Vol.67
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米谷 三以

HUMAN HISTORY

国際法は所与ではない。ルールづくりも戦略的な解釈論も、経験値の蓄積が重要な分野だからこそ、法律専門家の出番がある

経済産業省
通商政策局 通商法務官

米谷 三以

自分が役に立てることは何か? 試行錯誤の末、通商法務の道へ進む

中国が、ハイテク産業などに欠かせないレアアースの輸出を規制し、「日本の製造業が危うい」と騒がれたのは記憶に新しい。WTO(世界貿易機関)に訴えた論戦をリードし、その撤廃を勝ち取った立役者の一人が米谷三以である。当時、経済産業省国際法務室長だった米谷は、現在、2017年4月に新設された同省通商法務官を兼務する。1990年代半ばに飛び込んだ通商の世界は、弁護士にとって今もなお“マイナー”なフィールドだ。米谷はその仕事を通じて、法律家の“可能性”“すべき仕事”がまだまだ多く残されていることを、体現してもいる。

64年に、東京で生まれました。小学校3年の時に、父親の転職で、家族で能登に引っ越しましたが、わずか3カ月で父親が交通事故で寝たきりになってしまったため、両親の実家のある富山県の高岡市で暮らすことになりました。小学3年から高校までそこで過ごしたので、周囲には「高岡出身」と言っています。進学した県立高岡高校では、囲碁部に入って全国大会に出たり、友人に誘われてコーラス部に転部したりしました。

法学部に行こうと考えたのは、親の影響です。父親が弁護士になりたかったと小さな頃から聞いていたからでしょう。事故で首から下を動かせなくなっても不運を嘆く言葉ひとつ言わなかった父に、「東大に受かったよ」「司法試験に合格したよ」と生前に報告することができ、ささやかな親孝行ができたかなと思っています。

米谷 三以
経済産業省本館にある米谷氏の執務室で、通商法務官室のメンバーたちと

成績が教師にも太鼓判を押されるレベルだった米谷は、82年、東京大学文科一類に合格を果たす。そこでは“田舎者”ぶりを自覚し気後れしたが、都会暮らしに慣れるに従い麻雀に明け暮れる日々に。司法試験の突破に向け、学びのモードに立ち返ったのは、3年生になってからだった。

大学でも緑会合唱団というコーラスサークルに所属していたのですが、同期に親御さんが裁判官の友人がいて、3年生になると本格的に司法試験の勉強を始めたわけです。同じように勉強を始めた親しいクラスメイトも何人かいました。企業に就職するイメージもなかったので、彼らに刺激されて自然に勉強を始めた感じです。勉強自体は嫌いではありませんでしたから。

4年になると、司法試験を目指す人間がほとんどというゼミに入り、また友人の勉強グループに加えてもらいました。昼になると集まって「ここはどう思う?」「これとこれは関連するよね」なんていう話を、延々やる。ラッキーだったのは、そういう仲間たちが、みんな極めて優秀だったことです。彼らに付いていければ合格できるはずだ、というわかりやすい目標が持てましたから。

4年の時の受験は、当時の択一試験は通ったものの、論文で不合格。留年して勉強を続けるかどうか考えた時に、弁護士になって何をやるのかイメージしてみました。頭に浮かんだのが、法律雑誌で目にした企業法務、渉外という分野です。刑事や民事ではなく、そういう仕事がこれから増え、自分も役に立てるのではないかというのが、当時の考えでした。

ちなみに、大学の授業で印象に残っているのが、国際私法の石黒一憲先生(現東大名誉教授)。国際企業取引・通商問題などに関する話は、とてもダイナミックで興味深く、こういう世界もあるのか、と。そういう話に出合って、初めて“法律の仕事”を意識したわけです。

渉外事務所で日本初の案件を担当。そして行政の世界へ

米谷 三以

司法修習を終えた米谷は、89年、長島・大野法律事務所に就職する。そこで携わったのは、日本に進出してくる海外企業や、対外進出する日本企業のサポート、希望どおりの「国際的な幅広い企業取引に関する業務」だった。だが、現実は甘くない。そもそも英語が得意でなかったこともあり、自ら選んだ道にもかかわらず、それらの仕事には「向いていないことを実感する毎日だった」という。転機が訪れたのは、91年のことだ。日本政府が、初めてアンチダンピング(AD)関税の発動を検討するという事件にアサインされたのである。

長島・大野では長島安治先生に最もお世話になりました。1年目の終わりに退職を申し出たくらい仕事ができなかった私を、長島先生自ら、「辞める前に一通り仕事を見ていきなさい、自分が面倒を見るから」と指導してくださいました。企業法務からは結局離れてしまいましたが、一流の弁護士はどうあるべきかを教えていただきました。またそのまま辞めていたら転機になった事件に出合えなかったでしょう。

