「人と違うこと」をするのが楽しい。早かった自我の芽生え
2014年12月11日。法律相談の大手ポータルサイト『弁護士ドットコム』は東京証券取引所マザーズ市場に上場し、新たなステージに立った。創業者は、その3日後に39歳となった元榮太一郎(もとえ・たいちろう)。弁護士が創業社長として初めて東証マザーズ上場を果たしたとあって、多くのメディアが華々しく取り上げた。しかしながら、その道のりは決して平坦だったわけではない。当初は「インターネットで弁護士と依頼者をつなげる」ことの理解がなかなか進まず、登録者数が増えない、赤字経営が続くなど、困難な時期もあった。それでも曇りなく走ってきたのは、このサービスが「間違いなく世の中のためになる、必ず必要とされる時代が来る」という確信があったからだ。元榮は今、弁護士が事業創造に、そして新しい価値創造にかかわる時代を切り拓きつつある。
電機メーカーに勤めていた父の赴任先、イリノイ州で生まれたのですが、3歳までしかいなかったので、記憶はほとんどないんですよ。親からアメリカ国籍を持っていると聞かされ、「自分のルーツは“外”にもあるんだ」と思う程度の話で。
神奈川県藤沢市に戻ってから、再び転勤となった父に伴い、家族でドイツのデュッセルドルフに移住したのが中学2年の時。さすがに物事がわかる年齢でしたから、異なる生活や文化圏に身を置くことで、「外から日本を見た」という感覚はありました。日本の当たり前は、異国では当たり前じゃない。常識をいったん疑うという私の習性は、早くに海外に触れたことが影響しているのだと思います。
ただ、私が暮らしたのは1年半。日本で通っていた中学校がすごく楽しかったし、小4から熱中していたサッカー漬けの日々や仲間が恋しくて……「一人でもいいから、先に日本に帰る」と親に談判し、卒業を機に、本当に単身帰国したんです。両親が心配して止めるのにもかかわらず。今考えるととてもわがままをしたと反省しています。
私の“独自路線”が出てきたのは、この頃からでしょうか(笑)。もともと住んでいた団地ではありましたが、高校生の独り暮らしは珍しいですよね。人と違う生き方をするのが、何だか楽しくなってきたのです。通っていたのは神奈川県立の湘南高校で、進学校なのに、私は学業そっちのけでサッカーとバイトに明け暮れる日々。新聞配達、コンビニ店員、カラオケスナックのホール兼厨房など、いろいろ自由にやっていましたねぇ。当時のサッカー部の顧問でもあった担任にしてみれば、まず私が弁護士になったことに驚いているでしょうし、会えば、「弁護士になるとは夢にも思わなかった」という一言がまず出るでしょうね、きっと(笑)。
勤め人にはなりたくなかった。「今も昔も父を尊敬していますが」と前置きしたうえで、元榮は「会社員は自分らしさを発揮しにくいように見えたから」と言う。漠然と抱いていた職業イメージは、サッカー選手か医者か弁護士、つまり自由業である。
サッカーでプロになるのはさすがに無理だろうと思っていたし、私は血に弱いので医者も無理。そんなことを考え始めた頃、ちょうどテレビで『都会の森』という法廷ドラマをやっていて、高嶋政伸さんが扮する主人公の弁護士が熱血でカッコよかった。最終的な決断は未来の自分に委ねるとして、「弁護士は魅力的な仕事かもしれない」くらいの気持ちで法学部を選んだのです。加えて、ずっと公立だったから私立に対する憧れがあり、慶應がいいと。
とはいえ、私は高3の冬までサッカー部の現役を続行し、サッカー選手権大会に臨んでいたので、受験勉強のスタートが遅かった。結果はベスト16で敗退し、涙を呑んだのですが……。敗退を機にサッカー部を引退したのが高3の10月中旬。もう勉強期間もないし、浪人覚悟で試しに予備校に行ってみたところ、一日中座っているわけでしょう。走り回っていた私にとっては、とてもつまらない。浪人して、あと1年これを続けたら自分がダメになると思ったら、「絶対に受かりたい」というボルテージが一気に上がったわけです。
3カ月の猛勉強で、意中の慶應義塾大学に合格することができました。この時の成功体験のようなものは大きいです。実は、その後の司法試験もそうなのですが、一度没頭すると、私は熱量が高いのか、しつこく粘って必ず目標を実現させるんですね。火事場の底力ではないですが、自分の、人間の可能性というものを信じられる契機になりました。この大学受験を通じ、自分にはそれなりの目標達成力がありそうだと思えたことで、「これからはもっと丁寧に生きよう」、そう決めたのです。
