自分の感覚を大切に、ゆっくり歩を進めた弁護士への道
約30年前からスポーツ、エンタテインメントを専門に扱ってきた水戸重之は、まさしくパイオニアだ。日本でプロ野球選手の代理人交渉が解禁された2000年には“代理人第1号”として先駆けを担い、メジャーリーグに挑戦する多くの選手の代理人も務めてきた。加えて、現在のバスケットプロリーグ「Bリーグ」の前身である「bjリーグ」の立ち上げに関与するなど、取り扱うスポーツ競技は幅広い。また、エンタテインメントの分野でも実績を重ね、水戸は新しい領域に挑戦しながら自らの専門性を高めてきた。信条は「フェアネス」。誰にとっても“結果よし”を真摯に求めてきたからこそ、水戸に寄せられる信頼は厚く、第一人者として立ち続けているのである。
墨田区の業平で生まれた、いわゆる下町っ子。商いが集まるこの地域で実家はネジ工場を営んでおり、僕は商売や地域の人々と触れ合いながら育ちました。地元の誇りはといえば王貞治さん。通っていた業平小学校は彼の母校でもあり、新人の頃、ジャイアンツのユニフォーム姿で学校に来てくれたのを覚えています。王さんの実家である中華料理店「五十番」に食べに行ったのも、昭和の古き良き思い出(笑)。
子供の頃に好きだったのは、クイズ本やマンガを読むこと。なかでも、当時流行っていた『頭の体操』はシリーズで揃え、石ノ森章太郎の『マンガ家入門』は何度も読み返したものです。何かをつくるとか、物事を広く知る雑学に惹かれていました。僕が欲しがる本はいくらでも買ってくれた親が、「塾に行くか」と言い出したのは小学校5年の時。逆らわず、よくわからないまま浅草の塾に通い始め……要するに、ここから受験生活が始まったのです。開成中学を目指して。抵抗感はなかったけれど、やはり負担だったのでしょう。開成に合格した時は「もう二度と勉強しないぞ」、高校受験もないから「6年間やりたいことだけをする」と子供心に誓いましたから。
実際、中・高時代は勉強しなかったですね。サッカー部に入って練習と試合に明け暮れ、あとはマージャンやラジオの深夜放送に夢中になりと、勉強する暇なんてない(笑)。そんななか、漠然とながらも持っていた職業イメージは、世界を駆け巡るジャーナリスト、哲学者、そして弁護士の3つです。前者2つは本に影響を受けてのことですが、弁護士について言えば、母方の祖父が検事出身の弁護士で、二人の叔父も弁護士なので身近ではあったのです。高3になり、父から「この先どうするんだ?」と真面目に聞かれた時、僕は「ジャーナリスト」と深く考えずに答えたら、怒られまして。地に足が着いていない物言いだったのでしょう。母方にバックグラウンドがあるのだからと、最終的に法曹への道を推したのは父でした。
長男である水戸は、どこかで事業承継を求められると思っていたが、2度のオイルショックを受けて厳しかった時代である。「苦労させたくない」という親心もあったのだろう。そんな気持ちに応え、水戸は慶應義塾大学法学部に進学。「開成時代は本当に勉強しなかった」から、心機一転「頑張る」と決めて大学生活を踏み出した。
司法試験に向けて、ここで頑張らないと「俺はない」くらいの固い決意で入学したんですけど、もったのは最初の1年間くらい(笑)。やっぱり恋愛もすれば、遊びの付き合いもあるし。僕は子供の頃から何よりの友達好きで、誘われると絶対に断らないタイプなんですよ。1年の時から司法研究室や、今はメジャーになっている「十八人会」という法律サークルに入って勉強していましたが、友達との付き合いもあって、だんだん中途半端に……。
あと、これは言い訳になるからあまり話していないんですけど、受験時代にバセドウ病を患ったのです。司法試験のストレスからか、ホルモンのバランスを崩して。ひどく体力が落ち、ベッドで横になりながら勉強する日々が1年ほど続いたでしょうか。でも焦りはなかった。元来「自分が」と前に出るタイプではないので、「ゆっくり生きよう」という感じではありました。まぁ、言わばモラトリアムですね。そんな僕が司法試験に合格したのは、27歳の時でした。
合格後の話でよく覚えているのは、慶應で教えを受けた民法の池田真朗先生(現武蔵野大学副学長)との会話です。「どんな弁護士になりたいの?」と聞かれたので、僕は「映画や音楽が好きなので、何か生かせないですかね」と。すると、池田先生の親友である弁護士が、ロサンゼルスでエンタテインメント法の勉強をしているという。そういう世界があるのか――。まだ漠然とした像だったけれど、今思えば、この時の“情報”が後の人生につながっていったのです。
