Vol.87
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弁護士 松本 恒雄

HUMAN HISTORY

“非主流”の民法研究者として――。実務家と消費者問題で協働し、“純粋学者”にない発想を得たことで法律と政策の発展に寄与できた

池田・染谷法律事務所 客員弁護士
一橋大学名誉教授

松本 恒雄

外交官を目指し法学部へ。早々にその道を捨て、目指したのは研究者

昨年8月、ある集まりで50年にわたる研究生活を振り返る講演を行った松本恒雄は、テーマの副題で自らを「へそ曲がりの非主流学者」と称した。誇張でも自嘲でもなく、あえて“非主流”を貫いた矜持が、そこからはうかがえる。実際、日本消費者法学会の初代理事長、研究者としては初めて起用された国民生活センター理事長などを歴任した松本が、今では当たり前の“消費者の権利”の確立に果たした貢献は、他者では成しえないものがあった。

生まれは、京都市の西京区。家の目の前は、山陰街道。明智光秀が信長を討つべく、本能寺に急いだとされる道です。

父親は会社員でしたが、家は決して裕福とはいえず、小学校から高校まで近場の公立校に通いました。中学に入学したのは、最初の東京オリンピックがあった1964年です。よく覚えているのが、昔講道館で嘉納治五郎に教えを受けたという高齢の先生による柔道の授業。おかげで、今でも受け身くらいはできます。たぶん(笑)。

進学した府立桂高校も、自宅から徒歩15分くらい。戦前は農業学校だったため、当時も普通科のほかに農業科が併設されていて、構内に農場があり、豚や牛もいるという環境でした。おまけに隣が陸上自衛隊の補給基地で、毎日正午になるとラッパが鳴り響くのです。こちらはまだ4限目の授業中でしたから、空きっ腹に堪えました。

この頃からなぜか語学が好きになり、NHKラジオの英語やフランス語講座をよく聞いていましたね。友人と英会話クラブをつくり、京都観光に来た外国人にランダムに話しかけるという“冒険”をやったのも、いい思い出です。仲間うちでは「外人ハント」と称していたのですが(笑)、そういう変な度胸は昔からあったのでしょう。

私は父親が40歳の時にできた子供でした。55歳定年の時代でしたから、高校時代にはすでにリタイア。家計はますます厳しく、近所の運送屋さんでバイトをして、参考書やギターを買うお金を稼いでいました。自転車の後ろに荷物をいくつも括り付けて、1個いくらで配達に回る。ウーバーイーツの配達員さながらの高校生でしたよ。

そんな状況でしたから、大学も「授業料が安くて自宅から通える」というのが絶対条件。それを満たす京都大学に合格できたのは幸いでした。学生時代もバイトに明け暮れていましたが、3、4年生の頃から始めたのが、京都商業高校(現京都先端科学大学付属高校)の宿直の仕事でした。宿直室に勉強道具も生活用品も持ち込んで、半ばそこが下宿代わり。朝起きると、朝食をつくって食べて大学に行き、夕方は6時頃に戻ってきて、夕食をつくったり勉強したり。夜、懐中電灯を持って校内を回るのはちょっと怖かったけれど、おかげで規則正しい学生生活を送ることができました。

70年代、民法は不法行為法がブーム。でも、人と同じことはやりたくなかった

そもそもの話をすれば、高校時代、理系科目の成績も悪くなかった松本が進学先に法学部を選んだのは、「外交官になる」という目標があったからだった。外国語が好きだから、将来は海外で仕事をしたい。ならば外交官だ。試験に受かるためには法学部しかない――というのが、彼なりの理屈だったのだが。

的外れとしか、言いようがありませんよね。語学力を生かすのなら、海外駐在できそうな会社に就職するほうが、よほど近道でしょう。案の定、外交官という目標は、大学に入学してすぐに、どこかにいってしまいました(笑)。

そんな経緯で身を置いた法律の世界でしたが、数ある課目のなかで興味を持ったのが、生活に身近な民法。学部時代に在籍したゼミの教授は、民法、法社会学の大家で、憧れでもあった磯村哲先生でした。そのもとで学ぶうち、単なる民法の研究ではなく、それを社会との関係で深めてみたい、という思いが日に日に強くなったんですよ。

