Vol.56
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弁護士 矢吹 公敏

HUMAN HISTORY

「Noblesse Oblige」という言葉を我々弁護士は胸に刻むべき。人との出会いとその縁を大切にし、常に勉強を怠らなければ、最高の人生に自然と近づいていく

矢吹法律事務所
弁護士

矢吹 公敏

父の背中を見て育ち、幼い頃から心にあった「弁護士」への道

現在、独占禁止法(独禁法)を主領域とする矢吹公敏(やぶききみとし)は、Chambers Asia-Pacificで8年間にわたり、独禁法部門のトップグループに選出されるなど、その手腕は国内外問わず高く評価されている。傍からはスペシャリストに映るが、聞けば、矢吹自身が当初志向していたのは「スーパージェネラリスト」だという。これを「少なくとも3分野において精通し、依頼者に対して常にベストの助言ができる弁護士」と定義し、実際、矢吹は独禁法以外の分野でも高い専門能力を発揮する。他方、プロボノとして国際司法支援・法整備支援活動にも長く携わっており、社会貢献にも力を尽くす。こういった広い足場での“実行”こそが、矢吹の持ち味であり、強みなのである。

「僕は弁護士になりたい」。小学校の卒業文集には、すでにそう書いていました。弁護士だった父から影響を受けたのは確かで、幼い頃から弁護士以外の職業を考えたことはないんですよ。裁判官出身の父は、司法研修所の教官なども務めていたから、家には若い弁護士や司法修習生たちの出入りもあって、それとはなしに耳に入る話が子供心にも面白かった。「困っている人を助けてお金をもらえるなんて、いい仕事だなぁ」と、単純なものです(笑)。

僕はそんなに勉強ができたわけじゃなく、本命の中学受験は失敗。当時まだ新興だった、中高一貫の駒場東邦に二次募集で入ったんです。今は進学校として有名ですが、通っていた頃はなかなか粗削りで。僕自身、高校時代は髪を肩下まで伸ばし、ロンドンブーツで原宿や六本木あたりを闊歩していたんです。ある時、先生が「長髪を切れ」と言い出したので、談判しようと校長室に押しかけこともあります。結果的に、当時の校長は理解を示してくれたのですが、PTA会長をしていた父が「好きなだけ伸ばさせればいい。いつか自分で理解する」と学校側に言っていたそうです。この件一つをとっても、僕は父のことが好きだったから、なおのこと影響を受けたのでしょう。

思い返すと、僕は成長過程でリーダー的なポジションにいることが多かったんですね。小学生時代はサッカークラブ、中高では水泳部のキャプテン、そして、大学ではスキー部の会長という具合に。この経験からつくづく感じたのは、本当に好きなことを懸命にやらなければ、組織を率いて成果は挙がらないということ。スキーは大好きなので身が入ったけれど、水泳はそれほどでもなかったから、記録は後輩に抜かれるし、最終的に残った同学年の部員も2人になってしまった。やはり、自分が好きなこと、“これは”と思うことでなければ頑張れないし、力も発揮できない。シンプルだけど、この頃に得た学びは、今も生きています。

弁護士 矢吹 公敏

私大に合格したものの、高校の教頭の勧めに従い、矢吹は1年浪人して東京大学に進学する。当然、弁護士を意識しての法学部入りではあったが、「遊んでばかりで、勉強しなかった」。司法試験に向けて本気になったのは留年してからと、その出足は遅かった。

スキーに一生懸命で、あとは麻雀やったり、飲みに行ったり……とにかく、授業には3年の終わりまでほとんど出席せず。今思えば、授業をなめていたのでしょう。大教室で憲法を聞いても面白くなかったし、なぜ法律を勉強するのか、本当の意味での自覚がなかったのだと思います。司法試験も「受かるもの」と、甘く見ていました。これが大変な間違いだったというわけです。

さすがにまずいと腰を上げ、司法試験の勉強を開始したのは4年になってから。当然落ちて、その後2年留年して臨んでもダメでした。もちろん、この間は必死に勉強し、法学の面白さも理解するようにはなっていました。なかでも留年後から授業に出て学んだ労働法や民訴法は面白かったし、平野龍一刑法と団藤重光刑法の基本書を読んだ時は、その対立する学説に社会への洞察を感じ、感動したものです。

結局、合格したのは大学卒業後で、28歳になった年。途中、弁護士が自分に合っているのかと本気で悩んだ時期もありました。それで僕は自分と向き合うために、不二禅堂の創設者である辻雙明老師に師事して参禅したり、後に浄土宗門主となられた中村康隆師のもとで得度し、茶道を習い始めましたが、それらが精神的な成長をもたらしてくれた。「本当に弁護士になりたいのか?」に答えを出すことができ、以降、一度も道を疑うことなく歩んでこられたのは、このモラトリアムがあったから。何も悩まず迷わず、すんなり事が進んでいたら、今の自分はなかったでしょうね。

