Vol.50
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弁護士 番 敦子

HUMAN HISTORY

様々な仕事、経験をしてこそ自分の適性が浮き彫りになる。そして、あとはとことん極める。懸命にやったことは、必ず人生を豊かにしてくれるから

番法律事務所
弁護士

番 敦子

早くに養われた自立心。フランス思想に傾倒し、研究者への道を志す

幼い頃より利発だった番敦子は、勢い、早くから自立心にも目覚めていた。大学時代には、女性の権利等の問題に関心を寄せ、「男性も女性も自由に生きられる社会のかたち」を模索し始めており、以降、弁護士になってからも、これは番のライフワークとなっている。彼女が発起し、司法試験に臨むようになったのは出産を経てからである。子育てをしながらの猛勉強生活は、時に苦悩も伴ったが、“天職”を得てからは、自分の信じる道を真っ直ぐに歩いてきた。DV、セクハラ、性被害などといった女性の被害者事件を扱う女性弁護士として高名な番は、広く犯罪被害者支援にも尽力する。文字どおり、「女性や弱い者の味方」なのである。

弁護士 番 敦子
番氏が執筆した共著。『犯罪被害者保護法制解説』(三省堂)、『Q&A DVってなに?』(明石書店)、『犯罪被害者等基本計画の解説』(ぎょうせい)

小学校から高校までの12年間、ずっと女子校なんですよ。私が一人娘ということもあり、ちゃんとした教育を受けさせたいという母の強い意向で、地元、千葉県市川市にある国府台女子学院に通っていました。自分で言うのも何ですが、学業も運動もかなり達者なほうで、いわゆる活発な子供でしたね。当時はけっこう自由だったし、のちの自分を考えても、この学院生活で培われた素地は大きいと思います。

お嬢さん学校とされながら、運動会では騎馬戦や組体操もやったし、学院祭などで大工仕事が必要となれば、女子生徒たちが自分で作業する。それこそノコギリを引いたり、トンカチ叩いたり。なので、もとより男性、女性の役割分担ウンヌンという話はなく、「得意な人が得意なことをする」、極めてシンプルというか本質的な環境にあったわけです。高等部は受験校としての色合いも強かったけれど、そういう土壌があるから、生徒の多くは「自分が何をしたいか」を持っていました。女子校だから、逆に、女性だからという発想はあまりなかったんですよ。

家庭環境も、当時としてはちょっと珍しかったかもしれません。本当は男の子を望んでいたという母は、私を跡取り感覚で男の子的に育てたし、一方、父は名家の出で、幼い頃から英語の特別教育を受けてきたから欧米的な人で。私にはレディーファーストで接してくれ、名前を呼び捨てにされたことも、いわんや怒鳴られたこともありません。開明的というか、変わっているというか……でも、今となってはいい環境にあったと思いますね。

番は、高校生の頃から思想関係の本を多読していたというから、その聡明ぶりが十分に窺える。好んだのはルソーやデカルト、パスカルといったフランスの哲学者たちだ。フランス思想を勉強し、いずれは研究者になりたいと考えるようになった番は、東京外国語大学フランス語学科に進学する。まだ司法試験の“し”の字も頭になかった頃だが、この大学時代に、番は単身で男女同権運動を起こしている。

思春期ですからね、いろいろ悩んだり考たりするでしょう。ルソーの『社会契約論』とか、様々な本を読んでいるうちに、思想関係に進みたいと思うようになったのです。背伸びしていたんでしょうね、高校生の頃は下級生たちから怖がられていたみたい(笑)。でもそこは女子校。卒業式の日には、「憧れていました」と花束を持ってきてくれた下級生たちもいて、素直にうれしかったものです。

東京外大のフランス語学科は女性が多いほうでしたが、それでも男性の数が圧倒的に多い時代です。女性は皆優秀なのに、常に一歩引いている感じがあって、例えば、何かを企画するにも全部男性が主体になる。それはそれで楽チンなんだけど、共学を初めて経験した私にすれば何か違うなぁと。そして、当時の東京外大には女性教員がほとんどいなくて、常勤の教授は他学科に一人だけ。「やっぱりおかしい」と目覚めてしまった私は、フェミニズム的な運動を始めたわけです。パンフレットを自作して配ったり、卒業生の追跡調査をしてアンケートをまとめたり。この頃、朝日新聞の記者として活躍されていた松井やよりさんも東京外大の卒業生なので、講演にお呼びするとか、そういう活動をしていました。

