Vol.93
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弁護士 山本 崇晶

HUMAN HISTORY

資格や専門分野にとらわれず、社会に目を向けることが大切。そうすれば視野が広がり、何をしていくべきかが見えてくる

弁護士法人色川法律事務所
弁護士

山本 崇晶

登山に明け暮れた青春時代。司法試験チャレンジを機に、人生の岐路を迎える

大学卒業後、住友電気工業に入社した山本崇晶は、インハウスローヤーの先駆けとして30年以上、法務の現場に立ち続けてきた。近年でこそ、日本の企業内弁護士数は大きく増加しているが、山本が仕事を始めた頃はわずか20名ほどしか存在せず、認知そのものも低かった時代だ。先例や手引きがないなか、山本は「問題発生の現場に身を置く」ことで学びと経験を重ね、自らのキャリアを切り拓いてきたのである。知的財産、M&A、危機管理など、時流と企業活動に即応した多様な業務経験は、「すべて財産となった」。2024年からは、その財産を生かすべく足場を色川法律事務所に移し、広く日本企業の法務機能強化に向けて活動を続けている。

生まれは岡山の倉敷市で、高校を卒業するまでごく普通の実家暮らし。父親は県の職員、母親は看護師で、物心ついた時から二人ともずっと仕事をしていたため、家のことは祖母が賄っていました。僕も畑仕事をやったり、薪をくべて風呂を沸かしたり、けっこう手伝ったものです。戦争世代で食べるものがなかった時代を経験したからか、父親は自給自足の暮らしを目指していて、幼い頃からよく漁にも連れ出されました。小舟に乗って瀬戸内海に出て、ウナギやアナゴを釣って、家で裂いて食べるというなかなかのサバイバル(笑)。

まぁ、わんぱくでしたよね。親が謝りに行かなきゃいけないようなケンカもしましたし。ただ、僕はよく熱を出していたので、ある時、扁桃腺を切除する手術を受けたのですが、処置がうまくいかず、大量出血をしてしばらく入院したんですよ。それから少し内向的になって、一転、読書少年です。とりわけ夢中になったのは『日本沈没』とか、星新一のショートショートなどのSFもの。中学生の時には新聞配達を始めて、そのバイト代で本ばかり買っていました。田舎のことですから小学校も中学校も規模は小さいし、生活はすべて徒歩圏内でしたからね。本を通じて感じる外界に惹かれていたのかもしれません。

倉敷天城高校に進学してからは、ほかの中学から進学してくる人もけっこういて、世界が広がりました。で、始めたのが登山です。先輩から誘われたのをきっかけに山岳部に入ったんですけど、これが非常に楽しくて、結果、今も続けているほどハマったのです。広大な自然に魅了されたのはもちろん、山から下りてきてからの〝打ち上げ〟とかね。カツ丼と親子丼、時にはさらに一品頼んで食べるという、今じゃ考えられないような……若き日の思い出(笑)。

特段、職業的な夢はなかったんですよ。ただ、大学進学を考えた時に、はっきりしていたのは「外に出たい」ということ。先述したように狭い範囲で暮らしてきたから、広い世界に出てみたかった。いろんな人に出会ったり、新しい経験をしたりして、読んだ本にあるような世界を感じてみたかった。それで全国から人が集まる東京を選び、せっかく目指すのなら一番難しいところと考え、東大受験に臨んだのです。

結果、山本は現役合格。倉敷天城高校は進学校とはいえ、当時は東大合格者が年に一人出るかどうかの状況で、本人も驚いたという。苦手な数学ではまともな試験回答ができず、「ダメだと思ったのですが、ほかの科目でカバーできたのか……ラッキーでした」。いずれにしても、山本は思いを叶え、新しい世界に踏み出したのである。

初めての一人暮らしは自由気ままなものでした。授業にはあまり出ず、時間の多くを費やしたのはやはり登山。ワンダーフォーゲル部に入り、さらには社会人の山岳会にも入って活動するという熱の入れ具合で、まる4年間、みっちり活動しました。

