Vol.5
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相澤 光江

HUMAN HISTORY

野望、あるいは夢といってもいい。野心を持つことで明確な目標ができ、より良い仕事、クライアントを獲得する意欲が湧いてくる

ビンガム・マカッチェン・ムラセ外国法事務弁護士事務所
坂井・三村・相澤法律事務所
弁護士

相澤 光江

経済学部出身。建設省勤務。出産後の挑戦

相澤光江。その名が広く知られるようになったのは、戦後の日本経済が大きく揺らいだ1997年。金融危機で経営破綻した、山一証券の自主廃業・破産申立に関与したことだ。国内金融業界の一角を占めた巨大企業が、巨額の簿外債務を抱えて突然の自主廃業に追い込まれるという前例のない難案件が軟着陸できたのも、倒産や企業再生を数多く手がけてきた相澤光江氏と同氏の率いる新東京法律事務所(当時)の存在が大きく貢献したと評された。

異色の経歴、と言えるかもしれない。出身の慶應義塾大学では、経済学研究科の修士課程を修了。その後は6年間、建設省(現・国土交通省)で働いた。ところが、3人目の子どもを出産すると、なぜか司法試験に挑戦。司法修習を終えると、3人の子どもを連れて米国へと渡った。帰国後は三宅・今井・池田法律事務所に勤務したが、3年半で独立。新東京法律事務所の開設を果たした。それから22年が経過した昨年の10月、彼女は20名以上の所属弁護士を連れて、一足早く経営統合した坂井・三村法律事務所とともにビンガム・マカッチェン・ムラセに合流することを決めた。

そんな相澤氏は、女性ビジネスロイヤーの第一人者として、また法律事務所の経営者として、これまでにも大きな偉業を成し遂げてきた。

「特別なことをしたとは思っていないんです。ひとつだけ、ほかの弁護士との違いを挙げるとすれば、自らの力でクライアントを獲得してきたことかもしれません。当時のビジネスワールドは、いわゆる“男性社会”。苦労もしましたが、運も良かったのでしょう。けれど“運”だけで語り尽せないこともあります」

常に、社会に資することを考え、自ら身をもって行動し続けることに意義があると語る。

「何より良かったのは、ゼロから法律事務所をつくり、零細企業の経営者と同じ苦労をしてきたことです。経理や人事の仕事はもちろん、資金繰りや営業のことで頭がいっぱいになることもありました。だからこそ、依頼者でもある経営者が持つ悩みを心底理解できたし、共有できた。結果、依頼者から大きな信頼を得られ、企業の運命を決する戦略上の相談にも答えることができたと思っています」

経歴からもわかるように、相澤氏は早くから法曹の道を志したわけでない。むしろ、そのキャリアは見えない「壁」との戦いの歴史だった。

男女平等を語るなら経済的自立は重要

相澤氏は、宇都宮に生まれた。子どもの頃は、おとなしい女の子だったという。堅実で現実的。小学校2年生のとき、担任の先生から将来の夢を聞かれ、「花屋の店員」と答えた。そんな彼女にリベラルな志向が生まれたのは、宇都宮大学附属中学校に入ってからのことである。全県下統一テストで首位を収めるなど、成績優秀だった彼女は自治会委員長を務め、成績を競い合う男子生徒たちからも支持を得た。

「試験が終われば、成績上位者の順位が発表されるような学校。こうなると、男も女もないわけです。勉強や自治会活動では、男女は対等だし平等。そんな民主主義的な校風の影響を、強く受けたのだと思います」

ところが高校受験を意識しはじめた頃、近隣の高校に男子優位の志向が根付いていることを知る。男子校と女子校に分かれ、そのレベルは明らかに男子校のほうが高かった。

「それで、地元の高校に進学するのをやめたんです。上京して、東京の高校、大学に入れば、そんなことはないだろうと。就職も、男女対等にできると思ったんですね」

ユニークなのは、中学生のときに男女平等の本質のひとつをすでに見抜いていたことである。

「男女平等を語る以上は、女性にもある程度の稼ぎが必要、ということです。父母の関係を見ても、専業主婦だった母の立場は明らかに弱かった。母には申しわけないのですが、これではいけない、と」