猛烈に仕事をした勤務時代を経て独立。様々な経験が礎に

弁護士 矢吹 公敏

その時その時、自分の頭で一生懸命“解”を考える。どんな職業であっても、それがとても大切だと思う

「真面目に勉強した」修習生時代には、並行してサイマル・アカデミーにも通い、実践的な英語をしっかり学んだ。矢吹には「国際的な仕事をしたい」という思いがあったからだ。貧困に苦しむ国のニュースなどを見れば、「困っている人たちに、何か手助けとなる仕事ができないだろうか」と考えたそうで、矢吹の視野は、当初から広く世界に向けられていたのである。

漠然とですが、国際的な舞台に憧れたのです。それと、いずれ父の事務所に戻るつもりでしたが、まずは他人の飯を食って、自分を鍛えたかった。複数の法律事務所を訪問したなか、両方の思いを叶えられそうだと選んだ先が、長島・大野法律事務所(当時)でした。まだ20名強の規模だった頃です。

僕は長島先生の仕事が多かったんですけど、一番驚いたのは、最初から「一人でやってみろ」方式だったこと。まずは研修の機会があって、じっくり育ててくれるものと期待していたのに(笑)。例えば、外資系投資銀行の日本支社長の家で修繕トラブルが起きた時など、まだ“1年生”で英語も怪しい僕に、いきなり「行って収めてこい」と。何とか解決しましたが、先方の社長婦人と業者の間で、文字どおり冷や汗ものでした。長島先生の教育方針はOJTで、時折、大きな雷はドーンと落ちるんだけど、基本は「任せて育てる」。今の大手事務所のような手取り足取りとは真逆でしたが、鍛えられたのは確かです。

バブルの時代でしたから、不動産取引や大型M&Aの案件にもずいぶん携わってきました。デューディリジェンスのために全国を回ったり、3日間一睡もしなかったことがあるくらい猛烈な日々でしたけど、これもまた肥やしになった。M&Aが出始めた時期の仕事は試行錯誤で、お手本がないなか、正しいと信じながら、知識や気づきを得ていく過程を経験してきたことは、ものすごく勉強になりました。

在籍中、米国コロンビア大学ロースクールを修了した矢吹は、1992年、ニューヨーク州弁護士登録を果たす。海外の法律事務所での仕事も経験し、十分に力を備えた矢吹は、ちょうど40歳になる年に、父親の事務所に戻ることを選択する。もとより予定していたこととはいえ、仕事環境としてはドメスティックである。スケールの大きな国際的案件を扱ってきた矢吹に、迷いはなかったのだろうか……。

退所したのは、父が70歳、僕は40歳になる年で、父の事務所に戻る節目だと思ったんですね。長島・大野の仕事は大企業を顧客としたダイナミックな案件が多く、多くのやりがいある仕事を任せていただきました。ただ昔から、もっと人に寄り添うような仕事もしてみたいという思いがあった。そんな方向性もあり、父が起こした“町弁”を継ごうという決意が固まったのです。

独立後も長島・大野で個人として引き受けていた仕事をそのまま継続でき、当時日本に進出したGEキャピタル(以下GE)の案件も紹介していただきました。週に何度かGEの事務所に出社し、内側から同社の事業案件に携わるなど、いわゆる社内弁護士の立場として行う業務です。この時に、外資系企業のコンプライアンスやインテグリティなどの概念をしっかり学ぶことができ、今につながる得難い経験をさせてもらいました。

今、うちの事務所は独禁法で名前が売れていますが、僕が戻ってから6年間ほどは、実に様々な案件を扱っていたんですよ。GEでは企業訴訟の際の代理人も引き受けたし、事業会社の労働事件、中規模M&A、不動産証券化、ほか刑事事件や離婚事件もやりました。あと、僕の隠れた専門分野なのですが、父から引き継いだ寺院にまつわる事件も。僕自身、宗教法人審議会の委員をやったり、佛教大学でも教えていたんですよ。今でもお寺からの依頼が昔ほどではないけれどありますね。

振り返って考えると、様々な事件をとおして、今ある弁護士としての自分の素地が出来上がっていったんだなあと。多様な仕事にかかわりながらも、その時その時、自分の頭で一生懸命“解”を考える。どんな職業であっても、それがとても大切だと思うんです。

