Vol.90
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弁護士 新谷 美保子

HUMAN HISTORY

限られた大切な人生を何のために使うのか。そこに向き合った時、弁護士というのは何でもできる素晴らしい職業だと思う

TMI総合法律事務所
パートナー 弁護士

新谷 美保子

「生きることの意味」を問い続け、早くに定めた法曹への道

ディープテックを専門領域とする新谷美保子は、ことに近年、宇宙ビジネス法務分野における第一人者として注目されている。日本では未開だった領域に踏み出したのは30代半ば頃。以降、自ら道を切り開いてきた。現在は、宇宙関連産業のクライアントが新谷のもとに集中している状態で、企業間の大型紛争、ベンチャー投資、宇宙ビジネスに特有な契約交渉など、数多くの案件を扱っている。また並行して、JAXA(宇宙航空研究開発機構)や政府の委員を歴任し、宇宙政策への関与や産業の振興にも尽力。実務家として民間企業とともに奮闘する姿は、弁護士の本来業務を離れているようにも映るが、ゆえに新しく、社会にインパクトを与えている。「100年後に生まれてくる子供たちに、少しでもよい未来を残すため」という新谷の言葉は印象的だ。

幼い頃は体が弱かったんですよ。幼稚園にも行かず、家で本ばかり読んでいたから、早熟な子供だったと思います。加えて、私には大きな原体験があって、それは、5歳の時に弟を病で亡くしたこと。同じ両親のもとに生まれてきたのに、一人生き残ってしまった自分は何をしていけばいいのか。この頃から人生の意味について、考えるようになりました。そして、生きられる時間を一瞬たりとも無駄にしてはいけないという意識も強く芽生えたように思います。人と違うことを気にしたり、様々な既成概念にとらわれることが何の意味もないということを潜在的に知っているような、どこか大人びた子供でした。

自分のアイデンティティが顕在化したのは、小学校5年生の時です。友達に誘われて、地元の学習塾のテストを受けたところ、算数で1番を取ったのが入り口でした。素直に嬉しくて、私は勉強が好きなんだ、得意なんだと自覚したわけです。体力をつけるために続けていた競泳のおかげで、高学年頃には活発になっていたけれど、運動や芸術系はそこそこ。抜きん出た才能はないと感じていたところに、「勉強ならいけるかも」と光が見えました。両親ともに化学の研究者だったためか、特に理系科目が好きで得意でした。

他方、授業では扱わない社会科資料集を隅から隅まで読んだり、暗唱したりなんていうことも好きだったのですが、日本国憲法を目にした時に衝撃を受けました。人権の項を読むうちに、これは素晴らしい人間の発明だ!と思ったのです。理系の世界でいえば、例えば医薬品の発明などは、必要に迫られて成されたもの。でも、法律は〝社会の仕組み〟を発明している。だから人間は、ほかの動物とは違って秩序ある近代社会を構築できたのであり、何よりも素晴らしい発明だと思いました。それに気づいたのも小学校5年生の時。宇宙にまつわる研究をしてみたいとか、国連に行って環境問題を扱うことにも憧れていたのですが、この瞬間、将来は法律に携わる人になろうと心が決まったのです。

新谷は、名門女子校として名高い桜蔭学園で中・高の6年間を過ごしている。受験の際も入学してからも、ほとんど塾に通ったことはなく、「ありがたいことに、勉強で困ることはありませんでした」。自由な校風に加え、ある種、同質の友達に囲まれた学園生活はとても楽しかったという。今でも何かあれば、すぐに相談できる友人たちを得られたことも財産となった。

よく「すごく勉強させられるんでしょう」と言われるんですけど、全然そうではないんです。放っておいても皆勉強するから、本当に好きにさせてくれるんですよ。部活としては水泳を続けて、最初は競泳や遠泳、高校になったらシンクロナイズドスイミングなどにも挑戦していました。

そんな幸せな日々のなか、高校2年生の時に、ショッキングな出来事がありました。友達とある大学の学園祭に行ったのですが、大学生たちと話をするなか、その大学では女子学生のサークル活動に限りがあることを知りました。私たちが桜蔭の制服で行ったのがいけなかったのかもしれません。「賢い女性は歓迎しない」かのような空気を感じ、初めて日本社会特有の残酷な価値観を突きつけられた気がしました。「勉強が好き、得意」であることが大切なアイデンティティだった私は、その日以来、自分の価値が何なのかわからなくなって悩みましたね。多感な年頃でした。

