サブカルチャーに惹かれた青年時代。映画の世界に没頭する
映画、音楽、演劇などのエンタテインメント分野において、契約交渉や紛争処理、係わる様々な法的アドバイスを専門に扱う内藤篤は、この道の第一人者だ。他方、映画好きが高じて、名画座「シネマヴェーラ渋谷」を開館、館主としてその経営にもあたっている。弁護士というより文化人的な雰囲気をまとう内藤は、少年の頃からずっと好きだったエンタメの世界に身を置き、真っ直ぐに歩んできた。終始穏やかな口調ながら、内藤には、一貫して変わらぬ職業観がある。「自分のしたい仕事をして生きる。そのためにはまず『クライアントをクリエイトする力』が必要だし、究極的には『仕事自体をクリエイトする力』が不可欠なのだ」。数ある自著の一冊に綴られている言葉だが、内藤の生き方は、まさにそれを体現しているように映る。
どちらかといえばインドア系で、本とか映画が好きなおとなしい子供でした。幼稚園に入った頃、コナン・ドイルの『失われた世界』の児童向け本を読んで、「物語ってすごい」と強烈に感じたのを覚えています。あと、祖母が住んでいた渋谷に遊びに行き、街で映画を観るのが楽しみで、何となく文化的な世界が肌に合ったのでしょう。漠然とながらも、いつか物書きになれたらいいなと思っていたんですよ。
母が教育熱心で、僕としては理由がわからないけれど、「勉強しろ」と言われるからやっていたという主体性のない子供でね(笑)。その流れで麻布中学、高校に進学し、一応、陸上部に入って短距離走をやったりもしていましたが、変わらずの本好き、映画好き。古本屋歩きが趣味で、澁澤龍彦や植草甚一の本に耽溺し、また、当時渋谷にあった「全線座」という名画座には、試験が終わるたび繰り出したものです。二本立てを安く観られる名画座は、学生にとって大助かりでした。
今はほとんど残っていませんが、この頃の渋谷には、古本屋とかジャズ喫茶とか、いわゆるサブカルチャーのはしりがいろいろとあって、そのある種の猥雑さが僕の欲望を満たしてくれた。まさか自分が、この街で映画館をつくるとは思ってもいなかったけれど、僕にとって、渋谷界隈はずっと馴染み深い場所なんですよ。
東大を受験したのは「周りがそうだから、何となく」。職業についても格段の意識はなく、法学部を選んだのは、先行き、潰しがきくと考えたからだという。大学生になった内藤は、さらに映画に魅了され、年間約360本を観賞するという生活。そのたびノートに感想を書き記し、「映画評論家になりたい」という気持ちが頭をもたげてきた時期である。
東大に入って最も大きかったのは、フランス文学者で映画評論家でもある蓮實重彦先生と出会ったこと。先生の評論を、それこそむさぼるように読んだし、その斬新な物言い、独特な文体に、僕ら映画青年たちは皆、絡め取られた。誰もが、「蓮實エピゴーネン」と呼ばれるほどに影響を受けたのです。優れた評論というのは、「こんなにすごい映画なら観に行かなければならない。観ないのは悪である」というくらいにドライブする力があって、僕もそれまでに増して、爆発的に映画を観るようになりました。
かといって、自分で映画を撮りたいかといえば、そう思ったことは一度もないんですよ。もともと物書きに憧れていたから、評論家になりたかった。3年生の頃は、法学部のある本郷から、週に一度、蓮實ゼミに“もぐり込む”ために、駒場に通ったものです。あの頃は、池袋の文芸座の地下にあった日本映画専門館に一番通ったかな。行くとゼミの連中がいて、僕にとっては部活のようなものでもありました。
当時の映画雑誌に、素人が投稿する評論コンテストみたいなのがあって、応募してみたら佳作入選。雑誌に自分の評論文が掲載されたものだから、一時は「頑張れば、俺、映画評論家になれるかも」と考えた時期もあったんです。でも一方で、己のごとき非才では、これで飯を食うのは難しいだろうと見ている冷静な自分もいた。
それで、司法試験に舵を切ったのが4年生になる頃でしょうか。初めての受験は短答式でアウト。あと2年挑戦してだめなら、一般企業に就職しようと思い留年していたので、“6年生”で合格したというわけです。司法試験に向けて勉強している間も、映画は絶っていませんよ。必死でやらなきゃいけないものがある時に観る映画って、これまた蜜の味でして(笑)。
エンタメ・ロイヤーとしての目覚め。そしてNYへ