海外留学を経て法律事務所勤務。早々とエンタメ分野へ
司法修習に入る前、水戸は一拍入れてアメリカ留学に出ている。ベースには、弁護士である叔父からの「修習はいつ受けてもいいんだぞ」という“入れ知恵”と、「俺たちがやらなかったことを」という“期待”があった。「自分の弁護士像を探す」意味において、そして、もとより英語を学びたいと考えていた水戸にとっては好機。留学先はニューヨーク州立大学ニューポールズ校とニューヨーク大学で、都合2年弱、水戸は“学生生活”に戻った。
法律の勉強とは関係ありません。いわゆるアンダーグラデュエイト、一般の学部生ですよ。英語の勉強と外国人との交流がメインの留学生活でした。2年目からはマンハッタンに出て、日本の雑誌社でバイトもしていたんですけど、これが楽しかった。『NEW YORK View』という日本人向け雑誌のライターの仕事。映画監督の林海象さんや、芥川賞作家の中上健次さんをインタビューしたり、記事を書かせてもらったり。何をしていたんだか(笑)。でも、高校生の頃に憧れていた記者の仕事をかじれたことがうれしかった。現地での様々な出会いに刺激を受け、これも漠然とですが、弁護士資格プラスアルファの視点を持てば、いろんなことができる可能性があると感じましたね。
それと、先の池田先生から聞いていたように、アメリカでは弁護士が多岐の領域にわたって活躍しているのを見聞きすることができました。特にエンタテインメント業界とか、スポーツ選手のエージェントであるとか。多少なりとも“実際”を知ったことは、やはり現在の下地になったと思います。留学はモラトリアム時代の延長ではあったけれど、自分にとって純粋に面白いことを確認できた意味で、財産になったのは確かです。
帰国して神戸修習に入ったのは1987年、30歳になる直前でした。この時も熱心に動いたのは“法律外”の人たちとの交流。芦屋に読書会というのがありましてね、学者や若手政治家などが集まって様々な議論を交わす場です。法律家はいなかったけれど、積極的にこの勉強会に参加していました。今では信じてもらえませんが、僕は元来社交的ではなく、人前で話すのも好きじゃなかったんですよ。ただ裏返しなのか、出会いの一つひとつや、人付き合いをとても大切にはしてきました。結局、人が好きなんですよね。
水戸が弁護士人生のスタートを切ったのは西村眞田法律事務所(当時)である。修習生時代に大手の事務所をひととおり訪問したなか、同事務所で運命的な引き合わせがあったという。それは、後に「TMI総合法律事務所」(以下TMI)として共に出発することになる遠山友寛弁護士との出会いだ。
話は遡りますが、前述した池田先生からの“情報”――「ロサンゼルスでエンタメ法の勉強をしている親友がいる」。その人が“遠山先生”だったのです。聞いた名前は覚えていましたが、もちろん会ったことはありません。それが、たまたま訪問した際に、知財とエンタテインメント部門のパートナーとして目の前に現れた(笑)。帰国し、西村眞田に復帰されていたんです。これは運命だと。しかも、僕は「エンタメ希望」だと伝えていたわけじゃないので、本当に偶然の引き合わせ。こんなことがあるのかと、胸が高鳴ったのを覚えています。
幸運な出会いに恵まれ、入所後は希望どおりの仕事に就かせてもらいました。折しも92年のバルセロナオリンピックを控えた頃で、スポンサー契約やグッズをつくるライセンス契約など、早々に実務経験を積むことができた。商業的に成功したのはロス五輪からだとされていて、日本のオリンピックビジネスもまだ始まったばかりの頃。それにバブル期でしたから、広告代理店やスポンサー、関係者にも熱があった。上司とクライアントから教えを受けつつ、新米ながらそういう環境に身を置けたことはラッキーでしたね。
1年くらい経った頃でしょうか。田中克郎先生をリーダーとして知的財産部門のメンバーが独立し、新しい事務所を旗揚げするという話が出たのは。それが現在のTMIで、当初はスタッフを入れても20人くらいだったと記憶しています。最初は驚いたんですけど、僕もメンバーの一人として動くことにしました。というのも、僕には「いずれ自分で独立する道も」という思いがあったんです。まず3年は修業と考えていたのですが、思いの外早く、その機会が訪れたという……。一人での独立ではありませんが、少人数で価値観を同じくする仲間で始めるのは面白そうだなと。で、実際にとても面白くて居心地がいいから、今日に至っているわけです(笑)。
