Vol.33
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國廣 正

HUMAN HISTORY

法律知識というよりは事実認定力と論理により物事を説明する力。そして倫理観。我々は、この本来的な〝錨〞を持ち続けなければいけない

国広総合法律事務所
弁護士

國廣 正

正義感の強い少年。一冊の本と出合ったことで、弁護士を志す

市民の権利がきちんと尊重される〝小さな正義〞を守る――それが、弁護士・國廣正の出発点だ。いわゆる町弁として、一般民事を中心に活動していた國廣が、企業の危機管理を専門とするようになった原点は、バブル崩壊を象徴する大事件に対峙したことにある。1997年の山一證券破綻。この事件において「社内調査委員会」の委員を務めた國廣は、徹底した究明調査を行い、経営陣による簿外債務の隠蔽や、大蔵省(当時)との癒着を明らかにした報告書を公表した。今でこそ必須となった「第三者委員会」の原型となった一件で、その道標を立てた國廣の功績は大きい。以降、コンプライアンスの第一人者として走り続けているが、領域がどこであれ変わらないのは、社会や権力の悪に正対し、切り込むという姿勢。このプリミティブな正義感こそが、國廣の最大の武器なのである。

生まれ故郷は大分県の別府。時まさに高度経済成長期で、別府にも大勢の観光客が訪れ、町は活気にあふれていました。温泉街ですからね、商売人の子供が多かったのですが、僕もその一人です。実家は写真館を営んでいて、結婚式や七五三などの記念写真を撮影する、いわゆる町の写真屋さん。子供の頃は、父の手伝いをよくしたものです。だから僕は写真が好きで、将来は報道カメラマンだとか、海外特派員になりたいと思っていたんですよ。

父はカメラを手にする一方で、剣道と居合の高段者でもありました。僕も剣道を少しやったのですが、早朝稽古がいやで。早々にやめてしまったんですけど、今にして思えば、影響を受けたことがあります。こと居合についていえば、斬るか、斬られるかの場面を想定する真剣勝負の世界でしょ。その、やるか、やられるかの話を、毎日のように聞かされているうち、ある種の勝負勘みたいなものが身についたように思います。敵の虚を衝くとか、心理を読むとか。様式を抜きにした革新的な居合をやっていた父親の話は、「勝つためにはどうすればいいか」非常に合理的でした。僕が今、勝負好きの弁護士になっているのは、そんなところに根っこがあるのかもしれません。

「間違っても、躾のいいお坊っちゃまではなかった(笑)」。活発な國廣は、中・高校を通じて、文武両道、学生生活を存分にエンジョイした。テニス、山登り、そして生徒会活動にも精を出し、「絵に描いたような学生生活」と振り返る。そんな國廣が、弁護士を志すようになったのは、高校に進学してからである。

当時、日本では水俣病をはじめとする公害事件が多発し、その悲惨な現実が明らかにされていた時代です。国際的にはベトナム戦争。アメリカによる残虐行為が報道され、反戦運動が盛り上がっていた。僕は、今でいうフォトジャーナリストに憧れていたから、ロバート・キャパなんかの写真を見て胸を熱くしたものです。ただ、あの仕事をするには、生まれ持ってのキレ味というか、才能がないとできないので、自分には無理だろうと。

そんな時にたまたま読んだのが、戦後裁判史上に名高い冤罪事件を描いた『誤った裁判』(岩波新書)という本。「これだ!」と思った。元来鼻っ柱が強く、大きなものをやっつけるのが好きな僕には、ピタッときたのです。法律を武器に国家権力と闘う弁護士。かっこいいじゃんって。基本、ミーハーなので(笑)。それが、高校2年の夏だったでしょうか。地に足は着いていなかったけれど、「強きをくじき弱きを助ける」という言葉を、けっこう本気で口にしていましたね。それと、家が自営業だから、会社員という概念がないわけです。自分の腕ひとつでやっていく仕事のほうが身近だったから、弁護士を職業として意識するようになりました。それなら東大の法学部だろうと、一生懸命、受験勉強したのです。

〝小さな正義〞を重んじる町弁として、スタートを切る

國廣 正

目標が明確だったから、東大受験はすんなり一発合格。だが、國廣はここから長いトンネルに入ることになる。「法律の勉強より先にやることがあるだろう」と、登山や読書に夢中になり、司法試験に向けて〝尻に火が点いた〞のは「大学5年生」になってからと遅い。だが、ただ遊んでいたわけではない。「どんな弁護士になりたいのか」。根が真面目な國廣は、その答えを自分に求めて、悩みに悩んでいたのである。