そんな彼女が進学先に選んだのが、慶應義塾女子高等学校だった。高校時代は、もっぱら新聞部の活動に明け暮れた。3年時には、部長として毎月発行の新聞記事のほとんどを執筆。さらには資金ねん出のため、授業そっちのけで広告取りに汗を流す毎日だった。そして高校を卒業すると、伝統ある看板学部の経済学部に進んだ。ところが、大学3年になって就職活動が始まると、彼女は驚愕することになる。校内に掲示された就職のための求人情報に、女性の募集が一切なかったからである。

「これはショックでしたね。なかには大手企業に就職する女性もいましたが、すべて縁故。男性社員のお嫁さん候補というわけです。企業にしてみれば、大事な男性社員の良妻には、身元のしっかりした人を、ということだったのでしょう。それが企業の利益にかなうと。当時、女性は戦力ではなかったということです」

ひとつの選択肢を失った彼女は、大学に残るという道を選ぶ。だが、その大学院で、研究者には向かないと自ら気づかされることになる。

「抽象的に書いてある本を読んで、独創的な学説を導き出す。こういう考え方に苦しみましてね。何とか論文を書き上げると、指導教授にも『向いてないね』と断言されてしまって(笑)」

実はこの頃、相澤氏には結婚を決めた男性がいた。医学部の助手で、無給のインターン。「相手が稼げないのなら、私が稼ぐほかない」と決めたのが、公務員だった。

司法試験受験は、残された唯一の道だった

相澤 光江

建設省入省直後に結婚。官庁の仕事は安定していた。一生、務めようと思えばそれも可能だ。しかし、仕事と家庭の両立に苦労するなか、役人の仕事には限界を感じはじめていた。男女差別もまだ残っていた。

「この間に子どもが3人生まれ、生活費もかかるようになりました。若手公務員は給料が少ないですから、私の給料はベビーシッター代に右から左。夫に言われましてね。『君が働いても一銭も残らない。子どもを他人に預けてまで働いている意味がない』と。事実なんですが、これがこたえました(笑)。手っ取り早く稼ぐには、資格を取る必要があるかなと。それで浮かんだのが、司法試験でした」

建設省を退職し、3人の子どもを保育園に預け、受験勉強に向かう日々。夜は、勉強のために、子どもを叱りつけて寝かせたこともあったという。しかしなぜ、そこまでして司法試験だったのか。

「やっぱり自分の力を世の中に資して、生きている実感を得たかったんでしょうね。社会と関わり続けたかった。その残された唯一の道が、司法試験に合格することだと思い込んでいたんです」

だが、これが功を奏す。受験は3回まで、と自らリミットを決めたことも良かった。効率的な勉強が可能になり、2回目の挑戦で見事合格を果たした。弁護修習の場は、後に大きな影響を受けることになる故三宅省三氏の事務所に決まった。

「通勤しやすいエリアを指定させてもらったら、そこに偶然、三宅先生の事務所があったんです」と笑うが、経済学部出身の相澤氏は、人一倍、企業法務に興味を持っていた。そんな彼女が、倒産実務のプロフェッショナルと呼ばれる三宅氏のもとに送り込まれた偶然。当時すでに気鋭の中堅弁護士だった三宅氏から、ビジネスロイヤーとしての基本を叩き込まれたのである。

そして修習を終えると渡米を決意。2年間、アメリカ・ワシントンDCで暮らした。後に国際的なM&Aに携わったり、外国法事務所に籍を置くなど、将来に向けた準備のためかと思いきや、実はまったく違ったらしい。

