Vol.78
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弁護士 馬奈木 昭雄

HUMAN HISTORY

被害者を救うことだけではない。その先にある地域の回復と再生に向けて「変わっていく」。私の生きがい、喜びはここにある

久留米第一法律事務所

馬奈木 昭雄

デリケートな少年期を経て、養われた反骨精神。夢は高校教師になること

九州の数々の大規模な民事訴訟において、闘い続けること50年超。馬奈木昭雄にとって“原点”となった水俣病をはじめ、炭鉱のじん肺、産廃処分場、有明海異変、原発などといった多様な社会問題に取り組み、数多くの公害裁判で画期的な判決を引き出してきた。加害企業やその背後にいる国を相手に、決して屈することなく「勝つまで闘い続ける」生きざまは、弁護士のみならず多くの法曹関係者に影響を与えている。

そして、馬奈木の弁護活動は被害者個人の救済にとどまらない。見据えているのは、社会環境が破壊された地域の復興・再生だ。馬奈木の弁護士人生を綴った書籍『たたかい続けるということ』の最後には、次のような印象的な一文がある。「弁護士の仕事は過去に起きた物事の清算ではない。未来への取り組みです」――ここに、馬奈木の信念が集約されているように思う。

生まれは台湾ですが、過ごしたのは3歳までなので、さすがに記憶がありません。終戦で引き揚げてきた後は、営林署(現森林管理署)に勤めた親父の仕事の関係で福岡県内を転々とし、一番長かったのは、小学3年から高校1年まで過ごした宗像市の赤間ですかね。だから、私にはここが故郷と呼べる地がないんですよ。

今でこそ“鉄の神経”なんて言われる私ですが、子供の頃は人付き合いが嫌いで、ずっと本ばかり読んでいました。中学時代に十二指腸潰瘍で入院したこともあったから、けっこう神経質だったのでしょう。それが顕著に現れたのは、高校を転校した時。進学したのは宗像高校でしたが、過ごしたのは1学期だけ、親父の転勤に伴って福岡高校に転校したんです。田舎から突然の“大都会”……あまりの格差に愕然としました。授業にしても体育祭にしても、文化が違いすぎて大ショックを受けた。それで学校に行きたくないと、引きこもり状態になっちゃった。来る日も来る日もやっていたのは、得意な紙飛行機づくりです。それでも両親は、「学校に行け」とはいっさい言わず、黙って見守ってくれていました。それがよかった。もしうるさく言われていたら、事態は違っていたでしょうね。

十二指腸潰瘍を再発したこともあり、最後は自分で「このままじゃいかん」と吹っ切れたんです。一念発起、部屋中にあった紙飛行機は全部燃やして、それまでの生活とは決別。翌春から高校1年生をやり直しました。カルチャーショックだったと割り切れば、何てことはない。本来、私は好奇心旺盛ですし、少しはまともな人付き合いができるようになりました(笑)。

以降、福岡高校での生活は本当に楽しかった。めちゃくちゃ自由な校風で、後に進学する九州大学と同様、西南学派の精神が息づいています。福岡とはいっても博多ですからね、つまりは自由な商人の町。だから、権威主義が大嫌いという素地がある。「何でも好きにやれ」の校風は性に合っていたし、ここで私のバックボーンは形成されたと思っています。

もとより読書好きな馬奈木である。高校時代は文芸部に所属し、豊富な雑学とともに“文章修業”に励んでいた。時代小説などを手がけ、機関誌にも発表している。大学の受験勉強などそっちのけだったが、学業優秀な馬奈木は難なく九州大学法学部に進学。ただ、この段階で法曹を目指していたわけではなく、「何も考えていなかった」。当時は、文系にとっては法学部が最高峰、就職も有利だとされる時代であった。

文章修業は続けつつも、大学に入ってからは音楽三昧の日々です。私たちの一つ上の代にできたばかりの混声合唱団に入り、練習に勤しんだものです。新しい合唱団だから下手くそだったけれど、仲間と演奏会に行ったり、練習後に遊びに行ったり、楽しかったですよ。その一方、時は1960年代初めで、60年安保の雰囲気はそのまま残っていました。デモは日常茶飯事。先輩に言われてデモに参加した時など、私も機動隊に捕まりそうになって、怖い思いをしたことがありましたねぇ。

