Vol.41
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桝田 淳二

HUMAN HISTORY

日本の弁護士の未来は、国際関係にこそある。〝目覚め〟さえすれば戦える資質が十分にあるのだから、情熱を持って挑んでほしい

長島・大野・常松法律事務所
オフカウンセル
Nagashima Ohno & Tsunematsu NY LLP Of Counsel
弁護士(日本/NY州)

桝田 淳二

おっとりした少年がのめり込んだのは、オーケストラ活動

真に、国際的に活躍する希有な日本人弁護士・桝田淳二。その行く道を決めたのは司法修習生の時で、以来、真っ直ぐに歩み続けてきた。クロスボーダーM&Aのパイオニアであり、一貫して国際的な案件を手がけてきた桝田は、90年代初頭に、単身ニューヨークに渡り、初の“国産”法律事務所を創設したロイヤーとしても高名だ。

往年の政治家、加藤鐐五郎氏を祖父に持ち、父親も法曹。そして桝田自身はといえば、東大受験も司法試験も、さらにニューヨーク州のバーイグザムもすべて一発合格。経歴を並べれば苦のないエリートに映るが、その実はまったく違う。むしろ桝田は、困難を好むかのように死力を尽くしながら夢に向かい、「道なき道」を切り開いてきた。続く日本人弁護士の未来のために――その情熱は、今も揺るぎない。

私たち一家は、目白にあった祖父の屋敷に住んでいましてね、近所には森と泉に囲まれた庭園もあって、東京のオアシスのような恵まれた環境の下で育ちました。兄貴や友達とチャンバラしたり、森を駆けずり回ったり……日々楽しく。ちょっと特殊だったのは、代議士や法務大臣を務めた祖父の存在と、その一人娘である母が、秘書としてずっと祖父の仕事を手伝っていたことでしょうか。当時、女性の議員秘書など極めて珍しく、先端的な人であったことは確かです。選挙ともなれば家人は留守がちになるので、風呂を炊くとか、身の回りのことは何でも自分でやるという習慣は、早くから身についていたように思います。

意外かもしれませんが、私は目立たず、実におっとりした子供だったんですよ。人前に出るのが嫌いでしたし。その点で、通っていた中高一貫校の武蔵は、私にぴったりでした。自由で、「勉強しろ」とはいっさい強要されないし、ギスギスした学生もいない。それこそおっとりした校風で、私にはとても居心地がよかった。音楽が好きだった私は、高校に進学してからブラスバンド部に入り、クラリネットを吹くことに熱中していました。

音楽はずっと身近にあったのです。小学生の時にはバイオリン、中学生の時にはピアノを習わされていたので。でも才能がなくて、いずれも長続きしなかった。バイオリンなんて、母が、世界的な奏者を育てたようなすごい人を先生につけたものだから、怖いの何のって。兄貴と二人で「魔の金曜日」とか言いながら、レッスンに通っていたのを覚えています(笑)。

親の期待は、長男である兄に向けられており、桝田は「風圧なしでいい状況」だったらしい。それでも東大を受験したのは、周囲の多くが東大を目指していたからで、そのムードに乗ってのこと。「学部は?と問われれば、音楽部出身だと答えています」――桝田が大学生時代にのめり込んだのは、ほかでもないオーケストラ活動だった。

同級生に誘われるまま、軽い気持ちで東大オケに入部したのです。そうしたら、新入生のクラリネット奏者が何と10人くらいいる。私はもとより競争心もないし、ただオーケストラの練習を見るのが楽しくて続けていたら、一人落ち、二人落ちと周りが諦めていき、気づいたら二人だけになっていた(笑)。1年の最後の定期演奏会では、舞台に上がっていました。運もよかったのでしょう、2年で首席奏者です。東大オケは名門ですから、大変な名誉なんですよ。みんなで協力して何度も何度も練習を重ね、聴衆の前でピタッと演奏が決まった時の快感。様々なハーモニーの間に浸る素晴らしさ。これ、ある意味麻薬のようなもので、一度経験するとやめられなくなる。完全にのめり込みました。

法学部に進んだのも、何となくだったのです。父が元裁判官の弁護士でしたから、司法の空気が身近にあったことは影響していると思います。ただ、典型的な国内弁護士で、その仕事が面白そうだとは思えなかったし、実際、大学の法律の授業もつまらなくて。日本の教育って、一方的に知識を伝達するだけですから。例えば、民法も総論から始まって、「隣家の木の枝が入ってきたらどうする」なんてやる。こんなことを勉強するために大学に入ったのかという気持ちもあり、よけいにオケに走っちゃったんですよ。