将来のことを考えると、外交官はよしたけれども、さりとて企業に行ったり公務員になったりというのは、どうもしっくりこない。独立して仕事をするなら弁護士か、と思った時期もありました。でも、同じ法律の専門家でも、勉強を続けることのほうが面白そうだった。研究者の道に入った理由は、そんなところです。相変わらず生活はカツカツの状態でしたから、ずいぶん無謀な選択をしたものです。

大学院の指導教官は、磯村先生に紹介いただいた同じ民法の北川善太郎先生でした。奇しくも私は、日本人としては北川門下の最初の弟子ということになりました。

ところで、私が修士課程に進んだ70年代といえば、民法の研究テーマとしては、不法行為法がブームでした。外国法研究では、主流はドイツ法で、フランス法が勃興してきた時期です。でも、私は多くの人がやっていることは、やりたくなかった。

そこで研究対象にしたのが、英米契約法や担保法でした。最初の論文は、英米法の「不実表示」、故意に嘘をつく詐欺ではなくても、事実に違反する表示を行った場合、それを信じた相手方は契約を取り消すことができる、という法理に関するものでした。

当時、民法で英米法を研究している人はあまりいなかったわけですが、この研究は、およそ四半世紀後の2000年、消費者契約法の誤認取消権として結実しました。論文でアプローチしていた「情報提供者の責任」という視点が、後の情報、IT、デジタルに関連する研究につながっていったことも含め、この時の選択は、“へそ曲がりの功名”とでもいえばいいでしょうか。

弁護士 松本 恒雄
2020年、池田・染谷法律事務所に客員弁護士として入所。独占禁止法・消費者法に強みを持つ同事務所のビジョンに賛同して門を叩いた。代表パートナーの池田毅弁護士(左)、染谷隆明弁護士(右)と

広島大学に赴任し、米国留学。転勤した大阪で消費者運動にかかわる

京大で研究者としての職を得たのは、77年だった。大学紛争でストップしていた助手の公募が再開され、首尾よく採用されたのである。ようやく給料を手にする身となり、「高校の宿直室が下宿」の生活にも、晴れて別れを告げることができた。そんな松本は79年、法学部ができたばかりの広島大学に助教授として赴任する。

磯村ゼミの門下生だった広島大の教授に声をかけられて、行くことになりました。ただ、いきなりそれまでほとんど取り組んだことがなかった物権法をやれ、と言われたのには参った。授業が終わると、1週間かけて次の授業の準備をする有様でした。

広島大学時代の特筆すべき出来事といえば、81年から2年間のアメリカ留学でしょう。国際文化会館が提供していた海外留学プログラムで、コロンビア大学ロースクールに客員研究員として渡米しました。

でも、悪いことにコロンビア大学というのは、マンハッタンのど真ん中にありましてね。ロースクールの前にある大学のアパートに住んでみると、勉強を邪魔する誘惑が多いのです(笑)。クラシック音楽の殿堂リンカーンセンターも、タイムズスクエアのミュージカル劇場にもすぐに行ける。82年の夏に、サイモンとガーファンクルがセントラルパークで復活コンサートをやった時にも出かけていきました。50万人が参集し、音はすれども姿は見えず、でしたが。

もちろん、遊んでいたばかりではありません。当初は契約法を学ぶつもりの留学だったのですが、異国の地でまったく頭になかった製造物責任法に足を踏み入れることになったのは、大きな収穫でした。ちょうど連邦議会で同法案の審議が行われている事実を知り、「判例法の国なのに、どうして立法なのか」と、素朴な疑問を抱いたのがきっかけでした。

答え自体は単純で、実は共和党議員が提出した法案は、「行き過ぎた製造物責任」の判例法理にブレーキをかけようという、当時の日本の議論とは逆のベクトルのものだったのです。でも、そんな経緯でアメリカの製造物責任に興味を抱いた私は、その後も研究を続け、何本か論文も書きました。

そのことが後の人生の転機につながるのだが、当時は知る由もなかった。帰国後、再び教鞭を執っていた松本は、87年、やはり磯村門下生に“引っ張られる”かたちで、大阪市立大学に転勤する。大阪は、多くの被害を生んだ地ということもあり、消費者事件に関係する弁護士グループなどの運動が盛んだった。そこでの日々を、本人は「弁護士と純粋な学者の中間的なスタンスという、今まで続いている状態は、大阪時代に形成された」と述懐する。