それまで僕自身は危ない目に遭ったことはないのですが、ある時、同じ法学部だった先輩部員が谷川岳で事故を起こして亡くなったんですよ。現役で死亡者が出たのは部が始まって以来のことで、一時、活動が中止になりました。その間、今後の対策などについてOBたちから指導を受ける会を定期的に設けていたのですが、その会の委員長がかつてワンゲルの主将を務めていた菊地裕太郎さん。日弁連の会長にもなられた大先輩で、本当にお世話になりました。この時、僕は初めて直に弁護士と会ったというわけです。もっとも、話したのは山のことばかりでしたが。

そんな調子であまりにも勉強していなかったから、就職どころか卒業自体が危うい状況で。どこかでまだ山に登りたいという気持ちもあったし、モラトリアムとして留年することにしました。ここで意識したのが司法試験です。大学に残るにしても親に対して〝理由〟が必要ですから、「司法試験のために留年する」と。実際に勉強を始めたのは、4年の秋口ぐらいからでしょうか……やっとです(笑)。

予備校にも通いながら一気呵成に勉強し、留年2年目に受けた試験は「いける」と思っていたのですが、論文試験で落ちた。問題を読み違えて、途中で気づいたものの「時すでに遅し」でした。さすがにガックリきましてね。在学年数には限りがあるし、お金もなくなってきたし、まずいなと。ここから本当の意味で人生の選択が始まったように思います。当時、5年も6年も司法試験を受け続ける人はたくさんいたけれど、一方で、すぐに受かる人もいるわけです。自分にそうした才があるとは思えず、先を思うと不安になって、ずいぶん考えました。自問するなかで出てきたのは、「試験ばかりに目を向けていても仕方がない。これは就職の選択なんだ」ということ。法曹にしても職業の一つとして選ぶということなのだから、試験だけにとらわれず、よく考えて就職の選択をしようと思い至ったのです。

弁護士 山本 崇晶
住友電気工業の法務部員として38年働き続け、2024年に色川法律事務所に入所した山本氏。東京事務所に所属する弁護士たちと。左から、大城章顕弁護士(57期)、平野双葉弁護士(49期)、清野崇宏弁護士(71期)、加藤憲田郎弁護士(69期)

狭い社会を飛び出していろんな人と出会い、新しい経験をしてみたかった

「ものづくりの現場」に感動して住友電工に入社。そして、司法試験にも合格

弁護士 山本 崇晶
色川法律事務所からは、「これまで以上に、海外の仕事を受託できるような組織体制を整えていくこと」というミッションを与えられている。「まずは人づくりから始めようと思っています」(山本氏)。

その選択のために、山本は積極的な〝職場見学〟を実行した。「法曹の職場といえば裁判所」と考え、東京地裁で法廷見学をしたり、先の菊地氏の事務所を覗いたり、一般企業への会社訪問も重ねたという。そして最終的に選んだのは、企業活動に直接身を置くことだった。「事業に取り組むという将来を相手にする職業のほうが、自分の性分に合っていると感じたのです」。

法曹の仕事は裁判所が中心――学生にはそのぐらいのことしかわからなかったので、現場に行って日がな一日法廷見学です。本当に〝見学〟でしかなかったけれど、どんな人たちが何をしているのか、それなりに見て取ることはできました。

他方、会社のほうは、訪問するとどこも丁寧に説明をしてくれる。そのなか、とても印象がよかったのが住友電気工業でした。話を聞いて、実際に働いている人を見て、工場見学もさせてもらったのですが、何よりものづくりの現場に感動したんですよ。当時としては最新鋭の光ファイバーケーブルと伝統的な銅ケーブル、両方の製造現場を見て、こういうものづくりが確実に世の中を変えていくのだと胸が躍った。「これから長く生きていく場所はこっちだ」と思ったのです。過去にあった事実を確定し、それに法を適用してファイナルアンサーを出すという場よりも、将来を相手にする場のほうが自分には合っていると。それで〝会社の仕事〟を選んだというわけです。

住友電工に入社してからは、まずは大阪の工場で実習です。電力ケーブルをつくる工場で、重い安全靴を履いての立ち仕事はきつかったけれど、〝製造現場で働く〟経験はとてもためになりました。営業グループに配属が決まってからは東京に来て、営業研修を受けたり、経理を学んだり。そういった研修メニューを終えてから、1年ほど生産計画や外注計画に携わってきました。つまり、法務とは全然関係のないスタートだったんですよ。