勤務弁護士時代に生まれた事業アイデア。はやる気持ちで起業へ
間違いなく人のため、社会のためになるという確信があったから、決して迷わなかった
慶應義塾大学に進学してから、元榮は迷わず体育会サッカー部に入部するが、待っていたのは挫折だった。高校時代は主力として活躍していたのにもかかわらず、サッカー有名校から集まった選手層は厚く、居場所は「3軍」。大学2年の時、11年間続けてきたサッカー生活にピリオドを打ったが、この時ばかりはさすがの元榮も「へこんだ」。
子供の頃から、毎日サッカーの練習をするのが当たり前の生活だったのに、それをやめるという選択が正しいのだろうか……。「どちらの道が正解かを選ぶのではない。選んだ道を正解にするのが人生だ」と自分に言い聞かせてはいましたが、やはり屈辱というか、挫折感は大きかったですね。
人と違った“場数”を踏もうと、またバイトに精を出す日々。目いっぱい世の中を知る経験をしたくて、家庭教師の契約を獲得する営業をしたり、ディスコで働いたり。ずっとサッカーを続けてきたから、時間が空くと自分に負荷をかけないと気が済まないんです。現状維持は衰退の始まり。そんな感覚があるので、わずかでも余裕ができたら、自分をさらに追い込むんです。
その頃です。買ったばかりの中古車で物損事故を起こしたのは。出費を抑えるために任意保険に入るのを躊躇していた時の事故で、弱冠二十歳の私が、先方の保険会社の示談担当者と交渉しなければならなくなった。さぁ困りました。結果としては、母が「弁護士会の法律相談窓口に行けば」とアドバイスしてくれたおかげで、弁護士に相談することができ、100%求められていた過失割合が70%で解決しました。「人が困っている時に力になれる弁護士の仕事ってすごい!」。素直に感動し、カーッと体が熱くなって、今度は司法試験に没頭です。「絶対に弁護士になる。一生の仕事にする」と決めて、大学4年の12月から、ストイックな受験勉強生活に入りました。
大学を卒業した翌年、司法試験に合格。01年、元榮はアンダーソン・毛利法律事務所(当時)に入所し、六本木の大手法律事務所で花形のビジネス弁護士としてスタートを切った。が、3年ほどで、元榮は安定した生活を捨て、起業への道を踏み出す。弁護士ドットコムの事業アイデアが浮かんだのはこの時代で、元榮の言葉を借りれば「血湧き肉踊る」感覚だったという。
修習生だった00年のある日、新聞を開いたら、司法制度改革審議会の中間報告が出ていて、「試験合格者数3000人時代。弁護士も競争の世界へ」とあった。そんな話、当時はまったく知らず、昔ながらの弁護士の世界で活躍することを夢見ていたので、椅子から転げ落ちそうになるくらい衝撃を受けまして(笑)。もうバッジだけで仕事ができる時代じゃない、何かプラスアルファが必要になると感じてはいました。それは何だろうと自問自答するなか、まずは国際弁護士だろうと考え、アンダーソン・毛利に飛び込んだのです。
クライアントは国内外の大企業が多く、国際的な取引契約や、世間の耳目を集めたM&A案件にも携わり、新人ながら大きな舞台で仕事をさせてもらいました。非常にやりがいのある仕事が多く、職場も楽しくて。育てていただいたアンダーソン・毛利の方々には心から感謝しています。ただ、30歳を目前にして、一度きりの人生の生かし方を少しずつ考え始めていました。
転機となったのは、アドバイザーとして関与した大手ベンチャー企業の企業買収案件です。その時私は、新しい価値を生み出していくベンチャー企業の勢いというものに魅了されたのです。もしかしたら、私が探していたプラスアルファはここにあるかもしれない。そう考え至るようになったのが、03年頃でしょうか。
折しも、ブロードバンドが本格普及し始めた時代です。自分は弁護士であると。そこにITを掛け合わせられないだろうか。何かないか、何かないかとずっと思案するなか、04年10月に目に入ったのが『引越し比較・com』です。商品価格を比較するサイトは知っていましたが、「サービスも比較できるんだ」と思った瞬間、弁護士とユーザーをつなげ、一般の人が弁護士という“サービス”を比較検討できる場をつくったら面白い、そう思ったのです。そして、大学生の時に自動車事故を起こし、弁護士に行き着くまで苦労した経験がフラッシュバックしてきて。「あの時の自分のような人たちは、今もたくさんいる」。私のなかで、これは必ず人々や社会の役に立つという確信が生まれました。
