Vol.23
HOME弁護士の肖像弁護士 河合 弘之
  • ご意見・ご感想はこちら
  • 無料 転職支援サービスに今すぐ申し込む
  • 無料メンバー登録 将来のために情報収集をスタート
  • 弁護士や法務の転職・求人情報なら弁護士転職.jp
河合 弘之

HUMAN HISTORY

弁護士ほど社会に役立てる仕事はない。大事にすべきは、自分の能力、意欲を見極め、本気でやること

さくら共同法律事務所
弁護士

河合 弘之

何事にも長けた才。少年期から早々にリーダー力を発揮

晴れて司法試験に合格した時、河合弘之の胸中には強烈な思いがあった。「ビジネスの世界でバンバン仕事して成功する。そして自由と正義、人権のために戦う。両方やるんだ」。それが、河合の〝なりたい弁護士像〟だった。以来40年余り、思い定めたとおりに駆け抜けてきた。ビジネス弁護士として企業間訴訟や倒産事件などに辣腕を振るい、他方、中国残留孤児救済に代表される社会貢献活動にも心血を注ぐ。さながら二刀流だ。さらに「脱原発」に向けて立ち上がって15年。ここにきて、河合は多忙を極めている。

満州(現・中国東北地方)の長春生まれ。生死の境を越えて、日本に引き揚げてきたのは2歳の時だった。万般において力をたぎらせる河合の生き方―そのルーツはここにある。

父が満州に渡ったのは1935年。京都大学の出身なんですが、内地では東大出に頭を押さえられて出世は望めないと、新卒でいきなり満州の地を踏み、満州電業という強大な国策会社に入社したのです。僕は終戦の1年前に生まれて、長春にいたのはわずか2年だから記憶はないけれど、父がのちに「生涯で一番豊かな時代だった」と言うほど、生活は裕福でした。

でもさすがに、敗戦の年から引き揚げが決まるまでの1年間は大変だったようです。僕らが住んでいた社宅にもロシア兵が侵入してきたから、身を潜めながらの生活でね。それでも父は逞しくて、家財や母の着物を街で売りながら食料を手に入れていました。近くの湖に出かけては魚やザリガニを獲って、僕ら子供たちのタンパク源を確保したり。帰国してからも、父には一貫した逞しさを感じていました。権力におもねるようなことは決してなく、常に批判の目を持っていた人で、その空気が〝伝染〟したのかもしれない。僕に、安全に人生を渡ろうという思考がまったくないのは、父の影響でしょう。

河合にはひとつ違いの弟がいたが、引き揚げの途中で命を落としている。幼い体に栄養失調は耐えられなかった。2歳だった河合にしても、それは紙一重のこと。「この子まで死なせてしまっては生きている甲斐がない」。母親は、そう自分に言い聞かせたそうだ。一歩間違えば、河合も死んでいたか、中国で残留孤児になっていたかもしれない。本人に当時の記憶はなくとも、そこには運命の分かれ道があった。

やっとの思いで父の故郷である丹波篠山にたどり着いた時には、僕もひどい栄養失調で。医者から「もう1日遅かったら、この子も亡くなっていた」と言われたそうです。それから一生懸命栄養をつけて生き延びた。だから僕は、ひ弱な子供だったんですよ。家の裏の小川のそばで、居眠りばかりしているような。信じられないでしょう(笑)。弟はね……今でもかわいそうなことをしたと思います。俺はこんなに充実した人生を送っているのにと。

その後、父がキャリアを生かして電源開発に勤めることになったので、東京に移住しました。小学校時代にはすっかり元気になっていて、友だちも多かった。自主的な子供でね、記憶に強く残っているのは、ガリ版刷りの勉強材料を100号まで出したこと。たとえば、日本地図に県庁所在地や特産品を書き込むとか、みんなで宿題を考えてレポート出し合うという感じ。そんなことをリーダー格でやっていました。何より、この頃から口が立った(笑)。3年の時、担任の先生から「河合君は本当によくしゃべる。口から生まれてきたみたいだね。弁護士になるといいよ」って言われたんですから。ああそうか。僕は弁護士になればいいんだと素直に思ったりして。この時からずっと意識してきたわけじゃないけど、頭のどこかに、弁護士という職業がインプットされたような気がします。

フルパワー全開。充足の学生時代を経て弁護士の道を踏み出す

  • 河合 弘之
  • 河合 弘之

学業優秀なのはもちろん、河合は運動能力にも長けている。小柄ながら相撲なども強く、自分よりうんと大きな相手でも〝技〟で投げ飛ばした。とりわけ熱中したのは卓球である。小学校3年から始めて、中学・高校時代、さらに東京大学に進学して司法試験に臨む際まで、長くエースとして活躍した。