ちゃんと勉強しようと思って、合唱部と縁切りしたのは学部に進む頃。というのも、当時の私の夢は、日本史の高校教師になることだったんです。今も歴史が好きで、とても重要な学問だと考えていますが、歴史をもとに、若者たちと自分たちが生活する地域社会をどうつくっていくかを語り合う、そんな先生になりたかった。で、福岡県の教員採用試験には無事合格したんですけど、結局、その夢は叶わず。世間に疎い私は、まともな就職活動をしなかったものだから、待てど暮らせど採用してもらえない……もう仕方がないとあきらめました。

卒業すべき年に行き場を失った私は1年留年することにし、ここから司法試験に向かったのです。「弁護士にでもなるか」という、いたって消極的な入り口(笑)。もとからサラリーマンになる気はまったくなかったですしね。

実は、4年生の時には国家公務員試験も受け、当時の上級職試験に合格していたんです。あの頃は総合力、ものの考え方を問う“いい試験”で、私に向いていたのか、司法試験と違って一発合格でした。官僚にはなれたでしょうが、あのおかしなキャリアシステムがどうもね。それにつけても、今、私は官僚と闘っているんですから、妙な具合ですよ(笑)。

余談になりますが、公務員だった親父は生涯、退職するまで組合員でした。管理職になると組合員はできないから、最後まで役職に就かなかった非常に珍しいケースです。別に思想・信条があっての話ではなく、理由は組合にずっと恩義を感じていたから。かつて「課長になって宮崎に」という転勤話があったらしいのですが、その頃は、私が引きこもり状態で高校を休学していたから、親父は断ったんですよ。家庭環境を鑑みて。でも、公務員が転勤を断るなどあり得ない時代です。その時、親父は組合に駆け込み、交渉支援をしてもらったと。以来、役職には就かず、恩義を尽くしたわけです。まぁ意地っ張りなんでしょうけど、私はそんな親父が好きでしたね。その意地の強さは、しっかり受け継いでいます(笑)。

弁護士 馬奈木 昭雄
事務所の一角を占める馬奈木氏の“倉庫”。様々な資料、書籍などが、まさに山のように積まれている。何かしらの疑問を解決したい時に、ここで『聖書』をよく読むそう

民主的討議を尽くすとはどういうことか。改めて考える時がきている

弁護士1年生の時に巡り合った水俣病訴訟。その後の人生を決定づける

留年中、切羽詰まった気持ちで受けた司法試験は不発に終わったが、翌66年、大学を卒業した年に合格。21期にあたる馬奈木ら修習生は500人ほどで、当時の修習期間は2年間だった。通じて、馬奈木が学び、とりわけその重要性を認識したのは「議論することの大切さ」だ。馬奈木の事務所には「議論公道」というスローガンが掲げられているが、考えは今も変わらない。

修習の最初の4カ月間は全員東京に集められたので、私にとっては初の寮生活となりました。寮生にはね、“たまれる”強みがあるんですよ。例えば起案に取り組む時は、一人じゃ不安だからと、皆で集まって議論を重ねることができる。たまり場になっていたのは私の部屋で、酒を飲みながら裁判記録を読み、激論を交わしと、明け方までやったものです。そして終わると解散し、あとは自分で書くというパターンですから、起案の日は決まって熱い徹夜になる。今は時代が違うのかもしれないけれど、私は、議論こそが修習生の本分だと思っています。そしてこれは、私たちでいえば弁護団会議、裁判官でいえば合議、あるいは裁判員裁判による評議、すべてに通じるもの。民主的討議を尽くすとはどういうことか、深く意識するべきです。