たくさんの本を読み漁り、また、倫理の授業を通じて哲学を学ぶことで、人は何のために生きているのかを必死で追究しようとしていました。自分だけではなかなか答えに行き着かないけれど、世界中の哲学者それぞれの究極の言葉から手がかりを得ることができました。なかでも森鷗外の「諦念」―― 勇気を持って現実を直視する、自らの運命を受け入れ、それを積極的に自分の運命として生き抜く覚悟という意味合いの言葉は、当時の私を救ってくれたものの一つです。時に悩みながらも、法曹の道に進むという夢だけは最後まで捨てなかったこと、今となっては本当によかったと思っています。

弁護士 新谷 美保子
六本木ヒルズ(東京都港区)に拠点を構えるTMI総合法律事務所。新谷氏の執務スペースには、宇宙関連のグッズやポスターなどが飾られている。現在では廃刊となった『宇宙のひみつ( 学研まんがひみつシリーズ 1)』はクライアントからプレゼントされたもの

社会正義実現への思いが強かったから、学生時代は検察官を目指していた

青春を謳歌し、結婚後に司法試験合格。弁護士のキャリアをスタートさせる 

選んだのは慶應義塾大学で、新谷は希望どおり法学部法律学科に進学する。「慶應ならばジェンダー差別がなく、違う世界があるかもという淡い期待を抱いて(笑)」。結果、新谷の期待に叶ったようで、「最高のキャンパスライフでした」と振り返る。のちに人生の伴侶となる男性と出会い、また、ここでも大切な友人たちを得て、新谷は青春時代を存分に謳歌した。

慶應には帰国枠で入学してきた学生がたくさんいて、男女ともに帰国子女の友達と遊ぶことが多かったです。皆、サバサバしていて本音で話せたし、特に肌が合ったのは、女性がキャリアを築いて頑張ることは当たり前、それをエンカレッジする文化があったことです。夫もその一人でした。私が司法試験合格を目指していると話した時、「すごい!格好いいな。応援する!」と率直に言ってくれて、大陸で育った日本男子は器が大きいなぁと感じたものです。

当時は検事になろうと思っていたので、大学3年生の時には刑法や刑事訴訟法を扱うゼミに入り、裁判官出身の平良木登規男先生の下で学びました。ロジカルな頭の使い方ができる刑事系の分野は、非常に面白かった。司法試験に向けて勉強を始めたのもこの頃だったでしょうか。ただ在学中、大半の時間はサークルの友達と楽しく遊んでおり、卒業する前に受けた最初の司法試験は不合格。旧司法試験の合格率は非常に低く、現実の厳しさから、卒業後は外資系企業にでも就職しようかと悩んでいたら、当時交際中だった夫から、「結婚して、ゆっくり焦らず司法試験を受けてみたら?」と言われたんです。これは渡りに船だと思ったわけです。両親も賛成してくれたし、卒業後まもなく結婚、専業主婦をしながら勉強を続けるという生活に入りました。

寸暇を惜しんで勉強はしたけれど、今思えば、ままごとみたいな日々ですよ(笑)。夫のボーナスを使い果たして、ちゃっかり海外へ新婚旅行にも行き、実に切迫感のない受験生でした。でも、若さってすごいですよね。お金がなくても、楽しみながら夢も追う……思い出すと、苦しくても何も怖れず、ひたすら前に進もうとしていた時代だったなと思います。

弁護士 新谷 美保子
事務所の案件に加え、宇宙関連の公益活動にも注力。多忙を極める日々だが、15歳と10歳、2人の娘の子育てにも全力で取り組んでいる。「子育てに要する時間がなかったなら、今の2~3倍は仕事ができるという感覚があります(笑)」(新谷氏)

司法試験に合格したのは2004年。当時は合格率が3%弱という狭き門だった。新谷自身が先述したように、当初は検察官になることを目指していたが、司法修習を通じて、その考えは変化する。「自分の気持ちに正直になった」結果、選んだのは弁護士としての道。そして、新谷はTMI総合法律事務所で新たな一歩を踏み出した。

