を進めて社会の役に立っていくための手だてだった

長島・大野・常松法律事務所
弁護士

長島 安治

国内大規模総合法律事務所、いわゆるビッグ4の一つ「長島・大野・常松法律事務所(以下NO&T)」。そのファウンダーの一人が長島安治弁護士だ。法律事務所を永続的な組織とし、大型化による内部での専門化を念願して、現在の同事務所を形作った長島氏の軌跡をたどった。

戦犯だった父の長年の消息不明、家計を助ける役目を担う

長島氏は1926年、東京都の生まれ。5人兄姉弟の次男で、小学生のころはもっぱら外で遊ぶ、やんちゃな少年だった。

「子どものころは“兵隊ごっこ”が好きでした。敵方の友達を捕虜にし、自宅の太い木に縛り付けたまま忘れてしまったことがあって、そのときはいたく親にしかられましたね」

勉強は全般的に好きだったが、中でも得意科目だったのが国語。

「小学校の先生が国語に大変力を入れた方で、『一日一文』といって毎日、生徒に作文を提出させていました。おかげで国語力や作文力を、ずいぶん鍛えられたと思います。今でも、その先生には感謝しています」

やがて、旧制七年制東京高等学校尋常科(中等部)から陸軍予科士官学校を経て、陸軍航空士官学校へ入校、操縦士官候補生として満州(現在の中国東北部)で飛行訓練中に終戦をむかえた。

「1945年8月9日の暁、満州へのソ連の侵攻が始まり、それを避けて初級練習機を南に運ぶように命じられ、12日に牡丹江(ムーダンジャン)を離陸。航続距離が短いためガソリンを求めていくつもの飛行場を転々とし、ようやく通化飛行場(吉林省)に着いた17日、そこで敗戦を知りました。戦闘には直接参加する機会はなく、8月中に帰国しました」

帰国の翌年、東京大学法学部政治学科に入学。最終学年の3年生で、高等試験司法科試験を受ける。

「旧司法試験には在学中に合格しましたが、実は行政官を目指していて、通産省(当時。現経済産業省)から採用通知を受けました。ところがその後で、当時の通産省の初任給がずいぶん低いことに気付きました。それでそのころ、初任給が大変高かった三菱化成工業(現三菱化学)に入社したのです」

長島氏が給料にこだわったのには、事情がある。

「敗戦から約10年も消息不明だった父は、その後にわかったことですが、1942年以降、陸軍少将で兵団長として中国山東省で共産軍・国民政府軍と戦っておりましたところ、終戦直前の8月、ソ連の侵攻が懸念されたため、急きょ、兵団を引き連れて現在の北朝鮮の咸興(ハムフン)へ移動を命ぜられました。父は副官一人を連れて飛行機で先発し、咸興に到着した直後に日本が降伏。直ちに進駐してきたソ連軍により戦犯容疑でハバロフスクに連行され、4年後、中国共産政府による建国に伴い満州の撫順(フーシュン)の収容所に移され、わずか一日の裁判で天文学的年数の禁錮刑に処せられました。その後、1959年の暮れに突然釈放され帰国したのですが、既に不治の胃ガンを患っておりました。すぐに入院して開腹したものの手の施しようがなく、6カ月後に死亡しました。軍人の恩給は敗戦後完全に停止されていましたし、東京の家は空襲で焼け、家財もほとんど失い、母と弟たちは田舎の母の実家に身を寄せていたのです。そんなわけで私は、大学を卒業して就職したら、すぐに家計を助けなければならない立場にあったのです」

弁護士業務の組織化と専門化の必要性に気付く

三菱化成工業では文書課(いわゆる法務課)に配属された長島氏。よく、顧問弁護士の元へ相談に通わされた。そのころの法律事務所はほとんど弁護士一人とイソ弁が一人いるかいないか。それが日本の典型的な法律事務所の姿だった。

「こちらは、複数の特別法が絡む案件で相談に行くことが多かった。しかし顧問弁護士たちは『特別法は守備範囲外』といわんばかりの姿勢で、多くの場合、有益な助言は得られず不満足でした。なぜそうなのかと思い巡らせたところ、弁護士が一人か二人しかいない事務所では一般民商事案件と訴訟は扱うものの、専門的な知識を蓄えることは通常は難しいこと、よしんば知識・経験を蓄積したところで、イソ弁はすぐに独立してしまうし、せっかくの知識・経験は結局、各人が墓場まで持っていくだけ。それが、有用な助言を得られない理由であろうと考えました。社会的に見て、非常にもったいないことだと感じていたのです」