話は交錯するのですが、司法試験に合格したのは1986年、住友電工に入社した年です。実は、就職を決めてからも試験の申し込みはしていて、勉強を続けていたのです。留年時代、時間もお金もかけてけっこう頑張ったのに合格叶わずで、悔しい気持ちが残っていたのだと思う。面白いものですよね。肩の力が抜けたのか、勉強ばかりしていた前の年より調子がよくて、論文試験にしてもサラサラっとできちゃった。会社にはもちろん報告して、祝勝会もしてもらいました。合格した後の口述試験を受ける際には有給休暇が足らない状態だったので、欠勤して臨んだのを覚えています。

山本が修習を受けたのは、それから1年半後。「もうこっちの道に入ったから、修習はいつでもいい」と考えていたが、社内に合格が伝わったことで法的な相談を受ける機会が増え、必要に迫られたそうだ。ただ、当時は弁護士法30条3項の規定(04年に改正)によって、弁護士が営利目的の業務を行う際には所属弁護士会の許可を得なければならず、山本が法務部員として職場復帰するまでには時を要している。

例えば「台湾企業との契約を見ろ」とか、聞いたこともないような話がポンポンくるようになって……これはまずい、修習は早いほうがいいと考え直したのです。折しも、担当していた通信ケーブル事業が、海外で特許問題を抱えていた時期でもあります。海外事業を展開するうえで、こういう法務問題はますます重要になるという社内認識もあり、改めてきちんと勉強して法曹資格を得ようと。ただ、そのためにはいったん退職しなければなりません。当時の修習は2年間。それでも会社は「しっかり外の世界を吸収して、会社に影響を与えるぐらいのものを持ち帰ってこい」と、激励しつつ送り出してくれました。

すんなり会社に戻れないとわかったのは、東京での後期修習に入る直前です。「就職先が決まっていないようだが」と聞かれた際に、「会社に戻ります」と答えたら、「それは無理、所属弁護士会の許可が必要だ」というわけです。現在は届出制ですが、当時は許可制で煩わしい審査もあったんですよ。会社に聞いても、前例がないだけによくわからない。それで法務部長が知り合いの弁護士に相談し、いったんその方の法律事務所に籍を置くことになったのです。それが、昨年から所属している色川法律事務所です。

同事務所で〝通常の弁護士〟として勤務しながら大阪弁護士会に許可を申請し、許可が出るまでに1年半ほどかかったでしょうか。過程ではいろんな審査がありました。「企業が法の潜脱等の目的で利用するのではないか」「弁護士の品位を落とすことになるのではないか」などと言われたり、会社の役員も呼び出されたりで、なかなか大変でした。今、弁護士が企業内で働くことに違和感はないでしょうが、僕が始めた頃はそんな時代だったんですよ。

過去より将来を相手にする。そのほうが自分の性分に合っていた

海外留学を経て法務の現場へ。多領域で経験と学びを積む

住友電工の大阪本社に法務部員として〝戻った〟のは91年の秋。同時に、企業内弁護士として勤務するのに伴い、社屋内に「山本法律事務所」を開設した。その際、山本が弁護士会会員に向けて出した挨拶状には、このような一文が記されている。「今後は企業内という『問題発生の現場』から自分の仕事を開発してゆきたいと思っています」。これが、山本の原点である。

この頃の法務部メンバーは十数人だったと思いますが、海外からの技術導入の許可申請をやっていた人とか、係争になった特許を発明した人、あるいはアンチダンピング調査対応の経験がある人など、様々なバックグラウンドを持つ人で構成されたチームでした。法務の専門家は限られており、弁護士は僕一人。主にリスク管理や企業活動の法律的な支援に携わるようになり、仕事はたくさんありました。そんななか、いったん現場を離れ、早々にアメリカ留学しようと考えたのは、「加速するビジネスのグローバル化に追いつかなくてはならない」という危機感を持ち始めたからです。

自分から申し出て、今度は2年間の休職です。ハーバード大学ロースクールに留学させてもらって、その後は公募でワシントンDCにあるWilmer,Cutler&Pickering法律事務所に入所し、実務を経験しました。英語のトレーニングを受けずに行ったため、言葉の壁が大きかった。数ページの裁判例を読むのに1時間以上かかるような状態で、ロースクールの授業で何かを発表しても通用せず……。とにかく慣れようと、毎日映画のビデオを観聴きしたものです。