22歳で司法試験に合格。目指すと決めたのは、渉外弁護士

  • 桝田 淳二
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3年生ともなれば、司法試験や就職に向けた準備が忙しくなり、学生の多くは部活をやめるのが通例だ。しかし、「始めた以上は、オーケストラを極めたい」と考えていた桝田は部に残り、キャプテンとして活動に専従することにした。その際、あらかじめ大学に留年届を出していたというから驚く。「一度やると決めたら、やり遂げる」。桝田の硬骨漢ぶりが芽を出し始めた。

部員は100人を超える大所帯で、夏には地方6都市ほどを回る演奏旅行があるし、加えて定期演奏会もある。なまじのことではキャプテンは務まらないから、全精力をオケに傾けようと決めたのです。当時はコピー機などないから、図書館でせっせと各パートの譜面を書き写したりね、そんな裏方仕事も熱心にやりました。超実直でしょ(笑)。私は、人のためになることなら、何でも厭わずやるんですよ。

一番思い出に残っているのは、3年の夏の演奏旅行。性分的に、やるとなったら完璧にこなしたいので、私は事前に演奏する都市をすべて回り、演奏会場や宿泊ホテルの手配、さらには、大学の先輩、各地の高校を訪ね歩いてチケットを販売しと、もう必死で頑張った。結果は大成功で、異例となる収益も挙げることができました。今思うと、この経験はすごくよかった。未知のことで困難に思えても、挑戦すれば必ず何かが生まれる……私の原点はここにあるのかもしれません。

1年も経つと、一緒に入学した同級生たちは皆、就職していくわけでしょ。さすがにマズイなぁと。それで遅まきながら、音楽部の仲間2人と共に、司法試験を目指して勉強することにしたのです。4年の夏、司法試験まで9カ月というタイミングでした。

この時、初めて本当の勉強の仕方がわかったのです。私たちは大学の近くの喫茶店に集まり、議論を中心にした演習をしていたんですね。いわゆるケースメソッドで、議論をすると負けたくないから、必死で調べ、勉強をするわけです。それまで教科書をめくるのがつまらなかったのが、問題意識を持って読むと、体にしみるようにどんどん入ってくる。特に法律は、こういった機能的なやり方が一番身につくと思いますね。短期集中で猛勉強した結果、翌年受験した司法試験に合格することができたのです。

桝田は23歳で司法修習生となり、法曹への道を歩み始めた。若くして1回の受験で合格した桝田に、教官らは裁判官になるよう強く求めたが、父親が裁判官だったこともあり、「将来が容易に想像できてつまらなかった」。かといって、定型的な弁護士業務にも興味を持てなかった。そんな桝田に、国際的な空気をもたらしたのが、父親と親交のあった坂本吉勝弁護士である。

湯浅・坂本法律特許事務所は、当時、渉外といえばナンバーワンの存在。修習生の時、父の縁で、ある国際的な集まりに呼んでいただいたのです。私はその場にいただけですが、海外から集まってきた人たちの雰囲気に触れて、「ここが生きる道」だと直感的に感じた。それで、坂本先生のところで実務修習をしたいと申し出て、そのまま採用してもらったという流れです。規模としても国内最大で、私は16人目の弁護士として入所しました。

坂本先生はすごく偉いのに親しみやすい方で、湯浅先生はイギリスのバリスター資格を持つ大変な紳士。事務所には数多くの優秀な弁護士が在籍していて、本当に勉強になったし、何より刺激的でした。新人の頃に担当したのは特許侵害事件。準備書面を書き、先輩弁護士のカバン持ちとして、東京地裁29部にずいぶん通ったものです。

この頃は、憧れていた国際弁護士の仕事とは違うなぁと思っていたのですが、実はこの時の経験が、のちに私がアメリカで特許侵害訴訟を扱うようになった際、非常に大きな武器になったんですよ。

でも、在籍していたのは2年と短かかった。皆優秀だったけれど、バラバラに仕事をしていて、経験や情報が共有される“組織”として機能していなかったんです。パートナーシップ契約をつくろうという話はあったものの、いろんな場面で利害が絡み合って、途中、力ある先輩弁護士が数人を連れて事務所を出ていってしまうなど、まとまらなかった。私はちょうど留学を考えていた時期で、「そろそろ私の番」と期待していたのですが、体制が複雑になっちゃって……悩んだけれど、結局辞めることにしたのです。

