Vol.2
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岩倉 正和

HUMAN HISTORY

目の前の依頼者の利益を守る。法的正義をはかる。その一つひとつの積み重ねが、弁護士としての私を造っています

西村あさひ法律事務所
弁護士・ニューヨーク州弁護士

岩倉 正和

依頼者のため、勝てる裁判、勝てるスキームの構築に人智を尽くす

日本経済新聞の「2007年に活躍した弁護士ランキング」によれば、企業法務部門第1位に選ばれたのは、岩倉正和弁護士。岩倉氏はそれ以前の調査でも常に10位以内に入っており、このランキングの常連ともいえる。

そんな岩倉氏の名前がより広くマスコミで伝えられたのは、07年のブルドックソースによる敵対的TOBへの対抗策の導入と実行、および差止仮処分訴訟の代理においてだった。

「ブルドックソース事件では、非常に有名なアクティビスト・ヘッジファンドが突然何の前触れもなくTOBをかけてきました。ブルドックソースが質問書を提出し、その意図を聞いても何も返ってこない。普通なら、買収した後にどんな経営方針を取るつもりなのかは最低限説明してくるものです。ですから、これはちょっと特殊な敵対的買収事件でしたね。ブルドックソースからは、約5年前より相談を受けていました。同ファンドが、ちょうどある企業にTOBをかけた頃で、同様に株式5%超を保有している約30社の中の1社が、ブルドックソースだったのです」

敵対的買収に対する企業買収防衛策は、ニッポン放送など導入側企業が続けて裁判に負け、実施できないままに終わることが多かっただけに、岩倉氏の動きは注目を集めるものとなっていた。

「裁判には勝ちましたが、それが普遍的な意味を持つとは考えていません。よく誤解されますが、私はそもそも『敵対的買収防衛策』の導入は好きではありません。基本的には、会社が収益力を上げ、企業価値を高め、IRを通じて株主に対して適切な還元を行う。同時にM&Aや設備投資を行って株価を上げていく。これが買収防衛策の王道であり、本来のビジネスの王道だと思っているからです。そうした意味では、ブルドックソースからご依頼いただいた時期は、買収されやすい危ない状況ではありました。私たちは、企業価値を高める必要性と施策についてアドバイスをし、増配や設備投資、M&Aを行なって、PBRを0・6から約1・4まで向上させていました。こうした取り組みを強化し、さらに企業価値を上げていこうという矢先の、突然のTOBだったのです」

TOBに対してブルドックソースは、新株予約権割り当てを軸とする対抗策を取ることになるが、その背景には企業側と、岩倉氏の熱い思いが隠されていた。

「社長以下取締役会全員が、『こんな状況をずっと続けていくのは嫌だ。断固、闘う』と決め、『岩倉先生、裁判で絶対に負けないものにしてください』とおっしゃった。依頼者がそこまで腹を括って臨むならば、私も同じ思いで挑もう、そう決意させられました。ニッポン放送事件からの一連の裁判例は見ていましたから、とにかく『勝てるスキーム』を構築しようと試行錯誤した結果が、新株予約権無償割り当てを軸にした一連の対抗策でした。依頼者から、裁判で絶対負けないものにしてくれと言われたわけですから、『弁護士として依頼者の利益を守り、法的正義をはかるためにどう戦うのか』に対する一つの答えを、人智を尽くして出したということです」

もちろん、すべてに完璧なものはない。当然、対抗策には強いところ・弱いところがあり、テクニカルな面では若干心配をした部分もあったという。事件を振り返ってみて、岩倉氏としては「特別決議が必要だ」という判決が出た部分が一般化されることには、面映ゆい気持ちもあるようだ。

「なぜなら、自分の作ったスキームが『絶対』とは決して思っていないから。日本の会社法実務での、私なりの一解釈を提示したに過ぎないからです。思うに、依頼者にとっては、その事件こそがすべて。私にとっては、個別事件において、どう勝つかが重要なのです」

恩師・西村利郎氏との出会いで決めた弁護士の道

岩倉 正和

岩倉氏は、1962年生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格し、大学卒業後、司法修習を経て、当時の西村眞田法律事務所(現・西村あさひ法律事務所)に入所している。弁護士の道を選ぶに当たっては、岩倉氏が師と仰ぐ、西村利郎弁護士との出会いをなくしては語れない。

「大学は法学部でしたから、周りのみんなもそうでしたが、進路の選択肢としては司法試験か上級国家公務員試験くらいしかなかった。その頃、司法試験の合格者は400人台。ですから、何回受けても受からないかもしれないと考え、2回受けてだめなら公務員になるか、一般企業に就職しようと考えていました。とはいえ大学1年目は、テニスやコンパに明け暮れて、遊んでしまいました。司法試験については当時、ほとんど意識していませんでした。『受験するならきちんとやろう』と決めたのは、大学2年になってから。駒場の授業で基本三法は勉強していましたが、そこからは『3年生と4年生の2回は受験しよう』と決意し、勉強に本腰を入れました。そして大学3年の時、初めて受けた司法試験で、たまたま勉強して覚えた内容が出題されて合格してしまった。自信なんてもちろんありませんでしたよ。まぐれだったんですよね(笑)」