そうして長島氏は2年弱勤務した後、同社を退職。その間、戦災で焼失した自宅の跡地に、田舎で医師をしていた親せきから不要となった病棟をもらいうけて移築し、母たちと一緒に住むことになった。司法研修生の給料だけでも何とか一家で暮らせる算段がついたので、司法研修所へ入所。修習後は、東大で商法を教えていた矢沢惇教授の縁で紹介を受けた、所沢道夫法律事務所へイソ弁として入所した※1。弁護士新人時代はそれなりに失敗も経験したという。

「商社に対する三菱化成の債権回収で、当時としては相当大きな金額を扱うことになりました。その商社が名古屋の埠頭(ふとう)に多量の石炭を山積みにしていたので、それを仮差押えし、安心していました。ところが雨が続いたせいで石炭の山が自然発火し、煙が出ていると連絡が。すぐに消火を依頼し、慌てて裁判所から換価命令を得て、執行官に石炭を売却してもらい、辛うじてことなきを得ました。仮差押え命令を得て油断してしまい、自然発火の可能性に考えも及ばなかったための失敗で、今思い出しても恥ずかしい限りです」

多くの指導者、支援者に助けられた米国留学と研修

長島 安治

さて、所沢・長島法律事務所(後に「長島・大野法律事務所」と名称変更。以下、N&O)に入って7年後に、長島氏と同事務所にとって一つの転機が訪れる。それが、長島氏の米国留学と米国研修だ。

「修習生の同期の判事補から、前年の夏に4週間ほどのハーバードのサマーセミナーに参加した話を聞いてうらやましくなりまして。東大の矢沢先生にご相談したところ、『4週間ではどうにもならないだろう。今、司法研修所で米国の二つのロースクールが出す奨学金の受給候補者の選考をしているので、そちらを受けて1年間行ってみたらどうだ』と。無事に選考は通過したものの、1年も事務所を留守にするわけで、所沢さん、大野さん、福井さんらの賛成と協力なくしてはできませんでした。私が渉外をものにしたいとアメリカで3年も粘ったのは、とりもなおさず事務所の皆さんへの恩返しに、何か新しいスキルを事務所に持ち帰らなくてはと強く思ったからです」

この米国留学・研修にあたり、多くの方の支援や指導を受けた長島氏だが、中でも忘れがたいのは「終生のメンター」と慕う田辺公二判事(享年43歳)との出会いだ。田辺判事は自身の留学体験から、後輩のために奨学金を出してくれるよう、米国のロースクールへ熱心に働きかけた人物。長島氏は米国留学の準備から懇切丁寧に指導してくれた田辺判事に、あるとき素朴な疑問をぶつけた。

「裁判所の田辺さんがご苦労なさって奨学金の道を開かれたのですから、奨学金受給者は弁護士を含めることなく、裁判所の若い判事補に限られてもおかしくなかったのではと伺いました。すると田辺さんは言下に『長島君、今の日本の渉外法律実務は一貫して外国人弁護士、特に米国人弁護士に独占されている。こんな不自然なことはないだろう。日本の渉外の仕事は日本の弁護士が中心でやらねばならないんだ』と。留学前にそれを聞いた私は、田辺さんのおっしゃるとおりだと、心に火がつきました」

こうして長島氏は、ハーバード・ロースクールに1年間在学してLL.M.を取得。しかし1年では英語力も含めて満足のいく知識の習得ができず、もう1年スペシャルステューデントとして通学。2年在学してみて、「やはりまだ足りない」「渉外分野を日本の事務所で立ち上げるためには米国の法律事務所の実務をこの目で見なければならない」と思いHale&Dorr法律事務所やMilbank,Tweed,Hadley&McCloy法律事務所に勤務した※2。

「Milbank,Tweed,Hadley&McCloyでは、法廷の最終弁論に連れて行ってくれたり、証券発行の仕事に参加させてくれたり、銀行貸付契約の勉強をさせてくれたりと、多くの経験を積ませてくれました。当時の典型的なウォール・ストリート・ロー・ファームの弁護士の仕事の仕方、考え方、信条、暮らしぶり、ファームの組織、運用などを学びました」