私は群れるのが好きじゃないので、基本は一人運動でしたが、男女問わず、共鳴してくれる友人たちが手伝ってくれた。その時に感じたのは、女性と同様、男性も役割分担という名の下、“べき論”に縛られていて生きにくいだろうな……ということ。男性も女性も自由に生きられる社会。そのかたちを探したいと考えるようになりました。大学生時代にやったことは、ある意味自己満足でしたけど、その考えはずっと持ち続けてきました。だから弁護士になった時、すぐに弁護士会の「両性の平等に関する委員会」に参加し、今日に至るまで活動を続けています。もっとも大学生の頃は、自分が弁護士になるなんて思ってもいませんでしたが。

結婚、出産を経て司法試験にチャレンジ。新たな道を踏み出す

大学の4年間で語学と基礎学問を身につけ、その後は、東京大学大学院に進学して倫理学を学ぶ。番はそう“予定”していた。しかし、お目当てだった東大の大学院合格は叶わず、そのまま東京外大の大学院へと歩を進める。変わらず研究職を志向してのことだったが、このあたりから番の心境、そして環境に変化が起き始めた。

外語大だから当然ですけど、大学院に行っても、本当に語学一色で。例えば、俗ラテン語とかを必修でやるんですよ。これ、ローマ帝国内で話されていた口語ラテン語なんですが、つまらないったらありゃしない(笑)。一般科目のテキストも英語が多くて、もう飽き飽きしちゃって。先を考えても、通常としては、2年ほどの海外留学を経験し、戻ってからどこかの大学で研究職に就くというルートです。当時は、一般の就職と同様、女性研究者の就職先も門戸が狭かったし、私が本当にやりたいことはこれだっけ?と、何だか意欲が低下してしまったのです。

弁護士を意識したのには、伏線があります。大学院に入った頃、父が経営していた貿易会社が倒産してしまい、その会社整理を弁護士に依頼しました。私も貿易書類の翻訳など、債務処理をする弁護士を手伝ったりしていたのですが、そういう事態になると自分は何の役にも立っていない。どこかでエリート意識もあったんでしょうね、その無力感は大きかった。債権者への対応など、弁護士の仕事を見ていて、影響を受けたのは確かです。もともと文章を書いたりするのが得意で、日本語なら負けないという思いもあり、それだったら弁護士資格を取って違う道に進もうと考えたのです。

ただ、大学院在学中に結婚したので、実際に動くまでには時がかかっています。法律なんて勉強したことがないし、司法試験に向けて何から手をつければいいのか……弁護士になっていた高校時代の先輩を訪ねたりもしましたが、一方で主婦の立場もありで、なんかグズグズしていましたねぇ。「自分の道が決まらないから、エクスキューズで結婚したのか」と思ってみたり、ちょっと悶々とした時期ではあります。

大学院を修了した後は、しばらく家庭に収まった。娘を出産し、母にもなった番だが「ずっとうちにいるのは面白くないし、性に合わないことがよくわかった」。考えていたとおり、司法試験を目指そうと奮起したのは1986年頃である。家族の協力の下、時間を縫い、受験予備校や図書館に通いながら集中勉強する日々。司法試験に合格し、「新たな人生が開けた」のは約5年後のことだった。

例えば、娘を幼稚園に連れて行ってから、そのまま自転車で図書館に回って勉強し、また迎えに行ってという生活です。母がいたからやれたようなもの。母も社会的な活動を積極的にする人で、選挙管理委員とか婦人会活動とか、いろいろやっていたんですけど、「私が社会に出るほうが役に立つから、あなたは孫の面倒を」と、勉強するために外堀は埋めたんですけどね(笑)。両親も夫も応援してくれたのは、ありがたかったです。

択一試験は早くに合格したものの、論文はよかったり、悪かったりと波があって、後半はもう暗黒時代という感じ。最後の1年は、予備校で優秀賞を取って特待生になったので、それでもダメだったらやめようかとも思っていました。キリキリするから家族にも当たって、今思えば、何とも申し訳ない話。それだけに合格した時は、暗いトンネルを抜けてパーッと人生が開けたような喜びがありました。

人生において、一番勉強した期間です。幼い娘は「ママ=勉強している人」だと思っていたようで、幼稚園に行くようになってから、どうやらほかの家とは様子が違うらしいと(笑)。「よそのママはお菓子もつくるんだって」なんて言われたものです。かわいそうな思いもさせましたが、でも、何かを志すには懸命に勉強しなきゃいけないという姿は見せられたので、それだけはよかったかなと思っています。

駆け出し弁護士として、基礎を学ばせてもらったのは山田法律事務所です。千葉での修習時代にお世話になった、子供の権利で有名な山田由紀子先生が「夫の事務所で人を探しているから」とつないでくれた先です。一般民事が中心でしたけど、刑事事件もけっこうあって、多種多様、何でもやりました。これは視野を広めるうえで、ものすごくいい経験になりましたね。子供のことも配慮してくださり、時間的に長く拘束されなかったのも、私にとってはありがたい環境でした。