小学校の先生の勧めで、中・高一貫校である桐朋学園に進学しました。入学試験の成績は特に良かったわけじゃないのに、僕は環境の変わり目に強いのか、バッと頑張ったら、いきなり成績1番になっちゃって。勉強もよくしたし、ひたすら卓球に打ち込み、生徒会活動も仕切り、桐朋の6年間は、僕の人格を形成した豊かな時代でした。

国立市の小学生卓球大会で2連覇。高校2、3年の時には東京都下大会で連続優勝。ただ、どうしても東京都の代表にはなれなかった。高校球児が甲子園を目指すように、僕らも国体やインターハイに出たくてものすごく頑張ったんですけど、いつも代表決定戦で惜敗。悔しくて泣いてましたねぇ。

進路を考える段になって、医者になりたい気持ちもあったのですが、僕は理系が苦手で。じゃあ東大だったら、法学部かと。で、父に相談したら「会社員なんてつまらんぞ。給料は決まっているし、歯車のひとつなんだから」って言うわけですよ。そこで出てきたのが、かつて頭にインプットされた弁護士という職業。それはいいと、父も勧める。だから、僕は東大法学部を目指した時には、弁護士になると固く決めていました。

東大に合格して最初にやったことは、やはり卓球(笑)。入学式を迎える前に卓球部の合宿に顔を出して、「入れてください」。その春のリーグ選からレギュラーですよ。当時の目標は、関東学生リーグ2部への昇格。それは、高校の頃の国体出場より一層強い願いとなって、仲間と必死になって頑張った。3年の秋に昇格した時は、もう大変な達成感でした。4年になると司法試験があるから試合には出られなかったけど、それでも試験勉強の最中に駆り出されて、リーグ入れ替え戦で3部への陥落を食い止めたこともあるんですよ。

3年生で司法試験に初挑戦。万全な準備で臨んだわけではなかったが、答式試験でいきなり合格。この時、東大法学部3年で合格者3名だったというから快挙だが、「まぐれだったから当然、論文式は落ち」。翌年も同じ結果で、さすがの河合も不安にかられた。合格しなかった時のことを考え、役人になろうか、大手企業に勤めようかと、一時は迷いもしたらしい。が、本格的な勉強に入ってからは1日14時間の集中体制。それを1年半。「人生で一番苦しい時期だった」と振り返る。

この頃、好きな女の子がいたんだけど、デートする時間も取れないから、ほかのヤツに取られちゃった。「司法試験に受かるまで待ってて」と言ってたのに(笑)。1日14時間ってね、8時間睡眠を取ると残り2時間だもの。食事と風呂以外、何もできないですよ。「司法試験に受からないと俺の人生は開けない」と思い詰めていました。勉強のために大学を1年留年し、合格したのは5年生の秋。人生で一番苦しかっただけに、天にも昇る気持ちでした。

司法修習を終えて勤務したのは、国鉄労働組合などの顧問弁護士をしていた虎の門法律事務所。学生運動や労働運動が盛んな時代でね、その影響を受けたのです。僕は完全なノンポリで、学生時代にやっていたことは司法試験の勉強とマージャン、そして卓球でしょ。社会を見て、「僕は今まで何をしていたのか」と。人権や正義にかかわる闘争に感じるところがあって、虎の門法律事務所の門を叩いたわけです。

労働弁護士としてスタートし、学生運動事件の弁護をたくさん引き受けました。毎日、三桁の数の逮捕者が出ていた頃です。血をたぎらせ、接見などに駆けずり回っていました。そんなある日、のちに最高裁判事になられた大野正男先生に言われたんですよ。「河合君、イソ弁というのはその場にいて、すぐ役に立たなきゃいけないんだよ」。もっと事務所にいなさいと叱られた。引け目に感じて、しばらくは在所するようにしたのですが、社会変革のために闘う若者の味方になりたくて、やっぱり走り回っていた。事務所の労働事件を手伝ったり、交通事故関係の仕事もしましたが、ほとんど事務所の役には立っていなかったですね、僕は。

独立して事務所開設。"河合流"戦法で、実績とその名を挙げる

河合 弘之

延べての勝率より、“語るに足りる事件”で負けないこと。僕の価値基準はここにある

結局、河合は2年勤務したところで虎の門法律事務所を辞め、72年4月、同じ22期生である竹内康二弁護士と河合・竹内法律事務所(91年、さくら共同法律事務所に改称)を開設する。今日にいたるまで、竹内氏とは、実に40年来の付き合いである。開設当時、2人は弱冠27歳。蓄えなどない。神田に10坪ほどの小さな事務所を借りて、文字どおりゼロからスタートした。