要件事実教育が始まったのは、我々の前の代、20期からです。当時、私たちは反対したんですよ。要件事実が必要なことは誰も否定しませんが、問題なのは「要件事実だけを言え」です。当初は、司法試験において、要件事実を理解しているかどうかを測るために導入した技術だったのに、それが今や、ものの考え方になってしまった。裁判所は要件事実の立証を要求するわけですが、そもそも要件事実はそこらに転がっているわけもなく、下手すると議論にすらならないケースもある。私は、これを「トリガラの裸踊り」と称しているんですけど、味もそっけもない。事件というのは血を付け、肉を付けることでやっと全体像が見えるわけで、トリガラだけ見ていてもねぇ、本当の姿はわかりません。裁判所が「聞く必要なし」「議論はいらない」となったらおしまいですよ。あまりに本質を理解していない昨今の貧しい判決文を見ると、要件事実教育の弊害というものを感じますね。

弁護士になった時は、刑事弁護士になりたかったのです。アメリカ往年の人気テレビドラマ『弁護士ペリー・メイスン』に憧れ、すごいと思っていたから。ただ日本では、刑事専門でメシは食えないこともわかっていたので、入所先は福岡第一法律事務所に決めていました。当時、労働事件を手がける弁護士を各県に配置しようという動きがあり、福岡第一はその九州における拠点事務所として機能していました。労働事件や人権問題を中心にやる弁護士は、皆ここを経由していたから、私もここで修業しようと決めたのです。

水俣病問題は終わらないのではなく、「終わらせちゃいかん」のです

弁護士 馬奈木 昭雄
事務所開設後、2カ所目に入居したビルに約45年在所し続けている。現在の所属弁護士は馬奈木氏を含め5名。弁護士の採用については、久留米市に住み、お酒が飲めることが条件だとか

福岡第一法律事務所は非常に忙しい事務所で、馬奈木は労働事件や刑事事件に奔走した。労働争議の弾圧で「殴った」「蹴った」と、組合員たちがすぐに摘発されていた時代である。法廷で検察官や裁判官と本気でケンカする馬奈木の評判は高く、依頼が殺到したという。水俣病第1次訴訟が熊本地裁に提訴されたのは69年、まさに馬奈木が働き始めた年だ。この巡り合わせによって、人生は大きく変転することになる。

政府が水俣病を公害認定したのは68年ですが、当時の私は恥ずかしながら、その被害がいかに大きく深刻なものか知らなかった。訴訟に参加することになったのは、弁護士1年生には一番大きな事件を割り当てるという、事務所方針によるもの。自ら使命感に燃えてというわけじゃなく、水俣病訴訟に放り込まれた格好です。わからないものですよね、この経験が私の原点となり、終生の方向を決定づけたのですから。

水俣で初めて患者さんと会った時の衝撃、これは筆舌に尽くし難い。手足が折れ曲がって変形し、目も見えず音も聞こえず……文字どおり絶句しました。「見た者の責任」という言葉がよく使われますが、そうじゃないんですよ。使命感とも少し違う。「どうかせんとたまらん」「放っておけん」という衝動に駆られました。だから、あえて何かを決意する必要はなかったのです。

熊本県水俣市に事務所を開き、弁護団の水俣専従として活動を始めたのは70年。第1次訴訟は困難な状況が続いていました。地域社会に“城主”として君臨する原因企業・チッソから原告の切り崩しに遭い、裁判が始まっても十分な書面や証人を出せない弁護団に対して、一部の支援者からは批判も出ていた。原告との信頼関係を再構築するために、私が水俣に移って始めたのは、患者原告の皆さんにお便りを出すこと。手書きのガリ版で「弁護団だより」というのを発行しましてね、意見交流や憩いの場になるよう、裁判の進行状況や原告の細かな日常を伝え続けました。

そして、住民の話を聞いて回り、被害の実態を徹底的に掘り下げた。応援に来た先輩弁護士から「弁護士は口で稼ぐんじゃない、足で稼ぐんだ」と教わったのはこの時です。つまり、その地域で闘う住民に教えを請え、よく話を聞けということです。患者宅を訪ね、海岸線を歩いては漁師の家を訪ね……振り返ると、偏執的なまでに事実を追い求めてきたように思います。今もそのスタイルに変わりはありません。