「そんなかっこいい理由ではなかったんです(笑)。当時、作家の桐島洋子さんが1年間休業して、3人のお子さんとアメリカで暮らした経験を綴ったエッセイがあったでしょう。それを読んだ夫が感化されまして(笑)。それで、『子どもには、幼い頃にこそこういう異文化体験をさせるべきだ。お前が3人を連れて行ってきたら』と」

それまで、海外に行ったことなどなかった。英語は、聞けず・話せず・書けずの三重苦。だが35歳で、10歳、8歳、6歳の子どもを連れ、アメリカに旅立つのである。そして、予定もしていなかったハワード大学のロースクールへ入学する。

「最初は英語学校に入ったところ、あっという間に卒業させられてしまって。こうなると、ビザが切れてしまう。だからロースクールにでも潜入して、滞在期間を延長しようという横しまな発想です(笑)」

この頃には、講義や教科書は何とか理解できるようになっていた。しかし議論の場になると、語学力がついていかない。アメリカ人の積極性や貪欲性に圧倒されてばかりいては面白くないと奮起。卒業の頃には実践的な英語力と大抵のことでは動じない度胸を得ていた。

「不思議なことに、頭に血が上ると流暢な英語が出てくるんです。ケンカするたびに英語が上達するので、周囲からも驚かれました(笑)」

もちろん、米国での生活は3人の子どもにとっても、間違いなく好影響を与えた。語学力、複眼的なモノの見方、外国人に対する対応……。余談になるが、その後、長女は医者、長男は弁護士になり、次女は留学後にアメリカで結婚。米国で幸せな結婚生活を送っているという。

詐欺事件の被告人が持ってきた恩返し

帰国後、修習時代を送った三宅・今井・池田法律事務所に勤務することになったのには理由がある。

「当時、女性弁護士の就職は非常に難しかったんです。女性弁護士が対応に出ると、『男の弁護士を出せ』と言われ、クライアントも女性が担当に就くことを嫌がる風潮がありました。そんなとき、三宅先生に、ある女性弁護士がかみついたんです。外では革新的な平等思想を語っているのに、自身の事務所に女性弁護士を置かないのはおかしいと。三宅先生が立派なところは、間違いを素直に認めるところでして。それで、『そういえば、以前うちにも女性修習生が来たな』と、私のことを思い出してくれて。お世話になることにしました」

事務所は倒産関連の事案が圧倒的に増えていた。会社更生、破産管財事件に和議、特別清算……。相澤氏はいきなり第一線に放り込まれ、実務に就いた。そして3人の有能なボスに囲まれ、弁護士業務の基本を学ぶとともに、倒産事件の大変さと奥の深さを体感する。

さらにもうひとつ、幸運なことがあった。経済学部出身の彼女には、すでにビジネスの世界で活躍する多くの友人がいたが、それらの友人達とは学生時代からのつき合いで、強い信頼関係ができていた。そのため、弁護士となった彼女のもとには友人を介して多くの相談が舞い込んだ。やがて自ら獲得したクライアントからの収入が、事務所の給料を超えるようになり独立を決意。彼女の弁護士人生を変える出来事が、起きるのである。

きっかけは、怒濤の忙しさが一息ついたある日の昼下がり。弁護士会からの電話が鳴った。引き受け手の見つからない、国選の控訴審事件の弁護人を引き受けてほしいというのだ。聞けば、詐欺の否認事件で、被告人は一審の弁護人に対して強い不満を持っているという。

「しかも被告人は、同種の前科で服役経験もありました。親族からも見放されていましたが、私は毎日のように拘置所に足を運び、部厚い記録と格闘しながら懸命に弁護活動を行いました。けれど控訴は棄却され、被告人は刑務所生活を送ることになったのです。ところが、その被告人が、たいそう感謝してくれましてね。『自分のような者に何の偏見も持たず、よくぞ、ここまで手を尽くしてくれた』と、」