エンタテインメント・プラクティスが、日本で明確に確立されていた時代ではない。内藤も最初から狙っていたわけではなく、大学在学中にゼミで学んだ知財、国際取引法を生かせるような事務所に入りたいと考えていた。その時に仲間を通じて知ったのが、かつての西村眞田法律事務所である。当時、大手渉外法律事務所としていくつかの専門分野を抱えるなか、ファッション・ブランドなどの商標やライセンス契約関係を扱う部門が存在する同事務所と出合えたことは、幸運だった。
当時いらした知財の田中克郎先生に話を伺いに行った際、ちょうど“某怪盗”を主人公にした日本のアニメをフランスにライセンスする契約書を見せられた。「これって、フランスの怪盗の名前だろ。いろいろと問題があってさ」などと言っている。「あ、こういうのをやりたかったんだよね」と、僕は食いついたわけです。
入所してから、西村利郎先生のコーポレート部門、田中先生の部門の両方に所属しつつ、僕は、規模のでかい案件では下っ端として走り回る一方、エンタメっぽい知財の案件にもかかわらせてもらった。上司たちは若手に仕事を任せるタイプだったので、責任は重かったけれど、様々な経験を積むことができましたね。なかでも、翻訳をすごくやらされたので、英語はオン・ザ・ジョブで身につけました。
印象に強いのは、1986年、広告代理店をクライアントに、ニューヨークで開催したイベントに携わったこと。シンセサイザー奏者の冨田勲氏を中心に、バッテリー・パークで行う音と色彩の一大ページェント。そこで起きる法律問題のサポートに入ったのですが、これが困難続きで。スポンサーとの問題、現地プロデューサーとの契約交渉、さらには、このイベントはのちにレコード化やビデオ化が予定されていたので、それら関係会社との交渉……山道を蛇行して進むような大変さでした。
それだけに、イベントが幕開けした時は、何とも形容しがたい心持ちでした。目に映る部分で何かを直接つくったわけじゃないけれど、それでも契約書作成や交渉など、自分の仕事が確実に反映されているという確信。僕らがいたことで、このイベントがスムーズに進行し、クライアントの利益が最大限に守られたという自負心。半人前ながら、エンタテインメント・ロイヤーとしての喜びが初めて湧いたのです。
「あの喧騒、繁栄、猥雑さ、そういうすべてが好き」。イベントの仕事や幾度かの出張を通じて、内藤はニューヨークに強い憧れを抱くようになった。事務所内には、若手を必ず留学させるという不文律があり、内藤がその時、留学先として同地を選んだのはしごく当然のことである。弁護士になって4年目の88年、内藤はニューヨーク大学ロースクールに留学した。
とにかくロケーションとしては最高。大学はヴィレッジのど真ん中にあって、ここは、どこの街にも比肩できない独特の雰囲気がある。あの頃は名画座的な映画館もたくさんあり、ジャズクラブやデカい古本屋もあって、つまり僕の好きなものが全部揃ってた。最初にニューヨークに着いた夜は、興奮で一睡もできなかったのを今も覚えてます。
ロースクールの受講生活はハードでした。著作権法、独禁法、商標法など、判例から成る英語ぎっしりの教科書を毎日何十ページも読んどけ、という世界ですから。でも、とおりいっぺんの課目ではなく、細分化されたプログラムがあることが素晴らしく、エンタテインメント法なんかは、事案演習的なものが多くて刺激的でした。久しぶりの学生生活でしょ。映画とジャズに狂いまくりながら(笑)、この頃は、自分でも本当に一所懸命勉強したと思う。
ニューヨーク州弁護士資格を取ったあとは、現地に残り、エンタメ部門がある典型的な大手、ポール・ワイス法律事務所に勤務しました。ただ、どうも“お客さま扱い”で、仕事らしい仕事がない。だから僕は、勝手にプロジェクトを始動させ、ロースクール時代に使っていた著作権法の分厚い本を、日本語に翻訳することに。日本にいる時、翻訳はさんざんやったけれど、自分の成果としては残らない仕事ばかりだったから、何か本として残したいという思いがあったのです。