学生弁護や労働事件を扱いながらも、弁護士として早く成功したい、稼ぎたいという思いがあったから、ビジネスの世界で挑戦しようと独立の道を選んだのです。僕はそのへんが生臭いというか、俗っぽいというか⋯⋯清濁、両方好きなんですよ。顧問先や受任事件もない状態でのスタートでしたが、懸命にやれば必ず依頼者を獲得できるという自信があったので、不安はなかった。意気軒昂ですよ。それに、何より経費がかからなかった。家賃6万円、ほかに電話代や事務員の給料を合わせても、事務所経費は月10万円程度。今では考えられない物価の安さでしたね。

最初の仕事は、国立市にあった不動産屋さんで、家賃不払いの店子を立ち退かせること。報酬は3万円ぐらいだったかなぁ。この頃は、売り上げ即利益で良かった(笑)。事件の種類としては一般民事事件が大部分でしたが。

依頼者を増やすのにはタテ型とヨコ型があります。タテ型はいわば本道で、ひとつの事件に精根傾けて成果を出す。感謝されれば、依頼者が次の依頼者を連れてきてくれて、ねずみ算式に増えます。ヨコ型は、たとえば業界団体やロータリークラブに入ったり、同窓会に出向いて人脈を広げるというもの。そして、そこから事件がきたらタテ型でいく。僕は、常にこの両方を意識しながら仕事内容を広げてきた。先輩弁護士などからの紹介もあって、徐々に会社更生や会社整理、和議事件などを扱うようになり、集団的債務処理事件を手がける事務所としての素地を確立していったのです。

昔から、弁護士が営業するなんて卑しいという考えがあるでしょう。今もその気風は残っていますが、なぜ弁護士は宣伝をしちゃいけないのだろうと、ずっと思っていました。だから、弁護士業務広告の解禁についても僕は積極論者で、解禁に向けて日弁連の総会で賛成演説もしたんですよ。

70年代後半、80年代に入って、事務所は繁忙さを増す。集団的債務処理事件を取り扱う一方、会社経営権をめぐる事件や知財関係などの事件が増え、扱う事件の規模も格段に大きくなっていった。著名事件としてはダグラス・グラマン事件(78年)をはじめ、リッカー会社更生及び商法違反事件(84年)、平和相互銀行事件(86年)、国際航業事件(88年)、秀和対忠実屋・いなげや事件(89年)などが挙げられる。数々、大きく報道された重大事件において功を収めた河合は、凄腕のビジネス弁護士として、その名を広く知られるようになる。

強く印象に残っているのは秀和対忠実屋・いなげや事件ですね。秀和にかなりの株を買い占められた両社が、秀和の持株比率を下げるために、相互に超安値で第三者割当増資を引き受け合った事件です。相互の割当値が、前日終値の3分の1とか5分の1とか、すごいことをやったんですよ。その相手の強力な陣容(野村証券と森総合)に対し、秀和側の弁護士は僕だけ。周りからは「河合が勝てるわけない」と言われたものです。結果は、新株発行禁止仮処分で差し止めることができたわけですが、僕が狙った争点はひとつ。たとえば1000円で買った人がいる株を、翌日、別の人に200円で割り当てるなどという話は庶民が許しません。市場の透明性を害する、そこに絞った。この仮処分決定は高く評価され、今でも会社法判例百選に載っています。東証のルールも変えさせました。

もう少し最近だと、03年のロッテ対グリコの比較広告事件でしょうか。グリコが出した「ガム虫歯修復効果5倍」という比較広告にまつわる訴訟です。僕はロッテ側の代理人として、損害賠償や広告差し止めを求めたわけですが、一審では負け。その後、控訴審で僕が攻めていったのは、5倍の効果を立証する再現実験の実施です。グリコ側は「1回実験をして結果が出ているのだから、もう1回する必要はない」の一点張りで、結果、それは立証拒否として見なされ逆転勝訴となった。

僕のやり方は自己流。事件を通観し、相手の陣形をよーく見て、一番弱いところに大鉈を振るうの。よく知る人に「河合さんのケンカは小刀を振り回すのではなく、相手の弱点にドカンと一発ナタをぶち込んで終わりなんだよね」と言われます。先輩弁護士の中には、イヤな顔をする人もいますけど(笑)。ディテールを一つ一つ詰めていくスタイルが本道かもしれないけど、僕は細いことが苦手だし、作戦を立てるのが好きなんです。もっとも効率的な方法を。そしてもうひとつ。僕にとって重要なのは、一度引き受けたら、負けを恐れずに勝負すること。特に、「語るに足りる事件で絶対に負けない」。実際、ここ一番の勝負が、自分の仕事人生の大きなターニングポイントとなってきました。そもそも、無敗の弁護士なんて信用できません。それって戦ってないということですから。