法律事務所で証人尋問のトレーニングを受けた時、記録を取る速記官に「僕の英語は聞き取れなくて困ったでしょう」と聞いたら、「もっとひどい人はいっぱいいる。全然問題ないよ」と勇気づけられた(笑)。結局は慣れですよね。物怖じしない度胸はつきました。そして何より、財産となったのは、法律事務所にいた弁護士たちといい関係を築けたこと。なかでも、気の合ったデンマーク人の弁護士とはずっと縁が続き、後に会社の法務部に戻って以降、様々な案件で協力を仰ぎ、助けてもらいました。事務所にいたのは1年未満という短い期間ながら、得たものは大きかったですね。
 
95年8月に帰国した際、山本は東京に転勤となり、「法務部の東京駐在」というかたちで職場復帰した。大阪本社に比して、東京事務所は法務部員の数が少なく、実質、担ったのは〝立ち上げ〟である。ここから山本は、激しく移り変わる経済・事業環境に身を置きながら、日々、法務の現場仕事にひたすら取り組んだ。

後に法務部長に就任するまでの17年間は、時流に即しながら、あらゆる領域の現場仕事に対応してきました。前半戦として大きかったのは、まずバブルの崩壊による倒産案件。不況が続き深刻化したことで、顧客や取引先企業の具合が悪くなり、倒産が相次いだ時代です。生産をどうやってつなぐか、売り掛けの回収をどうするかなど、連日のように問題対応に追われました。どこかが会社更生法を申請したと聞けば、それに関連した本を探しに走る。そんなところから始めたんですよ。夜討ち朝駆けで会社を見張りに行ったり、債権回収の場面では修羅場も経験したり、思い返しても重い仕事でしたね。

そして、並行してあったのが特許係争。世界に市場が広がっていた光通信関連製品分野において、アメリカ、ヨーロッパ、そして日本その他の国での訴訟や交渉対応に飛び回り、海外出張がとても多かった時期です。体は大変だったけれど、会社の研究者や事業部の人たちと一緒に動いてみっちり仕事をしたこと、また、アメリカやヨーロッパの弁護士らと四つに組んだこと、これは非常に大きな学びとなりました。

アメリカ、ドイツ、イタリアやフランスの世界的規模の大企業と対峙すると、企業内弁護士を含む相手方企業の法務部員らのノウハウの高さを痛感したものです。契約のつくり方一つにしてもそうですし、よく考えられた案、交渉のスタイルなど、すべてが勉強になりました。30年くらい前の話ですからね、当時の日本にはそうしたノウハウの指南書的なものもなかったから、僕は事実から、そして相手方から多くを学んできたのです。

次に、2000年代に入って起きた大きな波が業界再編とM&A。日本の電力需要の頭打ちが見とおされ、他方、輸出においては欧州やアジアのメーカーとの競争が激化していた時代です。当時、同業は国内に6社あったんですけど、市場の縮小に応じて業界再編が進み、住友電工でも他社との合従連衡を通じて様々な構造改革に取り組んできました。例えば、日立電線と高圧電力ケーブルの合弁会社、ジェイ・パワーシステムズを設立したのもその一つです。ほかにも事業の分社化や海外事業の取得など、案件は多かったですね。

あちこちに出向いてはインタビューを行い、デューデリジェンスをやって……今は法律事務所がフルサービスで受けてくれるけれど、この頃は素朴なもの。〝自力のM&A〟をやっていた会社も多かったと思いますよ。僕はアメリカの法律事務所で経験をしていたので、それが役立ったのは確かですが、いろんな実務を通じてスキルアップが図れたと思っています。

弁護士 山本 崇晶
「培ってきた経験と知見を生かして、“法務部長”のサポートをやってみたい。部員や所員のカウンセリングやメンター、壁打ちなど、できることから始めようと考えています」(山本氏)

企業に身を置き、事業活動そのものを知ることはとてもいい経験になる

日本企業の法務機能の強化に向けて――新たなステージで活動に臨む

業界再編が概ね一巡した頃に出てきたのがカルテル事件だ。00年代後半は、業界を問わずカルテルの摘発が続いた時期である。住友電工においても複数の事業分野で問題が発覚し、収束までに長い期間を費やしたという。その対応に追われていたさなか、山本は12年に法務部長に就任。「法務機能の改革」をテーマとした体制づくりに力を注いできた。