刑事系の科目は得意でしたし、社会正義の実現に強い思いもあったから、検察官になろうと真剣に考えていたんです。でも、検察の実務修習は厳しいものがありました。普通に生きていれば会うことがない犯罪者と毎日向き合い、厳しい取り調べをする――もちろん社会にとって大事な仕事だけれど、私にはつらく、これを続けていくのは無理だと思ったのです。もう一つ、「犯罪者のその後の人生がどうなるのか」という点。私はそういうことを考えてしまうので、ある時、検事正に尋ねてみたところ、「それは刑事司法の領域です」と言われ、やはり私にはできないと思いました。

一方、民事裁判修習では思いがけず「裁判官になりませんか」と、熱心に誘っていただきました。当時、検事や裁判官は、若い合格者が歩むエリートコースという風潮があったから、20代の私は考えが定まらない部分もありましたが、最後は「やはり私は依頼者の横に立っていたいんだ」という自分の信念に素直に従ったのです。

周囲の友人と法律事務所を回り始めたなか、当時できたばかりの「六本木ヒルズに入ってみたい」という理由で訪問したのがTMIでした。この時の面接が面白い展開になったんです。

私はバリバリ働きたかったから、「結婚していますが、当面は子供を持つ気はありません」とアピールしたところ、面接官の弁護士から、逆に諭されまして(笑)。「最初から決めるのはよくない。子育てをすることで人は成長するよ」と言うわけです。変わった事務所だなぁと思う一方、20年近く前の女性の就職事情からすればかなり斬新でした。当時のTMIはまだ、在籍する弁護士が100人に満たず、人間味に溢れた雰囲気に惹かれて、迷うことなく入るならばここだと決めたのです。

最初に配属されたのは知的財産権を扱うチームです。入所した頃は、何かの分野の専門家になろうという、そこまでの意識はなかったのですが、TMIが設立当初から得意とする分野でキャリアをスタートできたことは幸運でした。TMIの知財の仕事はとにかく華やかで、新人時代から貴重な経験をたくさん積ませてもらえました。この知財での経験を柱に、領域をディープテックに振り切ったというのが現在のキャリアなので、この時代に経験したこと、学んだことが、すべて今につながって生きていると思いますね。

知財でスタート。多くの大型訴訟を通じて鍛えられ、環境に恵まれた

テックの面白さを体感し、最先端の知財を学ぶべくニューヨークに留学

「まずは3年生き残ることが大事」だと思って、新谷は懸命に仕事を覚えていった。時代的に、業務が深夜に及ぶことは当たり前。体力的にもかなりきつかったが、先輩弁護士らと多くの大型訴訟に携わり、鍛えられ、育つ環境としては非常に恵まれていたという。そして、まさに3年が経った頃、新谷は今も印象に強く残る知財裁判を経験した。車のタイヤ形状の意匠権を巡る裁判である。

国内外のメーカー間での裁判で、TMIのクライアントである海外メーカーは一審で敗訴。私は控訴審からかかわることになりました。事務所から、「思うようにやっていいよ」と、やはり若手の女性弁理士と組んで、好きにやらせてもらった案件です。一審判決を覆す新たな証拠と主張を求めて、訴訟対象の製品、その設計を見直すのはもちろん、モーターショーにも行って関連する技術を見て回り、コツコツ証拠を集めていきました。そして、何度も議論を重ねては、新たな主張を組み立てていく。結果は、知財高裁で逆転勝訴です。

書面がいいと勝てるんだ、裁判官を説得すれば勝てるんだと実感した瞬間でした。周囲から、たくさんの祝福を受けたことが嬉しく、自信にもつながりました。そして何より、テックの面白さを知り、「やはり技術分野が面白い」という手応えを得たのは大きかったと思います。

アメリカで最先端の知財を学ぼうと、コロンビア大学ロースクールに留学したのは32歳の時です。すでに長女を出産しており、子育てしながらの留学準備は本当に大変でした。英語塾に通う時間など取れませんから、夜、子供が寝付いてから、寝ずに仕事か英語の勉強をする日々。受験勉強も含めて、文字どおりの短期決戦。必死に出願をして、何とか間に合わせてバタバタと留学したという感じでした。