それはそれで有意義でしたが、このまま誰もがやるような海外研修をして日本に帰るのでは、大した未来がない。そんな焦りもあった。そこで、ニューヨークのインディーズ映画を主に扱うブティック・ファームに、「安い給料でいいから」と頼み込んで入れてもらったのです。実務は面白かったですね。アメリカの映画は、その製作資金を銀行から借りるのが一般的です。当然、担保が必要で、それはできた映画の著作権であり、スタッフやキャストと結んでいる契約上の利益でありと、融資実行日までに弁護士が携わる仕事は、契約交渉、書面づくりなど多々ある。わずか3カ月の勤務でしたが、僕はここで、エンタテインメント・プラクティスを肌感覚で学ぶことができました。
日本国内で希少な弁護士として活動し、独立を果たす
エンタメ法の基盤づくり、いわゆるソフト・ローの構築に尽力できれば、僕としては嬉しい
90年、帰国。内藤は西村眞田法律事務所に復帰した。この頃から、精力的に著書を出している。ニューヨーク時代に手がけた翻訳書『米国著作権法詳解』、そして、訴訟を通して見るアメリカ映画史『ハリウッド・パワーゲーム アメリカ映画産業の「法と経済」』。デビュー作である後者は、芸術選奨文部大臣新人賞を受賞しており、これらは、エンタテインメント・ロイヤーとして内藤が世に出る“梯子”となった。
復帰した時、知財部門は分裂するかたちで別の事務所になっていたので、僕としては、エンタメ部門を立ち上げるところからの再スタートでした。単にクライアントを開拓する以上に、エンタテインメントという一つの専門分野を興すことが目的だったので、そこで発想したのがマーケティングとしての出版活動だったのです。
もちろん、本を出せば顧客がつくという簡単な話ではありませんが、それでも、レコード会社系の仕事が次第に入るようになってきた。講演に呼んでいただく話もポツポツと。加えて、日本で映画をつくる際、製作委員会を設立する流れが出始めた頃で、そうなると映画業界とは離れた企業も入ってきますから、契約書作成を筆頭に、弁護士が関与できる領域が顕在化してきたのです。少しずつですが、手応えはありました。
パートナーに就任したのが93年。責任の増加とともに思ったのは、「こういう大事務所で、エンタメでパートナーを張るのは現実的じゃないなぁ」。つまり、面白いけど稼ぎが少ない。今、このマーケットがどこまで広がっているかという問題もありますが、たとえ4大事務所であっても、その内実は大きく変わらないと思いますね。
十分に忙しかったし、経営にも参画したばかりで贅沢な話ではあるんだけれど、僕がずっと考え、大切にしてきたテーマは「自分のしたい仕事をして生きる」です。仕事に対する本質的な考え方の違いをそのままにしてパートナーシップを続けるのは、誰に対しても不誠実な話だと思い、独立することにしました。途中、海外研修にも出してもらって、9年間お世話になった事務所は数々思い出深く、本当に感謝しています。
94年4月、西村眞田法律事務所で同期だった清水浩幸弁護士と「内藤・清水法律事務所(現青山綜合法律事務所)」を開設。35歳だった。大手の看板から離れ、エンタテインメントに特化した事務所を開業する――“見本”などないから、リスクは覚悟してのこと。文字どおり、裸一貫の出発だった。
クライアントの獲得は帰国後からの課題で、飛び込み営業もずいぶんやりましたよ。大手の映画配給会社は、エスタブリッシュされた法律事務所が付いているので外し、当時、例えば新興だったギャガ・コミュニケーションズ(現ギャガ)を訪ねて、「何かお仕事があれば、ぜひやらせてください」みたいな(笑)。すぐに営業成果はなかったけれど、数カ月後には顧問契約をいただき、一時は同社の監査役を務めたのですから、これもご縁ですね。
独立してから関与したものに「知恵蔵裁判」があります。用語辞典『知恵蔵』の本文レイアウト・フォーマット流用に対し、デザイナーが朝日新聞社を相手に著作権侵害を訴えた事件。僕は新聞社側の代理人として戦い、結果は勝ちましたが、それまでは問題とされなかったことが初めて表に出た点において、それなりに注目されたように思います。
エンタメ業界がこれまであまり弁護士と縁がなかったのは、比較的小さな社会だったのに加えて、紛争が起きても、従来の「なあなあ」的な日本型解決がなされてきたから。でも、音楽業界を例に取っても、今やインディペンデントからメジャー・レコード会社まで組織は様々で、それを取り巻くアーティストを擁するプロダクションなども多数存在します。もはや小さな社会とはいえない。