水俣病第1次訴訟は完全勝訴です。私たちが主張していたチッソの加害責任が確定し、チッソは被害者救済を行うことを誓約しました。その結果、裁判をした原告だけでなく、全認定患者を救済するという補償協定も結んだから、1次訴訟でこれだけの成果を挙げた例は珍しいのではないでしょうか。そして、あまり強調されていませんが、私的に自慢したいのは、この判決で適用されたのが、民法の不法行為責任に関する規定・709条であったこと。使用者責任を規定する715条ではない点に意義がある。チッソが「会社として悪い」を認めさせたことは、ほかの公害裁判に対しても影響を与えられたと思っています。

被害者救済のみならず、地域の回復・再生を目指し「勝つまで闘い続ける」

勝訴した後、福岡に戻った馬奈木は、新人時代から縁のあった久留米市で「久留米第一法律事務所」を開設する。75年、33歳の時だ。初期よりじん肺訴訟、九州予防接種禍訴訟、筑後大堰建設差し止め訴訟などを手がけ、この道の専門家として道を切り開いてきた。その道のりにおいて、半世紀に及ぶ長い闘争が繰り広げられてきたのは、やはり水俣病訴訟である。馬奈木は言う。「被害者の最後の一人が救済されるまで、闘いは終わらせない」と。

先の第1次訴訟は圧勝したけれど、私たちは、そこで闘いを終わりにすることができなかった。認定された被害者の背後には、たくさんの患者が隠されていたからです。チッソの圧力によって公然と名乗り出ることができない、あるいは、名乗り出れば壮絶な差別や偏見に遭う……私たちはそういう状況を身をもって知っていました。一貫して掲げてきたスローガンは「最後の一人の救済まで取り組む」です。遺伝子への影響も含めて考えると、水俣病問題は100年先まで続くと考えられるから、「100年戦争」だとも言ってきました。

患者の掘り起こしを徹底的に行うなか、争点となったのは病像論です。国は水俣病認定基準を持っていて、新しく出てきた患者をどうしても認めようとしない。その基準が間違っているといって起こしたのが第2次訴訟で、チッソを相手に未認定患者を“被害者”と認めさせる裁判をやったわけです。結果は圧勝でしたが、今度は国が、確定した高裁判決に従う必要がないという。「司法判断と行政判断は別です。だから認定基準は改めません」。これ、当時の環境庁の担当者が言った有名な台詞ですよ。

そこまで居直るのならと、国を相手に責任を問うたのが第3次訴訟、いわゆる国賠訴訟です。政治的解決をしたのは93年でしたが、高裁和解案とは乖離があり、先送りされた問題もあった。患者切り捨てとの闘い、第4次ノーモア・ミナマタ訴訟は今も続いています。水俣病訴訟を振り返れば、いったん収まった、解決したという場面が何回かありました。「水俣病はなぜ終わらないのか」と問われることもあります。答えは単純、「終われない」からです。被害者がいる限り、闘いを終わらせてはいかん、歴史にしちゃいかんのです。

そして本質的な話をすれば、水俣病問題をどう捉えるか――それは、特定の患者を生み出したことだけでなく、地域全体を破壊したこと。自然はもちろん、人々の心身、経済や文化、総体としての社会を破壊した。地域破壊の全体が水俣病問題だという捉え方が正しいのです。そうすると、水俣病に取り組むというのは、水俣の地域再生を意味します。被害者の多くは私憤から立ち上がるけれど、それは公憤の訴えへと昇華し、世論をも動かしてきました。そして今、共同で何かを行うことを意味する「もやい直し」という言葉の下、再生と向き合っています。私の生きがい、喜びは、こうして被害者と一緒に闘いながら「変わっていく」ことにあるのです。

現在、馬奈木がフル稼働しているものに、諫早湾干拓問題がある。国の干拓事業によって有明海域の生態系に異変が起き、漁業被害に泣かされてきた漁民が起こした「よみがえれ! 有明」訴訟だ。長年にわたる紛争は今も続いているが、これもまた、馬奈木らの闘いの目的は、有明海を含む地域全体を蘇らせることにある。