その慌ただしさは留学後も続く。アメリカでの学業と子育ての両立は想像を超える大変さで、焦りやプレッシャーと闘いながら、何度も「時間さえあれば」と思ったそうだ。しかし、留学と現地研修を通じて得たものは大きく、新谷の弁護士人生に大きな転機をもたらした。「スペースローヤーとして、宇宙ビジネスにかかわる」。子供の頃から大好きだった宇宙が、ここでつながったのである。

そう、「時間さえあれば」という悔しさが常にありました。悩まされたのは膨大な勉強量で、大量の英文テキストや裁判例を読んでは次々とレポートを提出しなければならないのですが、まとまった時間がどうにも取れません。また、試験前になれば、ほかのロースクール生は24時間開放される図書館に詰めて勉強できるけれど、私は子供の送り迎えや家事に追われる日々。事務所の援助を受けての留学ですから、試験に落ちるわけにもいかず、プレッシャーはなかなかのものでした。

大学院を修了してからの現地研修先は、グローバルに事業を推進する大手重工業メーカーに自分で応募しました。現地で奮闘する日本駐在員の姿を見ているうちに、私も日本のものづくりを世界に展開するお手伝いをしたいと思ったからです。自国の製品に誇りを持ち、現地流の営業を学び、必死に奔走する人たちは格好よかった。「ならば私は、日本人弁護士として何をすべきか」を考えての選択でした。

そんな私の思いを受け止めてくださったのが、当時、同社でジェネラル・カウンセルを務めていた日本人女性です。彼女は私にリーガルインターンとしての職を与えてくれただけでなく、重工業に関する特殊な契約実務を指導してくださいました。そしてある日、彼女から運命的ともいえる言葉を耳にします。「アメリカには存在するスペースローヤーが日本にはいない。それは国益が損なわれるレベルの課題で、今後の日本を考えれば、宇宙ビジネスを専門に扱う弁護士が絶対に必要だ」と。

驚きました。私は飛行機や船の仕事がしたくてインターンを希望したので、宇宙のことなど考えてもいませんでした。確かに、宇宙は小さい頃からずっと大好きだったけれど、それは博物館で見たり、本で読んだりする世界で、よもや自分の仕事とつながる日がやってくるとは――。わからないものですよね。当時のアメリカでは、スタートアップである「スペースX社」がすでに創業10年を迎え、民間での宇宙ビジネスがまさに生まれつつあるタイミングでした。「そのうち日本も宇宙ビジネスが盛んになるから、必ず弁護士が求められる」という彼女の言葉から、私は帰国後に宇宙分野を専門にすることを考え始めたのです。

一方でニューヨークは、女性も男性と同じように社会で活躍する夢を追いかけながら、夫婦で力を合わせて子供を育てることが当然の世界でした。親友とも呼べるママ友も数人でき、長女も現地の生活になじみ切っており、帰国しない未来が頭をよぎったのも事実です。でもその時、19歳まで米国で育った夫はこう言いました。「アメリカで英語をネイティブレベルに話せるアジア人はいくらでもいる。それでもこの白人社会に本当に入り込むことはできないんだよ。僕たちは、帰国して、日本を代表して日本人として世界で闘おう」と。子育て時代の思い出がすべて詰まったニューヨークを離れる時は、後ろ髪を引かれる思いでJFK国際空港に向かうタクシーに乗り、涙が止まらないまま帰国しました。

弁護士 新谷 美保子
「100年後、この日本に生まれてくる子供たちに、少しでもよい未来を残したい」。これが新谷氏が宇宙ビジネスに携わっている一番の理由。所内外の仲間、クライアントと志を一つにし、世界における日本のプレゼンスを高めるために奔走し続けている

少しずつ物事が、世界が変わっていく。その手応えをいくつも感じた10年間

スペースローヤーとして躍進する日々。見据えるは100年先の未来

新たな大きな夢を携えて、TMIに復帰したのは2015年。ただ、この頃の日本では、宇宙といえば科学探査という認識が強く、ビジネスとしては見向きもされない分野だったため、帰国後の道のりは容易ではなかった。時に心が折れかけることもあったが、新谷は時間をかけて環境を整え、歩を進めてきたのである。

宇宙ビジネスに挑戦する夢について、本気で取り合ってくれたのはTMIの田中克郎代表でした。「宇宙飛行士は10年かけて準備をしている。簡単ではないが、時間をかけて準備すればいい」と私の挑戦を受け止めてくださった。成果を急がず、私が求めることをやらせてくれる環境は大変ありがたかったです。
 