直接消費者の代弁をする弁護士とは違うけれど、研究の面から被害救済などに取り組む。もっというと、法の原理から説き起こすのではなく、ゴールのほうからアプローチして裁判官を説得することに、研究者として貢献できないかを考える。そんな、純粋な学者にはない思考が鍛えられたのは、被害に遭った消費者のために奮闘する弁護士などの実務家と、深く切り結ぶようになったからにほかなりません。

この時期に、悪徳商法が社会問題化した豊田商事事件で破産管財人を務め、後に日弁連の会長を務めた中坊公平先生の薫陶を受けたことも、大きな糧になりました。先生の口癖は、「消費者に武器を」。まともな消費者法もない時代、この問題にかかわる誰もが抱いた思いといっていいでしょう。

先生のスローガンに触発されて、私も当時の中曽根内閣が掲げた民間活力の活用、すなわち「民活論」をもじった「消費者法の民活」を提唱したんですよ。消費者保護のためにもっと民事ルールを活用しよう、民事訴訟も使おう、ということです。

89年には、松江市で開かれた日弁連人権擁護大会に、消費者問題をテーマとする分科会のシンポジウムのパネリストとして参加しました。後から考えると、この集会も時代の要請を先取りしていましたね。その場で、縦割りの消費者行政を改め、全体を統括する消費者庁を設けるべき、という提言が採択されたのです。それが実現したのは、ちょうど20年後の2009年でした。

実績を買われ一橋大へ。行政との関係を強めてさらに“実務力”を磨く

ただし、大阪での生活には4年で区切りをつけ、「それまで縁もゆかりもなかった」東京に研究の拠点を移すことになる。“新たな縁”を結んだのが、米国留学を機に、偶然手がけることになった製造物責任に関する研究だったというから、学者人生というのも不思議なものだ。発表した論文が注目された松本は、90年に開かれた私法学会のシンポジウム「製造物責任」に、パネリストとして加わる。そして翌91年、そのシンポジウムの責任者だった一橋大学の好美清光教授に、定年退官する元学長の川井健教授の後釜として誘われたのである。

東京暮らしは初めてでしたが、何か新しい経験ができるのではないか、とワクワクした気分だったことを思い出します。弁護士などとの交流が中心だった大阪に比べ、国や都など行政との関係が深まったのは、東京に来てからの大きな変化でしたね。

後に理事長になる国民生活センターでは、91年に消費者判例情報評価委員会の委員になったのを皮切りに、様々な仕事に関与しました。当時は、国の消費者行政が一元化されておらず、それぞれの省庁のやることを経済企画庁が調整するようなかたちでしたから、経企庁の国民生活審議会の委員をはじめ、各省庁の関連する審議会・検討会・研究会などにも、数多く参画することになりました。

上京のきっかけともなった製造物責任法が日本でできたのは、94年でした。私は在野の立場で法律づくりにかかわりましたが、そのめどがついた頃から次の課題に上ったのが、消費者契約法の制定です。今度はインサイダーとしてその作業に加わり、情報収集のために、頻繁に海外にも行ったんですよ。これは勉強になりました。

なかでも印象的だったのは、消費者政策において、事業者団体の自主的な取り組みに重きを置く豪州やカナダのアプローチでした。ひとことで言えば、法がいきなり出張るのではなく、マーケットを使って事業者も消費者も喜ぶ仕組みをつくる。その重要性を実感した私は、これを「市場を活用した消費者政策」と命名し、行政規制、民事ルールに次ぐ消費者行政の第3の手法に位置づけました。この考え方は、その後の活動において、重要な指針になったのです。

また、私が東京生活を始めた90年代は、インターネットが家庭にも普及し始め、ネットショッピングの環境が整い始めた時期でもありました。アマゾンのようなプラットフォームもスマホも存在しない時代でしたが、新たな商取引には、それにふさわしいルールの整備が必要ではないか、という問題意識も高まったわけです。私はこの問題にもかかわることになり、経済産業省の外郭団体だったECOM(電子商取引推進協議会)の委員として、やはり何度も海外先進国に調査に出向いたりしました。