こと契約においては、一定程度のトラブルは必ずあります。それが裁判所に行った時、どう裁かれるのか。僕がある時点から問題だと思ってきたのは、業界の慣習や言葉が、あまりにも裁判所に伝わらないということ。それでは、紛争はちゃんと解決しない、おかしいだろうと思って書いた本が『エンタテインメント契約法』です。業界を理解してもらう一助になれば……もっといえば、裁判所に対し「六法の世界に閉じこもらないで、こういうものを理解する努力をしろよ」という、自分なりの熱い思いでもって書いた本なんです。
映画館経営に参入。好きなことを追い求め続ける内藤流の生き方
「自分の原点である名画座を、いつかつくりたい」。それは内藤の夢だった。「シネマヴェーラ渋谷」が誕生したのは2006年。渋谷で唯一の名画座であり、弁護士が映画館経営に乗り出したということで、マスコミにも多く取り上げられた。少し前までは、映画館運営の仕事が6割を占めていたというから、こちらも内藤にとっては“本業”である。
ビデオやDVDの普及、地価の高騰を背景に、名画座というものがバタバタと閉まり始めた。僕としては困るわけで、なら自分で開くかと。ミニシアター「ユーロスペース」のオーナーと親しかったので、話を持ちかけてみたらいい返事が得られて、あと「Q-AXシネマ」とも連合して開館に踏み切ることができました。
実は、42歳の時に、胸腺の中に悪性腫瘍ができて、実質半年ほど治療生活を送ったんですよ。一度「死ぬかも」という事態に直面して戻ってくると、人間、これから先はやりたいことをしておこうと思うものです。名画座の開設はずっと夢だったから、そんな気持ちも僕を後押ししたのでしょう。
映画館では、スクリーンをとおして、まったくの他人同士が同じポイントで笑ったり泣いたり、微妙なコミュニケーションが成立するでしょ。僕は、若い人たちにそんな空気感を伝えたいし、名画座ならではの魅力を残したいのです。上映するプログラムは僕が考えているんですけど、5年もやると苦しくなってきた(笑)。70年代以前の古い映画でないと来客が望めないので、今の映画が面白いと思っても基本扱わない。他館との争奪戦もあるし、「いける」と思った読みが外れたり……楽しいけれど、まぁ一喜一憂で大変ですよ。
映画、テレビ関係の映像系、出版系、レコード会社、そしてアーティスト個人など、内藤を頼りにするクライアントは様々だ。弁護士が介在せねばならない状況が到来し、複合的かつ戦略的なアプローチが必要になったこの領域において、内藤は第一人者として業界の発展、健全化に寄与し続けている。
今、僕が提唱しているものに「リスクマネー論」という考え方があります。リスクマネーとは「回収の意欲された資金」ですが、より正確に定義すると、「資金の投下対象たるコンテンツの利用によって、回収することが意欲された資金」とすべきでしょうか。
劇場用の映画は興行でコケたり、DVDが売れなかったりすれば、それは端的に赤字を意味する。この構造はゲームでもレコードでも同じで、ここにはリスクマネーが投下されているわけです。僕は著作権法の原則は否定しないけれど、「つくった人に著作権がある」という素朴な考え方だけでは、産業に投じられた著作物の意味を見失いませんか?と。そんな問いかけです。紛争になった時、法律の解釈は、もっと業界の実情をよく踏まえてなされるべきだと思うのです。「こういうふうに考えないとフェアじゃない」という基盤づくり、いわゆるソフト・ローの構築に尽力できれば、僕としては嬉しいですね。
僕らが司法研修所で教育を受けた頃は、一般的に「弁護士たるもの威厳がなくてはならない」という古い時代でした。でも僕は、留学から帰ってきて一つのクライアントも持たない状況のなかで、「まずは仕事がなきゃ話にならない」「基本はサービス業だろう」と痛感したし、従前的な慣習に抗ったりもしてきた。
若い人たちにも、そんな本質的な認識を持ってほしいけれど、今のように、就職氷河期みたいな時代になると、若い弁護士は必要以上に萎縮しちゃっているように見えるから、むしろ今こそ「もっと威厳を」というべきかも……。ただ、いずれにしても、手堅さばかりを追うのはどこか不幸じゃないですか。何が好きか、大切か、自問を続けながら、自分の人生をクリエイトするような生き方をしてほしい。そう思うんですよ。
※本文中敬称略