独立後、様々な委員会活動を通じて、見えてきたステージ

  • 弁護士 番 敦子
    2014年、第二東京弁護士会会長に就任した山田秀雄弁護士を、副会長としてサポート。任期を終えた感謝式での記念写真
  • 弁護士 番 敦子
    事務所運営を支えてくれる女性スタッフは2人。番法律事務所のオフィスで

山田法律事務所に在籍したのは4年近く。様々な経験を重ねながら、なかでも番が率先して引き受けてきたのは、離婚やDVなど、女性の依頼者による事件だ。「せっかく弁護士になったのだから、女性の権利は守っていく」。そう決めていた。そして、被害者たちと相対して現実を知るにつれ、その思いは一層強くなったという。

まだDVという言葉もなかった時代ですけど、「夫の暴力がひどい」という話は決して珍しくなかった。なかには、何年も我慢し続けてきた人もいて、「どうしてそんな状況で生きていられるの?」という話ですよ。私は父からも夫からも大事にされてきて、DVなどとは無縁だったから、その実態が現実に、かつ具体的にわかると、とにかく「ひどい」「かわいそう」というのが率直な気持ちでしたね。それが出発点。DV事件に限らず、離婚や破産などいろんな事件に携わるうち、プライベートが落ち着かないというのは、人にとって最もつらいことだと知り、私の重要なテーマになっていったのです。

独立して事務所を構えてからは、さらに自分の好きな事件をやれるようになったんですけど、それは、勤務弁護士時代の依頼者が人を紹介してくれたり、周囲の先生方が応援してくださったから。この頃“タニマチ”がいましてね(笑)、「いい先生がいるよ」って推薦してくれる方々もいて、つくづく私は人に恵まれてきたと思います。

開業してからは、しばらくRCC(整理回収機構)で訴訟を担当していたんですよ。これも、独立後の私を気にかけてくれた二弁の先輩弁護士に誘われてのこと。ジャンルは違うけれど、お金関係の珍しい訴訟もあって、これはこれですごく勉強になりました。何十件も担当しましたから。ただ被害者支援活動が多くなると、次第に大義名分がなくなり最後は本当に取り立てみたいになってしまったので、ちょっと違うかなと思ってやめましたけど。

「両性の平等に関する委員会」副委員長の任を経た2000年、番の活動は広がりを見せる。犯罪被害者支援だ。同年に発足した「二弁犯罪被害者支援委員会」に、番は関連委員会の一人として立ち上げに加わり、以降も意欲的にかかわり続けている。翌01年、DV防止法が施行。次いで04年には犯罪被害者等基本法が制定され、これらのテーマは、重要なものとして社会的にも広く注目されるようになった。

二弁の犯罪被害者支援委員会に加わったのと時を同じくして、日弁連の同様の委員会からもお呼びがかかりまして。日弁連のほうは基本的に研究活動で、そこから社会への発信や制度設計につなげていく。二弁はいわゆる現業で、それこそ相談窓口をどうするかなどといった実践的な活動を進めていくわけです。私は多く女性被害者側に立って仕事をしてきたので、この2つの委員会には何ら違和感なく入れました。むしろ、縦軸と横軸、両面の活動にかかわることで、私自身のステージも広がったように思います。

続けるうち、犯罪被害者関係の法制審議会の委員に選ばれたり、最高裁の規則制定諮問委員会の幹事になったりと、立場とともに、全国的に名前も出るようになりました。論文を書き、あちこちで講演をやり、開設された「東京ウィメンズプラザ」のDV法律相談の枠を受け持ち……と、かなり忙しかったですねぇ。

私の名が知られるようになると、時に、偏った情報を元にネット上で中傷を受けたこともあります。ことDVについては顕在化しにくく、密室で起きることが多いため立証も難しいから、なかには冤罪が多いとし、反対派に立つ人たちもいますからね。ある事件で受けた中傷は、私が、虚偽を述べてDVを勝手につくり上げているというもので、あまりにひどかったから、名誉棄損で裁判を起こしたほどです。

この時の事案は夫のDVによる離婚事件。本当に大変で、最も強く印象に残っている事件でもあります。夫に連れ去られた子供の引き渡しを巡って、私は母親の代理人としてさんざん争ったのですが、最後は、裁判官からの人身保護命令によって、法廷の場で子供を取り戻したのです。命令が出た瞬間、私や書記官で子供を抱き上げ、地裁の裏から家裁へ走って出たという、さながらテレビドラマのような話。