でも、とにかく留学はしたかったから、独力でかなえるしかない。どこにも属さない“国際素浪人”として、あちこちの大学にアプリケーションを提出したんですよ。それしか、道がありませんでした。

留学と事務所開設。懸命な学びと頑張りで、大きな跳躍を果たす

桝田 淳二

国際社会が欧米の弁護士に牛耳られてしまう……。私は、何としてでも一矢を報いたかった

アプリケーションには、著作権法における問題意識を書き連ねた。これには伏線がある。桝田は退所する前、当時の日本では非常に珍しい、日米間で争われた音楽著作権侵害訴訟に関与しており、そこで学んだことがベースになった。優れた内容だったのだろう。複数の英米ロースクールから奨学金のオファーを受けるなか、桝田は、著作権研究者に対して最も手厚いフェローシップを提示していたコロンビア大学ロースクールを留学先に選んだ。

70年、国際線でジャンボ機が就航を開始した年です。でも私は、船でのアメリカ行きに憧れていたから、絶対に船で渡るぞと。シアトル経由でバンクーバーに入るコンテナ船を見つけ出し、横浜港から乗り込みました。この時、異例なことに、坂本先生の事務所から何十人と見送りに来てくれましてね、それはもう感激でした。

お金がなかったから、ひどく古いアパートに住み、食費はとことん切り詰める生活。この頃を思えば、何だってできますよ(笑)。それと、英語はOJTだけだったので、現地では思うように通じず苦労しました。授業の準備のために膨大なケースブックを読まなきゃいけないし、講義を聞くのも大変。奨学金の論文もあったから、文字どおり必死で、この1年間は人生で最も勉強した時期です。

修了した後、2つの法律事務所で仕事に就きました。アメリカに残ったのは、一つには「このまま日本に帰ってもモノにならない」と思ったこと。そして、いずれニューヨークで仕事をするために、州の弁護士資格を取りたかったからです。当時、外国人には受験資格が認められていなかったのですが、「規則が変わるかもしれない」と聞いたので、それを待ち、日本初の有資格者として帰国するのもいいかなと。

ところがそのうち、私はセンセーショナルな案件に携わることになった。73年、東証の外国株市場が開設され、アメリカの大手コングロマリット企業、IUインターナショナルが上場および公募した第1号案件。私は同企業の代理人として、ニューヨークと東京を何度往復したか。初めてのことなので、東証や大蔵省(当時)の規則もまだ不整備で、それはもう大変でしたが、30歳で、しかも一人で、このような名誉ある大仕事を経験できたのは得がたい財産となりました。

一つ誤算があった。「外国株の上場・公募に携わる代理人は、日本の居住者でなければならない」という要件があったため、桝田は、仕事に押し戻される格好で帰国せざるを得なかった。しかし一方で、「日本にも組織化されたローファームが必要だ」と考えていた桝田は、新たな挑戦として、77年、桝田江尻法律事務所を開設。国際案件を専門とする事務所として始動する。

江尻隆弁護士をスカウトして始めたのですが、事前に詳細なるルールを作成しました。陣容の拡大を見越して、どんなにパートナーが増えても大丈夫なように。次にパートナーとなった女性弁護士が、それを見て唖然としていましたよ。「たった二人なのに何でここまで」って(笑)。この頃、渉外分野では、長島大野法律事務所を筆頭にそうそうたる事務所が走っており、「今から若い者が参入するのは無謀だ」と、よく言われました。勝算はなかったけれど、でも、その無謀なことをするのが私の人生なので。

確かに最初は厳しかったのですが、突破口になったのは、ヨーロッパで転換社債を、アメリカでADRを出すといった外債関係の仕事を取れるようになったこと。加えて、アメリカにいる時、私はM&Aをかなり独学していたので、それが呼び水になった。日本には専門家がほとんどおらず、私は、パイオニアとして、ほかの事務所とは一線を画す仕事を手がけるようになったのです。こと80年代後半は、バブル経済まっただなかで、日本企業の多くが海外企業を買収しましたが、私はクロスボーダーM&Aの専門家として数多くの国際案件を取り扱うことができた。日経新聞でM&Aのサイズ別ランキングをやると、一番多い時など、10位までの半分は私の仕事でしたから。

90年代に入った頃には事務所も大きく発展し、弁護士数30人近くと、最大手の法律事務所の背中も見えてきた。イメージしていた組織的な事務所はできたから、次はニューヨークで活動しようと考えたのです。ずっと持ち続けてきた夢でもあるし、一方でこの頃、外国法事務弁護士に関する法律の下でマーケットが開放され、欧米の弁護士がどっと日本に入ってきていた。なのに、逆の動きはない。このままだと、国際社会は欧米の弁護士に牛耳られてしまう。そんな危機感があり、私は何としてでも一矢を報いたかったのです。