それから3年後。出所した被告人は、恩返しをしたいと、知り合いのマチ金業者を連れてきたのである。

「そのマチ金業者は、手形を割ってやった町工場から金を回収できず、困っていると。最初は断るつもりだったのですが、聞いているうちに、その町工場のほうに関心が行きましてね。小さな工場でしたが、日本でも珍しい、特殊な部品をつくっていました。ここで、その工場が倒産してしまったら、従業員を路頭に迷わせるばかりか、日本の貴重な技術まで失うことになると思ったのです」

何とか、この町工場を倒産から救いたい——。故三宅省三氏のもとで積んだ倒産事件の経験と知識を頼りに、相澤氏は立ち上がり、再建に伴うトラブルの解決に向かった。そして、この様子が新聞で報じられると、偶然にもそれを見た、という人から連絡があった。

「上場企業3社を束ねる社長が、町工場を買収して再建に協力してくれるというのです。翌日、その社長を工場に案内すると、現場の人たちとすっかり意気投合しましてね。皆で缶ビールを片手に、再建を誓い合ったのです」

ところがその数日後、町工場で金額白地手形を発行していた事実が発覚。それは暴力団の手に渡り、巨額の債権のために工場には抵当権が設定されていることもわかった。

「よりによって暴力団が関係しているとは……。町工場の経営者も社員も、その家族や債権者たちも大喜びだったんですよ。この人たちを天国から地獄に突き落とすようなことだけは、絶対にしてはならないと思いました。それで対決することにしたんです、暴力団と。彼らも、その工場が倒産してしまったら、元も子もありませんからね。冷静沈着に、そして確実に手形を回収できるよう交渉し続けた結果、話は終息。倒産の危機から救うことができたのです」

リーガルニーズは社会と経済の動向で決まる

相澤 光江

再生の過程は修羅場。そこで主導的役割を果たすには、労を惜しまず、先入観を持たず、真剣に取り組むことです

相澤 光江

この一件で、相澤氏は先の上場企業の社長に気に入られ、上場3社の顧問を任せられた。株主総会の指導、アメリカでの子会社のチャプター11の申立、外資との合弁解消に伴うトラブル解決など、ビジネスロイヤーとして多くの貴重な経験を積んだ。

「未熟な女性弁護士のどこを気に入ってくれたのか(笑)。それは、ほかの依頼者も同じです。互いに苦しみ、もがきながら、難事件とも格闘してきました。まるで戦友のようにね。そんな依頼者と出会えたこと自体、何よりの幸運だし、依頼者と強固な信頼関係を築きながら、信頼に応えるだけの質の高い仕事をして結果を出すことに、重きを置いてきました」

それは、事務所のメンバーに対する思いも、同じだ。世界各国に拠点を置くビンガム・マカッチェン・ムラセとの統合は、リーガルマーケットの変化を見越してのものだった。これまで自分を支え、今後の法曹界を担っていく事務所の中堅、若手弁護士の将来を考えれば、間違いなく変化に対応し、グローバルに活躍できる舞台が必要になるとの判断に至った。

「世界における経済動向は、企業の経営動向で決まりますが、リーガルニーズもそこと無関係ではいられないんです。これからの弁護士は、広い視野を持ち、社会経済について、常に問題意識を持っておく必要があるんです。そしてもうひとつ、特に若い人にお伝えしておきたいのは、野心を持つこと。それは野望、あるいは夢と言ってもいいかもしれない。良い意味での野心を持つことで、明確な目標ができ、より良い仕事、クライアントを獲得する意欲も湧いてきます。そういう荒々しさが、弁護士としての成長を支えると思うのです」

最後に、これまでの弁護士人生において、最も印象深かった事件は?との質問に、相澤氏は宝幸水産(現・株式会社宝幸)の名を挙げた。

「管財人の打診を受けたときにはメインバンクからも見放されていました。再生の過程は修羅場。そこで主導的役割を果たすには、労を惜しまず、先入観を持たず、真剣に取り組むほかありません。そうすれば必ず、喜びや感動の余韻が残るはずです」

95年、日本ハムからの出資を受けた宝幸は、昨年ついに黒字企業に転換した。近時、最もうれしいニュースだった、そうである。