司法試験の考査委員を旧試験で10年、新制度で3年。通算13年は最長のはず

弁護士 松本 恒雄
客員弁護士の活動に加え、明治学院大学客員教授、日本広告審査機構(JARO)審査委員会委員長、日本消費生活問題研究所理事長なども兼務。71歳になった現在も、仕事道具を詰めたリュックを背負って各仕事場を行き来している

このほか、ISO/COPOLCO(国際標準化機構・消費者政策委員会)の国内委員会委員長として、消費者に関連する様々な“標準化”の実現に向けた作業に従事するなど、松本は「ソフトロー」も含めた消費者法の整備に大きな役割を果たしていく。一方、籍を置く一橋大では、99年に大学院法学研究科教授に、09年には法科大学院長に就任した。この間、法学教育に関し、専門職大学院である法科大学院制度を導入するという一大改革が実行された。

新制度の下での1回目の司法試験が行われたのは、06年です。この時、1人だけ受けて合格というところを除けば、一橋大が合格率トップに輝きました。私はその知らせを法曹養成制度の調査に出かけていたフランスのボルドーで聞いたのですが、素直に嬉しかったですよ。

受験生には、自助・公助・共助のうち、“共助”すなわち仲間同士でフォローしながら頑張ることが重要だ、と強調していました。掲げたスローガンは、「あなたが受かれば、私も受かる」。“自助”中心の他大学とは、そこが違ったわけです(笑)。

司法試験に関していえば、私は試験の出題や採点に携わる考査委員も長くやったんですよ。旧試験に関しては、最後の10年間を担当しましたが、最終年度の10年の合格者は50人で、まさに“おくりびと”の心境でしたね。ただ、送って終わりと思っていたら、新試験でも再招集され、16年から3年間務めることになったのは想定外でした。考査委員を通算13年というのは、恐らく最長記録ではないでしょうか。

国民生活センター理事長に。弁護士となった今も貢献する信念を貫く

09年9月、消費者庁が発足し、日本の消費者行政は新たなステージを迎えた。福田康夫内閣の下で、消費者行政推進会議の委員として同庁の設計に参加していた松本は、同時に内閣府に設けられた行政監視機能を持つ消費者委員会の初代委員長に就任した。前年には、そうした行政の動向を踏まえて日本消費者法学会が設立されており、その初代理事長にも就いていた。まさに消費者問題の中枢というべきポジションで活動するなか、13年には「気楽で安定した」大学教授の職をなげうち、独立行政法人国民生活センターの理事長に転身する。

折しも消費者庁発足の2週間後、自民党から民主党への政権交代が起きました。新政権が翌10年春から開始したのが、独立行政法人の「事業仕分け」です。国民生活センターはその対象となり、12年1月に「廃止して消費者庁に吸収する」という閣議決定が行われたんですね。

委員長を務めていた消費者委員会は、センターの廃止には慎重な立場を取り、独立して存在することが必要だ、と訴えていました。そこに、思ってもみなかった理事長への就任要請。断ったらそれまで言っていたことと行動が矛盾してしまいます。姿勢の一貫性を崩すわけにはいかない、と受けることにしました。今考えても、あの時大学に留まっていれば、もっと楽だったろうなあ、論文も書けただろうなあ、と(笑)。

就任時には再び自民党政権に戻ってはいたものの、「国民生活センター廃止」の閣議決定は生きていました。「中期目標管理型の独立行政法人として存続させる」という閣議決定が行われ、私の首がつながったのは、13年の暮でした。

まあ、理事長というと聞こえはいいのですが、60歳を過ぎてから、毎朝定時に家を出るという高校生時代の生活に逆戻りです。自称「大学中退社会人」。在任中は、休暇もほとんど取りませんでした。

他方、自分に学者・研究者の要素がなくなれば、ほぼ“抜け殻”になるのがわかっていましたから、そちらの分野の活動も少しやらせてもらいました。15年まで法制審議会の部会委員として、債権法改正に取り組んだり、14年からは日本学術会議会員に任命されて、法学委員会の委員長を務めたり。先ほどお話しした司法試験の考査委員への再登板も、この理事長時代でした。大学の時は夏休みに採点すればよかったのですが、今度はそうはいきません。土日では足りず、平日も朝5時頃起きて、2時間ほど採点してから出勤していましたね。

