一貫して文学に傾倒。司法試験に臨んだのはモラトリアム的発想から
「気軽に相談ができて、人間味あふれる法曹になる」。弁護士となった時、山田秀雄が掲げたモットーである。そして重んじているのは、インタビュー中も幾度となく口にした「中庸でありたい」というスタンスだ。その卓越したバランス感覚は衆目の一致するところで、加えて洒脱な人柄は、業界内外問わず多くの人たちを惹きつけている。企業法務、一般民事事件のほか、セクシャルハラスメントやドメスティックバイオレンスなどの分野では草分け的存在として活躍。並行して弁護士会での会務にも長く尽力し、2014年には第二東京弁護士会会長の任に就いた。周囲に請われるたび、期待されるたび、真摯に全力を傾ける山田の面持ちは、まさしく“正統派”の弁護士である。
赤坂に生まれ育ち、今も職住接近でこの地がホームグラウンド。昔からよく、有名な俳優さんや政治家を見かけ、雰囲気も色街っぽいところがあったものです。初等部からずっと12年間通った青山学院には著名人の子供も多く、華やかな環境ではあったけれど、僕は最初馴染めなくて、そんなに外向的ではなかったんですよ。学校がすごく楽しくなったのは、好きだった野球が上手くなり始めた小学校3年の頃でしょうか。自由な校風で、受験もないから、好きなことを伸び伸びとさせてもらった。得た友達も多く、恵まれた環境にあったと思います。
とにかく本が好きで、手放したことがありません。高校生の頃は、芥川龍之介や太宰治、ランボーなどにはまり、さらに映画も年間100本くらいは観ていました。部活のサッカーとかスキーとか、スポーツにも打ち込む一方、好きな文芸をやりたくて、廃部同然だった文芸部を復活させたんですよ。活動としては同人誌の発行。自分でものを書き、編集しと、いわば雑誌づくりをしていたわけですが、のちに、二弁で広報誌『NIBEN Frontier』の編集長を務めた時には、この頃の経験がすごく生きました。母方の曾祖父が、かつて大きな新聞社をやっていたので、もしかすると、そういう血が流れているのかもしれません。
文芸志向の強い山田が、作家や映画監督に憧れるのは自然な流れで、大学進学に際しては文学部を考えていた。しかし、不動産業を堅実に営んでいた父親は、先行き不安定な道に首肯せず、弁護士や外交官を想定しての法学部進学を強く勧めたという。早稲田大学文学部、慶應義塾大学法学部、いずれも合格した山田だったが、最終的に選んだのは後者であった。
芝居にも興味を持っていたし、父親は、僕が演劇にでもはまって売れない役者になっておしまい……みたいな話になるのを案じたのでしょう。別に反抗的な子供でもなかったので、妥協したというのが本当のところです。今思えば、僕自身もコンサバティブだったのかもしれません。
大学に入ってからも文芸への思いは引きずったままで、本を耽読し、『三田文學』を発行する三田文学会にも出入りしていました。しかし一方で、この道で食べていくことが自分には無理だと悟るようにもなってきた。同い年の村上龍が、大学在学中に『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を受賞し、あんなの僕にはとても書けっこないと。いつまでも親を騙せるものじゃないし、やはり実学でいこうと将来を改めて考えるようになったのです。
当時はまだオイルショック前で、成績が優秀じゃなくても大手企業に入れるような優雅な時代です。でも、僕はそれを退屈なものと考えて、「会社員になってどうする」みたいな感覚だった。弁護士か外交官か、あれこれ考えたなか、弁護士は自由業だし、弱い人や困っている人を助ける仕事はいいなと思った。それで司法試験に目を向けたのですが、実際のところは、一種のモラトリアムと消去法の発想で選んだ道なので、あまり威張れませんねぇ(笑)。
ただ、ゼミはとても楽しかった。恩師だった宮澤浩一先生の下で、学んだのは主に刑法や犯罪被害者学。少年事件や少年院の問題を取り上げ、ゼミ活動の一環として、日本各地の少年院を見て回れたことは有意義でした。僕が今でも犯罪被害者の問題にかかわっているのは、この経験が起点になっています。しかしながら、皆が就職を意識する段になっても、同人誌づくりやテニスのサークル活動など、糸が切れた凧みたいに好きなことを続けていたのは変わらずで……のちの司法試験受験では、相当苦労するはめになりました。
セクハラ問題に向けた新しい切り口で、社会を動かす