司法試験合格後、岩倉氏の合格を知ったゼミの先輩から、勤務先である西村眞田法律事務所に遊びに来るよう誘われた。そこで、師となる西村氏に出会い、弁護士に、道を定めた。

「その頃の西村眞田法律事務所は弁護士が20名ほどの規模で、まさにこれから拡大せんという具合でした。そんなときに、トップに立つ西村から『一緒にやろう。これからは国際化の時代で、東京のマーケットも世界に開く。弁護士が、日本のマーケットや世界を引っぱっていくように、必ずなる。ニューヨークやロンドンにある何百~何千人という規模の事務所と伍していける事務所を、一緒に作ろう』と誘われました。その出会いがきっかけで、国際的な仕事が出来る渉外も面白そうだと感じ、弁護士の道を歩み始めたわけです」

司法修習中、裁判官や検察官という選択肢も頭をかすめた。他の渉外事務所も何カ所か訪問した。しかし結局、西村氏との出会いで得た『やりがいのありそうな渉外弁護士』への期待感は、他のどの仕事より輝いて見えた。

「現在の私の、弁護士としてのキャリアのすべては、西村がいなかったら考えられない。私が最も尊敬する弁護士で、まさに理想像です。入所後、直属の部下となり、西村が担当する仕事をずっと一緒にやらせてもらいました。西村が実質的に現役を引退するまで、昼夜を共にすることも多かったので、私の弁護士人生は西村と共にあったといっても過言ではありません。西村も、あれで気が短いところがあったようで、怒鳴られることもしょっちゅうでしたよ。それでもめげずに、食い付いていけたのは、西村のようになりたい、認められたいという一心だったからでしょうね。それだけに、一昨年前に西村が73歳で亡くなった時には、号泣しました……。入所以来何十年と、また亡くなってからも、その影を追うことで、弁護士としてものすごく鍛えてもらっていると感じます。

当時の事務所は国際企業法務やM&Aのイメージが強く、実際に依頼者も外国企業が多かったのですが、入所後、私が最初に携ったのは東芝とモトローラの合弁事業の案件でした。また、敵対的買収の走りともいえる、ミネベアによる三協精機のM&A、朝日新聞の国際的な著作権問題など、金融取引以外は何でも経験しました」

アメリカの法律事務所で得た弁護士としての方向性

西村眞田法律事務所で実務を学び、1992年にハーバード大学ロースクールに留学。93年から、ニューヨークとワシントンD.C.の法律事務所に勤務した。そこで岩倉氏は、ルイ・べグリー弁護士と出会う。べグリー氏は、ニューヨークの法律事務所での上司。平日は法律事務所勤務、週末は作家活動をする異色の弁護士で、そのハードでユニークな仕事ぶりに、刺激を受けたという。

「ルイ・べグリーも、西村同様に金融取引以外は何でも幅広くやる弁護士でした。また、社交界のおつきあいも積極的にこなすジェントルマンでしたよ。夕方、仕事を切り上げてパーティーに出席するんですが、夜の9時過ぎにはオフィスに戻り、仕事をしてから、再度パーティーへということも多かったので、下で働く私たちは、いつも気が抜けませんでした(笑)。当時から、アメリカでは弁護士の専門化がかなり進んでいましたが、彼の何でもこなす仕事ぶりを見ると、これでいいんだ、と思わされました。つまり、特定の法律分野に詳しくなることに拘らずとも、『弁護士のプロであればいいのだ』ということです。M&Aも、訴訟も、知財も、租税法も何でもやれるプロフェッショナルな弁護士です。ただ、こうした生き方は、私の世代だからできることかもしれませんね。今の若い世代の弁護士の方は、専門分野を持つことを求められるでしょうから」

「どこまでやっても終わらない迷走感」に駆られた、国際刑事事件

1995年に帰国し、事務所に復帰した岩倉氏を待っていたのは、氏が自らの弁護士キャリアに最大の影響を与えたと語る、大和銀行ニューヨーク支店損失事件である。大和銀行が、アメリカから撤退することになったこの事件。帰国して間もない岩倉氏は、まさに24時間体制で、この事件にあたることになった。