同僚への恩返しで取り組んだ渉外分野の開拓

1964年、長島氏帰国。N&Oに1日も早く渉外の柱を作りたいと願う長島氏の前に、見えない壁が立ちふさがる。

「ある米国企業の社長が日本企業との契約に関して来日するというので紹介を受け、初めての渉外のクライアントだと喜び勇んで待っていました。しかしその社長は来るなり、『この契約書をタイプしておけ。後で誰か取りによこすから』といって、数枚の手書きのドラフトを突きつけて帰ってしまいました。そのときの落胆と屈辱は今でもありありと覚えています」

顧客もつかず、どうにも仕事がなかった時期、長島氏は自ら営業のまねごとを試みたこともあった。そうこうするうち、羽田空港で外資系航空各社の労働争議が勃発(ぼっぱつ)。これが、渉外弁護士として長島氏が頭角を現すきっかけとなった。

「N&Oでは労働問題も多く手掛けていましたし、福井弁護士の大活躍とアメリカから来てくれていた友人のスピード・キャロル弁護士のおかげもあって、航空各社の外国人マネージャーらにとっては満足のいく結果が出せたようです。そのことが、あるいは外国のビジネスマンのコミュニティ内で多少話題になったのか、依頼が次々と来るようになりました」

またキャロル氏の所属する法律事務所が、アメリカ・フランスなどの企業にN&Oを推薦してくれたこともあって、N&Oの渉外分野は確実に軌道に乗っていった。

このころの長島氏にとって、一つ思い出深い事件がある。

「1967年の『東京ヒルトン事件』です。東京急行電鉄(以下東急)が米国のヒルトンインターナショナルに経営を委託していた『東京ヒルトンホテル』について、ある日突然、東急がヒルトンに対して、ホテル運営委託契約の解除を通知。ヒルトン派遣の英国人総支配人を総支配人室から追い出し、別の日本人の総支配人を指名し、一夜にしてホテルの名称も変え、ホテルの経営を実力で手中に収めました。私たちはそのとき、ヒルトン側の弁護を引き受けました。東急が『東急によるホテルの経営を妨害してはならない』という仮処分申請をしたのに対し、こちらは正反対の仮処分申請を東京地方裁判所に提出。アメリカの著名な新聞には『日本の裁判は遅いことで悪名が高いうえ、裁判官は国家主義的だから、長期間の審理の後、必ずヒルトンを負かすだろう』という記事が出ました。仮処分の審尋の際、東急側の弁護士は年かさだったせいもあってか、ずいぶん居丈高でしてね。また、私たちは米国の企業の手先を務める国賊だといわんばかりでした。ぜひとも勝ちたいと思いました。なぜならもしも負けたら『日本の裁判官は国家主義的で外国企業を排除した』と言われかねない。幸い裁判所は3週間でヒルトンが申請したとおりの仮処分命令を出し、私たちは勝ちました。『日本の裁判所は公正。外国の企業を一方的に排撃することはない』ことが証明されたわけで、うれしかったですね」

このころはまだ、日本人が敗戦のショックから立ち直ろうとしていた時代。「なぜ戦争に負けたのか」と議論・慨嘆する若者も多かった。アメリカへ留学した長島氏にも「日本を良い国にしたいからこそ」という思いがあったのは間違いない。その長島氏がこうした裁判で「日本の公正さ」を証明できたことには、大きな意義があったろう。

大ビジネス・ロー・ファームの誕生

長島 安治

アンフェアなことは決してしない。よい仕事を生きがいにする。協調を重んずる。そうした弁護士が集まれば、法律事務所の組織は発展していきます

やがて渉外分野を中心に世に知られるようになったN&Oは、「時代の要請にこたえて企業活動に関するすべての法律分野を扱うフル・サービス・ファーム」たらんことを目標とするようになった。そこで2000年、金融分野に強い「常松簗瀬関根(TYS)」と合併。一般民事商法に加えて労働法、訴訟法、税法、独禁法、証券取引法、知的財産法、保険法などの分野で専門化が進んでいたものの、金融関係(例えば証券発行)の分野では出遅れていたことが、TYSとの合併の理由だ。これにより「長島・大野・常松法律事務所」が誕生。日本における法律事務所大型化の先駆けとなった※3。長島氏はずいぶん昔から、法律事務所の組織化・大型化を掲げていた。それは三菱化成時代に「個々の弁護士の知識・経験を蓄積するための仕組みの必要性」を痛感したから。その実現方法については、司法修習生時代に読んだ、ある法律雑誌の記事(東大・高柳賢三教授の寄稿)に啓示を受けた。