事業アイデアを思いついた翌月には退所の意向を伝えたのですが、ありがたいことに慰留されましたし、そもそも大手事務所の弁護士が独立すること自体がとても珍しく、パートナーからは「もう少し考える時間を取ってみたら」と。でも、「これは面白いぞ」と興奮した熱は一向に冷めやらず……最後は「じゃあ頑張りなさい」と温かく出していただきました。
苦難続きだった事業を開花させたのは、不屈のチャレンジ精神
05年1月、まずは法律事務所を開設し、追ってオーセンスグループ株式会社(現弁護士ドットコム株式会社)を旗揚げ。29歳の若き独立・起業だった。経営ノウハウなど持ち合わせず、ネットビジネスの知識もあったわけではない。リスクは大きい。それでも、元榮は退路を断つ格好で船出した。追い込むことで、自分のパワーが最大化することを知っていたからだ。
ネットビジネスの仕組みや、事業計画の立て方を学ぶために、まず本屋に行くところからですよ。それから、大前研一さんの「アタッカーズ・ビジネススクール」の門を叩いたのです。起業塾の事業計画コンテストで上位入賞すると、大前さんに直接プレゼンできるというので、私のプランがどう講評されるのか試したかった。ありがたいことに優勝し、大前さんからは「専門家とネットがつながる時代は必ず来る。期待しているから」と励ましていただいたのです。もう勇気百倍でした。
そして、後輩の弁護士やエンジニアの協力を得て、事務所にしていた私の自宅でサイトを構築し、運営を始めたものの……肝心の弁護士が誰も積極的に登録してくれない。当時の弁護士界は“一見さんお断り”で、扱うのは紹介案件が主でしたから違和感があったのでしょう。弁護士会サッカー部の先輩や後輩に頼み込み、事務所に伺っては趣旨に賛同してもらうために説明を尽くすなど、必死でした。半ば義理で登録してもらうかたちで、徐々に登録者数を増やしていったのです。
収益面でも非常に厳しかったですね。弁護士法72条を遵守するために、弁護士から料金を徴収しない完全無料制を採っていたので、独立採算運営など望めません。サイトへの訪問者数も月に1万人程度でしたから、広告収益としても成り立たない。ほぼ収入ゼロみたいな時期が4年ほど続きました。
「このサービスはもうダメだ」――立ち上げメンバーたちも次第に士気が下がっていった。しかし元榮は、猛烈に働き、法律事務所で得た資金を弁護士ドットコムに補填しながら耐え続けた。つぎ込んだ額は、億単位に及ぶ。「途中に迷いはなかったか」の問いに、「一度もない」。元榮はそう明言する。
情けない気持ちはありましたよ。かつては東京タワーが見える個室で仕事をしていたのに、しばらくは“宅弁”で事務員はおらず、事務所あての電話を携帯に転送して受ける“ケータイ弁”でした。蓄えも底をついた。グローバル企業ばかりを相手にしていたのが、顧問先一社を獲得するのに苦労する。大手事務所の看板あっての自分であったことを思い知らされました。
それでも、弁護士大増員を見据え、「必ず依頼者が弁護士を選ぶ時代になる。その時のために、両者がよりよくつながる場所を創っておこう」という気持ちは、決して揺らぎませんでした。弁護士としての私を信頼し、顧問先を紹介して応援してくださった社長さんたち、そして何より支えになったのは、サイト利用者からの感謝メールです。「このサイトがあったから弁護士さんと出会えて救われた」、あるいは「弁護士ドットコムのおかげで独立できた」という弁護士の声。今は規模が小さくても、これから絶対に、もっと多くの人の役に立てると。本当にエネルギーをもらいました。
ターニングポイントになったのは、弁護士数が3万人を超えた11年頃です。弁護士マーケティング市場がようやく盛り上がる兆しを見せ始めた。さらに、サイトへの登録弁護士の数が加速度的に増え、12年春にはサイト訪問者数も月間100万人を超えました。Webの世界で、事業として成り立つユーザー規模になったのです。創業以来、実質連続赤字の末、待ちに待った時節到来でした。
ここがアクセルタイムと、創業してから初めて外部出資を受け入れました。新興企業の育成に実績を持つデジタルガレージから第三者割当増資で1億円を資金調達し、次いで、『食べログ』のカカクコム、大前研一さんにも株主として入っていただきました。また、久保利英明先生はじめ諸先輩方にも顧問に就任いただいています。応援団形成です。社外取締役も招いてボードメンバーを整え、経営指導を受けながら事業サービス内容をブラッシュアップしていったのです。