今こそ最大の正念場。未来の代理人として、脱原発に死力を尽くす

河合 弘之

人権、環境、エネルギーなど、河合はさまざまな分野で社会貢献活動に取り組んでいるが、中でも、中国残留孤児の就籍(国籍取得)支援については、30年にわたって継続中だ。追って始めたフィリピン残留日本人の救済と共に、河合のライフワークとなっている。当初は静観していた厚生省も、実績の増加に伴い、これを重要な支援業務として認定。96年からは、正式に日本財団が補助金を支出するようになった。発端は、河合が目に留めた朝日新聞の記事だった。

81年12月に報道された「徐明事件」です。この前年、残留孤児・徐明さんと文通していたある男性が「私の娘です」と断言したのです。徐明さんは来日し、感激の対面を果たしたものの、行われた血液鑑定の結果は親子関係を否定するものでした。それで強制送還されそうになっていた。僕が読んだのは、この記事です。身元未判明の孤児こそ救済が必要なのに、とんでもない話ですよ。僕だってそうなっていたかもしれない⋯⋯看過できない出来事でした。「徐明さんを支援する会」に連絡して、任せてくれと。いわば押しかけ弁護士です。

この事件でも、どんな作戦に出るかをよくよく考えました。通常なら国籍確認訴訟を起こすところでしょうが、僕は、家裁に就籍手続きを申請することにした。国を相手に裁判なんてやったら対立構造になってすごく時間がかかるし、負け戦になる。“愛の裁判所”なら認めてくれるだろうと。戸籍が取れれば誰も不服申し立てなんてしないから、一審でおしまいでしょ。

結果、事件報道から半年後に徐明さんの就籍許可がおりました。のちに身元が判明し、肉親との正式な対面もかなったのです。うちの事務所で日本国籍を取得した中国残留孤児の数は、現在1250名。若い弁護士たちが頑張ってくれています。フィリピン残留日本人の救済にも同様に取り組んでいますが、これからは彼らの就労支援や年金問題に重点を移し、引き続き尽力したいと思っています。

もうひとつのライフワーク。それは、冒頭で触れた「脱原発」運動と訴訟である。15年ほど前、核化学者で“反原発の父”と呼ばれた故・高木仁三郎氏と縁を得たことがきっかけだった。環境問題に強い関心を持っていた河合は、高木氏と接する中、「原発こそが最大の環境問題である」という結論にたどり着く。巨大権力や推進論者との闘いは、敵意と憎悪に向き合うことでもある。連敗しながら、ひどく精神を消耗させながら、それでも河合は闘い続けてきた。しかし、3・11の福島原発重大事故によって、潮目は大きく変わった。

浜岡原発の運転差し止め訴訟は、02年から弁護団長として闘ってきました。浜岡から挑んだのは、ここが一番危ないと思ったからです。想定東海大地震は来るし、首都圏にはわずか180km、事故が起きたら日本は実質壊滅する。浜岡から一点突破、全面展開しようと考えたわけです。ところが当時、立ち上がる原告団がいなかった。中部電力の城下町みたいなものですからね。僕は静岡のさまざまな集会に出て、「怖くないんですか。一番被害を受けるのはあなた方なんですよ」と、説得を続けました。すると「やってくれる弁護士はいないし、お金もない」。なら、弁護団は僕がつくる。全部手弁当でやるからと申し出たら、燎原の火のごとく原告団が立ち上がったのです。

それでも、ほかを含めてこれまで原発裁判は20連敗。我々は「ありもしないことを大げさに騒ぐオオカミ少年」だと言われ続けてきたのです。それが、不幸にして本当に重大事故が起きてしまった。今年5月、菅首相が浜岡原発の全機停止を断行したのは大英断だと思っていますが、こんな大事故ではなく、僕らの運動や裁判で事態を変えるべきだったとも思う。でも、3月11日は国民的価値観の転換点になった。原発に批判的、消極的な意見が増え、流れは明らかに変わっています。今が正念場。日本を放射能のない安心な国にする最後のチャンスなのです。ビジネス弁護士としてこれまでどおりの仕事をしながら、原発を全機廃炉に追い込む――それを僕の集大成にするべく、これからは持てる力をすべて集中させていきます。

僕はね、後進に自分の価値観や生き方を押し付けるようなことはしたくない。人それぞれでいい。ただ、はっきり伝えておきたいのは、弁護士ほど社会に役立てる仕事はないということ。大前提として、その自覚と誇りを持ってほしいのです。自分の能力や思考、やりたいことを見極めて、次に、それがどれだけ社会に役立つかをよく考える。その両軸に立ち、“血わき肉躍る”がごとく本気になれば、自分にしかできない価値ある仕事が必ずできます。

※本文中敬称略