長島氏は1926年、東京都の生まれ。5人兄姉弟の次男で、小学生のころはもっぱら外で遊ぶ、やんちゃな少年だった。
「子どものころは“兵隊ごっこ”が好きでした。敵方の友達を捕虜にし、自宅の太い木に縛り付けたまま忘れてしまったことがあって、そのときはいたく親にしかられましたね」
勉強は全般的に好きだったが、中でも得意科目だったのが国語。
「小学校の先生が国語に大変力を入れた方で、『一日一文』といって毎日、生徒に作文を提出させていました。おかげで国語力や作文力を、ずいぶん鍛えられたと思います。今でも、その先生には感謝しています」
やがて、旧制七年制東京高等学校尋常科(中等部)から陸軍予科士官学校を経て、陸軍航空士官学校へ入校、操縦士官候補生として満州(現在の中国東北部)で飛行訓練中に終戦をむかえた。
「1945年8月9日の暁、満州へのソ連の侵攻が始まり、それを避けて初級練習機を南に運ぶように命じられ、12日に牡丹江(ムーダンジャン)を離陸。航続距離が短いためガソリンを求めていくつもの飛行場を転々とし、ようやく通化飛行場(吉林省)に着いた17日、そこで敗戦を知りました。戦闘には直接参加する機会はなく、8月中に帰国しました」
帰国の翌年、東京大学法学部政治学科に入学。最終学年の3年生で、高等試験司法科試験を受ける。
「旧司法試験には在学中に合格しましたが、実は行政官を目指していて、通産省(当時。現経済産業省)から採用通知を受けました。ところがその後で、当時の通産省の初任給がずいぶん低いことに気付きました。それでそのころ、初任給が大変高かった三菱化成工業(現三菱化学)に入社したのです」
長島氏が給料にこだわったのには、事情がある。
「敗戦から約10年も消息不明だった父は、その後にわかったことですが、1942年以降、陸軍少将で兵団長として中国山東省で共産軍・国民政府軍と戦っておりましたところ、終戦直前の8月、ソ連の侵攻が懸念されたため、急きょ、兵団を引き連れて現在の北朝鮮の咸興(ハムフン)へ移動を命ぜられました。父は副官一人を連れて飛行機で先発し、咸興に到着した直後に日本が降伏。直ちに進駐してきたソ連軍により戦犯容疑でハバロフスクに連行され、4年後、中国共産政府による建国に伴い満州の撫順(フーシュン)の収容所に移され、わずか一日の裁判で天文学的年数の禁錮刑に処せられました。その後、1959年の暮れに突然釈放され帰国したのですが、既に不治の胃ガンを患っておりました。すぐに入院して開腹したものの手の施しようがなく、6カ月後に死亡しました。軍人の恩給は敗戦後完全に停止されていましたし、東京の家は空襲で焼け、家財もほとんど失い、母と弟たちは田舎の母の実家に身を寄せていたのです。そんなわけで私は、大学を卒業して就職したら、すぐに家計を助けなければならない立場にあったのです」