こういう事件は、プライバシーの秘匿により慎重になるのはもちろん、身に及びそうな危険からの回避など、精神的な重圧もかかる仕事です。私自身も最初の頃は、DV行為者の、ある夫から脅しのような面談強要を受けたり、嫌がらせ電話をされたりしたものです。それでも、決して放置はできない。くだんの母親からは、今も年賀状が届きますが、「おかげさまで幸せに暮らしています」という、その言葉が私の支えになるし、本当にうれしいのです。

広い視野に立ち、制度整備や社会に対する発信活動に力を尽くす

弁護士 番 敦子

依頼者が真に求めていることを的確に引き出し、信頼関係を築く。それがプロというもの

裁判員制度がスタートした時、番はその1号事件に被害者参加弁護士として法廷に立っている。一般的には、弁護士は被疑者、被告人の弁護人というイメージが強いが、長らく犯罪被害者支援にかかわってきた番は、「支援そのものも弁護士として当然の活動である」と捉え、被害者参加制度の立法や推進に尽力してきた。

依頼者のために頑張るというのが弁護士の本能ですから、その依頼者が被害者であるということだけで、基本スタンスは何ら変わりません。被害者が参加を望むのは重大事件が多いのですが、なかでも性犯罪の場合は、本人が法廷に来られないとか、様々な事情を鑑みれば、弁護士がつくメリットは大きいと考えています。

被害者にとって一番いい方向性はどこにあるか。例えば、被害者側が極刑を求めたとしても、そこはよくよく話をして、最後どうまとめるのが最善か、それを見極めるのが弁護士の腕というものです。ことの理不尽さをただ叫ぶというのではなく、被害者の声を裁判所に正しく橋渡しすることが大切。被害者のことをわかっている弁護士は、弁護人になっても腕がいいものですよ。

前述したように、私の出発点は「かわいそう」という気持ちだったけれど、だからといって、依頼者から何時間も話を聞けばよいとは思いません。私は弁護士であってカウンセラーではないから。依頼者が「わかってほしい」と思っていること、本当に必要としていること、その核を的確に引き出して信頼関係を築く。それがプロの弁護士としての仕事だと思うのです。共に泣くのではなく、共に戦う存在として伴走する――数多くの事件を経験してきて、私が大切にしているスタイルです。

番が多く扱ってきたような事件には表面化しないものも多く、諸制度が施行されても、それらが認知され、社会全般において有効に機能しているとはまだ言いがたい。「過渡期にある」とみる番は、これからも広い視野に立ち、制度整備や社会に対する発信活動に力を尽くしていく。

活動をつなげていく意味において、後輩にうまくバトンを渡すのも、私の大切な役割の一つ。例えば、業務を開始して10年経った法テラス(日本司法支援センター)には、国選被害者弁護士として契約する若手も増えてきているんですけど、そのいい傾向を伸長させながら、今後はさらなる質の向上に務めたいと考えています。

それと今、日本各地に広げるべく尽力しているのが、性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センターです。支援現場の一線で活躍している医療関係者や相談員、弁護士、警察もネットワークしたもので、いわば性被害を受けた人の駆け込み寺。ここに来れば「寄り添ってくれる人がいる」、そんな支援センターが一つのモデルとして定着すれば、また新たな一歩になるでしょう。

性犯罪もDVも、世界中にある古くからの問題で、それが少しずつ顕在化し、一応法制度もでき、やっと声が挙がるようになってきたのが昨今。私が仕事を始めた頃に比べれば、その様相は確かに変わってきたし、民間も含め、犯罪被害者を支援する団体もずいぶん増えました。でも、それらに対する日本の公的な財政援助は、欧米に比べると非常に少ないのが現実だし、あらゆる面でまだまだ一里塚ですよ。それでも、例えば私が弁護士会を舞台にしてやってきた被害者参加制度のように、被害者の声が世の中を動かす力を持っていることも知っています。そういうことにかかわるのって、楽しいし意義もある。だから、私はこれからも力の続く限り、活動を続けていこうかと。

遡れば、根っこの部分は、大学生の頃から取り組んできたテーマですけど、弁護士として様々なジャンルの仕事や、加えて、弁護士会でボランティア活動を多々やってきたからこそ、自分のやりたいこと、適性が浮き彫りになったのだと思うのです。そして明確なものを手にすれば、あとはとことん極めていく。一生懸命にやったことは、間違いなく自分の人生にもプラスになります。素晴らしい職能を持つ弁護士という職業に就いたのなら、弁護士でなければ、そして自分でなければできないようなことを見極め、そこに精一杯臨んでいってほしいですね。

※本文中敬称略