独禁法のプロとして、国内外の企業から厚い信頼を集める

弁護士 矢吹 公敏
矢吹氏が携わった共著など書籍。同事務所は独占禁止法に強いというイメージが強いが、実は宗教法も隠れた得意分野の一つである

矢吹はこれまで、半導体メモリー、エアライン、自動車部品など、数多くの国際カルテル事件を担当してきた。また、著作権を含む知的財産権と独禁法の関係についても詳しく、JASRAC事件の際に代理人を務めたり、多くの世界有数のIT企業に助言をしている。現在、矢吹法律事務所が取り扱う案件の約8割が独禁法関連だ。その道のプロと国内外の企業が認める矢吹だが、今から十数年前に地歩を固めるきっかけとなる一つの事件があった。

独禁法には昔から興味があって、長島・大野時代から勉強を始めて、コロンビア大学留学時代も続けていました。また独立して以降も、関連する事件の依頼は積極的に引き受け、独禁法に関する論文を書くなど怠りなく情報収集をしていたのです。そして、2004年、マスコミを賑わせた「橋梁談合事件」が発覚します。これは、国発注の鋼鉄製橋梁工事で談合があったと、公正取引委員会(公取委)が関係メーカー各社に立ち入り検査を行った、大規模な独禁法違反事件です。

この時、旧知の弁護士から「独禁法に明るい矢吹さんに頼みがある。顧問をしている企業に公取委の立ち入りがあり、部長が困っている。ぜひ相談に乗ってあげてほしい」と紹介された。その依頼を引き受け、解決に向け深く関与していった結果、刑事や民事を含む談合事件にまつわるほぼすべての手続きを手がけることができたのです。この経験がとても大きかった。

もう一つ、今につながるのは、06年1月施行の改正独禁法で「リーニエンシー制度」が導入されたこと。公取委の立ち入り検査前に、談合やカルテルへの関与を申請した会社は課徴金が免除され、刑事告発の対象からも外れるという制度で、手を挙げる企業が増えていきました。すると隠れていたカルテル事件がどんどん明るみに出るように。当然、多数の当該顧客を抱える大手法律事務所にとってはコンフリクトが生じ、独禁法に強い事務所を探すようになります。すると我々のような小さな事務所にも声がかかる。そうやって依頼が増えていき、独禁法事件の知見を蓄積していくことができたのです。

その後、国際法曹協会(IBA)の独禁法コミッティの役員を仰せつかったのですが、そうすると海外の独禁法に詳しい法曹と知り合うでしょう。カルテルは国際的な案件が多いので、お互いに協力し合うようになります。例えば、日本の顧客企業がカルテルを疑われるケースでは、アメリカ、カナダ、ブラジル、台湾、韓国、中国、シンガポール、ヨーロッパと、一度にたくさんの国々の調査や捜査を受けることになる。その場合、各国の弁護士とネットワークを構築したうえで、私たちが主導して情報を共有しながら解決に導いていかねばなりません。もちろん海外の企業が日本の手続きだけ任せたいという場合もあって、案件は本当に様々。そうやって世界とつながっていくなかで、誰もが知っている世界的IT企業の顧客も増えていったんですね。

日本に設立された競争法フォーラムの事務局長となったのもその頃で、その後、日中韓の独禁法の実務家や学者で設立したアジア競争法協会の議長にもなりました。加えて、東大や一橋大学で教鞭を執り、教え子たちと一緒に独禁法の仕事ができるようになった。これは本当に嬉しいことです。

独立前、独禁法と労働法と著作権法の3つを究めたジェネラリストになろうと考えていました。僕が考える弁護士のスペシャリストは、国内でも十指に入る人物。それは難しいから、複数の準専門分野なら何を聞かれても、すぐに答えられる弁護士になろうと。このまったく異なる3つの法律に絞ったのは、自分が単純に好きだったからです。だから自然と勉強に力が入ったし、準備できていたから独禁法の分野で多くの結果を出せたのだと思います。ただ、国内トップクラスの独禁法に強い弁護士と言われるようになれたのは、嬉しい誤算でしたよね(笑)。

困っている人たちの力になりたい――。今も変わらぬ原動力

弁護士 矢吹 公敏

国際的な事件を扱う事務所を運営しながら、矢吹は、長くプロボノ活動にも注力してきた。それがカンボジアなどアジアの国々を中心とした国際司法支援および法整備支援活動だ。また、昨今では日弁連・国際業務推進センターのセンター長として、国際機関への弁護士登用など、我が国の弁護士の海外業務の推進にも尽力している。弁護士になると決めた幼少時代の「困っている人たちを助けたい」という思いが、今なお矢吹の原動力なのだ。