司法試験に向けて勉強を始めたのは、同期生たちが社会人になった頃。存分に羽を伸ばしたあとだけに、単調な受験生活は「かなりつらかった」。卒業後も慶應の研究室に通い、実質一からのスタート。小説やエッセイなら何時間でも読んでいられるが、法律の本は勝手が違う。「特に手形・小切手法などはきらいだったから、全然頭に入らなかった」と山田は苦笑する。
書くのは得意なので、論文式試験ではすぐにいい成績が取れたものの、暗記力にモノをいわせる○×がダメ。実際、短答式試験に受かるまで何回もかかりました。落ちると気持ちは切ないし、親の顔を見るのもつらいから、行き先も決めず、しばらく寅さんみたいに旅に出るという……(笑)。
勉強のためにずっと通っていた三田界隈では、すっかり有名になってしまって、蕎麦屋の親父や喫茶店のママさんたちも「今年はどうだった?」という調子。応援団みたいになってくれて、最後はもう必死、映画のロッキーのような気分でした(笑)。合格したのは29歳の時、慶應には2回分行ったようなものです。いわゆる司法試験エリートとはわけが違うけれど、でも、豊かな人間関係や法律以外の様々な世界に触れてきたことは、間違いなく僕の滋養になっていると思います。
司法修習生の時の指導弁護士は、あのパワフルな久保利英明さん。まだ森綜合法律事務所の時代で10人くらいの規模でしたが、まさに野武士集団という感じで、その活気に圧倒されたものです。なかでも、久保利さんの新しい分野を切り開く才とエネルギーは凄まじかった。「寝るな。死んだらずっと眠れるんだから」とか、記憶に残る言葉は数々あるのですが、忘れられないのは、最初にお会いした時に久保利さんから言われたこと。「君は背が高くて、睫毛が長いから、弁護士として大成するのは難しいよ」って。つまり、交渉事に向く雰囲気を持っていないと。僕にすればトラウマですよ(笑)。でもその後、事務所は違ってもチャンスをくださったり、弁護士会で活動をご一緒したりで、今も久保利さんとは深いお付き合いをさせてもらっています。まぁ、くだんの言葉は、事あるごとにネタとして使ってますけどね。
野田純生法律事務所(現野田総合法律事務所)で3年間基礎を学び、その後、先輩である麻生利勝弁護士との共同事務所を経て、山田が自分の事務所を構えたのは92年、ちょうど40歳の時である。当初より一貫して企業法務や一般民事事件を中心に活動しており、広い人脈と真摯なスタンスを持つ山田のもとには、多くの仕事が舞い込んだ。
僕はいわゆる人権派でもないし、ビジネス一辺倒でもない。その中庸をいく弁護士でありたいとの思いは最初からありました。法律というのは、人が不幸せな状況にある時、それを解消するための道具の一つであって万能ではありません。だから法律万能主義に陥らず、法律以外のことも全部含めて、人の苦しさや大変さを救うべきだという考えを大切にしてきました。こと離婚や相続などの家事事件では理屈が通用しない場面も多く、解決するのに、ある時は時間だったり、弁護士としては説得力や包容力が求められる。知識やスキルを磨くことも必要ですが、人間としての“総合力”がより重要です。そういう意味では、たくさんの本や映画に触れてきたことは、やっぱり滋養になっている。
期せずしてセクハラ問題に取り組むようになったのは、事務所開設と相前後しての話です。弁護士会に「両性の平等に関する委員会」が設置され、セクハラ担当の副委員長に指名されたのがきっかけ。正直、これは苦役だと思いました。委員の大半は女性で、しかもかなりフェミニズムの傾向が強い人たちが多い。当時の僕は、スケープゴートになったような気分でした。
でも、セクハラ問題に真剣に向き合ううち、見えてきたことがあります。「女性が不愉快に感じたらセクハラだ」という運動論だけでは、社会に広く浸透しないだろうと。過激な論はかえって周囲の腰を引かせてしまう。思いついたのは、セクハラはリスクマネジメントの問題であるという切り口です。
セクハラが起これば労働環境は悪化する。関係者の生産性が落ちることは会社にとって損失だし、訴訟が起きれば会社全体の信頼をも失う。セクハラをなくすことは、被害者である女性を救済するだけでなく、企業自体を救う――その視点で書いたのが『企業人のためのセクハラ講座』という本です。今でこそ、この問題は企業法務の一分野になっていますが、当時としては新規性のある切り口でした。危機管理から捉えたこの観点は、多くの企業人を動かしたと思っています。
広域な弁護士業務と会務による多忙な日々。病を機に、真理を得る