まず、佐賀地裁に工事差し止めの仮処分を求め、いったん止めたのが2004年。すでに大方完成していた工事で、「大型公共事業は動き出したら止まらない」とされるなかでの歴史的な勝利でした。目的は工事を止めることではなく、最初から地域全体の回復にあったので、ここからが始まりのはずだったのです。ところが、「勝つに決まっている」と確信して臨んだ福岡高裁は、いとも簡単に一審決定をひっくり返した。干拓事業と漁業被害の因果関係は否定しなかったものの、その被害を定量的に立証しなさいと。つまり、実行不可能なことを求め、国は我々を負けさせたわけです。

しかし、「勝つまでやる」です。私たちは同時に起こしていた本裁判で排水門の常時開門を訴え、長く裁判で闘ってきました。第一審の佐賀地裁で勝った後、国は控訴しましたが、今度は福岡高裁でも勝利。排水門の常時開門が確定したのは10年でした。ところがですよ、国はこれに従わず、判決確定後10年以上経った今も開門は実現していません。国が約束したことを平然と守らないなんて、驚くべき話です。今春、福岡高裁が「和議協議に関する考え方」と題した文書を発表しましたが、このなかでは、国に対してこれまでの姿勢を改めることを要請しています。ようやく開門となるか、諫早の干拓問題解決の糸口となるか。現状を注視しているところです。

これも長い闘いです。有明全体を蘇らせようとしたら、山まで回復しないと海が回復しないから。そもそも、有明海異変といわれる事態は、かつて建設された筑後大堰が下流、有明海に流れ込む水を奪ったために起きているのです。そう指摘する漁民は多いですよ。筑後大堰の建設差し止めは、私が久留米に事務所を開いてすぐにやった事件なんですけど、この頃は未熟も未熟で完敗でした。ただ、その時に私が言ったのは「有明海が必ず破壊される」。それが証明されるのは望まないと弁論したんです。結果、悲しいかな有明海はじりじりと破壊されてきた。そして、死んでいく有明海に最後のとどめを刺すのが諫早湾干拓事業なんですよ。有明海には絶滅危惧種の生物がたくさんいるけれど、今や絶滅を危惧すべきは漁民です。人々の権利、生活は守らなければならない。だから、有明の地に住む一員として、地域を蘇らせる闘いをしよう。これが、私のライフスタイルです。

権利は国から与えられるものではなく、勝手に取り上げられるものでもない

国民と共に闘いながら、「権利の本質」を問う。未来に向けた取り組み

もう一つ、馬奈木が現在懸命に取り組むものに「石木ダム」がある。長崎県と佐世保市が川棚町に計画している石木ダム建設事業を巡っては、反対する住民たちとの間ですでに50年に及ぶ争いが続いており、15年、地権者らは国の事業認定取り消しを求めて訴えを起こした。現状は一審、二審ともに住民敗訴、弁護団団長として闘っている馬奈木は「激怒しています」と言う。

小さな町のことで世間にはあまり知られていませんが、全国的に例がない事件です。石木ダムの建設予定地、川原(こうばる)地区には今も13世帯60人が住んでいるんですよ。過去、公共事業で紛争になった地域を見ても、事業が実際に行われる時点で現地に地権者が存在し、生活していた例はありません。闘い続けることができず、最後は国に家屋敷や田畑を売って地を出て行くから。石木のように屈伏せず、集団としての生活現場を守っている例はないのです。

石木ダムは隣の佐世保市の水源確保や洪水対策を目的としていますが、その有用性、必要性に多くの疑問がある。我々は何度もデータを取り直し、学者証人の申請も行ってきたけれど、高裁で、裁判長は「もうこれ以上、お話を聞く必要はない」と言った。本当に激怒ですよ。昔はね、ちゃんと証拠調べをしたものです。議論したうえで否定するのならまだしも、裁判官が聞く耳を持たなければ裁判する意味はない。

行政代執行で土地や建物を強制収用する件について、私は「やれるものならやればいい」と言っています。想像力を働かせて、例えば、おばあちゃんが自分の体を仏壇に巻き付けて座り込んでいる場面を思い浮かべてくださいと。どうやって強制執行するのか、考えたほうがいいですよって。違法行為じゃなく、合法的な抵抗を本気でやる相手に執行できるものかどうか。こんなケンカ、悲しいですよ。