単身、アメリカに逆上陸。国際化推進のため、力の限りを尽くす

桝田 淳二

92年、桝田は徒手空拳でニューヨークに渡り、「Masuda & Ejiri」を開設。48歳だった。日本人初の快挙として、メディアは華々しく取り上げたが、バブル経済は崩壊、アメリカは湾岸戦争に突入と、環境は決して順風だったわけではない。当の本人にしてみれば、「3年間で芽が出なければ静かに消える」という覚悟だった。

甘くはなくて、最初の数年は暗澹たる気持ちだったんですよ。私が日本を出た途端、継続案件は別にして、お付き合いのあったクライアントが離れてしまった。「桝田がいないから、もうダメだ」という声も聞こえてきた。私は、組織対組織の関係を築いてきたつもりでしたが、日本はまだその感覚が希薄で、個人的な信頼関係が大きいことを思い知りました。かといって、アメリカのビジネス社会に知己もなく、日本にいる時より、案件を獲得するのがはるかに難しいことも思い知った。

それが3年目に入った頃、救世主的に、かつてのクライアントが私を頼ってきてくれまして。日本の化学会社ですが、デュポンの化学工場の一部を買収する大きな案件で、これを成功させたことが口火となりました。以降、アメリカにおけるM&Aや特許侵害訴訟など、様々な案件を一手に引き受けるようになったのです。

当初、私はリーガル・コンサルタントとして業務に当たっていましたが、仕事が増えるなか、それでは不十分だと感じるようになりました。特に訴訟関係では、アメリカの法曹資格がないと訴訟弁護士を使うにしても、法廷へ行ったり、裁判官と直接話をするのが難しいので。それで、ニューヨーク州のバーイグザムに挑戦することにしたのですが、もう50歳を過ぎていたから、「のたうち回った」という感じ。くだんのデュポン案件の最中で、毎晩、夜中過ぎまで仕事をしながらの受験勉強でした。何がきついかって、記憶力低下ですよ。覚えたと思ったことが、15分も経つと忘れている(笑)。ただ理解力は衰えていなかったから、幸い1回で合格できたけれど、「資格を取れなかったら人生が変わってしまう」と思うほど、深刻な心境でした。

その後、桝田は日本のクライアントの知恵袋として死力を尽くし、ニューヨーク事務所は着実に発展を遂げた。特筆すべきは、2001年の古河電気工業による米通信大手・ルーセントの光ファイバー部門買収案件である。桝田は、自ら築いてきたネットワークを生かし、100名を超える専門家チームを編成、すべてを取りまとめた。世界各国から大型企業が参加したこの買収戦を勝ち抜いたことで、国際的な桝田への評価は不動のものになった。

ビラブルアワーが月400時間を超えたという、私の人生最大の案件です。クロスボーダー案件は協働体制が命。私はアメリカ留学以来、海外の弁護士や法律事務所との関係を構築するのに多大な力を注いできましたが、だからこそ、どのような案件に対してもスピーディかつ最適なチームを組んで臨める。これは大きな武器です。そして、表層的なコーディネイトではなく、自分が案件の前線に立ち、すべてをコントロールするのが私のやり方。

こういう仕事の場合、「海外の弁護士が大方動いて、日本の弁護士は仕事がない」という声を聞きますが、とんでもない。日本人は、アメリカの弁護士は皆すごいと思っているけれど、錯覚ですよ。もちろん、すごい人はいる。逆にダメな人もいる。要は中間層がたくさんいるという話でどの世界も同じ。

私は、日本の弁護士の未来は国際関係にこそあると思っています。ところが、誰もそれを意識していないし、できないと思い込んでいる。よく例に出すのはトヨタなんですけど、数十年前にアメリカに渡ってから、すさまじい努力を重ねて、今や「世界のトヨタ」なわけでしょ。日本の弁護士は“目覚め”さえすれば、戦える資質は十分にあります。国際社会に弁護士が余っているというのも間違っていて、能力ある人にとっては処女地なのです。その能力とは、英語がすごく堪能だとか、頭脳がシャープだとかというより、情熱なんですよ。私がただ強く望むのは、一人の日本人弁護士がここまで切り開いた道を、若い人たちに情熱を持って継続してほしいということ。そのために私は、これからも最大限の支援をしていきたいと思っています。

※本文中敬称略