事実、同著は注目を集めた。出版後、折しもクリントン大統領のセクハラ事件や、三菱自動車のアメリカ工場セクハラ事件が連続して起きたこともあり、山田のもとには講演依頼が殺到するようになった。著書や監修したビデオ、DVDなど、啓発のために作成したツールも数知れず。自身の仕事も増え、マスコミにも取り上げられ、山田の顔は文字どおり“売れ始めた”。
慶應時代のゼミの先輩に声をかけられ、テレビにもコメンテーターとして出るようになりました。フジテレビの顧問をやっていた関係で、同系列の番組が多かったのですが、他局も含め、一時は毎日のように。番組の報道内容が行き過ぎた、あるいは偏った方向に進まないよう調整する、いわばご意見番のような役割です。
以前、森本毅郎さんがキャスターを務める『EZ!TV』というテレビ番組があったんですけど、まだストーカーという言葉がない頃から、この問題を定期的に扱っていました。僕もセクハラ関連で勉強していたので、番組に出るたび「これは、法律をつくって規制すべき重要な問題である」と訴えてきたのです。立法の必要性については、森本さんたちも「ぜひ言ってほしい。言うべきだ」と賛同してくださった。
それでずっと言い続けていたら、当時、社民党の議員になっていた福島瑞穂さんらが中心になって、議員立法でストーカー規制法をつくってくれたのです。これには驚きました。世の中が動く一端に関与できたという意味で、テレビの力をすごく実感した一件です。テレビは視聴数が多く、誰が見ているのかわからないので、発言には神経を使うし、時に言ったことが曲解されてクレームを受ける怖さもあるけれど、メリット・デメリット併せて、貴重かつ面白い経験をさせてもらいました。
以降、パワーハラスメント、モラルハラスメント、マタニティハラスメントなど、諸般の問題は転がるようにして顕在化してきた。セクハラ問題を起点に、本領域の第一人者として立つ山田は、「人権から入ったわけではないので、少々意外な展開ではある」と語りつつも、常に前線で走り続けてきた。
ハラスメントの大半は密室で起きるので、証拠が残らないケースが多く、すごく難しい。そして、裁判の結果がどう出たとしても、傷を受けた被害者はPTSDになったり、他方、加害者は仕事や家庭を失ったりするなど、両者の人生に多大な影響を及ぼす非常に根深い問題なのです。
近頃では、セクハラが政治的な道具に使われたり、冤罪めいたものまで出てきたりで、もはや「黒か白かわからない」ケースも多いのです。そういう相談を受け、第三者委員会のような立場に就くこともけっこうあるのですが、一番大切にしているのは、何が“普通”かを見極めること。始めに法律ありきではなく「常識で考えたら、人はどう感じるだろう。誰が考えても理にかなっているか」。双方の言い分を公平に聞き、ここから出発する。この普通ってすごく難しいのですが、弁護士に欠かせないバランス感覚だと思いますね。
ハラスメントの仕事がどうしても目立つけれど、実際、事務所全体の仕事における割合は2割ほどなんですよ。会社の法律顧問、企業の発展とコンプライアンスを守る社外役員としての仕事、相続、離婚といった家事事件……まぁ多岐にわたります。加えて会務。広報、民暴、犯罪被害者など、実働委員会を中心に30年来会務活動に携わってきました。40代後半から50代にかけては、“久保利内閣”の下で二弁の副会長を、そして日弁連の常務理事を務めと、なかなかの激務でした。
病に襲われたのは、そのさなかです。53歳の時、肺にガンが見つかり、受けた宣告は5年生存率70%。ストレスだったのでしょう。治療後、もし再発すれば2年だとも言われ、さすがに死を意識しました。もう会務からは足を洗い、自分の仕事と家族を大切にしていこうと淡々と過ごしていたのですが、哲学的にもなり、正に「メメント・モリ(死を想え)」を考えるわけです。著名な僧侶のもとに通ったりもしているうち、出た結論は「生きているのではなく、生かされている」ということ。
というのも、変わらず弁護士会からは「来てくれ」と声がかかるし、不思議なもので、なぜか社外役員などの仕事が急増したのです。考えてみれば、世の中には「やりたい」と思っても意のままにならない人は多くいるわけで、病気をしても求められるのは、天命というかハッピーなこと。その期待に応え、何かしら福音をもたらすことが、自分の役割だと考えたのです。結果、頑張って今日までやり遂げられてきたことは「自分を褒めてあげたい」かな。