その案件は3年目の冬、ある鉱産物が不当に安く輸入されているという訴えが国内の業界からあって、政府が事実関係を調査するという状況になったのです。その調査にいかに対応するかが依頼でした。私の任務は、輸出側の代理人として伊集院功先生を補佐し、不当廉売でないと国に認めてもらうことでした。

結果的には、私が担当した国の輸出価格は適正で、AD関税を賦課する必要はない、ということで決着しました。企業法務をやるのだからと、司法修習生の時に勉強した会計の知識も役立って、依頼者の負託に応えることができました。やっと弁護士らしい仕事ができたという感じ。あのタイミングでADの案件にかかわることができたのは、本当に幸運でした。石黒先生の講義で感じた“興味深い世界”は、まさにそれだった。「通商法務に懸けよう」と決意したのは、この時です。

94年にアメリカのミシガン大ロースクールに留学したのがその第一歩です。そこには、ジャクソン教授という通商法の世界的な権威がおられました。直接会いに行って、先ほどのADの話をしたり、書いた論文を見せたりして、必死に売り込みました。そのかいあって、何とか入学を認めてもらうことができました。

ミシガンでは、自分にはこれしかないという思いで、朝から晩まで本当によく勉強しました。卒論は「内国民待遇義務」、簡単にいえば「輸入品に対して国産品と同様の権利を認める」というWTO法の根幹をなす規定について書きました。ほぼ半年間そればかり考えていたので、そこで学んだことは、今でも私がいろいろな案件に対応し、解決策を探っていく際のバックボーンになっています。

東大で取らなかった国際法の授業では、通商法の外側にこういう領域が広がっているのだ、という重要な気づきを得ることもできた。期待以上に実り多き留学になりました。

卒業後、米国のローファームで1年間の研修を終えて帰国すると、今度は欧州の事務所で経験を積むべく、準備を始める。「通商はやりたいけれど、日本ではまだ仕事がないだろう」と考えたからである。ところが、すでに行き先も決めていた米谷の元に、その後の人生を決定づける一本の電話がかかってくる。その相手は、当時の通産省の官僚だった。

当時、アメリカが日本に写真フィルムの市場開放を求める「日米フィルム紛争」が勃発し、ちょうど帰国した96年に、WTOに持ち込まれたのです。通商法をやっている弁護士はいないかということで、私に白羽の矢が立った。「課長補佐として働く気はないか」という電話でした。

それまでの仕事や留学を通じて、通商法は結局政府措置が対象となるから、行政に近いところにいないと仕事ができない、と感じていた私にとってはまたとないチャンスです。決まっていた事務所にも「それなら」ということで了解していただき、OKしました。

さて、「フィルム紛争」ですが、担当したのは、現行法よりもずっと規制が厳しかった日本の大店法(大規模小売店舗法)でした。中小小売業者の事業活動を適正に保護するために、大規模店の出店を調整する法律です。アメリカの主張をかいつまんでいえば、「この法律によって、大規模店に強い外国製フィルムの輸入を阻んでいる」というものでした。確かにデータ上は、小さな店のシェアは、ネットワーク化している国産メーカーが圧倒的で、当初「本当に勝てるのか」とよく心配されたものです。

試行錯誤の末に辿りついたのが、「問題は、市場シェアのデータでなく理論的な行動原理。規模の大小にかかわらず、小売店は儲かるものを置くはず」という論理です。「大店法は、サービス業者を規制してはいるが、商品の競争関係には影響を与えていない」。これを貫いた結果、紛争の完全勝利に貢献できました。「理論的な競争関係で捉える」というWTOの先例に一貫する考え方の意義を体感した案件でした。

この一件ではそのほかにも、多くのことを学びました。WTO手続きが終わった後、大店法の改正にも関与したのですが、そもそも政府の規制は何を目的にするのか、法改正の手続きはどう進むのか? そういった行政法の議論やそれに伴う実務を経験し、また行政官の真摯な政策議論に参加したことは、非常に意味がありました。日本の法的立場を対外的に主張する時の熱量が増えましたから。もちろん、クールな法的評価が一番重要なのですが。

そもそも、WTOにしても投資協定にしても、結局はそれぞれの国内の行政法が問題になるわけです。国際経済法は、貿易・投資しか見ていないと、国内規制を貿易の障害と認識してしまい、非常識な解釈論になりかねません。ここのバランスが国際経済法の最も難しいところです。

ミシガンでの勉強の中心も、振り返ってみるとそこでした。私は、大店法改正にかかわったおかげで、「ここまでの規制は許される」「それは行きすぎ」という実務的なバランス感覚を磨くことができました。それが、その後の自分にとって、とても大きな財産になっています。

