時勢や世論は徐々にカルテル・談合(価格協定)、シェア協定を厳しく罰せよ、独禁法を強化せよという風潮になっていった。そこで課徴金制度が導入されたわけだが、アメリカの反トラスト法を母体とした日本の独禁法に、なぜ本国にはない課徴金という新制度が導入されることとなったのか。川崎氏の説明を借りる。
「独禁法には無過失損害賠償制度があり、また公取委の専属告発による刑事罰がある。にもかかわらず課徴金制度が導入されたのは、実態として公取委は排除勧告がせいぜいで“カルテルはやり得”とやゆされていたから※3。しかし課徴金制度導入の結果、公取委はカルテル・談合に対してもっぱら課徴金をもって臨み、刑事告発は不活発なままだった」
この新制度導入の後に「セメント・カルテル事件※4」は起こった。
「新聞各紙、課徴金は40億円にのぼると予想。しかし当時はまだ、公取委にも柔軟性があった。セメント企業トップクラスの方々と私とで公取委を相手に交渉し、課徴金を15億円弱まで減額しました。大企業のトップとそうした大事な話を詰めるという役割を担ったのは初めてで、非常にやりがいのあった事件です」
また、独禁法の歴史におけるエポックメーキングといわれる「静岡談合事件」にも川崎氏は関与している。
「これは、公取委が初めて建設業界にメスを入れた事件。静岡市、沼津市、清水市(当時)の三市発注工事で、地場ゼネコンの間で談合が行われたと、内部からの情報のようでした。日本は談合列島ともいわれるように、そこここで談合は行われているのが現実です。公取委としては『どこから摘発してもいいが、とりあえず情報が一番多い静岡から行こう』となったようです。しかしローカルゼネコンは大反発です。彼らは“談合=持ちつ持たれつ”で生きてきたわけで、彼らなりの言い分もあります。加えて『なぜ公取委はスーパーゼネコンではなく、われわれのような小さなところだけをやるのか』と、法律論とは別次元での不満も噴出しました。彼らは、公取委がスーパーゼネコンに手を入れないなら最高裁まで行くと息巻いたのですが……。訴訟資金を持ってくれと彼らが頼んだ大手は『出さない』と応え、結局“黒勧告”で課徴金3億円弱。ローカルですから、その程度の課徴金で決着しました※5」
やがて“独禁ロイヤーとして身を立てて”10年目にアメリカへ留学。
「1985年くらいから日米通商摩擦が激しくなり、国策として“公取委、あまり動くな”という風潮がありました。公取委が動かないと私たちの仕事も減ります。しかしこれはむしろチャンスかもしれないと。アメリカで、独禁法の原点である反トラスト法の現場をのぞき、通商法の勉強をしてこようかと考えたのです。日本国内では通商法の世界に弁護士の出番はないと見る向きもあるかもしれませんが、私は通商法と独禁法とは相通じるものがあると思っています。グローバルで見ればどちらもマーケット対マーケット。通商法はそこに国策も絡むので、大きい話が好きな私としては、いよいよ通商法の時代か!?と勇んで渡米したわけです」
しかし、帰国した氏を待っていたのは、独禁法強化という環境だった。
「アメリカはレーガノミクスで、独禁ロイヤーよりも通商法弁護士が元気だった。日本もそうかと思って帰ってみれば、独禁法強化。日米構造問題協議でアメリカが日本市場の開放・自由化に圧力を掛けたためでした。それで私は、再び独禁法で頑張ることになりました」
そこで、「埼玉土曜会事件」である。これはスーパーゼネコンを含む大手66社が、埼玉で土曜会という組織を作り、談合を行って捕まった事件。そのうちの1社を川崎氏が担当した。
「刑事告発を覚悟したのですが、告発は見送り※6。しかし公取委は非常に厳しい行政指導を行いました」
川崎氏が関与するカルテル事件は、その業界に一石を投じるだけでなく、独禁法の解釈にかかわるものも多かった。政府規制分野である「損害保険料率カルテル」も、その一つだ。
「これは保険料率についてのカルテルで、語弊があるかもしれませんが面白い事件でした。保険料の場合、課徴金の算定の基礎となる売り上げとは何か?という難しい問題があり、まずその論争が起きました。つまり新しいジャンルのカルテルだったのです。保険料カルテルが成立するか?も、議論となりました。また、護送船団業界そのものというべき保険業界では、“保険料の横並び”について大蔵省(当時)の行政指導が入り、同時に認可が下りているわけです。それをどう評価するかという問題もありました。保険業界には保険法理という大数の法則があって、事故率に収れんされるような一定の率が出てくるもの。ゆえに各社がある程度一緒になるのはやむを得ないところでしょう。簡単に、競争法理とか独禁当局の考えだけで規制して良いのか、疑問が生じるのです。そのように、闘うための論点はたくさんありましたが、当時の大蔵省が不祥事などで弱体化しており、さまざまな論争が突き詰められないまま終わってしまったのは、弁護団の世話役の私としては残念でした※7」