弁護士は高貴な職業であり、“高貴な仕事には義務が強制される”のです。ポル・ポト政権が崩壊し、95年にUNTAC(国際連合カンボジア暫定統治機構)の管理の下、シアヌーク国王が新憲法を発布しました。ちょうどその頃、日弁連の国際交流委員会委員長を務めた吉川精一弁護士から、「外務省がカンボジアの法律家を研修のため日本に招く。日弁連として手伝えないか」という話があったのです。僕は、いつか途上国の法整備を手伝いたいと思っていたので、「ぜひやらせてください」と手を挙げた。そこからです、これまで20年以上続けている国際司法支援活動を始めたのは。ある意味、第二の人生が動き出した瞬間ですね。

大きな成果としては、カンボジアで弁護士の養成学校を“再開”したこと。というのも、実は新憲法発布後の3年間は、アメリカの支援で弁護士養成校が運営されていて、原則としてそこを出ないと弁護士になれないという法律になっていました。ところが98年の内戦でアメリカが撤退し、弁護士養成校が閉校してしまった。結果、政治家などの例外を除きほとんど弁護士になれないという状態になって、世界中から批判されたんですよ。

当時、日本の外務省はカンボジア・ベトナムの立法支援プロジェクトを行っていました。僕もこのチームに入っていたため頻繁にカンボジアを訪れ、様々な法曹関係者と対話を重ねたのです。彼らの願いは「弁護士養成校を復活させたい。ぜひ日本の協力を」ということ。その要請を実現するために、日弁連の仲間と協議しながらJICAに練りに練ったアプリケーションを提出。3年間で1億円の支金が提供される開発パートナー事業の採択にこぎつけました。そして、02年に念願の弁護士養成校を再開。この支援事業は10年に終了していますが、02年に120人ほどだった弁護士数が、8年間で700人くらいに増えました。もちろん現在も毎年、法曹を目指すカンボジアの若者たちが50~70人、ここで学んでおり、私も講義をしています。

カンボジア以外にも、モンゴル、インドネシア、ベトナム、ネパールなどの司法支援活動を行っていて、フィリピンに日弁連初の海外公設事務所を設置するプロジェクトにも取り組んでいます。実は、離婚や子供の認知、残留日本人2世の国籍取得、現地で暮らす高齢日本人の貧困などがフィリピンで問題になっているのです。国際法に照らして、どこまでの支援ができるか検討しつつですが、日本の弁護士が1人現地に常駐すれば、フィリピンの弁護士と連携してスムーズに問題解決に当たれるのではないかと。今、女性弁護士が現地で2カ月間かけてリサーチ活動を続けています。その結果をふまえ、来年には常駐できる弁護士をフィリピンに派遣したいと考えています。

こうした日弁連の活動に現在50人ほどの弁護士が参加してくれていて、活動の幅もどんどん広がっています。プロボノですから手弁当のことも多いですが、それを上回るやりがいがある。ぜひ、若い弁護士の皆さんに、もっと参加してほしいですね。

98年、矢吹がカンボジアの選挙監視のため現地を訪れた際、日弁連の委員会から一本の万年筆が贈られた。そのボディには「Noblesse Oblige」という文字が刻印されていた。矢吹はこの言葉の意味を改めて思い、「そうだ、弁護士は高貴な職業なのだ」と感動したという。お金には代えられない、やりがいがある仕事。困っている人を助ける、なくてはならない仕事――天職に就けた人間だけが持つ矢吹の笑顔から、弁護士の仕事の価値が見えてくる。

役職は人から頼まれて初めて引き受ける。仕事はけっして自分からは求めない。仕事は、自分がやろうと思って求めたら逃げていきます。でも、興味をもって一生懸命やっていると、向こうからやるべき仕事が自然と近づいてくる。これが僕の信条です。

僕の人生は、“縁”によってできているとつくづく思います。過去に出会った人から仕事を紹介されることが本当に多いのです。だからこそ、出会いを大切にし、頼まれたことはやれると信じ、一生懸命やって結果を出す。そして、縁をかたちにしたいなら、勉強しなくてはいけません。弁護士は自分で時間をコントロールしやすい職業ですから、目の前の仕事ばかりではなくて、やはり興味ある分野の研究や、勉強を続けるべき。余った時間はちょっと酒を飲みに行くのではなく、1時間でも2時間でも勉強することです。

もう一つは、常に突き詰めて考える姿勢を忘れないこと。私も事件のことを考えると、だいたい朝から晩まで、どうしたらいいのか悩みます。でも、もう無理だというところまで突き詰めた時ほど、「これだ!」という答えが降りてくる。人との出会いを大切にし、常に備えを万全にするための努力を続ける。それができれば、仕事も仲間も自然と集まり、あなたの弁護士としての人生が、より輝いていくはずです。

※本文中敬称略