好きな分野で経験を積み、専門性を磨き、新しい市場を切り開く
TMIがスタートしたのは90年。代表の田中弁護士、遠山弁護士らといった創業メンバーと共に、水戸は新たな道を踏み出した。TMI自体が積極的に扱っていたエンタテインメント分野で経験を積み、97年には、専門性を高めるべく、ミネソタ大学ロースクールに客員研究員として留学。そして、事務所に復帰してからパートナーに就任し、その活動領域を広げていく。
エンタメの世界での資金調達、つまりコンテンツファンドとか、エンタテインメント・ファイナンスとか、これらを扱う人があまりいなかった時代です。新しい市場において、先駆的にかなりの数の案件に携わってきました。この「新しい市場に挑戦する」がTMIのスタイルですし、僕にとってはずっと興味のあった分野ですから、とてもいい環境で仕事ができたわけです。
スポーツも一貫して好きでしたが、一方で「仕事になる」とは思っていなかったんですよ。入口は偶然的で、平塚市を地盤とする政治家の河野太郎さんから相談を受けたこと。同じく平塚にホームスタジアムを持つ湘南ベルマーレの一件で、当時、バブル崩壊を受けて大株主が経営難に陥り、運営が難しくなるという事態でした。この時につくったのが、地元を中心とする財界や市民の方たちでクラブを支える制度。サポーター自身が株主になるという、当時としては初めての試みでした。この頃は「自分が?」と意外に思ったんですけど、今も運営会社の取締役を務めているので、わからないものですね。
あと思い出深いのは、プロ野球選手の代理人交渉が解禁された00年シーズンオフに、横浜ベイスターズの斎藤隆投手の代理人を務めたことです。ちょうど石井一久投手のメジャーリーグ挑戦をサポートしていた時で、そのご縁から、結果的に代理人第1号となりました。簡単に言えば、年俸を主とする契約交渉。ただ、アメリカと同様、日本でも弁護士に限った代理人交渉が認められたものの、従前のプロ野球界のスタンスは「代理人は認めない」でしたからね、球団側の警戒心はすごく強かった。「口の立つ専門家が来るとやっかい」という感覚で。
自分のスタンスを理解してもらうまでが大変でした。そもそもケンカするとか、お金をぶん取るとか、そんな話ではありません。双方が納得して契約し、共に優勝を目指すという関係です。僕は、先行するアメリカの参考本などはあえて読まず、自分なりのポリシーを持ってフェアな交渉に臨むよう努めてきました。それがいい結果を生んだのか、その後も高津臣吾さん、福留孝介さん、青木宣親さんら多くの選手がメジャーリーグに挑戦する時の代理人を務める機会を得ました。今も皆さんと親しい交流があるのは僕の財産です。
この「フェアネス」が水戸の“武器”だ。だからこそ信頼が寄せられ、紹介による仕事が相次ぐ。とりわけスポーツの分野では、00年代を足場に活動は大きな広がりを見せ、様々な立場から市場の裾野拡大に貢献している。
リーグスポーツの話をする時に、いつも三角形の図を書くんですよ。まず選手がいて、その選手たちが所属する球団とかクラブとかがある。そして、それらをまとめる競技団体、リーグ、協会などの存在。この三角形がバランスよく儲からないと市場は潰れてしまうというのが、僕のスポーツビジネスに対する根本的な考え方です。例えば、選手から搾取して球団だけ儲ける大昔のアメリカ野球オーナーのようなことをやると、選手は球界から離れてしまう。逆にサッカーを例に取れば、かつてマラドーナ選手に巨額の移籍金を払ったチームが潰れちゃったりとか。バランスを失するとダメなんです。戦力均衡と言いますが、チーム間でも強弱のバランスが取れていないと、優良な市場は形成されません。
僕は、競技ごとにこの三角形すべての立場で仕事をしているので、俯瞰できるのが面白みであり、やりがいでもあります。だから公平さ、フェアネスが核になる。代理人だからといって依頼者が「正」、相手が「悪」と単眼的にやっていると、やはりバランスは崩れるし、必ずしっぺ返しが来るものです。いわゆる“三方良し”を常に追求すべきだと考えています。
もちろん紛争解決案件も扱っていて、ちょっと特殊なところではスポーツ仲裁の案件も多く手がけています。代表選考やドーピング違反などのスポーツ紛争は、裁判所による紛争解決は馴染まない場合が多く、費用も時間もかかってしまうので、専門家による迅速な解決を図れるのは意義のあることです。ただ、プレッシャーはものすごく大きい。裁判官ではないのに、同様のことをスポーツ界でやらなければならないし、何より選手生命にかかわってくるから。「日本スポーツ仲裁機構」が設立された当初は苦労したけれど、次第に認知度が上がって、申し立てをする人が増えてきたことに手応えを感じています。