「最強の自由業」である弁護士という職業。その誇りを胸に
法律万能主義に陥らず、法律以外のことも含めて人の苦しさや大変さを救う姿勢が大切
病と闘っている間、2カ月ほどの休業を余儀なくされたが、完全復活を果たした山田は、14年、第二東京弁護士会会長職に就いた。会長候補に立った際に作成された選挙用パンフレットには、数多くの弁護士たちから推薦文が寄せられ、そこには、山田の豊かな人間性を浮き彫りにするような愛情あふれるコメントが並んでいる。
言うまでもなく、会務は無償の公益的活動です。「何でやり続けるのか」と問われれば、やはり自分を育ててもらった二弁や弁護士会に対する恩返しですよ。それと、最近わかってきたのですが、利他的なことに意味を置く、つまり自分だけ儲ける、いい思いをするというのはダメだということ。決して、人生を豊かなものにしてくれない。
古い話になってしまいますけど、振り返れば、僕は幼稚園から高校を卒業するまで、ずっとキリスト教の学校に通っていたわけです。洗礼を受けてはいませんが、毎日礼拝があるような環境だったから、「社会の一隅を照らせ」という教えが、どこか体に沁みついているのかもしれません。公益的活動は時間も取られるし、生半可な気持ちではできないけれど、損だと思ったことは一度もないんですよ。
弁護士会でやっていることは、実に多岐に及びます。法科大学院を存続させるか、弁護士の数をどうするか、あるいは原発のこと、冤罪事件のこと、本当に頭が下がるほど数多の取り組みをしている。ただ、会長時代に苦労したのは、あまりに多くの事案があり、あまりに多くの弁護士がいるので、物事を決められないということです。都会の大事務所に所属する弁護士と、地方の小単位の事務所にいる弁護士とでは、スタンスはもちろん考え方も生き方も違う。それを民主主義に則って議論しながら進めていくわけですが、物事が決まるまでに異常に時間がかかり、最後までかみ合わないこともある。バランス感覚はあるほうだと思う僕でも、これはストレスフルでしたねぇ。面白かったけれど、できることは十分やったつもりなので、もう表舞台には立たず、今後はサポーターとして会を支えていきたいと考えているところです。
「理想は、白州次郎のようなカントリージェントルマン」。山田は、そんな粋な言葉を口にする。一定の年齢になったら後輩に道を譲り、表舞台から引いたところで、市民オンブズマンでありたいという。目下の関心事を尋ねたところ、「次のオリンピックまでに、日本に立派な劇場をつくること」という意外な答えが返ってきた。
かれこれ30年ほどになるのですが、ずっとクラシックバレエにかかわってきたんですよ。人に推薦されて顧問弁護士になった先が「牧阿佐美バレヱ団」で、つい最近、財団の理事長になりまして。究極のボランティアですが(笑)、これも天命だと思って引き受けました。もともと芸術が好きだし、この国にもっと文化・芸術を発展させていこうと活動しています。その一つが劇場の設立。何かと話題を呼んでいる新国立競技場は、次のオリンピックまでにできますが、来日した外国人客は、例えば夜は観劇とかしたいわけです。でも、日本にはバレエやオペラをやるような立派な劇場がとても少ない。なので今、経済界と一緒に「つくろう」ということで、企業からの資金集めに動いているところです。意義あることだし、純粋にやりたい仕事なのです。
弁護士の仕事は、まだ無尽蔵に広がっていると思うんですね。最近、若手弁護士の就職難や貧困、増員による質の低下など、弁護士に対するマイナス情報ばかり目につきますが、これは憂うべきことです。かつて、ある映画監督にこんなことを言われました。「弁護士というのは最強の自由業である」と。とても好きな言葉です。考えてみれば、弁護士というのは法治国家において法律に精通し、文章が書けて、コミュニケーション能力や交渉力を有している。そして、社会に対して発信力を持つ希有な職業です。それでいて権力から自由なのですから、非常に夢のある職業じゃないですか。それをもっと自覚してほしいと思うのです。
昨今では、弁護士資格を持つ人が行政や企業に入るケースが増え、政治家の政策秘書として活躍する人も出てきています。僕のセクハラ問題のように、新しい発想で切り口や考え方に工夫を施すことで、世界が広がっていくということもあります。弁護士になったということは、先に述べたポテンシャルを持っているという証。自覚と自信を胸に道を進んでほしいと強く思います。
※本文中敬称略