山登りは今も続けていますが、こと大学時代は山一色でした。「東大法学部山の会」でリーダーを務めていたんですけど、南北のアルプスをはじめ、本当にあちこちの山々に行きましたねぇ。だから、授業にはほとんど出ていなかった(笑)。

この頃、学生運動はすでに下火になっていましたが、名残はあって、弁護士を目指す仲間うちでは、よくこんな議論が交わされていました。「ブルジョアのための弁護士になるのか。労働者のための弁護士になるのか」。そして「お前はどっちだ」なんて、周囲から二者択一を迫られるわけです。権力を嫌っていた僕は、当然〝ブル弁〞はいやなんだけれど、かといって、民青系の人たちのように、労働者のためだけに一生を捧げる覚悟も持てない。彼らの論理が正しいと思うのに、腹をくくれない自分がよくないように思えて、弁護士になる資格はあるんだろうかと、悶々としたわけです。それで山に逃げた、というのも否めません。法律以外の本は山のように読みましたが、読めば読むほどドツボにはまるばかり。今思えば、悩むために悩んでいたというか……青くさい話です。

さすがに留年してから尻に火が点いて勉強を始めたものの、焦るとダメですね。安直なものに走る。基本を飛ばし、司法試験に通るための小手先勉強をするから、法律の本質を理解できず落ち続け。結局、合格したのは28歳になる年です。ちなみにその前年、山で知り合ったカミさんと結婚したので、僕は1年間、主夫をしながら図書館で勉強をするという生活でした。山で食事をつくるので慣れていますし、料理は好きだから上手いもんですよ(笑)

86年、司法修習を終えた國廣は、那須弘平弁護士(後に最高裁判事)の事務所に入所。「國廣なら合うと思うよ」と友人に案内され、フラッと訪問したのがきっかけだった。依頼者の多くを中小企業や個人とする小さな事務所だったが、それがかえって、國廣のフィーリングに合ったのである。

修習生時代に「大きな正義と小さな正義」というテーマで、短い論文を書いたんですよ。公害事件や冤罪事件などを担当して〝大きな正義〞を貫くことはもちろん素晴らしい。でも例えば、「貸した10万円がちゃんと返ってくる」とか、あるいは相続の場面で、声の大きな叔父さんが全部仕切ってしまわないようにとか、そんな〝小さな正義〞も大事じゃないかって。大学生時代に悩んだ末、僕が自分の足で立って、主体的に取り組めるのはそこだろうと考えるようになっていました。那須先生と初めて会った時、そんな話をしたら、「そのとおり」だと。出会い頭に入所が決まったという感じでした。

離婚、相続、借地借家、地上げに対抗する住民運動など、種々雑多な民事・刑事事件を扱う町弁としての日々が始まりました。入所してすぐにぶつかったのが、大規模マンションの建設に反対する住民運動です。日照権の問題で大騒動が起きていたなか、僕は参謀役をやったんですが、成果は出せたと思っています。こういうのって、単に法律を振りかざしてもダメで、数十軒の住民、そして相手方の大手デベロッパーも含めて、分裂しがちな人々をまとめ上げないといい決着にならない。こういった事案を手づくりで解決していくのが、僕はわりに得意なんです。

事務所に在籍したのは4年弱でしたが、那須先生から受けた薫陶は、リベラリズムですね。先生は何事も型にはめるタイプではなく、本当に自由にやらせてくださった。それと、事件の大小にかかわらず、一件一件の仕事に丁寧に取り組む姿勢。知識ではなく「考えて解決する」ことを教わりました。この基本は、今も変わっていません。

活動ベースを形成した「アメリカ」体験と、山一事件との対峙

國廣 正

社内改革派とともに汗まみれになりながら進めていく仕事は、血がたぎる

國廣が、居心地のよかった那須事務所を辞めたのは、薬理学の研究者である妻のアメリカ留学に同行するためだった。単身、日本に残るという選択肢もあったが、「家族みんなで行ったほうが面白いから」と、これもまた、威を張らぬ國廣らしい選択だ。フィラデルフィアで、再びのハウス・ハズバンド生活。が、この2年間は結果的に〝極めて雑草的な留学〞として、國廣に逞しい力と自信をもたらしたのである。

僕自身は、大企業や渉外案件に興味がなかったから、留学は全然考えていなかったんです。あくまで、カミさんの付録(笑)。現地では家事と子育てをしながら、語学学校に行ってみたり。ただ、それだけでは満足できず、地元の小さなロースクールに潜り込んで、聴講生として半年ほど通いました。日本人なんて誰もいないし、英語を学ぶうえではいい強化練習になりましたね。