「アメリカへ出張した高柳先生が、ある会社の法務部を訪問したところ、そこには40〜50人もの弁護士がいてびっくりしたと書いておられた。彼らは、会社法、独占禁止法、特許法、労働法、税法などそれぞれが専門分野を持ってやっていたと。それを読んだときに、これだと思いました。これを目指さなくてはいけないと思ったのです」

つまり補助者を含め各分野の専門弁護士を多く有することで、クライアントに対しては「ワン・ストップ・ショッピング」を提供でき、法律事務所としては多種多様で大型の案件も引き受けられるようになる。それに取り組むことによって、内部で「専門化」がさらに進む。この循環が事務所を発展させ、法律事務所を世の中の役に立つ永続的な組織にできるであろうと、長島氏は考えたわけだ。

「弁護士になったばかりのころ、同期は1〜2年以内に独立して自分の事務所を開きたいと熱心に話していましたが、私だけは『独立はしない。今勤めている二人だけの小さい事務所を組織化していく』と述べた。そんな昔から、今のような状況を望んでいたのです。私に弁護士としての取りえがあるとすれば、それは、早い時期から法律事務所を永続的な組織にすることと、大型化による専門化を念願し、それに取り組み続けてきたということかもしれません」

生涯、社会の役に立てる弁護士に

長島 安治

「弁護士3000人時代」。これまで、多くの弁護士たちのための活躍の場を切り開き続けてきた長島氏に、意見を求めた。

「いったん決まった年間司法試験合格者3000人という目標について、ブレーキをかけようとすることには賛成できない。潜在的に、この社会で弁護士が活躍しなければならない場面はたくさんある。『250人時代』の私が言うと反発を招くかもしれませんが…弁護士増員に対する反対意見として、よく『職(就職先)がないから』と言いますが、私の見るところではおそらく、雇う側も雇われる側も『弁護士だから報酬は高くて当然』という前提に立ってしまうからではないでしょうか。若い方に伝えたいのは、やりがいのある仕事は企業や自治体やNGO、NPOなどを含め実に多いということ。目先の収入にとらわれないでほしいということ。どんな持ち場であってもまじめに一生懸命取り組んでいれば、世の中は存外公平なもので、そういう人を捨ててはおかないものです」

長島氏は同事務所の顧問という立場で、83歳となった今も依頼者のために法廷に立ち、意見書を書き、愛車を自ら運転して働く。

「これは、あの戦争の時代に青年期を送った同世代の人でなければわかっていただけないかもしれませんが…。第二次大戦では士官学校関係者だけでも特攻を含め、おびただしい数の先輩が死にました。同期でも、空輸中に山に激突した者、ソ連機に襲われて爆死した者、シベリア抑留中に落命した者が少なくありません。戦死なさった方の中には、私などより、よほど能力があって人格も優れ、生きていたならきっと日本に大きな貢献をしただろうという方々が非常に多くおられるのです。どんなに無念だったろうと本当に胸が痛みます。そして、たまたま運良く生き残った私には、悠々自適の日々を送る資格はない気がするのです。まだ働かせてもらう場があれば国に税金も納められる。応分の寄付もできる。まじめで有為な若い弁護士の育成を、少しは手助けすることもできる。なろうことなら、非常に多くの方々が命を犠牲にしてまで守ろうとなさったこの国の荷物にはなりたくないのです。客観的に見て、いまだ役に立つと世間に判断してもらえる間は働き続けたい、そう思っています」

※1/入所してから7年余りの後、所沢道夫法律事務所をパートナーシップに切り替え、「所沢・長島法律事務所」を設立(1961年)。のちに「長島・大野法律事務所」と名称変更。これが現在のNO&Tの基盤となった。N&Oの創設メンバーである大野義夫氏、および福井富男氏とは、所沢道夫氏の個人事務所であったころからのお仲間。

※2/「Hale&Dorr(現Wilmer Cutler Pickering Hale and Dorr)法律事務所」(ボストン)にサマークラークとして勤務。その後、「Milbank,Tweed,Hadley&McCloy法律事務所(ニューヨーク)」にフォーリンアソシエイトとして勤務。

※3/この合併当時は、長島氏はN&Oのパートナーシップからは定年退職して顧問になっていた。