仙台市を足場に40年間走り続けてきた荒中(あら・ただし)の活動を端的に表すと、それは“救済”だ。1980年代にはいち早く消費者問題に取り組み、以降、高齢者・障害者支援にも心血を注ぐなど、常に被害者や社会的弱者救済の道を模索し、切り開いてきた。信条は「現場に立ち、現場の声を聞く」。肌で感じた法制度の課題や運用の問題点を看過せず、声を挙げて改革に結び付けた実績も少なくない。
日本弁護士連合会会長に就任したのは2020年。平成の時代以降、東京や大阪の弁護士会以外から選任された初の会長となった。任期中のほぼすべてが新型コロナ禍という極めて異例な環境ではあったが、荒はむしろそれをパワーに変え、多事多端な2年間を全うした。先例のない“道なき道を行く”のは荒自身が好み、得意とするところだ。任期を終えた今もなお、チャレンジは日々続いている。
生まれ育ったのは、宮城県に隣接する福島の相馬市。海、山、川と自然が豊かで、野性児のように遊び回ったものです。今も原子力の問題さえなければ、子どもたちが存分に水遊びできるようないい場所で育ちました。いつも動いていて、「目を離すと何をするかわからない」と手を焼かれるほど、やんちゃな子でしたね。足も速かったし、そのぶんスポーツが得意で、小学校高学年から始めたのが野球と剣道。中学では野球部のキャプテンを務め、朝から晩まで仲間と練習に明け暮れるという日々でした。ちなみに、中学校始まって以来の県大会出場も果たしたんですよ。走るほうも磨きがかかり、北相馬の陸上大会では短距離走で優勝したこともありますし、思えば、この頃が私の絶頂期だったかもしれません(笑)。
地元の県立相馬高校に進学したのは、その前年に理数科が新設されたから。理系の科目が好きで、漠然とながらも理系に進みたいと考えていたんです。週のうち、半分くらいは理科と数学を勉強するという環境で、実際、高校3年の秋までは東北大学の工学部に進むつもりでした。でも、次第に必須科目である物理が嫌いになったというか、理解できなくなった。これはもう致命的、工学部には行けないでしょう。それで、3年の秋に文転。周囲からは「お前、何考えているんだ」と言われたけれど、如何ともしがたい話ですからねぇ。
ただ、東北で生まれ育った人間にとって仙台はやはり憧れの地なので、東北大受験はしようと。この頃は具体的な職業イメージもなく、正直、法学部を選んだのは消去法でした。教師だった母の大変さを見ていたから、教育学部は絶対になし。文学的な才能はない。経済もよくわからなくてピンと来ない……と、消去法にしていったら法学部が浮上したわけ。法律を学んでいれば、将来の選択肢が幅広いようにも思えましたし。いずれにしても、司法試験の存在などまったくアタマになかったという話です。
受験直前の文転ながら、東北大の法学部に現役合格した荒は、憧れの地・仙台で一人暮らしを始める。「とにかく遊ぶのに忙しく、友だちと学生生活を満喫した」と振り返るが、何より“本当の自分”と向き合った大学時代は、荒に、何にも代えがたい財産をもたらした。「ありのままでいいんだ。自然体で生きていく」――自分自身を開放した先に到達したこの考え方は、今日まで貫かれている。
パチンコ、麻雀、お酒。親からは「大学に入ったら不良になった」と言われるほどに遊びまくっていました。中・高時代の私のイメージとしては、概ね“真面目”といったところでしょうか。野球部のキャプテンとして厳しいことも口にしていたから、下級生からは硬派な先輩として恐れられていたと思う。それが大学に入って生活が一変し、反動もあったのか、どこかで“いい子”を意識していた私が本当の自分というものをすごく考えるようになったのです。持たれているイメージは、実は違うんじゃないかと。そして、友人らとの付き合いを通じて、「やりたいことをやる」「言いたいことを言う」と自分をさらけ出すうちに、ありのまま、自然体でいいのだと思えるようになった。殻を破ったというか、つまりは“自分壊し”をしたわけです。こういう時間と、生涯にわたる友人を得られた大学生活は、私にとって宝物ですね。
他方、学業でいうと、当時の法学部はとりわけて教授陣が素晴らしかった。なかでも民法総則の幾代通先生、物権法の鈴木禄彌先生、債権法の廣中俊雄先生、この民法三羽烏と称される先生方がそろっていて、他大学からも羨ましがられるほどの環境でした。3人から直接教えを受けるのは、優秀な学生にとっては天国、でも、私みたいな遊びに忙しい人間にとっては地獄ですよ(笑)。残念ながら、その時はありがたみがわかっていなかった。単位は「取ればいい」程度の感覚でしたから。当然のこととして、専門教育が始まった以降は勉強もしたけれど、まだ、司法試験はとても身近に感じられるものではありませんでした。多くの学生がそうであったように、4年生の時に記念受験をした程度です。
何をやりたいか、はっきりしないまま就職活動をするのもどうかと思い、結局、留年することにしました。当時は1留ぐらいであれば就職に影響なかったし、勉強しながら先を考えていこうと。4年の秋に卒業を見送ったあたりからですかね、「せっかく法学部に入ったのだから、司法試験を目指そう」と本気になったのは。私は、エンジンをかけるのが本当に遅かったんですよ。