満を持して「登録弁護士向け有料プラン」を出したのが13年8月。弁護士プロフィールのなかに、注力分野の特設ページを設置するもので、この利用が順調に伸びたことが大きかったですね。そして、法律相談Q&Aのデータベースをモバイル端末から閲覧する際のユーザー課金、一般ユーザー向けの広告という3つの収益モデルで業績は大きく黒字化し、東証マザーズから上場承認をいただいたという経緯です。
願いは、人々が安心して暮らせる社会をつくること
14年12月現在で、弁護士ドットコムに登録する弁護士数は7000名を超えた。日本国内弁護士の「5人に1人」という計算になる。サイト訪問者数は月間約660万人。「弁護士とインターネットをつなぐなんて」と懐疑的な目を向けられていた元榮の事業アイデアは、間違いなく“インフラ化”した。弁護士ドットコムをリリースした翌年には、すでに『税理士ドットコム』も始めているが、今後はほかの専門職サイトも横展開していく意向だ。
上場は、起業した時から意識していました。競争が激しくなり、閉塞的な時代かもしれないけれど、弁護士資格の一つの生かし方として起業し、そこにいろんな可能性があることを、若手弁護士の立場で示したかったのです。自己実現をしながら業界にも活性をもたらすことができれば、幾重にもメリットがあるはずだと考えてきました。
だから、一つ目標だった株式公開をできたことは嬉しいし、やっとスタートラインに立つことができたという感じですね。これからは、例えば弁護士費用保険や、医師、歯科医師などの情報サイトにも着手していきます。「専門家を身近にする」ことで、人々が安心して暮らせる社会をつくることが、私の夢なんですよ。
もし私が絵に描いたような優等生だったら、今はないでしょうね。人と違うことをするのが好きで、そのぶん悔しい、情けない思いもたくさんしてきたから、ある種の胆力と忍耐力があるのかもしれません。でも、だからこそ得難い人生経験をさせてもらっていると思っています。企業経営を通じて学べることは本当に多い。経営は外的にも内的にも不確実で、移ろいやすい環境と戦っていかなければなりません。そのなかで数々得られる経験を、また弁護士としての仕事にフィードバックできればいいなと。裾野が広いほど山は高くなる――私自身は今まさに、弁護士実務を積みまくっている最中だというイメージでもあるんですよ。
相対していると事業家としての印象が強いが、弁護士業に対する愛情は深い。そういう「弁護士資格を持つ社長」は海外では珍しくないが、日本ではまだ暁天の星。後続者の登場を願っているのは、誰より元榮自身である。
依頼者から具体的に感謝される弁護士の仕事って、その度合いがほかの仕事に比べて相当高いじゃないですか。最高のご褒美ですよね。弁護士の仕事は素晴らしい。私は、一人でも多くの困っている人と、役に立ちたいと考えている弁護士をつなぐことで、世の中に貢献したいと考えています。法律事務所オーセンスでも、「常に依頼者の期待を超える」という理念をとても大事にしていて、事務所全体で感謝される総量を増やすこと、これも社会貢献だと。今は、その環境づくりに徹することが、自分の力の最大化につながるという正義でやっています。
そして発展的には、経験を生かし、今後社会に生まれるだろう産業やサービスに対し、新しい企業法務のイメージを率先してつくっていくのも面白いと考えています。あとは、いずれ落ち着いたら、ライフワークとして、貧困問題や起業支援にも取り組みたいですね。相変わらず、自分に負荷をかけていないと気持ち悪いというか、やりたいことは尽きません(笑)。
私は、世間がいうほど業界に対する憂いはなくて、素晴らしい時代が来ていると思っているんですよ。修習生や経験弁護士の採用面接をしていても、ベンチャー精神のある人材が確実に出てきていますし、業界の現状を前向きに捉える気概も感じています。インハウスロイヤーも当たり前になり、法律事務所所属のかたちで偏在していた弁護士が、いろんな分野で活躍し始めています。成熟した司法国家に向けて曙光がさしているわけで、こんなに可能性にあふれた時代はないですよ。変化の時はチャンスの時。前を向いて腹をくくれば、いくらでも挑戦できると思うのです。共に業界を元気にしていく仲間が増える――こんなに素晴らしいことはありません。
※本文中敬称略