それから1年間ほどお世話になったのが、ニューヨークにある法律事務所です。さんざん断られ続けて、ここが10カ所目だったかな。当時はバブルでしたから、日本人弁護士ならどこか入れてくれるだろうと甘い考えでいたのですが、コネクションはないし、TOEFLなんか受けたこともない……。やっと拾ってもらえた先でした。僕は配偶者ビザでしたから給料はもらえなかったけど、修習生に戻ったような感じで、様々な実務を見せてもらいました。なかでも訴訟が面白かった。アメリカは本当に裁判の国で、連邦政府と州が裁判で争うということもごく普通に行われていて、法律できちんと勝負をつける。フェアですよ。日本のように形式ばった権威がなく、相手が誰であれ「法廷に出れば対等である」という感覚は、僕の波長に合いました。

〝アメリカ〞は、経験値として非常に大きかった。その後の弁護士生活において、マインド的に影響を受けたのは確かです。高名なロースクールを出て、米国弁護士資格を取得する人とはレベルが違うかもしれないけど、僕は修羅場には強いぞと(笑)。徒手空拳であってもジタバタすれば道は開ける――それが自信になったし、「先生、先生」と呼ばれて、狭い世界で旧態依然としているのはイヤだと、より一層強く思うようになりました。

帰国後、2年ほど企業法務を扱う法律事務所に身を置いたのち、國廣は独立する。38歳だった。東京・神田に、一人で18坪の事務所を構え、文字どおり身ひとつでスタートしたが、本稿の冒頭で触れたように、97年、山一證券破綻という大事件に携わったことで、國廣の活動領域は大きく転換していく。

「依頼者として、大手企業や金融機関はターゲットにしない」。開業した時、僕は自分の方針として、そんな一文を書いたんですよ。だから、中小企業や個人の依頼者が訪れやすいよう事務所は明るくし、重厚な革張りのソファーも当然なし(笑)。ポツリポツリと入ってくる一般民事をやりながら、最初の頃は、経費がギリギリ出るかなぁぐらいの低空飛行でした。でも、それが楽しかったし、なかでも僕は、血の気が多いせいか民暴対策が好きで、弁護士会でも「民暴委員会」に所属して多くの事件を扱っていました。

97年の夏です。民暴対策の第一人者である深澤直之弁護士から、「山一證券の総会屋絶縁チームに入らないか」と誘われたのは。絶縁とは、山一が総会屋の金蔓をやめることを意味しますから、彼らにしてみれば死活問題。毎日、山一の応接室に詰めて、押し寄せてくる総会屋を撃退する仕事はエキサイティングでしたねぇ。ところが……同年の11月、山一は突然破綻した。

最近でこそ、大企業の倒産は珍しくないけれど、あの時代に国際的な金融機関が破綻するなど、あまりに想定外。社員のなかで、真相の究明を求める怒りの声が上がったのは当然のことでした。日本で初めての「社内調査委員会」が設置され、僕も委員として再び山一の仕事ができるのはうれしかった。当時、常務だった嘉本隆正さんを委員長に、7人のメンバーは約4カ月、山一に泊まり込んでの調査です。前例やノウハウなどないから、手探りですよ。外債の専門家などに教えを請いながら、簿外債務、いわゆる〝飛ばし〞の実態と、それに対する経営陣の関与を徹底究明。加えて、大蔵省(当時)がそれを黙認していたことを明らかにした調査報告書を、対外公表したのは98年4月でした。

従来、企業の依頼を受けた弁護士が、その経営陣の不正を公表するなど考えられなかったわけですが、職を失った役職員の無念の思いと熱意に突き動かされたのです。そして、前例がなかったからこそ、誰にも邪魔されず〝事実上の標準〞をつくることができた。得心のいく報告書が書けたと思っています。ただ、周りは心配していましたね。「お前、あんなことをやったら大企業からそっぽ向かれるぞ」って。日本の旧秩序に反するようなことを書いたわけですから。でも、僕はこんな調子なので、ケロッとしたものです(笑)。

企業の危機管理のパイオニアとして、さらにまい進

  • 國廣 正
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続いて99年、國廣は、旧長銀(日本長期信用銀行)の粉飾決算事件において、起訴された経営者側の弁護人として立つ。東京地検特捜部との法廷闘争は10年におよんだが、結果、最高裁で逆転無罪を勝ち取った。並行して〝山一の荒技〞で存在が知られるようになった國廣のもとには、同様の調査案件が舞い込み始めた。日興コーディアルの不正会計事件、NHKのインサイダー取引事件など、耳目を集めた第三者委員会には、多く國廣の名がある。