自らの経験と培った価値観を軸に、後進の指導にも尽力
例えば吉本興業、タカラトミー、ブロッコリーなど、水戸はエンタテインメント系企業の社外取締役や監査役も務めており、主要業務の一角をなす。比較的新しいところでは「面白い恋人」事件があり、水戸は吉本興業の代理人として訴訟を担当。有名な菓子「白い恋人」の商標権を有する石屋製菓が、吉本興業が出した「面白い恋人」に対して製造中止を求めて提訴したもので、これは、日本における数少ないパロディ訴訟として注目を集めた。
吉本興業が商標権侵害と不正競争防止法違反で訴えられた事件です。最終的には13年に和解が成立し、パッケージデザインのわずかな変更と販売地域の限定だけで、従前どおりの販売継続を実現できました。権利侵害の認定も損害賠償の支払いもない解決です。この事件は、著作権法における日本のパロディ問題について、関心や議論を喚起するものにはなったと思います。
企業法務という言葉はよく使われますが、僕は少し違ったニュアンスで「経営法務」と言っています。法務が企業経営のなかでどう生かされるかの視点を重視しているから。経営陣からの相談は、得てして非常にシビアなものです。それに対して「法律的にはこうで、こんなリスクがあります」で終わっていては意味がないでしょう。法律や判例を調べて見解を述べるのなら学生にでもできます。経営陣をどう後押しするか、あるいはどうブレーキをかけるか。決断にコミットする覚悟がないと、迫力のあるアドバイスはできないと思うんです。そうでなければ、報酬をいただくのに値しないともね。
僕の弁護士人生は幸運な出会いの積み重ねでした。その都度「これは面白いかも」「意味があるかも」という感覚を大切に、当事者意識を持ってお手伝いしてきたら、いつの間にか仕事が広がったという感じです。本当の報酬はお金ではなく、依頼者からの感謝や周囲からの評価ではないでしょうか。それによって自分の成長を実感できることのほうが価値があると思うのです。振り返れば、僕は子供の頃から「水戸を呼ぼうぜ」と言われる存在になりたかった。社会や人の役に立つ!的な大上段に構えた話ではなく、何かの時に思い出してもらえる存在というか……。これが現在にもつながっているので、根っこは変わっていませんね(笑)。
他方、水戸は長きにわたって教鞭も執っている。96年、中央大学法学部の講師に就いたのを皮切りに、慶應、早稲田大学などでエンタテインメントとスポーツ分野の先覚者として教壇に立ち続けてきた。この分野に興味を持ち、法曹界を目指す学生が増えてきたことは「やっぱりうれしい」。
前述したトライアングルの話や、スポーツ選手の権利、事故の責任の話など、時間が足りないほどやりたいテーマがあって、大学の講義は僕自身が学びながら楽しんでいます。続けてきて日本の法学教育に足りないと感じているのは、立法学、交渉学、ソフトロー研究の3つ。法学部では法解釈論や判例研究が中心で、立法学については教えないでしょう。駆け引き一辺倒ではない交渉の訓練も受ける機会がほとんどない。そもそものルールづくり、目的の正当性や手段の相当性、合意形成のメカニズムなどについて、もっと目を向けるべきだと思います。これは、広く組織内のルールづくりや二者間の契約交渉にも役立つはずですから。
そして、ソフトローに関して言えば、近年ようやく法学者や実務家の研究対象にはなってきましたが、まだまだ未成熟かなと。僕がやってきたエンタメやスポーツの世界はソフトローの支配が大きい分野だけれど、実は、あらゆる社会やコミュニティに存在するものです。ソフトローはなぜ成立するのか、合理性はあるのか、問題意識を持つことは社会にとって重要で、若手に伝えていきたい大きなテーマの一つです。
あと、いつも若手に送っているのは「失敗を恐れるな」というメッセージ。発明王エジソンの有名な話があるじゃないですか。周囲が実験に失敗したことを酷評しても、「失敗じゃない。うまくいかない方法が一つわかった“成功”なんだ」という、あの言葉。もっとも仕事では迷惑をかけてしまうので、「小さく早く失敗しろ」と。かくいう僕も「これはやばい」と、事務所のトイレに籠もったことがある(笑)。でも早く失敗して、怒られて、二度と繰り返さないトレーニングを積むと必ず強くなれるということを、自分の経験上からも伝えておきたいですね。
※本文中敬称略