アソシエイト時代より少しずつ私宛に大きな仕事がくるようになり、まとまった売り上げが立つようになったのは3年後くらいでしょうか。あるクライアントは「日本に宇宙弁護士チームをつくるために、私たちが世界から仕事を取ってきます」とすら言ってくださいましたし、最初の大型紛争を任されたのもこの時期です。その後、パートナーに就任する頃には、すべて自分でオリジネートした案件を扱うようになっていました。売り上げを追求することに個人としての関心は薄いのですが、結果を出すことは、ある意味、当時の懐疑的な雰囲気を乗り越えるために一番必要な方法だったとも思います。

現在ではチームを抱え、常に複数の案件を並走させています。ある程度人数が必要な大型案件としては、投資や紛争案件などがあり、チームも日々成長していますが、それでもなお、日本において宇宙ビジネスがまだまだニッチな産業であることは確かです。これを、日本の柱の一つとなる産業に育てる、主役である事業者の方々を縁の下の力持ちとして支えることが、自分の使命だと思っています。

並行して、新谷は帰国後以降、ずっと公益活動にも尽力してきた。JAXAの客員に就任したのを皮切りに、18年には、民間企業を束ねて産業界の声を一つにする一般社団法人「Space Port Japan」を共同設立。また、宇宙に関する各省庁の委員会にも参加し、一貫して政策にも関与してきた。新谷がスペースローヤーとして歩み始めてから、間もなく10年。かつてTMI代表に言われた〝常なる準備〟は実を結びつつある。

大きな節目になったのは、22年1月、日本の宇宙政策を検討する宇宙政策委員会の安全保障部会に委員として入ったことです。昨年6月に日本が初めて発表した「宇宙安全保障構想」の検討にしっかり加わることができました。防衛分野での宇宙利用の拡大や、官民が一体となった技術開発の強化などを打ち出しています。そして、宇宙政策委員会のもう一つの部会である基本政策部会では、昨年政府が発表した「宇宙技術戦略」をつくるにあたって、輸送分野(ロケット)の検討にかかわる機会をいただきました。これも国としては初めての策定で、この技術戦略を実現するために、1兆円の宇宙戦略基金が予定されています。

少しずつ物事が、そして世界が変わっていくという手応えを、これまでいくつも感じてきました。激動期にあり、そして、産業の力を取り入れなければ進まないという時期だからこそ、在野の声が届いたのだと思います。この10年で時代は確実に動きました。その過程には、何人もの心ある官僚やJAXAの方々、そして民間企業の皆さんとの試行錯誤があります。当然のことながら、私一人で闘っているわけではなく、志を同じくする仲間とともに歩けるのは幸せなことだと感謝しています。情熱があれば自然と人は集まってくれる。大量の実務の積み重ねのなかから、本当に必要な民間の声を、少しでも国政に届けられればと思っています。

宇宙空間は、人間が陸海空の次に使える場所として最後のフロンティアであり、同時に安全保障上も重要な役割を担っています。私がなぜ宇宙ビジネスの仕事をしているのかと問われれば、その視座のもと、100年後に生まれてくる子供たちに、少しでもよい日本の未来を残したいと本気で思っているからです。この記事を読まれている若手弁護士がいらっしゃるのであれば、元気に働けるという素晴らしい人生がある限り、周囲と自分を比べて不安になるとか、売り上げがどうとか、そんなことは取るに足らないどうでもいい話なんだということに気付いてほしいと思っています。視座を高くし、自分の心によく耳を傾け、自分の能力、特技を何に使いたいのか。自分と向き合い、その情熱に従って突き進んでみてください。

「何のために、この限られた大切な人生を使うのか」。これは幼少期から一貫して私を律している考え方ですが、弁護士というのは社会において自由自在に活躍できる素晴らしい職業で、世の中をいい方向に変えることができる仕事だとつくづく思います。ずっと走ってきて、私は今、はっきりとした手応えを感じているところです。そして、ぼんやりした私に何だってできると信じさせてくれ、既成概念に縛られない人間に大切に育ててくれた両親と、いつも私の決断を尊重し、支え続けてくれる夫に心から感謝しています。
※本文中敬称略