理事長としての成果をあえて2つ挙げれば、一つは文部科学省と交渉し、科学研究費を受けられるようにしたこと。それを使って外部の研究者たちと共同研究を行い、『消費者被害の救済と抑止』(松本恒雄編)という一冊にまとめることができました。

国民生活センターには、越境消費者センターという、国をまたいだ消費者トラブルの解決を、海外の類似の機関と連携して図る仕組みがあります。その海外提携機関が、私の理事長在任中に6から15に増えたことも前進といえるでしょう。それには、築いてきた国際的な人脈も役に立ったんですよ。

「ホットな心とクールな頭脳を持て」。学生たちには常にそう言ってきた

松本は7年余り務めた同センターの理事長を退任し、弁護士登録をして池田・染谷法律事務所の一員となった。消費者法と独禁法の両方をメインにするユニークな事務所だが、そこでは所属弁護士の法的な相談に答えたり、意見書を書いたりといった“一歩下がった”仕事を担う。同時に日弁連消費者問題対策委員会幹事、法テラス顧問会議顧問、日本広告審査機構(JARO)審査委員会委員長、全国消費生活相談員協会会長をはじめ、相変わらず多彩な肩書を背負い、忙しい日々を送っている。ところで、冒頭で触れた50年を振り返る講演のメインテーマは、「学者として成功したこと、失敗したこと」。半世紀の総括は、どのようなものなのだろうか。

国内外の様々な場で学ぶことができ、個人的なインプットという面では、大成功といえるでしょう。ただ、それらをアウトプットして論文などのかたちにする、公共財化するという点では、正直不十分だったといわざるを得ません。弁護士として仕事をするようになってよくわかったのですが、学者は文書の提出期限を守らない、原稿の締め切りを気にしない(笑)。そこは、大いに改める必要があるようです。

他方、アウトカムという視点で総括すれば、消費者法、消費者政策の発展に一定の寄与ができたのは確かだと思っています。もちろん実現できていないことは多くあって、消費者法をよりよいものにしていきたいという気持ちに、変わりはありません。

目標の一つは、民法の外に置かれた消費者法の改善を図るだけでなく、民法の内部に消費者法的な一般理論や一般規定を構築していくこと。いわば「消費者法のユニバーサルデザイン化」のアプローチです。

また、近年、食品ロスやゴミの削減などに焦点を当てた「エシカル消費」の重要性が強調されていますが、私は一歩進めた「ESG消費」があっていいのではないか、と思っています。企業のE(環境)、S(社会)、G(ガバナンス)への関与は、投資の分野で注目されている概念ですが、消費者も価格や品質だけでなく、商品やサービスが供給されるまでの企業のESGを評価して、購入するものを選択する。それが可能になる情報提供も含めた仕組みを構築すべきだ、という問題意識です。消費行動を通じて企業を変え、社会を変えていく。SDGsの時代にふさわしいのは、そういう意味での“消費者市民”だと思うのです。

大学で指導教官だった北川先生は、80歳で亡くなる直前まで国際会議で講演をなさるなど、生涯現役でした。今年8月、95歳を目前に急死された北川先生の兄弟子の椿寿夫先生も、ずっとオンライン研究会に出席なさっていた。お二人にあやかって、一日でも長く現役生活を続け、世の中の役に立てたら、というのが夢です。

若い法律家にメッセージを送るとしたら、「ホットな心とクールな頭脳を持て」。これ、大学で常々学生に言っていたことなんですよ。自分がこうだと思うことを、既存のルールなどを使いながら論理的に組み立て、相手の説得に努める。つまるところ、それが法律家の本分なのですから。
※本文中敬称略

弁護士 松本 恒雄
2021年に弁護士登録。「初めての法律事務所勤務ですが、毎日が勉強であり、刺激に満ち溢れています。池田・染谷法律事務所は、最高に働きやすい職場です。“弁”が付かないただの“イソウロウ”にならぬよう、頑張ります(笑)」