潮目が変わったのは、2000年を過ぎた頃からでしょうか。山一のように破綻しないまでも、負の遺産を抱えている企業は多く、その膿を出そうと、社内改革派からの相談を受けるようになりました。依頼を受け、きちんと開示ができた事案もあれば、逆に、返り討ちに遭ったケースも少なくありません。不祥事を抱える経営陣にしてみれば、パンドラの箱を開けるような話ですからね、「やるからには徹底的にやる」という僕の姿勢は、嫌われることも多い。「國廣弁護士は社風に合わない」と断られて、社内改革派と一緒に葬り去られたり……。それでも、会社をよくしようとする社員たちから「國廣さんに」と声がかかるのは、ありがたい。そういう人たちとチームを組むのは意義があります。僕は〝先生〞じゃない。同じ舟に乗り、ともに汗まみれになりながら、開示や改革を進めていく仕事は、血がたぎるのです。

印象に残っているのは、05年に起きたある大手企業の名義株問題です。金融庁と東証に「名義株はない」と、虚偽の報告書を出したとされる一件。僕がやった調査委員会の認定は、当時の社長の指示で虚偽申告が行われたというもので、報告書で事実をありのままに記載し、記者会見で公表しました。すでに開示注意銘柄に指定されていたので、東証の沙汰待ちだったのですが、ただちに指定が解除された。「自浄作用を果たした御社に、もう問題はない」と。不正は不正でも、社長が職を失うにもかかわらず、「会社が助かるなら」と真実を話してくれたこと、そして、会社の存続を心から喜んでくれたこと。「日本の経営者も捨てたもんじゃないなぁ」と思えた一件でした。

総じていえば、ストレスフルな仕事ですよ。スタートする時点では、常に手探りですから。そもそも真実に迫れない可能性だってあるし、出した報告書がズレていたら世間の袋叩きに遭う。毎回極限的な勝負になるので、精神衛生上よくない。それでも、この仕事が面白いんです。1年に1件ぐらいのペースじゃないと体がもちませんが、ないとすごく寂しいでしょうね(笑)。

ここ数年、コンプライアンス業務の重要性が急速に浸透し、不祥事を起こして窮地に立った企業が、外部の弁護士で構成される第三者委員会を設置するケースも増えてきた。その第三者委員会のあり方について、日本弁護士連合会は、10年7月、ガイドラインを公表。この作成を中心となって担った一人が、國廣である。

ガイドラインでは、第三者委員会に参加する弁護士の仕事を、株主、従業員、顧客などといったステークホルダーのための公的業務として位置づけています。かつ、独立性の指針においては、「判明した事実は、現在の経営陣に不利となる場合でも報告書に記載する」と明言。大きくは、この2つがポイントです。不祥事が報道されている時、経営陣が、有名人を委員として並べ、ルーズな報告書を書いてもらい、お茶を濁す目的で設置する「不良第三者委員会」も存在する。そういう状況に対する危機意識から生まれたガイドラインです。

この仕事は、経営陣を依頼者とする従来型の顧問・代理業務とはまったく違います。なので「依頼者は総ステークホルダーである」とした点が、日弁連でもめたところです。「弁護士倫理に反する」などと的外れなことを言われ、なかなか理解されませんでしたね。企業は公の存在であり、持続的に成長すべきもの。今不利益なことでも、外科手術をして痛いかもしれないけど、将来を考えれば企業のためになる。我々は、まさに公益的な仕事として捉えています。まだ途上ですが、ガイドラインに準拠した第三者委員会の芽が育ちつつあるのはうれしいし、僕は、これをひとつのソフト・ロー(裁判規範ではないが、実質的規律として機能する社会規範)として、日本に根づかせたいと思っています。

ソフト・ローの世界で最も重要なのは倫理観。換言すれば、「正しいことは何か」を常に考える力です。最近はそこが失われがちだけど、弁護士の一番の基本ではないでしょうか。そして、法律知識というよりは、事実を認定する力と論理により物事を説明する能力。ここを鍛えるべき。そこに揺るぎがなければ、どの領域でもやっていけます。昨今の新人弁護士には「私は知財です、破産です」と、狭い領域で専門性を持とうとする流れがあり、「そうじゃないと残れない」という話をよく聞くのですが、〝錨〞がなければ浮草のようになるだけ。本来のプロフェッション性を絶対に忘れてはいけない。それを貫くことが、長い目で見た時に、強い競争力になるはずです。

※本文中敬称略