結局、国との闘いはすべて権利概念の対立にあるのです。私は機会あるごとに「民法709条の権利概念」を話すんですけど、今の法律は、権利侵害と法律の利益とをイコールだとしている。つまり、権利侵害というのは、法律上保護された利益の侵害だとし、法が認めた範囲以外には権利がないというわけです。違うでしょう。法律がなくたって国は守るべきものは守らないといけないし、そもそも、基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であると、憲法に記されています。権利は国から与えられるものではなく、勝手に取り上げられるものでもない。日本の法解釈の主流になっている東大官僚法学と我々が決定的に違う点はここで、問題なのは、その違いがあることすら知らない、考えようとしない法曹界の現状です。危機感を覚えますね。

そして、もう一つ大事なのは、国民は信託された権利を不断の努力で保持しなければならないという憲法第12条。国に期待するな、自分たちの権利は自分たちで守れと言っているのです。だから、私はいつもそう声を挙げて闘ってきたし、我々弁護士は、権利を守る責任を担っていることを強く自覚すべきだと思います。

弁護士 馬奈木 昭雄
弁護士たちの仕事を常にしっかりとサポートしてくれる事務スタッフメンバーの皆さんと。優秀で明るい彼女たちに囲まれると、馬奈木氏も自然と笑顔になる

地域に起きる日常生活上の様々な問題を住民と一緒に協力して解決していこう――そんな意気込みから、馬奈木は自分の事務所を「地域事務所」と呼ぶ。さらに言えば、地域の問題はそれが切実であればあるほど、根本解決のためには枠を超えて、全国各地で共闘する必要がある。馬奈木は「地域に密着した活動というのは、全国共通の課題に応えるものだ」と言う。水俣病やじん肺、産廃問題などが示すように、馬奈木はいずれもその姿勢で取り組んできた。

とりわけて、連帯した全国的な運動が必要だと考えているのは原発問題です。私たち公害に取り組んできた弁護士にとって、福島原発事故は痛恨の極みでした。なぜ本気で原発を日本からなくそうとしてこなかったのか、無念の思いがこみ上げてきました。二度とあのような事故を起こしてはならないと、玄海原発や川内原発の差し止め訴訟で闘い、その活動を全国に展開する取り組みを続けていますが、そのなか、これは水俣病問題の再現だとつくづく思う。

私たちは公害闘争の経験から原発の危険性を十分に理解しているし、その危険性を矮小化する国や企業のテクニックも知っています。水俣病で得た教訓の一つは、「国が示す基準値を守っていても安全は担保されない」です。事実、水俣病でいえば有機水銀、カネミ油症でいえばダイオキシン類が原因ですが、当時これら有毒化学物質には何の規制もなく、国の基準を守って操業した例なんです。背景には産業政策があり、危険性がわかっていたうえでの「安全神話」がまかり通ってきた。私たちはそれを打ち破ってきたと思っていたのですが、原発で「国の基準に従えばいい」と聞いた時は耳を疑いました。私が思わず「裁判所は先祖返りしやがる」と口にしたら、弁護士仲間が「違うよ。我々が勝ち取ってきた裁判判決は異例。主流は違う」と。裁判所は変わりきっていないというわけです。

公害弁連が50周年を迎えるにあたって、近々、記念講演をするんですけど、公害弁連が4大裁判以来延々と闘い、築いてきたものは何か、もう一度出発点に立ち返って考えようと呼びかけるつもりです。そして、先述した権利の対立概念についても。長い争いはあってもいいけれど、争いがあるという事実を知らないのはやはり問題で、知って、考えようとすることが必要です。

私が日頃から歴史を学ぶ大切さを説くのは、基本に立ち返ることができるからです。法に関係するものだけでなく、広く歴史や雑学を学ぶことで、見えるもの、物事への理解が違ってきます。そして、私の経験から言えるのは、集団事件は自らの成長に非常に有用だということ。例えば反対尋問一つをとっても、なるほど、弁護士によってこんなにやり方が違うんだと勉強になる。「一人の叡知は集団に劣る」ですよ。もう親孝行はできんから(笑)、子供たちに恩を返すつもりで後継者の養成に努めつつ、私はやはり、法廷に立ち続けたいですね。

※取材に際しては撮影時のみマスクを外していただきました。