念願のWTOへ。その経験も踏まえて「紛争担当」の責任者に

留学時代に学んだ通商法の知識を現場で血肉にした米谷は、98年、今度はWTO法律部法務官に着任する。「絶対行ってみたい場所だった」と、本人が言うその国際機関で、「日本でいえば、最高裁の調査官のような仕事」に4年間携わる。

WTOに紛争が持ち込まれると、パネル(紛争処理小委員会)が設置されて、そこで一種の“裁判”が行われることになります。我々の仕事は、当事国が出してきた意見書を踏まえて、どこが論点で、それに関する先例にはこういうものがあって、というふうに課題を整理し、パネリストに提示すること。ディスカッションにも参加します。

印象に残る事件ですか? ある国の酒税法が問題になった案件でしょうか。先にお話しした内国民待遇義務に照らして、差別になってはいないか、というのが争点でした。

守秘義務に触れない範囲で申し上げると、「これは判断の要素になるのではないでしょうか?」と指摘したところ、パネリストの一人が「確かにそうだ」と。自分の考えていた貿易と国内政策との関係性の議論が国際舞台でも通用した。これは大きな自信になりました。

「米中貿易戦争」などで注目が高まるWTOですが、国際機関は、公平中立の役割を担うというより、国の利害調整の場という“人間臭い”場である、というのが、WTOの中で得た実感です。国際法は天から降ってこない、人間がつくり上げていくものだと実感した4年間でした。当時上級委員でいらした松下満雄先生にはたいへんお世話になりました。

米谷 三以
現在、米谷氏のチームには5名の弁護士が在籍。写真左から、富松由紀子氏(新61期)、児玉みさき氏(ニューヨーク州弁護士)、西村祥平氏(新61期)。当日は外出していた高嵜直子氏(60期)、清水茉莉氏(60期)

帰国した米谷は、経済産業省に“復職”する。当時の世界貿易は、米ブッシュ政権が、苦境に陥った国内業界を救う名目で、鉄鋼製品に対するセーフガード(緊急輸入制限措置)を発動し、これに各国が反発するという、今と少し似た状況にあった。当然のごとくその問題にかかわるのだが、およそ1年後の2003年に、西村あさひ法律事務所に籍を移す。「政府の仕事をし、WTOにも行き、一度少し違うところから通商法をやってみたい」というのが、転職の理由だった。当時、ADの調査対応をやっていたその事務所で、長島・大野時代とは逆に、国内の申請者側企業の代理人という立場で活動し、加えて、経産省以外の農水省や国土交通省等の“役所案件”も経験する。そして08年、三度行政に戻ることに。

西村あさひは、伝統的に新しい分野の開拓に熱心な事務所で、通商法も川合弘造先生が早くから取り組まれていました。経産省以外とも仕事をし、また企業側から通商法を考える機会をいただいたことは再度政府に就職するにあたり大きな財産になっています。

政府に“戻った”のは、経産省にできた国際法務室という部署の初代室長に任命されたためです。紛争案件が増えるなか、それに対応する戦略を練ったり、WTO関連の実務を担ったりするためにつくられた専門チームのまとめ役でした。

その真価が問われたのが、12年に起きた中国によるレアアースの輸出規制問題です。尖閣諸島をめぐるいざこざが理由だともいわれましたが、いきなり対日輸出がストップするという事態が発生しました。この時、そもそも中国は、自国産業を育成すべく長い時間をかけてレアアースの輸出制限を拡大・強化してきた事実が明らかになりました。日本はアメリカやEUと一緒にWTOに提訴して輸出制限の撤廃を求めました。ただ、「資源保存のために生産制限をしているのだ」と中国は正当化を試みました。先例に照らしてもすっきりした勝ち筋が見えず、正直当初は自信のない状況でした。

先例に沿いつつそれを超える解釈としてひねり出したのは、「資源保存のために産出量を調整するのはわかる。しかし、採掘したものの一部でも国内用に留保することは無関係である」という方向で文言を説明する解釈でした。私以外、アメリカやEUの担当者も、最初の頃、「そこまで言えるのか」と半信半疑だったのですが、議論が進むうちに「勝てそうだ」に変わってきた。結果的には、輸出制限を完全にやめさせることができました。

中国は豊富な資源を持つ国ですが、すべての資源が揃っているわけではなく、また今や輸入国でもあります。約束は守れと頭ごなしに迫るのではなく、「他国が同じことをしたら、あなた方も困るのではないですか」という線で意見書を組み立てたことも勝因の一つだったと感じています。この時も、政策論を徹底的に詰めていったことが、結果に結びつきました。「フィルム紛争」以来の蓄積を生かした勝利だったと思います。