複数の国において、競争法違反調査を受けました。当局による処分や、クラスアクションを含む民事問題、さらには株主代表訴訟など、様々な事象に対応しました。各国に行って現地で営業をしている人たちにインタビューしたり、「営業はこういうかたちでやりましょう」という研修を重ねたり、競争法問題の是正と再発防止のために力を尽くしてきました。これらの案件においては、他国の弁護士や専門家との協働が不可欠ですが、この時、全力で手助けしてくれたのがアメリカの法律事務所で一緒だったくだんの弁護士。世界各国で延々と続いた仕事において彼の存在は大きく、本当に助けられました。

会社員として最終ラウンドに入ったのは法務部長になった頃で、ここから取り組んだのが法務・コンプライアンスの体制強化。グローバルに社員を守れるよう法務のミッションを新たに策定し、それに基づいた組織を形成して、ちゃんと回していける仕組みづくりに注力してきました。法務機能の改革の一つとしては、国内・国際に分かれていた法務体制を一体化し、事業単位で世界中を見られるようにしました。

そのうえで大きく変えたのは国外で、欧米やアジアなどの各国において、現地の優秀な弁護士を法務部員として雇用することにしたのです。というのも、実は人がいなかったから。各地域のオペレーションの規模やリスクの高さに応じた、現地での法務体制構築が必要でした。採用した人には組織づくりやリスクアセスメントなどをやってもらうことになるので、そのぶん、採用活動や面接にはかなり力を入れました。「こんなチャレンジングな機会はそうそうないよ」と焚きつけながら(笑)。非常に感謝しているのは、引く手あまたのような人たちが「なるほど、面白そう」「やってみようじゃないか」と意気に感じて来てくれたこと。僕が会社を辞める頃には、法務部員はグループ全体で事業活動に見合う、そこそこの規模になったと思います。人員としては国外のほうが多いです。世界各地の法務機能の運営に心を砕いた12年間は、現業とは違う意味でとても大変だったけれど、最後の成果として会社に残せたのならば嬉しいですね。

会社の成長、変貌とともに過ごした三十数年。山本の業務内容も現場の実務、部下の育成、組織運営と変遷してきたが、振り返れば「身をもって企業活動全体を知ったことが宝になった」。昨年、定年に伴って東京の色川法律事務所に移籍。「これからは、得てきた知見をもとに、広く日本企業の法務機能の強化に貢献したい」と言う。

経歴的には法務がメインですが、執行役員としてリスク管理や経営企画も所管し、全社横断的な活動もずいぶんやったんですよ。経営そのものについて研究、協議を重ね、法務を超えたかたちで多くを学んできました。だから、企業活動に役立つような仕事ができるんじゃないかという自負もあり、この先は、広い視野でもって日本企業の法務面の安全・品質を高めるような活動をしていきたいと考えています。日本のものづくりにおける安全・品質を高める取り組みは世界に十分通用するレベルですが、法務面についてはまだそこまで至っていないという課題感を持っているので。

日本企業が世界で成長していくためには企業内の法務機能の強化が必須で、そのカギを握っているのは優秀な法務部員の確保と養成です。例えば、企業と法律事務所とが連携して法務部員を共同で養成し、法務機能を高めることで、世界に伍していけるようにできないか――そんなことを考えていて、目下の夢でもあります。

弁護士という職業は姿を変えていくかもしれないけれど、未来永劫変わらないのは企業の存在。世の中に何かを生み出し、提供していくという営み自体は決してなくならない。いわば社会そのものですよね。そこに目を向けてほしいのです。何が求められているのかを感じ取り、自分に何ができるかを軸に考え続けていれば、仕事の世界は必ず広がります。

その意味で、企業に身を置き、事業活動そのものを知ることはとてもいい経験になると思います。プロとしての経験値を上げるためにも、必要とされる仕事を知るためにも非常に有効です。それぞれの分野で一流の弁護士と仕事をする機会を持てるし、他分野の専門家と業務を開発することもできる。さらにAIなど、新しい技術の活用機会もあるわけで、間違いなく成長の場になると確信しています。企業内弁護士として仕事を始めた頃は、企業からも同業からも奇異な目で見られ、肩身の狭い思いもしたけれど、この道を走ってきて本当によかった。今は、一人でも多くの人が企業内弁護士という働き方に興味を持ってくれることを願っています。 
※本文中敬称略