「西村と金融に詳しいパートナー弁護士が上に立ち、私が主任となって事務所内に総勢20名体制のチームを組みました。アメリカでも、ルイ・べグリーに依頼して150名体制のチームを作ってもらいました。大蔵省関係(現・財務省)との交渉、株主代表訴訟、行内における処理など、大和銀行側の処理を全面的にお受けしました。さらに、アメリカ行政当局から撤退命令を受けたことによる、日米をまたいだ刑事事件となったため、アメリカのニューヨーク連銀、連邦地検などとも交渉が発生し、この事件にかかりきりになっていました」

渡米前は、指名での依頼も増えてきていたため、帰国後はそうした依頼者をさらに増やしていきたい、と目論んでいたという岩倉氏。ところが、それどころではなくなったのである。

「あの時期は、精神的にも体力的にも限界まで追い込まれていたように思います。実際、24時間ぶっ通しで働いたこともありますし、どこまでやったら完了かに確信が持てず、またどこまでやっても何か、やり残した感じが常につきまとう日々でした。自分の信念に基づいて、依頼者の利益を守り、法的正義をはかる。そのために自分は今、何をどこまですべきか……事件は幾度となく迷走もしましたが、膨大な事案の処理をやりきったおかげで、依頼を受けた弁護士のすべきことは、日本であれアメリカであれ同じだと実感しました」

事件の規模の大きさもさることながら、アメリカの刑事事件を担当するのも初めて。日米合わせて170名からなる弁護士チームを、思い通りにコントロールしていくことも、また初めての経験だった。それをやり切った岩倉氏は、訴訟においても、いくつかのエポックメイキングな事件を担当することになる。その一つが、日本興業銀行による住専母体行債権の無税償却に関する税務訴訟。訴額3760億円は、日本で最も訴額が大きい事件としても知られている。一審勝訴の後、高裁で敗れ、その後、最高裁で全面勝訴判決を得るまでに、8年かかった。

「8年がかりだと、銀行も事務所も途中で担当者が変わることがあります。おそらく、ただ一人この事件を最初から最後まで担当したのが私だったと思います。それだけに、依頼者である銀行の考え、国税庁の考え、当時の大蔵省の考えなど、金融機関や政府それぞれの思惑や立場を、俯瞰的に知ることができました。また、税務訴訟はご存知のように勝率が低いもの。ですから、当時は余り例がなかったのですが、法律学者にも見解を求め、意見書を何十通も出してもらいました。私が担当した、いわゆる銀行税事件(東京都外形標準課税条例に関する違憲無効確認請求訴訟)やブルドックソース事件、またキヤノン・リサイクル事件でも、多くの学者の意見書を出しました。日本興業銀行事件で得た経験も、その後の私の手掛ける案件に影響を及ぼしているんです。しかしこの日本興業銀行の事件もまた、大和銀行事件の実績があればこそ、ご依頼いただいたものだと思っています」

弁護士の足腰は、訴訟とファイティング・スピリットで造られる

岩倉 正和

昔あこがれたN.Y.の弁護士チームのようなワンストップで応えられる、「企業の相談役」でありたいです

岩倉 正和

生命保険会社の破綻処理、金融ビックバンに伴う大手金融機関の合併・経営統合、M&A、知的財産権、租税法に絡むものまで、さまざま手掛けてきた。「いつでもどのような案件においても、依頼者を守るため、法的正義を守るためには、ファイティング・スピリットがないといけません。また、昨今はM&Aや証券化など裁判以外をやりたがる人も多いようですが、弁護士なら、裁判をやらなくては。裁判は、弁護士としての足腰を造るために必要ですから」と、岩倉氏は語る。その岩倉氏の、弁護士としての理念は、何だろうか。

「弁護士は『法の支配』について、管理する責任があります。ビジネスローの世界では直接的に、基本的人権や弱者救済、刑事事件などを数多く手掛ける機会は実際には少ないかもしれませんが、これは共通です。私自身、きちんと依頼者の利益を守り、法的正義が守られるように仕事をして、依頼者に感謝されるような仕事をしていきたいと思っています。どんな分野においても、自分たち弁護士は、法の支配の一翼を担っている。謙虚であらねばなりませんが、そうした自負を持って法律の世界で生きることを、常に肝に銘じています。この理念のもとに日々取り組んだ結果として、社会貢献ができれば、社会に還元できる成果が残せれば、と願っています」

依頼者の利益を守るために東奔西走し、解決の道筋をつけ、感謝を得られることは、弁護士にとっては「明日の仕事の糧」となる。そうした体験をたくさん持つ個々の弁護士自身が、常に「法の一翼を担っている」ことを忘れず事案に取り組めば、その一つひとつがやがては社会に大きな影響を与える。岩倉氏は、始めから何か社会に大きな足跡を残そうとして事案に取り組んできたわけではない。氏もまた、「目の前の依頼者を守る」ということを徹底してきたことによって、世の中に知られる弁護士になったのだということを、忘れてはならないだろう。