国益のために奮闘し、後に続く人材を育てたい

17年、経済産業省は通商法務官ポストを新設した。通商紛争がますます増加し、中身も複雑化する状況を受けて、専門的な対応力を強化する必要に迫られてのものだが、米谷はそこでまた、“初代”を名乗ることになった。

国際法務室が基本的にWTOを舞台にした紛争対応を中心にしていたのに対して、通商法務官は、それに加えてTPP(環太平洋パートナーシップ)のような経済連携協定、投資協定、そのほか様々な経済交渉に関する案件を含め国際経済法がかかわる一切が守備範囲です。室長時代に比べ、相談者もまた相談事項も大きく広がりました。局を超えた相談も時々あります。法務室に同じ人間が存在し続けることで省内の法的知見・経験が蓄積・展開されるようになり、多少なりとも省全体の法的能力の底上げにつながったと自負しています。

この20年、国際経済の一体化が進み、国際ルールのない領域を探すほうが難しくなりました。さらに、世界中の企業が、ルールを駆使して自らに有利な競争環境をつくり出そうと、しのぎを削っているのが現状です。国際法は与えられるものでなく、つくるものですが、それが一層明らかになりました。分野を問わず、世界の秩序形成にかかわるようになると、必要な専門能力の範囲が拡大します。この分野を選んだ以上努力せざるを得ません。

お話ししたような状況のなかで、当然関連する法律業務に対する需要も増えています。でも、それをフォローする人材はまだ足りていません。例えば、WTOのDS(紛争解決)手続きを10件以上担当した人は、日本には私のほかに1人しかいません。欧米諸国には何十人もいます。ただ、弊省その他における法曹の採用も増え、OBも含めると、国際経済法実務家の層が厚くなってきた実感があります。またここ数年では、この分野をやりたいと法律事務所に入ってくる新人も増えています。そういう人たちも含めて、次代を担う法律家を育てていくのも、自分の責務と考えています。松下先生と共著で『国際経済法』の概説書を15年に出版させていただいたのも、自己の経験を後進に伝えるためです。

言葉だけではなく、17年3月まで法政大学法科大学院で国際経済学の教鞭を執ったほか、現在は東京大学公共政策大学院で講師を務める。ロースクールには、「呼んでもらえれば、いつでも経験話をしに行きますよ」と、出張講義の押し売りをしているそうだ。

将来のためにやりたいことの一つは、大学、ロースクールの学生をWTOやICJ(国際司法裁判所)に連れて行って、現場で働く人たちが何を考え、どんなことをやっているのかをその目で見て、彼らの話を聞いてもらうことです。多くの国が、すでにそれをやっています。国際交渉や紛争解決の現場を見たら、早くから学生に通商や国際法の分野に興味を持ってもらえるし、何を勉強すべきかを考えるきっかけになるはずです。

その下の中学・高校の教育も重要です。その段階では、そもそも法とは何か、なぜ必要なのか、与えられるものなのかそうでないのか、といった問題意識をもってもらうことが大事です。特に国際法は、国内法と違い法典があるわけではないし、明確な執行機関があるわけでもない。“法の支配”すら所与でない世界です。これを確立、維持していくためには、すでにある法律をどう解釈するのかというアプローチでは足りません。それは、国際法に限った話ではなく、国内法にもいえることです。

他方でアイデアだけでなく過去の法実務や研究の蓄積を踏まえていなければ法形成において世界を説得できません。そうした能力を有する人を育てるのは簡単ではない。しかし、そのための地道な努力を継続していかないと現時点での交渉力さえ維持できません。諸外国、特に欧米諸国はそうした努力をすでにやってきています。

職場のことに話を戻すと、組織全体の法務を鳥瞰し、企業経営・政策判断の橋渡しができる「ゼネラル・カウンセル」が、欧米政府および企業には普通存在します。法律家の能力は幅広い経験に支えられますが、一人でできることは限界があります。各省庁がそうした専門家を擁し、彼らが日常的に経験・知見を情報交換しているという状況が必要です。それを実現させるのが、今の最大の目標です。

若い人には、「焦る必要はない」と言いたいです。「活躍できるのは40代後半以降」だと、いい意味で開き直って、その時に花開かせることができるだけの勉強・蓄積に勤しんでほしい。振り返ればすべてのことは意味があったと気づくはずです。特に「国際裁判を指揮する」「国際ルールをつくる」となれば、基礎法学的な知見が疎かでは、法律家として他人を説得することはできません。私自身勉強を始めたといえるのは40歳を越えてから。素養の不足を日々痛感しています。

※本文中敬称略